南木佳士著
『からだのままに』
カバー絵は、上田哲農(日本の洋画家・登山家)。
この本には、20篇のエッセイが収められている。
その20篇目のエッセイ「からだ」の中に、
<みんな、きょう死ぬかもしれない朝にも、自分が死ぬとは思っていない。なぜなら、死のそのときまでは生きているのだから。>とあり、さらに
<死ぬまでは必ず生きている「からだ」。その圧倒的な存在感のまえで色あせない世俗の価値を探すのはきわめて難しい。>とも記され、最後に、
<かように書きながら悟りきれないわたしは風に吹かれるミノムシのごとく、からだのままに揺れている。>と、締め括られる。
本の題名『からだのままに』は、アンダーラインを付したところから採られたのだろう。
<初出紙誌>によると、2004〜2006年に書かれた作品である。作者は、1951年生まれだから、作品に投影されているのは、50歳代前半の生活であり、また心情なのであろう。あるいは、その年齢から振り返った過去であったり……。
南木佳士さんの小説は、<私小説>的で、作品を通して作家の為人(ひととなり)やその経歴、人生体験などをおぼろに感じてはいた。が、エッセイを読むことで、いっそう作者の存在が身近に感じられ、20篇の作品をとおして、浅間山麓、信州佐久平での生活に羨望を感じつつ読んだり、作者の読書歴に触れたり、歌人の若山牧水の『新編みなかみ紀行』を知って読んでみたいと思ったり、大森荘蔵『流れとよどみ』は、早速Amazonへ注文したり……。
エッセイをとおして、心を揺さぶられることが多い。
作家・南木佳士について、この本の<あとがき>に、
<医者になり、信州の田舎町に住み始めたのは二十五歳の春だった。他者の生と死に深くかかわらざるを得ない業の深い仕事に手をそめ、週末になると心身の疲労から扁桃腺を腫らして熱を出してばかりいた研修医は、その後、肺炎、パニック障害、うつ病、肺の手術などを経て五十五歳になり、まだなんとか生き延びている。>
と、作者自身が書いておられる。
一方、登山家並みの山登りをしたり、水泳、鮎釣りなどなど、私からすれば、体力的に絶対無理だと思える生き方もなさっている。そうした体験もエッセイの味わいを深めている。
私はさらに、南木佳士著『生きのびるからだ』『生きてるかい?』『猫の領分 自選エッセイ集』も入手した。しばらく南木佳士のエッセイに、読み浸ることになりそうだ。
その私の日々は、このところ、なかなか意のまま(こころのおもむくまま)とはゆかず、エッセイの題名同様、<からだのままに>にのらりくらりと生きざるを得ない状態である。
日々の暮らしは、からだまかせ。からだの声に従って生きている。思うようにゆかないことは、全て歳のせいにして。
読書の友は、大きめのカップにコーヒーをたっぷり入れて。