ぶらぶら人生

心の呟き

高島野十郎の世界 (多田茂治著 『野十郎の炎』を読んで)

2009-02-24 | 身辺雑記

 画家、高島野十郎(1890~1975)について、私が初めて知ったのは、2006年、当時博多で開催中の展覧会を紹介する、テレビの報道によってだった。
 そこで見た作品に心をひきつけられ、これは見逃せないと思った。
 年が明けたら、早速、博多へ行こうと、切符も買っていた。
 ところが、新年早々に、ひどい風邪を引いてしまった。インフルエンザの予防注射は受けていたのだが、お正月にやってきた姪の幼子が、いつもに比べ大人しいとみていたら、引き上げた後に高熱を出し、診断の結果、インフルエンザだったのだ。
 その菌をもらったのだろう。
 私の風邪も、あくどいもので、高熱と肺をえぐるような咳に悩まされた。食欲を完全に失い、点滴や注射、抗生物質の薬を飲んでも、一向によくならなかった。
 結局、ひと月療養することになり、博多行きは諦めざるを得なかった。
 ぜひ観たいと思っていた<高島野十郎展>に行けなかったため、その名を聞くごとに一入残念に思ってきた。

 昨年の暮れ、友人と大宰府を訪れ、博多に一泊した。その翌日、急いで帰る必要もないので、福岡県立美術館に立ち寄ってみた。
 折しも、コレクション展を開催していた。そこで思いがけず、高島野十郎の数点の作品に巡り合うことができたのだった。
 それだけで、美術館に立ち寄ったかいがあった。

 野十郎といえば、<蝋燭>の炎。
 その1枚に出会うことができたのだ。思いの外小さな絵であった。(サムホールサイズと呼ばれることは、『野十郎の炎』を読んで知った。)
 野十郎は、蝋燭の炎を描いては、お世話になった人などに差し上げていたようだ。その数幾枚に及ぶのか分からない。
 その中の一枚の絵に、その時めぐり合えたのであった。
 有名な<絡子をかけたる自画像>も展示してあった。
 その他、<洋梨とブドウ>なども。
 受付にて、「ご自由にどうぞ」ということで、「旅する野十郎」という冊子をいただき、展示されていない作品にも、接することができた。

 高島野十郎のことは、しばらく忘れていた。
 先日、草花舎から帰ろうとして、棚に置かれた本の表紙に、蝋燭の炎の絵が使われているのに気づいた。
 手に取ると、『野十郎の炎』と題されている。(写真)
 著者は、多田茂治という方であった。
 深い関心を寄せている画家との不思議な縁を感じた。
 「これ、お借りしていい?」
 と、Yさんに尋ねた。
 「どうぞどうぞ、ゆっくり読んでください」
 と、許しを得て借りてきたのは、18日のことだった。
 一昨昨日(21日)、読了した。

 『野十郎の炎』は、<評伝>の類になるのだろうか。
 この本の著者は、細やかに画家の生きた時代背景、久留米という街の歴史的変遷、野十郎の出生や家族のことまで、詳細に描いていて、稀有な画家の生涯をつまびらかにしている。
 著者は1928年生まれで、確かな筆力の持ち主である。著書も多数あるようだ。

 この本を読んで、高島野十郎の、いっそうのファンになった。画家として、また一人の人間の生き方として。
 どんなにあこがれても、野十郎のようには生きられないのだけれど……。
 孤高な生き方、自らの求める絵画の道を真摯に探求し続けた生涯。
 <序章>に、
 高島野十郎は生前ほとんど無名の画家だった。生涯娶らず、寡欲に生き、ひたすら画道に精進した八十五年の生涯だった。…略…
 野十郎は本名ではない。本名は高島弥寿。野(や)に生き、野に果てる決意を込めての雅号であった。

 と、記されている。
 この本では、当時の、久留米出身の洋画家たちにも触れている。
  青木繁    (1882~1911)
  坂本繁二郎 (1882~1969)
  古賀春江   (1895~1933)
 などは、私でも、その名を知り、代表作を思い出せる画家たちである。
 その中にあって、高島野十郎は、無名に等しかった。
 野十郎は、自ら<野(や)の人>であろうとした。
 世におもねることをしなかった画家である。
 野十郎は、没後に注目され、作品の真価が世に知られるようになった。
 その発掘に貢献したのは、福岡県立美術館だったようだ。

 野十郎は、大地主である酒造家の、恵まれた家に生まれ、東大の水産学科を抜群の成績で卒業。しかし、恩賜の銀時計も辞退して、自らが真に生き甲斐と感じる絵画の道に進んだのだった。あえて厳しい生き方に身を置いたのである。
 その生き方の不思議さは、画家青木繁と親しかった長兄高島宇朗にも言える。彼は、詩人を志し、家業を継ぐことをしなかった。野十郎と同じく、故郷を捨て、晩年は、禅道三昧、信仰の人として生きた。
 主人公は、もちろん野十郎であるが、この筆者は、兄の宇朗とその子どもたちにも、書き及んでいる。<高島家の血>を感じずにはいられなかった。
 人間は複雑奇怪である。
 一見似たような姿をしながら、生き方や考え方の隔たりの大きさに驚く。
 この世をいい加減に生きられない血の濃さは、若き日に共産主義者となり早世した、宇朗の長男日郎、次女満兔(まと)にまで受け継がれている。そうした生き方の底に流れる血脈は、野十郎の人生とも無縁ではない。
 また、父善蔵は篤信の人だったようで、それは、長兄宇朗、画家野十郎にも受け継がれている。

 野十郎は、ふるさとを捨てた。しかし、その郷愁は、死の時まで胸底にあったようだ。湧く水にまでこだわって、千葉県柏市増尾の地にアトリエを設けた。<おれのパラダイス>と称した質素なアトリエの場所は、生い育ったふるさとに通じるものがあったのだ。
 野十郎は、<やさしさにはやさしさを返す心根の持ち主>であり、<人を差別するような人間を嫌った>。(P119)
 時代の波で、最初のアトリエが宅地開発のため立ち退きを命ぜられる。その時の抵抗の姿勢は、野十郎の一面を伝えていて面白い。
 開発業者の負担で、洲崎岬の南側、太平洋を見はるかす西川名にアトリエが建設された。が、そこへ引っ越すことなく、業者との間で折合いがつかず、補償問題の訴訟まで起こしている。
 結局は、柏市増尾に藁葺き屋根の空き家を見つけ、第二のアトリエとして、腰を落ち着けることになったのだが…。

 『野十郎の炎』を読み、特に印象に残った表現を、覚書として書き留めておくことにする。(引用文
 
 …野の花が好きで、いつもやさしい眼を向けていました。夢を食べて生きているようなおじさんでしたねえ。(P171 姪、斐都の言葉)

 蝋燭の炎は、まだ電燈がつかなかったふるさとの少年時代、ランプとともに暗い夜を彩ってくれた懐かしい光だったし、信心深い父親がいつも神仏に供えていた炎でもあった。
 燃える蝋燭の炎をじっとみつめていれば、そうした少年時代の想い出もふくめて、越し方のさまざまな思いもゆらぎのぼってきたことだろう。
 一本の蝋燭の絵は、ほとんどサムホールサイズの小さな板絵だが、炎の表情は、一枚一枚、みな違う。その折々の心情、祈りが、炎の色、ゆらぎに映ったのだろう。雄渾に燃える炎もあれば、ひっそりと静まる炎もある。若い炎もある。老いた炎もある。そのすべてを、野十郎は心をこめて、丹念に、丹念に描いている。己の心の闇を照らしてくれるように。人の世の闇を照らしてくれるように。一本の蝋燭の炎に、野十郎の人生のすべてがこめられているかのようにも見える。
(P120 筆者)

 目下、氏は「暗闇」を描こうという執念にとりつかれている。「暗闇」といってもシンボリックな意味ではなく、正真正銘の「暗闇」を写生しようというのである。その段階として高島氏は、画面のなかに満月がひとつぽっかりと浮かんだ月夜の連作を続けている。やがて、その月が消されて「暗闇」に到達するのであろうか。ローソクや闇を描いて何を語ろうというのです、といった質問は、ここでは質問にならない。ローソクや闇を対象から除外するどういう理由があるのかといわれれば、それまでだからである。疑問符ゼロの世界。この絶対の王城を前にすると、僕はカフカの「城」を思い出すほかない。(P133 評論家中原佑介『芸術新潮』昭和38年8月号)

 生きた人間にはじめて出会ったような、また生きることがすでに遊行であるような存在の精神性と幻惑を全身に感じさせるような未知の絵画にでくわした。

 だれに強要、強制されることなく、自然にうながされたものだけを透徹した細密描写でとらえたような高島の風景、静物、あるいは数描いたロウソク、太陽、月の作品群は、見えるとおり、というより、本当に見えてくるとおりに描いている。あるがままにではない。対象を正面に見すえ、それをとりまく空間とそこに侵入してくる空虚を距離とともに的確に描き出すことに苦心し、自分の作品を真の自律に向かわせているのだ。
 ……孤高の画家にありがちな激情とか意識過剰のはみだしがなく、絵に関して近道をしたり、道草を食ったりはせず冷静、おそろしく早い速度で独自のまなざしをもった自分の絵画世界を築いているのだ。強靭で品を保つ、独学のさわやかさとでもいえばよいのか。
(P177~178 朝日新聞美術担当編集委員米倉守の時評。1988年高島野十郎展開催の折。)

  高島野十郎 (1890―1975)画家
  本名は高島弥寿。字 光雄。野十郎は画号。終生独身で孤独の中に身を置き、世の画壇とも一切関わらず晴耕雨描、修行僧にも似た孤高の生活を貫いた。その作品は、深い精神性を湛えた独特の写実絵画の世界を創っている。
(P 192 1988建立の碑「野十郎」に刻まれた墓碑の文章。)

 お墓は、市川市立霊園にあるが、1977年にふるさと久留米市山本耳納の曹洞宗の古刹、観興寺に分骨して安置し、さらに<野十郎碑>は、1988年に、その境内に建立されたということだ。
 久留米市に立ち寄ることがあったら、その碑の前に立ってみたい。
 なお、碑の台石には、<野十郎の一文が彼の書体のまま、白字で掘り込まれている>という。
 その一文は、野十郎の人柄を髣髴させる遺偈である。

   足音を立てず
   靴跡を残さず
   空気を動かさず
   寺門を出る
   さて
   袖を拂ひ
   裳をたゝひて
   去り歩し行く
   明々朗々遍無方
     (註 遍はあまねく、無方には煩悩を離れた心の意あり)
(P194~195) 

コメント (2)
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