大学からの斡旋で下宿も決まり、その日、母に買ってもらった真新しいスーツを着て、駅前のバス乗り場にできた長い行列の最後尾に。 父と並んだ僕の肩を直後の誰かが軽く叩く。 振り向くと女の子とその母親が笑顔で「しつけが・・・」と言う。 上着をたぐるとベントに糸が残存していた。 僕はゆっくり抜き礼をした。 これが大学生活における同期との初コンタクトだった。 但し入学式はこの1時間ほど後なので、正確には大学生活は始まっていない。
生まれて初めての一人暮らし。 その拠点となる下宿のことを1年半ほど前のブログにこう書いた。
東京西部の某ターミナル駅北口を出て右へ。 駅建物とビルの間にある隙間のようなレンガ敷の歩道を抜けたら右折。 そして目前に見える線路沿いの道の左側に存在した。
夕食賄付のその下宿の玄関を入ると右手に食堂、左手に下宿の友人が暮らす部屋、正面には階段。 階段を上がったところにある深緑色の冷たく頑強な廊下の左奥が僕の部屋。
僕の部屋は増設された新館にあり、部屋の前には共用洗濯機、そのすぐ奥には共用トイレ。 ドアを開けると左側がミニキッチン。 7 帖程のちょっと変形がかった部屋へ進むと、左後方に押入れ、があった。
窓は 2 箇所。 東側の窓の下には時折近所の子供達が遊ぶ空地があって、深夜 2 時頃になると、細い通りを挟んだだけの距離にある車両基地から「 ガシャーン ! ガシャーン ! 」と、列車連結組成の金属音が鳴り響いた。
北側の窓からは夕刻になると丸井の赤いネオンサインが見えた。 いかに通学路線が田園地帯を走っていようが、父に買ってもらった marantz の “ SUPERSCOPE ” というステレオラジカセで聴いた、愛知でも NHK でもない FM 局の “ 丸井 music & more 夜と呼ぶには早すぎて ” や “ 成田フライトインフォメーション ” は、そこが都会であることを主張していた。
時には、歩いて 10 分程のダイエーで買った “ キャプテンクック ” という、お世辞にも美味いとは言えない PB のコーヒーを高校時代に演劇部室から拝借したお気に入りのカップに入れ、安く買った黒ノブの映える銀色の電気コンロ、そして小さな手鍋で沸かした湯を注ぎ、これを片手に FM で丸井提供の番組を聴きながら丸井のネオンサインを眺め、“ 丸井純正組み合わせ ” を楽しんでいた。
その北側の窓下はバス車庫で、朝 4 時頃には一斉にエンジンがかけられ、ディーゼル特有のガラガラ音が一帯に轟いた。 連結音もエンジン音も、3 日で慣れちゃったけど。
街中での独り暮らしは刺激的だった。 下宿仲間と “ カレーの〇〇 ” でシュリンプカレーを食べたり、新星堂でレコードを買ったり、先輩と居酒屋 “ 天〇 ” で飲んだり、長〇屋がある石畳の道を歩いたり、先輩の命令で当時はまだ希少だった “ セブンイレブン ” や自販機でビールの買い出しをしたり、某私鉄駅へ続く歩道の途中にある書店でアダルト本を立ち読みしたりといった行為 1 つひとつが楽しかった。
そうそう、深夜にセブンイレブンへ行く途中に通る駅前通りのメガネ店は、ショーウインドウに青白く浮かび上がった、目も胴体もなく妙に首の長いマネキンが結構不気味だったっけ。
火力が貧弱なミニキッチンでは、前述の手鍋でパスタをだましだまし折り曲げながら茹でて、缶入ミートソースをかけて食べたり、生タイプのカップうどんを湯掻いた後の湯切りで力加減を誤りシンクにぶちまけ、しばし呆然となったりと、楽しい “ 料理の真似事 ” をした。
朝は、田舎から送られてきたり自分で買ったりしていたクノールのポタージュカップスープを飲むことが多かった。
唯一、この下宿には共同風呂がなくって、下宿仲間と声を掛け合い、一緒に銭湯へ行った。 近隣には 2 つの銭湯があり、どちらも歩いて 7 分程。 春、夏、秋はいいが、冬は沁みた。 凍える身体をタバコの赤い灯で紛らわしながら歩くと、“ 神田川 ” の歌詞じゃないが、石鹸やシャンプー、リンス、タオルを入れた洗面器がカタカタ鳴った。
斡旋された日の内見。 シャッターが下ろされ光の入らない真っ暗な部屋の灯りを点ける。 僕だけのドア、僕だけのささやかなエントランス、僕だけのミニキッチン、僕だけの窓、僕だけの押入れ、そして僕だけの何もない広々とした空間。 ここから始まる新世界に胸が躍る。 初夏の陽光のような、あの大学生活がスタートした。
かの Jimmy Page に見い出され、いよいよ伝説が幕を開ける。 伝説の名は Led Zeppelin。 昔懐かしい 〝キャンディ キャンディ〟 にでも登場しそうなフォトの彼は Robert Plant 21歳。 あー、また書き始めてしまった ・・・ 。