ぶらぶら人生

心の呟き

ひとり遊び

2006-10-05 | 身辺雑記
 ひとり遊びは、私の特技かも知れないと思います。
 ひとりで何かをして楽しむ習慣は、遠い昔に身についたようです。
 
 三つ子の魂百まで
 雀百まで踊りは忘れぬ 

 とか、諺にもありますが、そのとおりだと、真実思います。

 私の子供時代、田舎では珍しいことでしたが、母は職業婦人でした。私が小学校に入る年に仕事をやめ、家庭に落ち着きましたが、それまでは勤めに出ていました。
 したがって、小学校に入るまでの私は、今の子供たちに似て、家に母不在という、心理的には鍵っ子に近い状態でした。
 二歳半年下の妹がいましたが、まだ遊び相手にはならず、彼女はお手伝いさんに負んぶされたり抱っこされたりして、過ごしていました。
 お手伝いさんは、妹の専属であり、食事の準備などをする人だと、子供ながらに理解し、甘えたりもしませんでした。
 田舎のことですから、今のように保育園や幼稚園があるわけではなく、母が用意しておいてくれた遊びを、ひとりで楽しんでいました。
 比較することを知らない私にとっては、ごく当たり前のことでしたから、別に寂しいとも、不幸なことだとも思いませんでした。
 
 母は、仕事に出かける前に、お天気がよければ、庭に「丸跳び」の輪を描いておいてくれました。ケンケンバタと片足で跳んだり、両足を二つの輪の中に下ろしたりする遊びでした。
 外での遊びには、ママゴトもありました。母は木陰に茣蓙を敷いておいてくれました。茣蓙の上には、ママゴト用具もそろえてありました。ひとりで、もてなし役になったり客になったりして、独り言を言いつつ、遊んだものでした。季節の草花を採ってきては、ご馳走を作りました。
 私のおやつは、日ごと、小さな手提げかばんに用意されていましたので、それをママゴトのお皿に盛ることもありました。
 
 女の子ですから、外遊びより断然家の中で遊ぶことが多かったようです。
 人形ごっこ、着せ替えごっこ、積み木、おはじき、綾取り、お手玉、手まり、絵本など、遊びに不自由がないように、母は遊びの具を用意してくれていました。
 着せ替えの着物は、母の手作りでした。長じて私も職につき、仕事に追われる身になってみて、昔の母は仕事の合間に、よくも人形の振袖着物まで縫ってくれたものだと、感心したものです。お手玉なども、みな母の手作りでした。

 私の性格は、そうした幼児体験に基づくように思います。非社交的なマイナス面も、子供のころに養成されたものなのでしょう。
 生い立ちがはぐくんだ自分の性格を、私自身は、私の持ち味として楽しんでいるようなところがあります。
 別に、厭人癖はありませんし、決して、友人が少ない方だとも思いません。
 人と語るのが嫌いでもありませんが、一人もまたよし、というのが正直な気持ちです。
 趣味もおのずから一人でできる書き物や、読書です。
 最近始めたブログは、私にうってつけの楽しみでもあります。

 夏の終わりのころ、私が線香花火はどこに売っているのかしら、と話しましたら、親切な友人が、お店に残りがあったと、買い求めてきてくれました。
 季節はずれの花火線香を、先日来、ひとり楽しみました。(写真)
 線香花火のはかなさに、思い出を重ねながら眺めました。
 一方で、草むらにすだく秋の虫の声を聞きながら。
 家の裏には、いろいろな虫の声が交錯していますが、中でも際立って聞こえてくるのが、松虫の声です。
 松虫は、普通には「チンチロリン」と鳴くことになっていますが、耳を澄まして聞くと、正確には、「チッ、チロリン」と鳴いているように聞こえます。慌てものは、「チッ、チッ、チロリン」と鳴いたりしています。
 始めの「チン」と、それに続く「チロリン」の接続は微妙ですし、音節の長さも一様ではありません。
 そんな発見を面白がりながら、私も松虫になって、出にくい高音を無理に発し、「チッ、チロリン チッ、チロリン」と、松虫に和してみます。
 
 私は、ひとり遊びの達人かもしれません
 
コメント
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