3月14日の朝日新聞「天声人語」は、魚について書いていた。
その冒頭に、
<魚偏に雪と書けばタラ、冬だとコノシロ、では神は? 漢字にならって日本で作られた国字には、魚偏の字が一番多いという。判じ物さながらの難読ぞろいだが、日本人と魚の深い縁を示す証しでもある>
とあった。
鰯、鱚など、幾つかの国字を思い出しながら、さて、魚偏に神は?と、一瞬頭をひねったが、その魚の名前は、思いつかなかった。
コラムの最後に、種明かしがしてあって、秋田の特産ハタハタだと知った。
以前、お鮨屋で、魚偏漢字を沢山印字した、大きな湯飲みをよく見かけた。
何とか読めても、書けといわれれば、さっぱりの漢字が多い。
傍にあったメモ帳に、魚偏の字を思い出しながら書いてみたが、容易なことではなかった。第一、魚の名前がそう沢山は思い出せないのだった。
今朝の朝日新聞<be on Sunday>の、「築地 おさかな図鑑 10」にサヨリのことが出ていた。( )して、漢字が記してあった。(鱵)と。
サヨリは美しい魚だし、味も上品で、好きな魚だが、漢字は初めて見るような気がした。
旁の<箴>は、鍼治療の<鍼>と同じ意味なのだそうだ。細身の姿から作られた国字らしい。サヨリはまた、「細魚」「針魚」とも書かれるようだ。
(写真は、魚とは関係ないが、我が家に咲いた白い椿。)
友人宅の裏庭に、山茱萸の花の蕾が、今にも開かんとする風情で、枝に満ちていた。
歳時記を開いたところ、
山茱萸の花やしみじみと加齢
という、金子皆子作の句が、目に飛び込んできた。
作者の庭に、山茱萸の老木があり、その木に今年も花が咲いた。その木と共に歩んできた作者自身、自らも年を重ねたものだとの感慨をしみじみ味わったのだろうか。
山茱萸の花と加齢との接点は曖昧だが、なんとなく首肯して味わった。私自身の、年々の加齢を思いながら。
歳時記を開いたところ、
山茱萸の花やしみじみと加齢
という、金子皆子作の句が、目に飛び込んできた。
作者の庭に、山茱萸の老木があり、その木に今年も花が咲いた。その木と共に歩んできた作者自身、自らも年を重ねたものだとの感慨をしみじみ味わったのだろうか。
山茱萸の花と加齢との接点は曖昧だが、なんとなく首肯して味わった。私自身の、年々の加齢を思いながら。
12日、かかり付けの医院へ、定期健診に出かけた。
待合室の隅に、花が活けてあった。(写真)
見ると、麦の穂に似たものがあしらわれているのだ。
「本物でしょうか?」
と言いながら、顔見知りの患者と、花器に近寄ってみた。
間違いなく、本物の麦の穂であった。
子どもの頃には、周囲に麦畑があった。
麦秋と呼ばれる、のどかな季節があった。
近年、麦畑を見たことがない。当然麦の穂も…。
それだけに懐かしかったが、そこには、雲雀の囀りがない。
幻影の如く、遠くなった風景を思い出していた。
待合室の隅に、花が活けてあった。(写真)
見ると、麦の穂に似たものがあしらわれているのだ。
「本物でしょうか?」
と言いながら、顔見知りの患者と、花器に近寄ってみた。
間違いなく、本物の麦の穂であった。
子どもの頃には、周囲に麦畑があった。
麦秋と呼ばれる、のどかな季節があった。
近年、麦畑を見たことがない。当然麦の穂も…。
それだけに懐かしかったが、そこには、雲雀の囀りがない。
幻影の如く、遠くなった風景を思い出していた。
今朝、赤旗新聞の日曜版を読んでいて、「探梅」という言葉に出会った。
なるほど、いい言葉だと思いながら、広辞苑で確かめたところ、<晩冬の季語>となっていた。句作をする人にとっては、なじみの言葉なのだろう。
歳時記には、
<漢詩には「観梅」が梅林や庭園の梅を見ることであるのに対し、雪深い山に梅を尋ねることを「探梅」という。>
とあり、別の言い方として、「春信(しゅんしん)」「梅探る」「春の便り」が挙げてあった。
探梅や枝の先なる梅の花 高野素十
探梅や遠き昔の汽車にのり 山口誓子
探梅や息深くして梅に寄る 下村ひろし (以上、歳時記より)
「四季樹彩」(川隅 功)の記事を読んでいて、「探梅」という言葉に出会ったのだが、筆者は、次のように記していた。
<探梅(たんばい)といって、咲き始めの時期、ところどころに咲き始めている花を探しながら鑑賞します。次に賞梅(しょうばい)は、いっせいに咲き誇った花を観賞すること。最後に送梅(そうばい)といって、咲き終わりの時期を名残惜しみながら鑑賞します。>
と、時期による、梅花観賞の言葉を紹介していた。
そこで、「探梅」についで、「賞梅」「送梅」についても調べてみたが、これらは辞書になかった。
ただ、「日本国語大辞典」には、「送梅」が出ていた。しかし、ここで使われた意味とは異なり、<五月に降る雨。五月雨(さみだれ)>とあり、「送梅の雨」(「送梅」に同じ)、「送梅の月」(陰暦五月の異称)という言い方も載せてあった。
新聞記事に出ていた「賞梅」「送梅」は、一般化されていない言い方なのだろうか。
「四季樹彩」の記事には、東京都青梅市の梅林の、見事な写真が添えてあった。 山の斜面を利用した梅の公園なのだそうだ。約120品種、約1500本の梅があるという。紙上から梅の香が漂ってきそうな風情であった。
この記事中に、紅梅の見分け方についても書いてあり、意外なことを知った。
紅梅・白梅は、花の色で見分けるのではなく、枝の断面の色で区別するのだ、と。だが、そんな知識は、梅の香や花色を楽しむ私にとっては、どうでもいいことにも思えた……。
(写真は、津和野町の小さな梅林。紅梅の花盛りだった。)
なるほど、いい言葉だと思いながら、広辞苑で確かめたところ、<晩冬の季語>となっていた。句作をする人にとっては、なじみの言葉なのだろう。
歳時記には、
<漢詩には「観梅」が梅林や庭園の梅を見ることであるのに対し、雪深い山に梅を尋ねることを「探梅」という。>
とあり、別の言い方として、「春信(しゅんしん)」「梅探る」「春の便り」が挙げてあった。
探梅や枝の先なる梅の花 高野素十
探梅や遠き昔の汽車にのり 山口誓子
探梅や息深くして梅に寄る 下村ひろし (以上、歳時記より)
「四季樹彩」(川隅 功)の記事を読んでいて、「探梅」という言葉に出会ったのだが、筆者は、次のように記していた。
<探梅(たんばい)といって、咲き始めの時期、ところどころに咲き始めている花を探しながら鑑賞します。次に賞梅(しょうばい)は、いっせいに咲き誇った花を観賞すること。最後に送梅(そうばい)といって、咲き終わりの時期を名残惜しみながら鑑賞します。>
と、時期による、梅花観賞の言葉を紹介していた。
そこで、「探梅」についで、「賞梅」「送梅」についても調べてみたが、これらは辞書になかった。
ただ、「日本国語大辞典」には、「送梅」が出ていた。しかし、ここで使われた意味とは異なり、<五月に降る雨。五月雨(さみだれ)>とあり、「送梅の雨」(「送梅」に同じ)、「送梅の月」(陰暦五月の異称)という言い方も載せてあった。
新聞記事に出ていた「賞梅」「送梅」は、一般化されていない言い方なのだろうか。
「四季樹彩」の記事には、東京都青梅市の梅林の、見事な写真が添えてあった。 山の斜面を利用した梅の公園なのだそうだ。約120品種、約1500本の梅があるという。紙上から梅の香が漂ってきそうな風情であった。
この記事中に、紅梅の見分け方についても書いてあり、意外なことを知った。
紅梅・白梅は、花の色で見分けるのではなく、枝の断面の色で区別するのだ、と。だが、そんな知識は、梅の香や花色を楽しむ私にとっては、どうでもいいことにも思えた……。
(写真は、津和野町の小さな梅林。紅梅の花盛りだった。)
3月11日、山口に出かけた。
用事をする前に、必ず憩う喫茶店がある。その名は、「グリーンパーク」。
当日、各テーブルの、小さな花瓶に挿してあったのは、カーネーションとアカシアの花であった。(写真)
淡い春の花色だった。
実は黄色い花の名前が分らず、ウエイトレスに尋ねたところ、伝票を繰って調べてくれた。花屋から、最近取り寄せられたものらしかった。
「アカシアです」
と、花のような微笑で答えてくれた。
お店を出て、アーケード街を歩いていると、花屋の店先に、<アカシア>と名札のついた鉢が置いてあった。この季節の花らしいと、足を留めて眺めた。同じく黄色い小花を房状に咲かせていたが、緑の葉もついていた。
11日は、快晴の春日和であった。
朝は、特急で出かけ、帰りは友人の車に乗せてもらった。
中国山地の山々は、春の霞に包まれていた。
(追記 「アカシア」と教えてもらった花は、歳時記によると、「銀葉(ぎんよう)アカシア」=「ミモザ」のことらしい。昨年も、この花のことをブログに書いたような気がしてきた。)
用事をする前に、必ず憩う喫茶店がある。その名は、「グリーンパーク」。
当日、各テーブルの、小さな花瓶に挿してあったのは、カーネーションとアカシアの花であった。(写真)
淡い春の花色だった。
実は黄色い花の名前が分らず、ウエイトレスに尋ねたところ、伝票を繰って調べてくれた。花屋から、最近取り寄せられたものらしかった。
「アカシアです」
と、花のような微笑で答えてくれた。
お店を出て、アーケード街を歩いていると、花屋の店先に、<アカシア>と名札のついた鉢が置いてあった。この季節の花らしいと、足を留めて眺めた。同じく黄色い小花を房状に咲かせていたが、緑の葉もついていた。
11日は、快晴の春日和であった。
朝は、特急で出かけ、帰りは友人の車に乗せてもらった。
中国山地の山々は、春の霞に包まれていた。
(追記 「アカシア」と教えてもらった花は、歳時記によると、「銀葉(ぎんよう)アカシア」=「ミモザ」のことらしい。昨年も、この花のことをブログに書いたような気がしてきた。)