ぶらぶら人生

心の呟き

寸感・寸描

2009-02-16 | 身辺雑記
  ▼ チャイコフスキー(1840~1896) 交響曲第6番ロ短調「悲愴」

 昨夜、N響アワーの時間、キタエンコ指揮の「悲愴」を聴いた。
 わけもなく、涙を流していた。自分でも明快に涙のわけを分析できない。老いて、ますます涙もろくなったのだろうか。
 演奏を聴きながら、過去から今に至るまでを回想していたことは事実である。
 
 50余年前、勤め始めて間もなくのころ、<白鳥>という音楽喫茶ができた。
 いつもクラシック音楽が流れており、当時、多くの喫茶店がそうであったように、読書にはやや不向きなくらい照明を落とし、音楽を聴いて心安らげる雰囲気が演出されていた。
 私は勤め帰り、帰宅のバスを待つ間、よくその喫茶店に入った。今は、多くの人が喫茶店を利用するようになったけれど、当時、田舎町の喫茶店には、客が少なかった。ひとりで、チャイコフスキーを聴き、コーヒーを飲むことが多かった。

 昔から、コーヒーが好きで、生涯に飲んだコーヒーの量はどれほどになるのか分からない。勤め始めて間もないころの給料は激安であったが、家から通勤していたので、コーヒー代には事欠かなかったようだ。一杯50円の時代であった。

 ひとりで<白鳥>に入るときには、いつも「悲愴」をリクエストした。
 永らく聴くことのなかった「悲愴」を、昨夜聴いたのであった。
 諸々の感情が去来して、当然だったのかもしれない。
 曲想は、すぐ思い出せたけれど、当時聴いていた演奏の指揮者が誰であるかも知らなかったし、昨夜、聴いたキタエンコとの違いが分るわけでもない。

 ただ、「悲愴」に限らず、チャイコフスキーは好きで、CDを幾枚か持っている。カラヤン指揮のものが多い。
 今また、カラヤン指揮の「悲愴」を聴きながら、自分で入れたコーヒーを飲んでいる。
 この曲は、チャイコフスキーにとっての「白鳥の歌」でもあるという。56歳の生涯を終えたのは、この交響曲を作曲し、「悲愴」と自ら名づけ、自らが指揮して間もなくであったと聞く。
 この曲の背景にある悲愴な趣は、当時のロシア全体に漂う、暗鬱な社会のやりきれなさと無縁ではないのだろう。
 今の日本や世界の情勢にも思いを馳せながら、今朝はカラヤンの「悲愴」を聴いた。


  ▼ 江戸の絵師 岩佐又兵衛(1578~1650)

 昨日のNHK新日曜美術館で、岩佐又兵衛を取り上げていた。
 この画家の絵を詳しく見るのは、二度目である。
 「山中常盤物語絵巻」の作者が、岩佐又兵衛に違いないとみなされるようになったのは近年のことで、辻惟雄氏の功績だという。
 昨日も、解説者の席には、辻惟雄氏が座っておられた。もう一人記録映画作家の羽田澄子氏と。
 又兵衛の色彩や細密な描写には感心する。
 ただ、山中常盤物語の、血なまぐさい場面描写からは、昨夜も目をそらしてしまった。いくら名画であっても、血を見るのは厭だし、戦争や殴り合いのシーンも、主題とは関係なく厭である。
 しかし、岩佐又兵衛は幼少にして、一家皆殺しに遭遇するという、数奇な運命を背負っていた人だと聞けば、あの、容赦ない殺戮場面を描いた気持ちも、理解できないわけではない。


   ▼ ホームレスの歌人

 今朝の朝日歌壇で、また、ホームレス、公田耕一さんの歌に出合った。

  哀しきは寿町と言う地名長者町さへ隣りにはあり

 高野公彦選となっていて、
 <歩みゆく横浜市内の町名に皮肉を感じたのであろう。>との選評が出ていた。

 ホームレスは、大都には、珍しくないのだろう。
 私は、上京の際、上野公園でいつも目にするくらいだが、哀しい社会現象である。昨年末以来、さらにその数は増えているらしいことを考えると、心が痛む。

 朝日新聞の文化欄にも、<謎のホームレス歌人>(縦見出し)、<朝日歌壇に入選重ねる>(横見出し)とあって、入選歌を取り上げ、この歌人に関する記事が載っていた。
 

 <歌壇係には、ホームレス歌人を思う歌や「短歌を拠(よりどころ)に生きぬいて」などの励ましが寄せられているが(ホームレス)では、これらの厚意は届けられない。公田さん、なんとか連絡が取れませんか。あなたが手にすべき入選一首につきはがき10枚の投稿謝礼も宙に浮いているのです。>

 とも、記してあった。選外歌には、

  百均の⁽赤いきつね」と迷ひつつ月曜だけ買ふ朝日新聞

 という歌も投稿されているらしい。
 今日は月曜日。公田さんの目に、この記事が止まるといいのだが……。
 私も過日、公田さんの歌が気になり、ブログに一度書いたことがる。 


             

 (写真 花数がなかなか増えてくれない、わが家の臘梅。)
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<御入仏>の儀式

2009-02-15 | 身辺雑記
 昨日は、浄蓮寺の住職にお願いして、今まで小さな箱でしかなかった仏壇に、ご本尊をおさめていただき、<御入仏>の儀式を行ってもらった。
 兄が亡くなったのをきっかけに、家にあった仏壇を、過日、亡き兄の家に移した。立春の日、仏壇を送り出す儀式を行って。
 (このことについては、過日のブログに記した。)

 仏様の不在で、私自身心のよりどころを失った気がし、すぐ小さな仏壇を求め、ご本尊をおさめていただくよう、浄蓮寺にお願いした。
 早速、本願寺に依頼の労をとってくださって、ご本尊と両側のお脇懸が届き、昨日、<御入仏>の儀式を行なっていただく運びになったのである。
 市内に住む妹夫婦が参列してくれた。

 昨日は、若いご住職が来てくださった。5年前、母の13年目にあたる法要には、父君と二人でお参りしてくださった。お会いするのは、それ以来である。

 一応、浄土真宗の門徒でありながら、私は仏事に関して、無知に等しい。
 お仏壇やお荘厳の意味なども、この年に至るまで、あまり考えてもみなかった。
 日ごと、花は供え、ご飯を炊けば、お仏飯はお供えしていた。が、何となく、その行為は、亡き父母、あるいは祖先の霊に対してであったような気がする。

 仏具店の人が、一番小さな、<20代>と呼ばれる仏壇を家に運んでくださったとき、<お仏壇は死者のためにあるのではなく、生きている者のためにあるのですからね>という意味のことを話された。
 父は、朝夕、仏壇の前に座り、経を上げてお参りしていた。その姿を見て、信心深い人だと思う一方で、祖先を大事にする人だと思っていた。
 が、果たしてどうだったのか?
 そんな疑問が、仏具店の話を聞きながら、頭をよぎった。

 若き住職は、ご本尊をお迎えしたことの意味、お仏壇やお荘厳の世界、お念仏をとなえることの意義など、本当に初歩的なことについて話してくださったのである。私は、浄土真宗と、自分の生き方とを結び付けて深く考えようともせず、勝手に勘違いしていたところがあった。

 父君からの預かりとして、新たに作られた過去帳の他に、「お仏壇とお荘厳」(浄蓮寺発行)の冊子と、「真宗において なぜ靖国が、問題になるのでしょうか」と題された冊子をいただいた。

 昨日は午後、それらの小冊子を読み、色々考えさせられた。
 妹の宅は、同じ真宗でも仏光寺派なのだそうだ。お荘厳の仕方も、西本願寺派とは異なるところもあるらしい。
 要は、個々人の、阿弥陀様に向き合う心のありようが問題なのであろう。
 我執やエゴの超克に、阿弥陀様のお助けを借りられたら、幸せなことである。
 これからは、朝夕、仏壇の前に座り、蝋燭に灯をともし、香をたいて、掌を合わせることだけはしようと思っている。
 少しは、澄んだ心で生きられるかもしれない……。 
 

                  

 昨日来ていただいた若き住職は、32歳になられたという。
 どちらかといえば痩せ型の体躯で、背が高い。1メートル82センチ。
 学生時代は、バスケットの選手だったそうだ。その頃は、身長がもっとあればいいと思っていたけれど、今は何の意味もない、と笑っておられた。
 父君は、1メートル70センチなので、父君のお譲りというわけにいかないものが多いらしい。
 背が高ければ、手の指も長い。私の小さな手ほどの長さがありそうだと、妙なことに感心して、その指の長さに見とれた。
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『悼む人』覚書

2009-02-15 | 身辺雑記

 連日、冬日和。
 今日は、ATさんからお借りしていた天童荒太の『悼む人』および、辺見庸氏の新聞原稿の切り抜き<人の座標はどう変わったか><水の透視画法>の入ったファイルをお返ししてこようと思う。辺見氏のエッセイは、いずれ本になるだろう。そのときには、是非求めたいと思っている。
 
   『悼む人』覚書

   ☆ 死に関して

 ……死とは、細胞の再生が尽きることだ。脳細胞も死滅し、無となる。わたしにもそれがいつ訪れるかわかりはしない。正気を失ってからでは遅い。だが自殺は、負けだと言う奴もいる。…… P243~244 (甲水朔也が倖世に自らを殺してくれと頼む言葉の一部。)

   ☆ <悼む人>に関して

 ……おまえが生まれた理由がやっと分かった気がする。おまえ(注 主人公・静人)が<悼む人>になったのは、家族とか生い立ちとか、人生で受けた傷とか、いろいろあったかもしれないが、それだけじゃない。おまえもきっと知らない。おまえもわかっていない様子だったものさ。おまえを<悼む人>にしたものは、この世界にあふれる、死者を忘れ去っていくことへの罪悪感だ。愛する者の死が、差別されたり、忘れられたりすることへの怒りだ。そして、いつかは自分もどうでもいい死者として扱われてしまうのかという恐れだ。世界に満ちているこうした負の感情の集積が、はちきれんばかりになって、或る者を、つまりおまえを、<悼む人>にした。だから……おまえだけじゃないかもしれない。世界のどこかに、おまえ以外の<悼む人>が生まれ、旅しているのかもしれない。見ず知らずの死者を、どんな理由で亡くなっても分け隔てることなく、愛と感謝に関する思い出によって心に刻み、その人物が生きていた事実を永く覚えていようとする人が、生まれているのかもしれない。だって、人はそれを求めているのだから……。少なくとも、いまおれ(注 蒔野抗太郎)は、おまえを求めているからだ。ああ、もし生きていられたら、おれはそれを語っていくのに。目が見えなくても、誰が耳を傾けてくれなくても、きっと<悼む人>のことを語っていくのに。
  P296~297 (生き埋めされた蒔野抗太郎の独白。自らが死を予感する極限状況にあって、<悼む人>静人について語った独白。)

 「ぼくはね、甲水さん(注 死者・甲水朔也)奈義さん(注 倖世)、……ときどき思うんです。そう……ぼくは……自殺をする代わりに、他人の死を悼むようになったのかもしれないって」 P380
 「自分が死ぬ代わりに、他人の死を経験することに溺れていったのかもしれないんです」 P380 (二つとも、静人のせりふ。)

 「付き合っていた人とは、旅に出る前に別れました。小児科での子どもたちの死や、親友の死から、自分を責める日々が続いて、恋とか愛とかって気になれなかったんです。肉体も精神もすり減って、死に深く寄り添っている感覚でした。……略。」
 P381 (このせりふは、静人の<悼む人>となる動機を語っている。省略した後のせりふでは、その後の静人の心に去来した思いの揺れを語っている。)

 「《彼は、人を悼んでいる……生きていた者が死んだとたん、数にされ、霊にされ……近しい者以外、どんな人物が生きていたかを忘れていくのに……このおとこは、、死んだ者の生きていた時間に新たな価値を与える。その人物が、この世に存在していたことを、ささやかに讃える。》」 P388 (死者、朔也のせりふ。)


 今、本を返すに当たって、『悼む人』に付箋を付けた箇所を読み返した。そして、上記(緑色)の箇所をメモした。
 付箋は、この5倍以上の箇所についていた。
 内容的に心を強く惹きつけられた箇所にも付箋をつけたらしく、いざ覚書としてまとめるには困難な箇所が多かった。(要約力が低下している!)
 静人ほどではなくても、人の死を悼める人でありたいと思う。特に天命を全うし得ず、哀しい死を余儀なくさせられてしまった命(今はそんな死が無尽蔵である)に対して。
 が、私は、前述の抗太郎のように、死後の自分を悼んで欲しいと願うだろうか?
 私は十分過ぎるほど、生かされてきた思いがしている。あとは、誰にも知られず、誰かに悼まれることもなく、ひそかに命の終わりを迎えさせてほしい気がする……。しかし、死はそう簡単には、訪れてくれないだろう。そして、あちこちに迷惑をかけそうな気もして、ぞっとする。
 この小説では、ガンを病む坂築巡子(静人の母)の、悪化を辿る日々の病状、それに伴う心情が、微に入り細にわたって描かれていて、苦しかった。私自身が、ガンの末期を生きているかのように。
 登場人物の中で、一番、関心を抱いたのは甲水朔也。人間の闇を抱え込んだままの人生であった。妻に刺させて、自らの死を選ぶという、怪奇な一生であったが、心の中で共鳴するものがあった。
 この人物は、これからも、私の心に住みつきそうである。

 (写真 2月は、毎日が狂ったように、暖かである。今日もエアコンが要らない。日差しの溢れる庭では、蕗の薹が緑色になった。)

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童門冬二著 『小林一茶』

2009-02-13 | 身辺雑記

 昨日は、予報どおり、朝から快晴だった。
 <明日(つまり今日)と明後日は、お天気が下り坂>との天気予報を聞いて、昨日の午後、街に出かけてくることを思い立った。
 (その判断は正解だった。今日は終日、春一番かと思われる南風が吹き荒れていて、外出には不向きなお天気だった。)

 14日には、<御入仏>の経を上げていただくことになっている。そこで、供花やお供え物を用意しなくてはいけない。それを昨日果たしたのであった。

 どうせなら、確定申告の書類を仕上げて、税務署に持参しようと、お昼前にその作業に取りかかった。数字を書き込む作業なので、やり始めれば、集中力を要する。 それを私自身に課すことが、気分を楽にしてくれる面もある。
 このところ、心に隙間を与えないように、自分を追い込んでいる。
 ものを思う時間がたっぷりあると、精神的によくない。
 書類作成は、何とかできた。
 間違いがないかが気になり、幾度も目を通しているうちに、1時間以上が過ぎていた。それでも、自力で今年も作成できたことに安堵した。
 が、来年もできるかどうか?
 説明を読み、掛け算やブラスマイナスなど、計算機を使って簡単な計算をするだけの単純な作業だが……。

 とにかく、税務署に書類を提出し、ショッピングセンターで、仏壇にお供えするお花やお菓子類を求め、久しぶりにお店の前にある喫茶店に入った。
 コーヒーを飲みながら、バスの時間まで、本を読んだ。

 それが、童門冬二氏の『小林一茶』である。
 今日にかけて、読み上げた。
 250ページの本だが、1ページに余白が多く、とんとんと読み進められるのはありがたい。私は、本を読むとき、表現の一字一句が気になり、速読が上手な方ではない。特に最近は、年取ったせいか、活字がびっしり詰まっていたり、難解な文章だったりすると、なかなかページが進まず、読みずらさを感じる。
 この本は、そんな意味での難点が全くなかった。
 作者の平易な文章に沿いながら、小林一茶という俳人に付き合った。

 <一茶は真の自己改革者であった!>と、帯に記されているし、この本の最後にも、
 <「偉大な自己改革者のひとり」
   であった。>

と、結ばれている。が、この見方には少し頭を傾げた。果たして、一茶は、自覚的な自己改革者であったのだろうか、と。
 最後まで、人間の<負>を背負い続け、それを超克しえない人だったように感じるのだが……。意識的自己改革というより、ままならぬ健康状態、身辺に降りかかる不幸により、若き日の激しさが消え、変化を余儀なくされた面が強いのでは? という気がする。(あくまでも、私の感想である。)
 私はむしろ、一茶の、死の時まで、俗臭が強く、聖人君子のようには生きられなかったところに、むしろ魅力を感じている。
 私自身がダメ人間なので、同類に会うと安心感を覚えるらしい。

 この本で知ったことだが、俳句について教えを請う人に対し、一茶は、自らを<師>と呼ぶことを禁じ、「門人」扱いもしていない。「ご同期、ご同行」と、一茶は呼んでいたという。私はこういう、差別のない平等感を、一茶の偉いところだと思うし、大いに同感を覚えるのだ。

 <一茶は信心深く、ホトケを信じていたのでその宗教心からそういうよび方をしたのだ。つまり、
 「信心深い人は、ひとりで歩いていてもかならずその人にホトケがついている。だからその人は決してひとりで歩いているわけではない。ふたりで歩いているのだ。その同行者は、ホトケである」
 と考えていた。そしてこの考え方を、俳句のほうにも及ぼしていた。(以下略)>

 
と、筆者は述べている。
 私は、浄蓮寺住職から一茶の話を聞いて以来、句作品と仏教との係わりが気になって、一茶について書かれた本を求めた。
 しかし、童門氏の著作では、その点に関しては、あまり詳しくは触れられていない。
 既述の箇所と、

 <この年(注 文政十年)の十一月八日の寒い日に、門人の家から出てきて気分が悪くなり、やがて午後四時頃念仏を一言つぶやくとそのまま死んだ。>

 
という文章が、本の終わり近くにあるくらいだ。
 文中の<念仏をつぶやく>という表現から、さすが信心の人であったことをうかがわせる。
 (素人なりに、一茶の句の中には、仏心を感じ取れるものがあるけれど…。)

 この本には、一茶の生きた時代的背景が分かりやすく書かれていて、参考になった。また、現代社会との接点や人の生き方にも目を向け、筆者の考え方を述べているところなどが、なかなか面白い。
 枝葉末節の部分でも、読む楽しさを随所に感じた。
 その一つ。
 筆者が血液型にこだわっておられるのに、興味を覚えた。一茶はB型だっただろうと。(しかも、三箇所にわたって。)

 <躁と鬱の起伏が激しい一茶は、現在でいえば血液型はおそらくB型であろう。すぐカッとしたり落胆したりするかわりに、すぐ幸福にもなる。>P169

 <(余談だが、血液型で歴史上の人物を判断するのはよくないと思うが、一茶の血液型はB型だったのではなかろうか。躁鬱性が激しく、人におだてられるとすぐその気になり、ちょっと批判されるとこの世もあらぬ絶望状態に陥る。しかしいずれも長続きしない。これがB型の特性だ)>P227

 < 一茶の血液型はB?
 前にわたしは、
 「一茶の血液型はBではないか」
 と書いたことがる。B型には特性がある。
 ●調子がいい。
 ●おだてにすぐノる。
 ●しかし憎めない。
 ●本人はすぐ幸福になり同時にすぐ不幸になる。
 ●こんな性格だから、職業としては表現を主体とする芸術家に向いている。反対に秩序を重んずる組織人には向かない。好き勝手なことをするからだ。だからB型は「あいつは好き勝手なことばかりしていて、協調性がない」といわれる。
 ●他人へのサービス精神が旺盛だから愛嬌者で多くの人を楽しませる。しかし本人は至って孤独で、時々ポツンとしていることがある。
 ●だからまわりからは理解されにくい。いままではしゃいでいたかと思うと突然落ちこむ。だから一緒にわらっていた連中は変な顔をする。「どうしたの?」ときくが「なんでもない」と弱々しいわらい方をして、またたちまちはしゃぎだす。こういうことを繰り返す。
 したがって一般的には、
 「B型は、組織の中でも自分の好きなことをやらせれば能力を十二分に発揮する。しかしリーダーとしては向かない。協調性や妥協性がないからだ」
 といわれる。
 こういう特性をモノサシにして考えると、一茶は典型的なB型人間だった。だから一茶自身がいかに自分の失敗を悔み、夜ひとりで輾転悶々と自己嫌悪で身もだえしていても、案外まわりが気づかなかった。(以下略)>
P241~242

 引用が長くなったが、筆者の、このB型談義が面白い。
 私自身がB型なので、自分のことを言われているような気分にさせられる面があるのだ。B型の弊害面を、私は多々持っている……。
 筆者自身も、もしかしてB型? と、いらぬ想像をしたりしながら、そのこだわり方に苦笑してしまった。
 昨年は、血液型の本、特に<B型>に関する本が実によく売れ、ベストセラーになったという。(実は私も求めた。)
 この『小林一茶』は、10年前、1998年の出版なのだが……。

 一茶が慕った惟然という俳人について、相当たくさんの句を並べ、かなり詳しく紹介してあった。私は名前さえ知らなかったので、興味深く読んだ。芭蕉の門人ではあるが、いわゆる蕉門の正統派からは、その価値を認められなかった人らしい。広瀬惟然(~1711)については、広辞苑にも出ていた。
 
 この本を読むことで、一茶の生きた時代、一茶自身の生い立ちと生涯を、かなり詳細に知ることができた。
 一茶については、また後日、書き足してゆくことにしようと考えている。

 (本文の最初のページに、
 <石川啄木のように、「ふるさとは、遠くにありておもうもの」という歌を詠んだ人もいるが、……>
 
とある。石川啄木のところは、室生犀星の間違いではないだろうか。)

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天童荒太著『悼む人』を読み終えて

2009-02-11 | 身辺雑記
 随分難儀な読書であった。
 私は、いくたび読みかけの本を机に伏せ、頬を膨らませて、大きな息を吐いたかしれない。時には立ち上がり、廊下を一巡して気分を鎮めなくてはならなかった。
 それでも、読み始めた作品から、逃げ出そうとは思わなかった。
 9日に読み始めて、今日読了した。

 過日、この作品『悼む人』で、天童荒太氏は、直木賞を受賞された。
 赤旗新聞の日曜版(2月1日)が、一面を使い、<ひと>欄で取り上げていた。勿論、他紙も話題作として記事にしていた。
 それらに接して、読んでみるに値する小説であろうと思った。
 が、実は、天童荒太氏の前作『永遠の仔』を読了せず、書棚に立てたままにしている。『悼む人』を求める前に、まずは、その長編小説(上下二巻)を読んでからのことにしようと思った。
 そして、2月の1日から、『永遠の仔』を読み始めたのだった。
 その翌日の2日の朝であった。ATさんが来宅、
 「読まれましたか?」
 と、『悼む人』を貸してくださったのだ。

 身辺の雑用にも追われ、心身疲労気味で、『永遠の仔』も、上巻の第四章の途中で中断している。長編『永遠の仔』を読了するには時間がかかりそうである。そこで、お借りしている本を先に読もうと、一昨日、『悼む人』を読み始めたのだった。

 力作である。
 冒頭でも書いたが、こんな難儀な小説は、実に久しぶりであった。
 
 登場人物の人生がみな重い。
 赤旗の見出しには、<命に軽重をつける世界問う>とある。
 確かに主眼はそこにあるのだが、この小説の奥深さはそれだけではない。
 生とは、死とは、愛とはと、人間の生き方を考えざるを得ないないような内容なのである。それらをテーマとする小説は、数限りなくある。が、『悼む人』は、軽く読み流せない深遠な世界を扱っている。
 読みながら、とにかく辛かった。
 登場人物はみな、幼児期に、後の生き方、考え方を左右し決定付ける、何らかの体験をしている。こうした設定は、この作者の特徴の一つなのかもしれない。

 主人公は、全国を歩き、死者を悼む坂築静人。
 末期がんを病んでいる静人の母、巡子。
 破れかぶれな感じのする、人間不信の最たる週刊誌記者、蒔野抗太郎。
 夫(甲水朔也)を殺して、刑期を終えた奈義倖世。
 その他、etc.
 それらの人物が絡まりあいながら、悼む人、静人が描かれ、その生き方を通して、死者を悼むことの意味が問われてゆく。

 自らの人生に照らし合わせ、生とは、死とは、愛とはと、真剣に考えさせられてしまう作品である。
 後々まで重くのしかかりそうな作品であった。

 もっと書き留めたいことがあるのだが、このところ、頭の回転が鈍く、書く気力も少々萎え気味で、思うように書けない。ここらで、一応置くことにする。

              

 上の写真は、私の気分を慰めるかのように、裏庭に今日初めて咲いた椿。
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祈り (2月の満月)

2009-02-11 | 身辺雑記
 昨夜は、満月だったように思う。
 寝室に移動しようとして、玄関が明るんでいるのに気づき、庭に出てみた。
 暦を確かめたわけではないけれど、隣家の屋根の上にある月は、ほぼ満ちた形に見えた。(写真)

              

 庭に降り立つと、寒さが身に沁みた。さすがに2月の夜である。
 昨夜、この月をどれだけの人が、どんな思いで眺めていたのだろう?
 私は、ただ祈るのみであった。<人も吾も、平穏であれかし>と。


 さっき、郵便物を投函するため、駅前のポストまで行ってきた。
 風景が黄色に霞んでいた。太陽はあるのに、地面に映る電柱も私も、その影は淡く頼りなげであった。
 黄砂の第1号ではあるまいか?
 <黄砂>は、『歳時記』では、<霾(つちふる)>の項に出ている。
 昨年だったか、調べて知ったことを思い出しながら歩いた。
 そして、今日のようなお天気は、<霾晦(よなぐもり)>と、説明してあったように思う。 
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<複雑骨折> (益田川の鴨)

2009-02-10 | 身辺雑記
 人間の心は脆いものだとつくづく思う。
 今、私の心は、ひどく凋んだ状態である。
 じっとしていると、ますますよくないので、あえて用事を作って体を動かしたり、読書に集中してみたりしている。

 過日、浄蓮寺の住職から、小林一茶の話を聞きながら、大昔、一茶のふるさと柏原を旅し、一茶が晩年を過ごした旧宅(土蔵)を尋ねたり、<是がまあついのすみかか雪五尺>の句碑を見たこと、近くの野尻湖に遊んだことなどを思い出した。
 が、考えて見ると、一茶の、人口に膾炙した有名句ぐらいは記憶しているけれど、芭蕉や蕪村ほどには知らない。
 

 この際、一茶を読んでみようと考え、パソコンで、早速注文した。
 昨日、草花舎に出かけた留守中に本が届いたらしく、帰宅してみると、不在伝票が入っていたので、電話して届けてもらった。
 三冊とも中古品なのだが、新品同様である。
 
 童門 冬二著『小林一茶』(毎日新聞社 1998年)
 宗  左近著『小林一茶』(集英社新書 2000年)
 井上ひさし著『小林一茶』(中公文庫  1990年)

 私は、いつもの習いで、届いた各本の序に当たる部分を、まず読んだ。
 現代社会を諷して、<複雑骨折>という言葉を用いていたのは、童門冬二氏である。そうだよな、と面白く思うと同時に、私の心も複雑骨折しているようなものだと自己診断したのだった。

 今日も、鬱屈した気持ちのまま、家に長時間い続けるのはよくないと思い、前々から気になっていた眼科の診察を受けてこようと、かかり付けのS眼科に行くことにした。
 このところ、血圧の高めが続いているし、眼底に異常はないかと心配もしていた。
 検査の結果、視力はいささか低下しているけれど、眼鏡を変える必要もない程度で、眼底に問題もなく、以前からある白内障の進行も、今不自由がなければ、このまま様子を見ましょうとのことであった。
 ドライアイの目薬だけもらってきた。

 今日も、思いの外、いい冬日和であった。散歩が快いくらいである。
 益田川の川沿いの道を歩いて、街に出た。
 5年前、ソコロへパソコンの勉強に通った道である。
 あの当時、パソコンを習い始めたのも、沈み込んでばかりいてはいけないと、一念発起してのことだった。

 水ぬるむ川面に、20余羽の鴨が泳いでいた。(写真)
 津村橋の下に降り、鴨の、悠然とした動きをしばらく眺めた。



 バッグの中には、『悼む人』(天童荒太著)が入っている。
 バスの待ち時間があれば読むことにしようと、出かけるとき、持ち重りを気にしながら、バッグに入れた本である。
 昨日、読み始め、今、終章近くまで読み進んだ。
 この作品に登場する諸人物の複雑な人生と、各個人の持つ、人間の性の不可解さ、また私自身の内面に潜む厄介な問題などを考えながら、鴨の動きによって揺らぐ川面を眺めていたのだった。
 (この本の感想は、稿を改めて書くことにしたい。)
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2月の庭 (黄水仙ほか)

2009-02-10 | 草花舎の四季
 昨日は、草花舎に出かけた。
 朝の冷えがうそのように、昼下がりは暖かかった。厚めのコートを着て出かけ、ちょっと調子外れであった。
 雨の近い空模様だったが、降り出したのは、夕方近くであった。
 立春以後の暖かさは、やや異常である。

 お食事の準備ができるまで、庭を歩いた。
 普通の水仙は以前から咲いている。この日は黄水仙に気づいた。(写真 上)
 先日見つけたクリスマスローズの蕾は開いただろうかと、その場所に行ってみた。その膨らみは6日のときと変わらないように思えた。ゆっくりと春の目覚めを楽しんでいるらしい。
 新たな気づきもあった。別の丈高い茎のてっぺんに、たくさんの蕾がついていた。白系または薄緑色の花が開くのだろう。(写真 下)

 顔見知りの先客があり、
 「梅の花が咲き始めて、季節だけは順調ですね」
 と、言われた。
 順調でないものが、身辺には存在することを言外に匂わせて。
 全くそのとおりである。
 このところ、私の気分も冴えない。
 春ですねぇ、と浮かれ気分には到底なれそうにない。
 もう少し待てば、食事に来られるAさんに会えることが、草花舎にかかってきた電話で分かっていたが、待たずに帰ることにした。
 「もうお帰りですか」
 Yさんは、不思議そうだった。
 「Aさんによろしく」
 と言い、先客にも挨拶して、辞したのだった。
 Aさんには昨年末に会って以来、お会いしていない。
 が、またいつか、草花舎でお目にかかれるだろう。



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山口へ 3 (懐古庵で 抹茶と雛飾りなど…)

2009-02-07 | 旅日記







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山口へ 2 (辛夷の蕾と一の坂川)

2009-02-07 | 旅日記



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