葉の形が徳川家の家紋の葵に似ているからと言う。花は側弁が良く開かず、左右から押しつぶされたような形になる。有茎なのだが、匍匐してしまうので、無茎のように見える。アオイスミレは春一番早く咲く菫の一つだ。
昨年もこの菫を載せているのだが、今年も同じように載せることとする。小菫と言いながら、実際には普通の菫と同じ大きさなので、名前とは一致しないと思う。
ただ、ほかに草も生えていないような、土の表面がつるつるしているようなところに生えているこの菫は大変小さい。花の大きさも1cmに満たないほどである。これを見てコスミレと言ったのかなどと空想している。
ただ、ほかに草も生えていないような、土の表面がつるつるしているようなところに生えているこの菫は大変小さい。花の大きさも1cmに満たないほどである。これを見てコスミレと言ったのかなどと空想している。
何しろ名前の由来が面白いし、明治初期には日本の長崎にはあったというヨーロッパ原産の帰化植物。当時日本の植物を調査採取していたフランチェットFranchet氏とサバチェルSavatier氏が長崎でこの植物を採取して、ヨーロッパのものと同じだとした。この二人の名前の2文字ずつをとってつなげてフラサバ草と名付けたという。オオイヌノフグリと同じ仲間だ。ちゃんとした別名があり、ツタノハイヌノフグリという。
近年その版図を広げているようで、わたしの持っている図鑑は古いので、それには載っていない。
近年その版図を広げているようで、わたしの持っている図鑑は古いので、それには載っていない。
アブラナ科タネツケバナ属の花。昨日投稿したヒナスミレを見付けたところの松の大木の疎林の林床に何か白い花がたくさん咲いている。一見大きなタネツケバナのような花だ。
アブラナ科だなとは分かったのだが、花の名前が分からない。帰宅してから図鑑などで調べてみると、マルバコンロンソウだった。ラッキー!というところ。
アブラナ科だなとは分かったのだが、花の名前が分からない。帰宅してから図鑑などで調べてみると、マルバコンロンソウだった。ラッキー!というところ。
名前の如く、大変可愛い菫。画像では少し青味が強いが、実際にはもっとピンク色だ。そして、菫としては春も早くから咲きだして、楽しませてくれる。
毎年、君津市の山奥へ見に行っていたのだが、今年はひょんなことから近間のところで咲いているのを見付けた。大変うれしいことだ。これで、毎年苦労して遠出をしなくても見られることになった。
毎年、君津市の山奥へ見に行っていたのだが、今年はひょんなことから近間のところで咲いているのを見付けた。大変うれしいことだ。これで、毎年苦労して遠出をしなくても見られることになった。
ジンチョウゲ科の落葉低木。中国原産で繊維植物として日本の暖地で栽培されていることもある。枝先が3つにわかれるのが特長で、その名の由来。
葉が出る前によい香りのある黄色の筒状小花を房状に付ける。花は沈丁花よりも細かく、金糸卵のように美味しそうな感じがする。
和紙の原料としてはコウゾに次ぐ重要な原材料で、日本の紙幣にも使用されて有名。
葉が出る前によい香りのある黄色の筒状小花を房状に付ける。花は沈丁花よりも細かく、金糸卵のように美味しそうな感じがする。
和紙の原料としてはコウゾに次ぐ重要な原材料で、日本の紙幣にも使用されて有名。
この画像は3月15日に撮ったものでやや時機を失しているが、わたしにとっては今年初めて撮った菫と言うことで載せてみた。3、4、5月と菫の時期が過ぎてゆくが、その間に何種類の菫に会えるのだろうか。
今は、あまり遠出はしないので、自宅周辺の千葉県内で見られる菫を探しつつ撮ることにしている。
今は、あまり遠出はしないので、自宅周辺の千葉県内で見られる菫を探しつつ撮ることにしている。
海野宿には祠が多い。何を祀っているのかは分からないが、ちょっと見て回っただけでも七つや八つは目にとまる。今も機能しているというか、今も祀られているものもあり、路傍にただ置かれているようなものもあり、色々だ。
昔は、いろいろ祈ることが多かったに違いない。だから、それぞれの願いにかなった祠が必要だったのか、はたまた、自家用の祠が営まれていたのか。見ていると落ち着くというか安らぎを憶えるから不思議だ。
昔は、いろいろ祈ることが多かったに違いない。だから、それぞれの願いにかなった祠が必要だったのか、はたまた、自家用の祠が営まれていたのか。見ていると落ち着くというか安らぎを憶えるから不思議だ。
海野宿の裏通りを歩こうと思ったとき、そんなこともあるかも知れない、いや無いだろう。などととりとめもない想いが脳裏をよぎったのだが実際に歩いてみると、現実に朽ちつつある建物が何軒も見られた。
表通りの建物は、観光のために維持管理されているのだが、裏通りにある同じような古い建物は軒並み無住で手当がなされて居らず見捨てられている。いわゆる朽ちるに任せているわけだ。これを見て少なからず心理的衝撃を受けざるを得なかった。
「それの何が悪い。不便だし維持管理に手間とお金がかかるので、見捨てたまでで、ちゃんと表通りに立派な建物が残してあるのだから良いだろう」という声が聞こえるようだ。まあ、その通りだろう。そこに住んでいた人がそう決めたのだから文句の言いようもないのだが。まあ、取り壊すにも金がかかるからいたしかたないというところだろう。観光地の裏側などは何処でもこんなことで同じかも知れない。逆にほっとする。
表通りの建物は、観光のために維持管理されているのだが、裏通りにある同じような古い建物は軒並み無住で手当がなされて居らず見捨てられている。いわゆる朽ちるに任せているわけだ。これを見て少なからず心理的衝撃を受けざるを得なかった。
「それの何が悪い。不便だし維持管理に手間とお金がかかるので、見捨てたまでで、ちゃんと表通りに立派な建物が残してあるのだから良いだろう」という声が聞こえるようだ。まあ、その通りだろう。そこに住んでいた人がそう決めたのだから文句の言いようもないのだが。まあ、取り壊すにも金がかかるからいたしかたないというところだろう。観光地の裏側などは何処でもこんなことで同じかも知れない。逆にほっとする。
海野宿は東御市の資料によれば「海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。北国街道は、中山道と北陸道を結ぶ重要な街道でした。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代のほか、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くありました」とあった。
わたしは昨年の8月にも訪れているので、今度で2回目となる。そこで、今回は表通りではない裏通りを歩いてみた。しなの鉄道という鉄道が走っており、その向こうの高台に新しい街が造られて実際の生活はそこで営まれているようだ。
画像は、線路沿いの農家の庭先に稻束が干されており(ワラとして使うためにこの時期まで干してあるのだろうか)、霜囲いされた白菜があり、線路の向こうには新しい街が見え、その先には山々が見えていた。
わたしは昨年の8月にも訪れているので、今度で2回目となる。そこで、今回は表通りではない裏通りを歩いてみた。しなの鉄道という鉄道が走っており、その向こうの高台に新しい街が造られて実際の生活はそこで営まれているようだ。
画像は、線路沿いの農家の庭先に稻束が干されており(ワラとして使うためにこの時期まで干してあるのだろうか)、霜囲いされた白菜があり、線路の向こうには新しい街が見え、その先には山々が見えていた。