朝の散歩で、石蕗の花や泡立草の黄を存分眺めて、家近くまで帰ったとき、隣家の柿の実が黄色みを増しているのに気づいた。
樹下に佇んで、青い空に映える柿の実を眺めた。
「おばちゃん、かきが いっぱい さいてるね」
遠い昔、幼い姪が柿の木を指差して言った言葉がよみがえった。
私は、その言葉を訂正などせず、
「ほんとだ! たくさん咲いてるね」
と答えた。
三歳の姪は嬉しそうに、
「いっぱい いっぱい さいてるね」
と繰り返しながら、飛び跳ねていた。
幼児は、時に詩人だ。
大人になれば、柿が咲いてる、とは言わないだろう。しかし、鈴なりの実を花と感じる感性は、もはや失われているのだ。
実がなる、という言い方が正しい日本語だという常識的な知識は、理屈っぽく教えなくても、そのうちおのずから習得するであろう。
私は、あえてそれを教えなかった。
むしろ、「柿が咲いてる」と言えなくなった大人の感性を、そのとき私は寂しく思ったのだった。
幼児は、巧まず詩人になれる。
一般の大人は、いつの間にか、みずみずしい、柔軟な感性を失い、知性や常識でしか物事を判断できなくなってしまう。
それはちょっと寂しいことではないだろうか、と今でも思う。
姪も、今は平凡な大人になって、「柿が咲いてる」とは言わないだろうけれど……。
樹下に佇んで、青い空に映える柿の実を眺めた。
「おばちゃん、かきが いっぱい さいてるね」
遠い昔、幼い姪が柿の木を指差して言った言葉がよみがえった。
私は、その言葉を訂正などせず、
「ほんとだ! たくさん咲いてるね」
と答えた。
三歳の姪は嬉しそうに、
「いっぱい いっぱい さいてるね」
と繰り返しながら、飛び跳ねていた。
幼児は、時に詩人だ。
大人になれば、柿が咲いてる、とは言わないだろう。しかし、鈴なりの実を花と感じる感性は、もはや失われているのだ。
実がなる、という言い方が正しい日本語だという常識的な知識は、理屈っぽく教えなくても、そのうちおのずから習得するであろう。
私は、あえてそれを教えなかった。
むしろ、「柿が咲いてる」と言えなくなった大人の感性を、そのとき私は寂しく思ったのだった。
幼児は、巧まず詩人になれる。
一般の大人は、いつの間にか、みずみずしい、柔軟な感性を失い、知性や常識でしか物事を判断できなくなってしまう。
それはちょっと寂しいことではないだろうか、と今でも思う。
姪も、今は平凡な大人になって、「柿が咲いてる」とは言わないだろうけれど……。