ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

我々はどこから来たのか

2019-10-14 02:11:39 | 日記
そしてタイトルはこう続く ・・・ 「我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。
ご存じ、Paul Gauguin が描いた絵画の名称だ。


僕は海岸沿いの田舎町で生まれ育った。
大学進学で上京したが、H先生に勧められるまま地元の公立大学を選択していれば、そのまま地元で就職して、地元のまま人生を終えたかも知れない。


人生には様々な力が作用する。
中でも最も大きな力は、瞬間瞬間における自らの選択だろう。

やり直したいことなど何一つないけど、可能であれば戻ってみたい時間がある。
勿論、大好きな 〝今〟 を変えないように細心の注意を払いながら。


僕の 〝今〟 は、僕が数限りなく重ねてきた選択による不可逆的最先端にある。
それでも考えずにはいられない。

あのとき一緒に行っていたら?   あのとき意地を張らなければ?  あのとき偶然ではないことに気付いていたら?  あのとき自分に正直になっていれば?  あのとき一人でエントランスを出ていたら?  あのときもう一言言えていたら?


こんな夜は、吉田拓郎さんの曲 〝制服〟 の歌詞が沁みる。

  初めから都会へ出て行かなければ
  いつまでも都会でなくてすんだのに


人生も、今この瞬間も一度きり。
「やり直しがきかないからこそ人生は素晴らしい」 って誰かさんが言っていたな。




決して結論に辿り着くことのない自問を続けてしまうのは、秋のせいなんだろうか。








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秋から始まった物語 その26

2019-10-13 00:54:25 | 日記
MAHOGANY RUSH Ⅳ と、これに続く World Anthem、そしてこれらの収録曲を存分に炸裂させた LIVE は、高校時代に FM で盛んに流れていました。

一聴して Jimi Hendrix フォロワーと分かるフレーズ満載であることから、僕の脳内では、かの Robin Trower と同じ一派に分類され、その中でもお気に入りとして認識。


その曲想は、不気味で混沌とした ずんだらロックから正統派ハードロック、ヘビーメタルから当時流行っていた George Benson 風フュージョンにまで及ぶのです。

更に、Johnny B.Good や Purple Haze(これは当然か) も披露された LIVE は、明らかに重ね録りや編集が施されていることはさておき、迫力満点!

しかし、当時の LP レコードは高価で、購入には至りませんでした。


ところが、進学で上京した年の秋、大学生協で 「レコードフェア」 と称し、割引販売が行なわれたことを機に購入を決意。

〝割引〟 と言っても、実は20% OFF なんだけど。
しかしながら当時、決して値引きされることのなかったレコードの20% OFF はセンセーショナルな出来事であり、十分な魅力があったのです。


結果、レコードフェアの開催時期から、これらのアルバムは秋の曲として刷り込まれることとなりました。

中でも、World Anthem の4曲目 In My Ways は晩秋のイメージで、やがて木枯らしへと姿を変えるであろう吹き荒ぶ孤独で陰鬱な風を感じさせます。


絶妙にコーラスがかけられた Frank Marino の SG には適度な色彩感と粘りがあり、その古色蒼然としたフレーズのオンパレードも飽きずに聴くことができるのです。

In My Ways で奏でられるそれは、何ら変哲のないローテクギターであるにも拘らず、Frank Marino のボーカルと見事に融合し、全てが終末へと向かう黄昏時のような独特の魅力を放っています。


フォトは Ⅳ と World Anthem の2枚組 CD。
こんなのが、当時の LP レコード1枚よりも安く買えるとは ・・・ 本当に良い時代になりました。



これらのアルバムを聴いていると、しばしば George Benson の Breezin' がかかる、上京して最初に住んだ下宿の玄関入って右手にあった食堂の書棚の上に置かれたステレオを思い出してしまうのです。

規則に反し、女の子を泊めていたのがバレて転居したけど、オーナー変わらず学生向けの6階建てワンルームマンションに建て替えられ今尚残っているなんて、ちょっと嬉しいじゃないですか ♪








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秋から始まった物語 その25

2019-10-12 01:24:17 | 日記
今回は相当遡って (前回の作品よりは相当新しいけど) 1970年7月にリリースされた 由紀さおり の 〝手紙〟。  僕はまだ小学生でした。

因みに、僕が持っているのは CD ニューベストナウ。  フォトはアナログシングル盤のジャケットです。


透明感溢れ美しく色香を秘めたボーカル、(Am 調なら B♭ を入れることで) 回想を呼び覚ますコード進行。

憂いのあるピアノのアルペジオ、終始テンポを外すシンプルなベースと、同様にリズム怪しく妙に音量豊かで やや耳障りなチェンバロ (クラビネット? 黎明期のシンセサイザー? 12弦エレキ?) のオブリガードが印象的な曲です。

初めて聴いた瞬間から懐かしかったこの曲は、発売月が夏であるにも拘わらず、枯れ葉舞い散る秋の黄昏時のイメージとして認識されました。 


当時は他の家庭同様、ステレオ再生できるオーディオ機器などはなく、唯一あったのは LP レコードを置くと大きくはみ出す紅白ツートンカラーのモノラルポータブルプレーヤー。  しかも真空管!

そのポータブルプレーヤーが導入されるまでは 〝AM モノラル真空管ラジオの PHONO 入力にステレオレコードプレーヤーの Lch だけ接続したオーディオセット〟 が活躍。(ステレオで再生される Rch の楽音は新鮮そのもの(笑))

FM 放送も一般的ではなく、専ら AM の音楽番組を聴いていた僕は、引退しながらも捨てられずにいたそいつを、西の端に立っていた棟の2階に持ち込み、プリメインアンプとして流用していたラジオから流れる音楽を堪能していたのです。


その棟は元々、両親が新婚時代に利用していたもので、その後、若かりし日の叔父が夫婦で宿泊したこともありました。


周波数レンジや歪率に関する知識がない少年の僕は、「でかいスピーカーの方が音がいいだろう」 などと考え、内蔵スピーカーへのコードを切り、以前、有線 (通話料定額制の古式電話) に使用されていたマグネチックスピーカーに繋いだのです。


効率は良いが構造上、コーンが入力信号に対してリニアに動かないため、低音も高音もないカーカーコーコーとした音のマグネチックスピーカーも、ラジオの内蔵スピーカーよりふくよかなトーンで、小学生の僕が音楽を楽しむのには十分でした。

丁度その頃、音楽番組でよく流れていたのがこの曲。
口径に反する小さな後面解放キャビネットが共振して、ボーカルにエコーがかかったようなる現象も面白かったのでしょう。


一方、前年3月にリリースされた 〝夜明けのスキャット〟 は初夏のイメージ。
両曲は季節の違いだけではなく、こちらは 〝手紙〟 とは比べものにならないほど音もバランスも良い。

後年、由紀さおり本人が 「〝夜明けのスキャット〟 が変わった曲だったので、オーソドックスな 〝手紙〟 がヒットしてホッとした」 と話していたとか。


今では父も叔父もいなくなり、〝手紙〟 を聴いた別棟も老朽化で雨漏りが酷かったことから、2年前に傾いた土蔵と一緒に取り壊され駐車スペースに。



2階へと続く狭い階段、小さな廊下、ささやかな床の間、焦げ茶色の木製防犯柵が設けられた東面と南面の窓、そしてその窓から目にした景色 ・・・ そんな記憶も、それほど遠くないある日、建物同様 〝無〟 に帰すのだろう。

それでも僕の脳はこの曲を耳にした瞬間、全てを鮮明に蘇らせるのです。
僕が生きている限り ・・・ 。








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秋から始まった物語 その24

2019-10-10 00:17:42 | 日記
ワルター指揮、コロンビア交響楽団によるドヴォルザーク交響曲第9番。
クラシック好きにとっては、比較的馴染みのあるテイクだろう。


因みに、野原を抜け森を巡り、時折木々の間に顔を出す青空をふと見上げるような情景を想起させるベートーベン交響曲第6番第一楽章のスタンダードは、マゼール指揮、ベルリンフィルだと思っている。

一方、ワルター指揮、コロンビア交響楽団によるベートーベン交響曲第6番では、森は色彩を増し、野草や清流、風や土の香を感じながら巡っているような気分にさせられるのだ。


ドヴォルザーク交響曲第9番のイメージは、空気が冷え澄んでくる秋。  恐らく、ファンの多くが同様に感じているのではないだろうか?

中でも、ミュージックチャイムとして採用される例も多かった第二楽章は、一聴しただけで 〝夕刻〟 〝下校〟 の風景を思い浮かべる方も多いだろう。

大自然の雄大さ、美しさ、鮮烈さ、過酷さ、初めて目にしたものへの驚きや感動、故郷そして遙かな過去への想いなど、様々なシーンが時間軸に鏤められた素晴らしい曲だ。


一方、ご存じの通り、そのニュアンスは指揮者によって大きく変わるし勿論、演奏者によっても変わる。

これに加えて録音環境や録音クオリティ、加えて古い録音はマスターの保存状況にも左右されるというデリケートさ!

だからこそ、自分の好きな演奏に辿り着いた喜びは格別。


この CD を輸入盤コーナーで購入したのは1993年頃だろうか。
モノクロフォトにピンク掛かったオレンジを塗り、爽やかなブルーでアクセントを付けたジャケットも気に入っている。


1959年(!) の録音でありながら音はすこぶる良く、ややタイトながら繊細かつダイナミック。

爽やかでメリハリがあり松脂迸るストリングスも、小気味よくバリバリと唸るトロンボーンも 「丁度いい」 し、妙に遅かったり速かったりがなく、僕にとっては部分部分のペース配分が 「丁度いい」。


因みに、現在の商品はジャケットが異なり、更に、マスターは同一であっても、ややイコライジングが施され、少々ふくよかなトーンへと補正されている。



こいつの第一楽章を、夕焼けを楽しみながら許される最大限度までボリュームを上げて聴いていると、しみじみ 「秋っていいもんだな ♪ 」 と思う。








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秋から始まった物語 その23

2019-10-09 05:39:35 | 日記
天地真理と言えば、恐らく概ね 「あの太ったおばちゃん?」 なんて言うのだろう。
一方、良い意味で 「アップノーズ」 と称された美しく品のある現役時代を知っていても、そのイメージは 〝アイドル歌謡〟 止まりかも知れません。

そんな彼女は、表現力豊かな抜群の歌唱で他を圧倒していました。
加えて、「他に似ている歌手がいない」 「一聴しただけで天地真理だと分かる」 という際立った個性は、世界に通用する資質とも言えるでしょう。


例えば 〝恋は水色〟 ・・・ 和訳した歌詞はともかく、Vicky Leandros や ポールモーリアバージョン と並べ比べても遜色ないクオリティなのです。

そんな彼女の曲で唯一好きな 〝想い出のセレナーデ〟 は1974年9月1日にリリースされました。


最後のベスト10入りとなったこの曲は 「ポールモーリアを意識した」 という意欲作であり、最後の紅白出場曲でもあります。

彼女の曲のバックでしばしば見られる 〝アグレッシヴなベース〟 が存分に発揮されるスタジオ版は(CD でも)ストリングスや、アクセントで入るタンバリンの高音域がフィルターを通したように曇ってしまっている点が唯一惜しい 。。。

  動画1 : 想い出のセレナーデ <スタジオ版>

  動画2 : 想い出のセレナーデ <ライブ版>

  動画3 : 想い出のセレナーデ <紅白ライブ版>
  

とても悲しい曲です。  季節は秋そのもの ・・・ 落ち葉が舞い散る街並み。

メロディは秀逸!  「いそいそと」 という少々古い表現が入った歌詞はメロディと溶け合い、まるで絵本を捲るように次々と情景が現れ、二度と戻れない眩しく幸せな時間を独り想い巡っている姿が目に浮かびます。


丁度モナリザが日本で公開された年で、司会の佐良直美から 「モナリザと言えば微笑み、そして微笑みと言えば天地真理さん」 と紹介された紅白のステージでは、憂いに満ちた表情で歌い上げる姿が印象的。

因みに僕が持っているのは GOLDEN ☆ BEST 。
フォトには彼女らしい PREMIUM BOX のジャケットをあえて。



この頃から、〝白雪姫〟 ともプロモーションされていた彼女の輝くような明るさが消えています。

アイドルが過酷な労働条件を強いられ 「消耗品」 などと呼ばれた時代、既に甲状腺機能障害を発症していて、苦しさを我慢しながらステージに立っていたとしたら?

〝儚い姿を切り取って〟 というタイトルで2011年1月29日にも書いた通り、当時何が起こっていたのか知る由もないけど、イメージチェンジのための演技とは思えない虚ろな表情は、辛い境遇を精一杯訴えていたのかも知れません。


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