ぶらぶら人生

心の呟き

読書雑感 (井上ひさし著『小林一茶』を読んで)

2009-02-27 | 身辺雑記
 本さえあれば退屈を知らないで過ごせると思っていた。
 が、加齢は、読書の愉しみをも少しずつ奪ってゆくよくに思う。
 視力の衰え、思考力の衰え、集中力の衰え、……、年々、衰えゆくものが増えてゆく。私だけに押し寄せる老いではないのだからと思いながら、少々うら寂しい。

 先日、小林一茶に関する本をパソコンで注文したことはすでに書いた。そして、その1冊目として読んだ、童門冬二著の『小林一茶』については感想も記した。
 2冊目の井上ひさし著『小林一茶』も、先日読了した。
 戯曲なので、各ページの余白が多い。
 楽には読み終えたけれど、愉しかったかと尋ねられれば、頭を傾げてしまう。
 昔から、戯曲を読むのは得意ではなかった。
 会話とト書きからなる戯曲という名の文学には、特殊な想像力を必要とするように思う。それが私には、欠けているのかもしれない。
 井上ひさしの、この『小林一茶』には、特に場面ごとに仕掛けがあって、構成が単純ではない。推理劇仕立てで話が進む。
 一茶の半生や彼を取り巻くの江戸時代の空気は読み取れたが、やはり観客となって舞台で見た方が面白いのでは、と思った。
 この戯曲の世界は、井上ひさしの創り出した、独特な創造世界ではあるが、小林一茶のほか、実際に生存した夏目成美、苅部竹里など、個性も俳諧に対する姿勢も異なる人々が登場し、筋が展開される様は、なかなか面白かった。
 読売文学賞受賞作でもあり、戯曲の傑作には違いないだろう。
 しかし、私のように、読み手の質が低くては、折角の名作も生きてこない。

 井上ひさしといえば、購入した本として記憶にあるのは、『吉里吉里人』『私家版 日本語文法』の2冊。
 書棚にいってみると、『吉里吉里人』はすぐ見つかったが、後者はまた、どこかに雲隠れしていて見つからなかった。(本棚の整理をしなくては…と、なんど決意したか知れないことをまた思いつつ、本棚の前をうろうろした。)
 『吉里吉里人』は、読みさしたままで、読了していない。
 昭和56年の出版である。当時は、まだ勤めていた時代なので、仕事に追われて読み上げることができなかったのだろう。
 上下二段組で、834ページの分厚い本を、今から読みおおせるかどうか?
 昨日は、ただ手にとってしばし眺めただけである。
 装丁は安野光雅氏。
 内容に関して描かれたと思われる、愉しそうな、細密な絵が、カバーに使われている。
 先日(26日)、朝日新聞の<天声人語>に「ジャケ買い」という言葉が出ていて、なるほどと思った。
 <中身を吟味するよりジャケット、つまり表紙で選ぶことだ。>と記されていた。「ジャケ買い」を枕として、その続きは、麻生総理、オバマ大統領も登場する、政治の話に発展してゆくコラムだったのだが……。
 私は、今まで「ジャケ買い」をしたことはない。が、表紙が気に入ればそれに越したことはない。
 ちなみに、井上ひさし著『小林一茶』(中公文庫)の表紙(カバー)は、山藤章二氏のもので、ほんわかした趣のあるジャケットである。

 
                  
                  
                  (写真 家のジンチョウゲ。まだ蕾。) 
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鶯の初音

2009-02-27 | 身辺雑記
 今日、鶯の初音を聞いた。
 例年より遅いような気がする。私の耳に届かなかっただけなのかもしれないけれど。
 戸外を歩いているとき、今までにも数度、鶯の声を聞いたように思って足を止め、耳を澄ましたことはある。が、二度目の声を聞くことなく、空耳だったのかと残念に思ってきた。

 今日は、買い物からの帰り、家の近くで、<ホーホケキョ>の声を聞き、足を止め耳を澄ませた。
 佇んで、二声目、三声目を聞いて、間違いなしと確信した。
 まだ山の奥まったところで囀っているのだろう。その声は遠い。
 そのうち里へ下りてきて、庭に姿を見せることもあるに違いない。

 そういえば、家の中にいて、庭木に囀る小鳥の声を聞くことが多くなった。
 いよいよ春の足音が近づいた感じだ。

                 
              パソコンでお絵描きを習い、
              <鶯に見えるかな?>と思いながら、
              4年前に描いた鳥。
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