今日の庭に咲いている花。
テッポウユリ
同上
紫陽花の今。まだ色づきが淡い。
ヘメロカリス
ムラサキゴテン(一日花)とパンジーの残花
シモツケ
ナンテンの花
開き始めた小さな花
ビヨウヤナギ
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今日の新聞の<朝日歌壇>、高野公彦選の第一首めに選ばれた歌は、「五十年の白駒は………」と、歌い出されていた。
白駒(はっく)? に、目が止まった。[評]に目を移すと、白駒は歳月とあった。
白駒を知らないのは、非常識なことなのかどうか?
早速、電子辞書(広辞苑)を調べたり、『故事ことわざの辞典』を書架から取り出して、調べてたりした。
出典は『荘子』だと知った。
それぞれには、以下のような諺が添えてあった。
白駒の隙(げき)を過ぐるが若(ごと)し(『広辞苑』)
白駒 隙(げき・ひま)過ぐ(『故事ことわざの辞典』)
遣い慣れたことばで言えば、<光陰矢の如し><烏兎匆匆>に当たるのだろう。
私は、<烏兎匆匆>を、久しぶりの便りを書くとき、折々遣う。
今日知った<白駒>を、今後文章に遣うことはまずないだろう。それでも、語彙が一つ増えたのは嬉しい。
もう一つ、<声>欄に、思わず笑ってしまった投稿があった。
[誕生日の「だいかいろう」事件]と題された、9歳の坊やの投稿。
誕生日祝いに、坊やの希望で、回転ずしを食べに行き、メニューを見て、「だいかいろうをください」と注文したというのだ。二度にわたって。
「大海老」と書いてあるのを「だいかいろう」と読み、お母さんに「大海老(おおえび)のこと?」と聞かれ、周囲の人に笑われてしまったのだ。
読み違えを指摘され、<顔だけおふろに入った気分だった。>と、坊やは書いている。
坊やとその場の雰囲気が目に見えるようだ。
巧まざるユーモア!
9歳と言えば、小学校の4年生であろうか。読ませる文章であった。
私の4年生当時は戦時中で、国民学校と呼ばれていた。
綴方の時間には、もっぱら慰問文を書いた。
「戦地の兵隊さん、お元気ですか。………………銃後は、私たちで守ります。」と、紋切型の文章を繰り返し書いた。
……………の部分では、自分のことや学校のこと、季節の移ろいなどについて、多少は自分を表現したのであろうか?
果たして、あの慰問文は、戦地の兵隊さんに届いたのかどうか
私の年代であれば、子どものころを思い出せば、必ず蘇る戦時下の思い出。
「だいかいろう」の坊やには、言い違えた記憶と同時に、コロナの流行や長い休校が続いた思い出が、蘇るだろう。
人は誰も、生きる時代を選べない。
私の場合、幼い日に、戦前戦中戦後を生き、晩年に至って、コロナに脅かされることになろうなどとは、予想もしなかったことである。
ことばについての思い出はたくさんあるが、坊やの失敗談を読んで、ふと思い出したことがある。5歳年上の兄の冗談に引っかかった思い出。
三年生のころであっただろうか。
私が兄に、「木を削る道具、なんていうの?」と尋ねたときのことである。
兄は即座に、「ナンカだよ、ナンカ」と、念を入れて教えてくれた。
「そうだった、ナンカ、ナンカ」と、私は復唱して喜んだ。
と、兄は、「違うよ。ナンカじゃない、カンナ(鉋)だよ」と、言うのだった。
兄は生涯、頓知に長けた人であった。あれは誰譲りの才能だっただろう!?
私は、兄の頓知にまんまと引っかかった遠い昔(80年前)のことを、今も忘れない。
声欄の坊や同様、よほど恥ずかしかしい思い出だったのであろう。