晴れの日の、わが家の紫陽花。
過日、友人とたわいない人物談義をしていたところ、友人から、島根県東部の出雲人は紫陽花に、島根県西部の石見人は桜に例えられるのが一般的だ、と聞いた。私にとっては初耳であった。
散り際がさっぱりしている桜と、枯れても落花せず枯死のまま姿を止める紫陽花と、そのいのちの収め方の違いを、地域の住民性の違いとして表したものらしい。
その喩えが当てはまるほど、果たして、地域人の持ち味に違いがあるものかどうか。
出雲弁と石見弁は、ずいぶん異なるけれど、性格や人間性の違いについては、さて、と考える。
長い歳月を生きてきて、色々な地域の様々な人に接してきた。が、その地域との関わりで人柄の違いを考えたことはない。
同じ環境で育った兄弟姉妹でも、性格も考え方も、ずいぶん異なる。そして、人はみな、それぞれ違いがあるからこそ面白い、とも思う。
その違いの背景に地域性がないと断定はできないかもしれないけれど、より個の問題であるような気が私はする。
紫陽花の盛りを眺めながら、ふと、過日の話題を思い出したのであった。
また、縄文・弥生論でゆけば、紫陽花は縄文的、桜は弥生的ということになるのだろうな、と思いつつ、見上げた空は、一片の雲もない紺碧の空であった。