ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

時の流れに Ⅴ

2016-04-29 09:42:31 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったけど、僕は第一志望の大学に合格した。


大学からの斡旋で下宿も決まり、その日、母に買ってもらった真新しいスーツを着て、駅前のバス乗り場にできた長い行列の最後尾に。 父と並んだ僕の肩を直後の誰かが軽く叩く。 振り向くと女の子とその母親が笑顔で「しつけが・・・」と言う。 上着をたぐるとベントに糸が残存していた。 僕はゆっくり抜き礼をした。 これが大学生活における同期との初コンタクトだった。 但し入学式はこの1時間ほど後なので、正確には大学生活は始まっていない。

生まれて初めての一人暮らし。 その拠点となる下宿のことを1年半ほど前のブログにこう書いた。


東京西部の某ターミナル駅北口を出て右へ。 駅建物とビルの間にある隙間のようなレンガ敷の歩道を抜けたら右折。 そして目前に見える線路沿いの道の左側に存在した。

夕食賄付のその下宿の玄関を入ると右手に食堂、左手に下宿の友人が暮らす部屋、正面には階段。 階段を上がったところにある深緑色の冷たく頑強な廊下の左奥が僕の部屋。

僕の部屋は増設された新館にあり、部屋の前には共用洗濯機、そのすぐ奥には共用トイレ。 ドアを開けると左側がミニキッチン。 7 帖程のちょっと変形がかった部屋へ進むと、左後方に押入れ、があった。

窓は 2 箇所。 東側の窓の下には時折近所の子供達が遊ぶ空地があって、深夜 2 時頃になると、細い通りを挟んだだけの距離にある車両基地から「 ガシャーン ! ガシャーン ! 」と、列車連結組成の金属音が鳴り響いた。

北側の窓からは夕刻になると丸井の赤いネオンサインが見えた。 いかに通学路線が田園地帯を走っていようが、父に買ってもらった marantz の “ SUPERSCOPE ” というステレオラジカセで聴いた、愛知でも NHK でもない FM 局の “ 丸井 music & more 夜と呼ぶには早すぎて ” や “ 成田フライトインフォメーション ” は、そこが都会であることを主張していた。

時には、歩いて 10 分程のダイエーで買った “ キャプテンクック ” という、お世辞にも美味いとは言えない PB のコーヒーを高校時代に演劇部室から拝借したお気に入りのカップに入れ、安く買った黒ノブの映える銀色の電気コンロ、そして小さな手鍋で沸かした湯を注ぎ、これを片手に FM で丸井提供の番組を聴きながら丸井のネオンサインを眺め、“ 丸井純正組み合わせ ” を楽しんでいた。

その北側の窓下はバス車庫で、朝 4 時頃には一斉にエンジンがかけられ、ディーゼル特有のガラガラ音が一帯に轟いた。 連結音もエンジン音も、3 日で慣れちゃったけど。

街中での独り暮らしは刺激的だった。 下宿仲間と “ カレーの〇〇 ” でシュリンプカレーを食べたり、新星堂でレコードを買ったり、先輩と居酒屋 “ 天〇 ” で飲んだり、長〇屋がある石畳の道を歩いたり、先輩の命令で当時はまだ希少だった “ セブンイレブン ” や自販機でビールの買い出しをしたり、某私鉄駅へ続く歩道の途中にある書店でアダルト本を立ち読みしたりといった行為 1 つひとつが楽しかった。

そうそう、深夜にセブンイレブンへ行く途中に通る駅前通りのメガネ店は、ショーウインドウに青白く浮かび上がった、目も胴体もなく妙に首の長いマネキンが結構不気味だったっけ。

火力が貧弱なミニキッチンでは、前述の手鍋でパスタをだましだまし折り曲げながら茹でて、缶入ミートソースをかけて食べたり、生タイプのカップうどんを湯掻いた後の湯切りで力加減を誤りシンクにぶちまけ、しばし呆然となったりと、楽しい “ 料理の真似事 ” をした。

朝は、田舎から送られてきたり自分で買ったりしていたクノールのポタージュカップスープを飲むことが多かった。

唯一、この下宿には共同風呂がなくって、下宿仲間と声を掛け合い、一緒に銭湯へ行った。 近隣には 2 つの銭湯があり、どちらも歩いて 7 分程。 春、夏、秋はいいが、冬は沁みた。 凍える身体をタバコの赤い灯で紛らわしながら歩くと、“ 神田川 ” の歌詞じゃないが、石鹸やシャンプー、リンス、タオルを入れた洗面器がカタカタ鳴った。


斡旋された日の内見。 シャッターが下ろされ光の入らない真っ暗な部屋の灯りを点ける。 僕だけのドア、僕だけのささやかなエントランス、僕だけのミニキッチン、僕だけの窓、僕だけの押入れ、そして僕だけの何もない広々とした空間。 ここから始まる新世界に胸が躍る。 初夏の陽光のような、あの大学生活がスタートした。




かの Jimmy Page に見い出され、いよいよ伝説が幕を開ける。 伝説の名は Led Zeppelin。 昔懐かしい 〝キャンディ キャンディ〟 にでも登場しそうなフォトの彼は Robert Plant 21歳。 あー、また書き始めてしまった ・・・ 。







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時の流れに Ⅳ

2016-04-23 12:26:59 | 日記

勿論こんなかっこ良くなかったし、16歳で家を出てバンドを転々としながら放浪の旅に ・・・ とはいかなかったけど、僕は第一志望の高校に合格した。


穏やかな日に指定の販売所で教科書一式を買い、兄が大学進学で一人暮らしを始めると、ステレオを一人占めした。 オレンジ色のスタイラスが奏でる Tubular Bells は柔らかく骨太で、曲の持つ独特の閉塞感、孤独感を覚えながら春の陽が暖かい部屋でのんびりできた。

兄の勉強部屋だった2階の3帖板間へ持ち込んだコンクリートブロックにスピーカーを載せ、雰囲気満点となったささやかなオーディオルームに籠り、父がなぜか「寝酒にいいらしい」と持ってきた〝赤玉ハニーワイン(一升瓶入り!)〟を飲みながら、音楽に酔いしれた。


入学式当日には同級生に素敵な女の子がいることを知る。 この子、実は剣道の有段者で結構手強かった。 1年次の教室は1階。 窓から顔を出すと右手に渡り廊下。 その傍では栗の花が独特の臭気を発し、渡り廊下のこちら側にはリンゴジュースの自動販売機があった。 そんな教室で人生の恩師に出会う。

小~中と、当時は暴力教師がいて、「口のききかたが ・・・」などと殴られていたので、目上に対する言葉遣いは妙に丁寧だった。 そんなある日、窓にもたれ外を眺めていると、担任が横で同じポーズをとり話しかけてきた。

思わず飼い馴らされた口調で応じると優しい笑顔を向け、「〇〇(←僕の名前)~、なんでそんなかしこまってんのー?」と素っ頓狂な声で言われ、驚くと同時に、教師への憎しみで塗り固めた壁が崩れた。

その教師の担当は英語。 お世辞にも発音が上手いとは言えなかったが、授業が面白くて飽きなかった。 僕はすぐに打ち解け、時には家まで車で送ってもらったり、「先生、これがこれから世界の主流になる音楽です」などと Rainbow On Stage の収録カセットを渡したり、先生宅にお邪魔して焼肉をご馳走になったりしていた。

その先生は生徒と禁断の恋に落ち結婚。 先生の奥様と言うより、部活の先輩のような姿の若く綺麗な女性を目前に緊張気味の焼肉も、「〇〇(←僕の名前)~、おまえ箸の使い方下手くそだなー」との先生の叱咤激励を受け、美味さにも負け何度もご飯をお替わりした。


・・・・・・・ 高校卒業から20年以上経ったある日、深夜にトイレへ入ると足音が近づき扉を隔てた直近で消えた。 胸騒ぎがしてPCを起動し、溜めていたメールの中に兄からの知らせを見つけることができた。

翌日は仕事を途中放棄し早めに切り上げて故郷へと駆けつけ、通夜に参列した。 振る舞いがなかったのか、ギリギリの時刻は人気もまばら。 帰途では車窓の向こうの灯りが砕けていた。 安〇先生 ・・・ 返せぬ恩義は永遠のものになった ・・・・・・・


本人ですら忘れつつあった一連の想い出を、あのカセットを車でよく聴いていたことを、癌で亡くなる間際まで嬉しそうに話していたと、当時病棟薬剤師をしていた兄から聞いた。 教師という仕事がいかに尊く、いかに有難い存在かを思い知った。


掛け替えのないひととの出会いをプレゼントしてくれた高校入学 ・・・ 坊主頭が校則だった中学時代の余波を払拭するため、僕は髪を伸ばし始めた。
 

自由な気風の高校だった。 他校で鉄パイプの櫓が崩れ怪我人が出たという前年の事故を受け、入学した年には「イベントにおけるデコレーションは自粛」との通達が県から出されていた。 ところがある日の放課後、突然生徒会長の声が校内放送から鳴り渡る。 「全校生徒はグラウンドに集合するように」と。 その日は体育祭の準備で大勢残っていた。

面白半分で校庭へ出ると生徒会長が真剣な面持で朝礼台に上がり「自粛とはけしからん。 権利を奪う横暴を許してはならない。 責任を持って賛同する者は挙手を」と発声。 全校の腕は垂直に立ち並び、皆大きな声を上げ、満場一致となった。 間近で毅然と静視していた白髪の校長はこれを受諾。 僕らは高揚し、誰にも誇れる学校であることを確信した。

即刻、保管庫を堂々と開錠して資材を運び出し、慎重に組み立てを開始した。 今思えば、校長の重い覚悟が身に染みる。 僕らは全く子供だが、子供なりに、「自由」「権利」「責任」などという慣れない言葉を心に刻んでいた。 この出来事がなければ軽薄な快楽主義者になっていたかも知れない。


時折、自宅最寄駅始発を利用した。 この電車 ・・・ 自宅最寄駅のある路線と高校最寄駅のある路線との股間に位置する乗換駅を経由していたのでは遅刻必至。 ところが、途中の 〇〇〇〇〇駅 から10分ほどの走り歩きで高校最寄の 〇〇〇〇駅 へ、そしてその先にある高校の始業時刻へとギリギリ間に合った。

夜更かしと、その電車をよく利用していた ちょっと可愛い先輩に会いたい想いが重なり、10分ほどの早朝ランニングは何度も実施された。


そうそう、バンドを結成したくて同級に声をかけまくった。 幸い 家〇くんはドラムが上手く、続いて進学校なのに喧嘩が強く校外でも怖がられていたリーゼントボーイの 結〇くんがボーカルを買って出てくれた。 あとはギターだ ・・・ 当時の僕はベースを志望するもギターは上手い人材がおらず、やむなくベースに 家〇くんの友人だった 榊〇くんを迎え入れ、僕が担当することになった。

僕が友人から借りたギターを弾くと、皆驚愕した。 小学時代から弾いているから歴は意外と長い。 僕と 家〇くんは、ほどなく他校でも知られる存在になっていった。


ところが、肝心のギターがない。 そう言えば中学への通学路にあるあの家からギターの音が聞こえたな ・・・ そんないい加減過ぎる記憶を頼りにその家を尋ねると、迎えた丸顔浅黒で太目(失礼!)のご婦人が、「あいにく息子(持ち主)は大学進学で上京して居ませんが大丈夫でしょう」と、奇跡の快諾。

それはブラックのストラト。 メーカーは Gibbon 。 僕はこれに、親戚から貰ったオモチャのギターに付いていた細長アームをねじ込み、あちこちのスタジオで音合わせをし、その秋の文化祭でステージに立った。

その後も人類愛的親切心に支えられ、ギターは幾度となく両家を往復したが、進級と同時に様々な方策により念願のギターを手に入れる。

Fernandes のハンドメイドとかで、取説には Burny Custom との文字が、トレードマークらしいウサギのイラストとともに書かれていた。 定価は7万5千円で、通学路線の乗換駅にある楽器店経営者の 徳〇さんに世話してもらったものだ。 木目が綺麗で格好いいナチュラルでメイプルネック ♪

入荷の知らせを受けて取りに行った際、レジカウンターの向かって左奥に立て掛けられていた思っていたより少し小さく見える商品を店員が目の前に持ってくる様子をワクワクしながら見つめる僕 ・・・ 今も鮮明に覚えている。


付属のハードケースはこのブログのプロフィールフォトにも写り込んでいる。 スリムで恰好良く、今も Fender USA のうち1本を入れている。

正に「弾きまくった」という表現がピッタリくる。 商家で両親の干渉が少なく、土曜の早朝に弾き始め、時折食べてトイレに行ってまた弾いて、気が付くと日曜の夕暮れ時に至っていることが何度もあった。


2年次の担任は 永〇先生。 大嫌いな地理を担当していたこと、理屈っぽくて陰気臭かったことから、出来る限り関わらず避けるようにしていた。

僕は音響工学を志していたが、そいつは家まで押しかけ「オーディオは所詮ブーム。 何時廃れるか分らんから薬剤師になった方がいい」と、両親に吹き込んでしまったため、薬学部を目指すハメに。

その先生とは最後まで馴染めなかったが、見識は見事的中! 今は感謝しつつ申し訳なく思っている。


この頃、ボーカルは上手くて声が良く声量のある 菊〇くんに、ベースは当時の音源を今聴いてもプロに近いレベルの 神〇くん(何と愛用は Gibson の Thunderbird ← Greco や Gibbon じゃないよ(笑))にメンバーチェンジ。


当時はギター以外のことには疎く、ディストーションはアンプの入力ボリューム(GAIN)で得るものだと思っていたが、中には〝どうにもこうにも歪まない〟アンプもあった。

スタジオで YAMAHA のスタックに直結して〝どうにもこうにも歪まない〟音で弾いている僕を不思議そうな顔で見ていた他校同学年でリーゼント強面のバンド仲間に「〇〇さん(←僕のことを尊敬してくれていたので「さん付け」だった)はエフェクター使わないの?」と訊かれ、「それって何?」と訊き返した僕は、このとき初めてそんなものの存在を知った(笑)

と言うことで、間もなくドイツの戦車のようなダークグリーンの Maxon D&S と、その数ヶ月後にはピンクがかったブライトレッドの Maxon Compandor を入手し、その切り替えや ON/OFF 、Compandor 及びギターのボリューム調整の組み合わせにより、ディストーション、くすんだクランチ、通常のクランチ、ず太いクリーン、通常のクリーン等々、音にバリエーションを持たせることができるようになった。


こいつを武器に、エリアや楽器メーカー主催のコンサートやイベントに出まくった。

夏には、神〇くん経由で依頼された地元大型スーパーの新店オープン記念イベントにも出演し、事前に経営側から出されたリクエストに応え〝南こうせつとかぐや姫〟や、リリースされたばかりの〝南こうせつ〟ソロアルバムの曲を〝南こうせつの熱狂的ファンで歌が上手く声がそっくりな〟他校生徒を急遽ボーカルに起用して演奏した(笑)

僕の希望を快諾し、興味津々で そのスーパーの業務用冷蔵室に入らせてもらったが、恐ろしく寒くてすぐに外へ出たことも懐かしい。 出演料が貰える嬉しさより、練習中に何本も差し入れてもらった紙パックのサンキストレモンやサンキストオレンジの冷たくて酸っぱくて爽やかな美味しさが際だった夏の日の想い出。

別バンドの大学生や社会人、更にはサングラスの危なそうな男などから「メンバーにならないか?」と誘われたものの、そこまでの勇気はなかった。

まだオリジナル曲がなかった僕らは、その年の文化祭で 世良公則 & ツイスト と Char の曲を披露した。 体育館の客席には僕らの噂を聞いた他校生徒も大勢駆けつけ寿司詰め状態。 拍手と歓声が鳴り響き、これに応え、狂ったようなアクションを繰り返し、膝を床に付け、弦を舞台の縁に擦り付けた。 ステージを片付けてギターケースを持つ僕の後ろには、何やら怪しげな女子の行列ができていた。


その後、校内の武道場等で何度かミニコンサートを行うも、いよいよ大学受験準備に。 授業では当時まだ読み取り精度が低かったマークシートの練習をさせられた。 そう、僕らは栄えある第1回共通一次(現在のセンター試験)の実験台になった世代。 もう歳バレちゃったね。


英語が恐ろしく苦手で、ヘタをすると偏差値40を切った。 逆に化学は得意で、県内でトップ10に入ることもあった。 数学もまーいける。 う~ん、英語は? そうだ、歌詞を訳そう! ・・・ そんな我流の勉強法で英語の偏差値が50を超えると、受験科目の総合偏差値は劇的に上昇。 こりゃいいぞ!!

地元志向が強いエリアだったせいか進路指導は東京の大学事情に疎く、予備校の模試で私立大を国立大と間違えたり、女子大に願書を送って注意書の紙切れが入った返信用封筒が二つ折りのまま戻ってきたり、学部一括入試なのに学科毎の合格率が出て判断を誤らせたり、と散々だった。


最終年次の担任は生物担当の H(苗字が一文字の)先生。 妙に冷静で面倒見がよく、ひょうきんな方で、よく準備室を訪ねては話を聞いてもらった。 その後、姪が入学した高校のパンフレットを見せられると、忘れもしない〝怪獣ミニラ〟の如くの御顔が校長として載っているのを目撃。 懐かしさを噛み締めたこのサプライズさえ、今や懐かしい想い出に。


受験遠征では、幼少期から僕を可愛がってくれていた親戚宅(東京都心駅前一等地に建つエレベーターが設置された親戚所有のビル!)最上階の社員寮を拠点とした。

未明の地元駅の待合に置かれた円柱形の石油ストーブで暖をとったこと、親戚宅の朝食に並んだ即席みそ汁、都営地下鉄の車内 ・・・ 受験前夜にはジャズ命の友人に試聴を強制されたカセットで JIM HALL の Concierto de Aranjuez を聴き、社員寮窓下の大通りを流れる車のライトを眺めながら、束の間の都会生活を満喫した。


僕はマークシートが得意だった。 いよいよ本試験では地元の難関公立大薬学部にも合格可能な点数を稼ぎ出したことから、〝怪獣ミニラ〟が志望変更を薦めてきたが、東京への憧れが強くて辞退。 合格した第一志望の薬科大への入学手続きを済ませた。

ある日職員室へ呼び出しをくらい仕方なく入室すると、僕の氏名と「〇〇薬科大学合格」の文字が毛筆で、他より少し大きなサイズの模造紙に書かれ、天井から吊り下げられていた。

合格後、あの〝Ommadawn〟へと辿り着いた某地方都市の地下街を歩いていると、何とBGMで Incantations が流れている。 「凄い街だっ!」と素直に感動していた当時の僕は、情けないほど純朴なヤツだった。


母親に連れられベージュがかった淡いグレーのスーツと革靴を買ってもらい、布団袋を一杯に膨らませて荷造りも完了。 本格的な飲酒も喫煙も、不器用でほろ苦い初体験も、卒業間際に起きた重い出来事も味わった高校生活は終わり、海岸沿いの田舎町をあとにした。

上京時の両親の気持ちはどうだったか? 目前ばかり見ていた若い頃には無縁だったが、何とかひとの親の端くれになることが出来、同じ瞬間を経てようやくその有難味を知った。




フォトの彼は19歳。 伝説へのカウントダウンは既に始まっている。







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時の流れに Ⅲ

2016-04-16 07:39:25 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったけど、僕が高校時代まで過ごした海岸沿いの田舎町では中学入学を控えた春休みにスポーツ自転車を購入するという風習があり、誰が仕組んだのかも分からないタイマーのスイッチが入るように、僕も例に漏れず自動的に入手した。


一点おかしかったのは、自転車店で当時流行の〝 方向指示器の付いた高級車 〟を眺めながら「いいなー」などと呟いただけで、その過剰装備車が誤って納品されたこと。 両親に咎められたが身に覚えがなく、事情を話して一式を撤去してもらい一件落着。

また、中学の校則でドロップハンドルは禁止されていたため、販売店では せっかくの格好いいセミドロップハンドルを上下逆に付け直していて、この部分だけはカタログと異なる少々滑稽な姿に変わり果てていた。 だがしかし、皆同様の改造車に乗っていたため、違和感は ほどなく消え失せることとなった。

室内に置いた新品の自転車には5段変速ギアのメンテナンスオイルが試験管様のビニールチューブに封入された形で付属。 そいつはワイン色をしていて、まだ棘の生えた真新しい臭いのするタイヤとともに、ちょっぴり大人になったような気分にさせてくれた。


入学と同時に吹奏楽部に入部。 理由は、ガットギターが6本置かれた音楽準備室の鍵が貸与されるため。 ユーフォニウムからフレンチホルン ・・・ 僕の意思とは無関係にパートを任されたが、その代わりにギターを思う存分弾くことができた。

夕立の中、コートで男子バレー部が滑り込みの練習をしているのを窓から見下ろしながら、雷鳴と一緒に弾きかき鳴らすのはそれなりに痛快だった。 時代はオカルトブームで Mike Oldfield を知ったのもこの頃。


近所の〝〇銀電化センター(田舎の小さな電気店)〟で父に買ってもらった SONY 製の FM/AMラジオ〝Action〟で深夜放送の世界に目覚め、未明にカップ焼きそばを食べたり、友人達と浜辺をぶらついたり、学校をサボって遊び回ったり、父親が税理士で事務所を運営している友人宅から調達したジョニ黒ミニボトルの詰め合わせを別の友人宅に集まって飲み干したり、電車で夜遊びに遠征し朝帰りになったりと、生活が乱れ出した僕らは兄の世代と比較され、地元で後ろ指をさされるようになった。

中学2年のとき我が家ではステレオを購入。 レシーバー中心に構成された Technics 純正コンポーネントから余裕をもってゆったりと発する細やかで太く厚く、ときに床を揺るがす音は刺激的で、夕刻から FM、深夜は AM と、想像を掻き立てる音の世界へ誘われ、僕を TV の世界から遠ざけていった。

同時期に、ステレオを購入した〝〇カ〇ン電化センター(田舎の小さな電気店)〟の若旦那に突然車に乗せられ、トラックの荷台を背中合わせにしたステージに飛入り、ギター1本で吉田拓郎の 〝 新しい朝 〟 を歌ったことが、僕のバンド活動の始まりだった。


たまに京都から750ccのバイクでやって来る従兄弟が置いていった見るからにハンドメイドの真空管アンプに、ラジオの MPXOUT 端子を繋ぐと、思いのほか澄んだ良い音がした。

薄い低音を補うために自作のスピーカーを窓際の角の天井ギリギリの高さに吊っていたが、ある夏の日、遊びに行こうとしたら そこから流れてきた曲

… おいらが贈った薔薇は …
… 港町にお似合いだよ、たった …
… 一輪挿しで色褪せる悲しい恋の血の薔薇だもの …

思わず足が止まる。 最後まで黙って聞き入ると、DJ が歌手と曲名を紹介した。 その肉声は、いかに背伸びをしようとも届くことのない大人の世界。 だけど切なく悲しい唄だった。


母が焼豚やマルシンハンバーグなんかをメインに詰め込み、概ね付け合わせの即席パスタを添えた弁当が狂おしいほどに美味く、ガツガツ食べた。 食欲旺盛だったんだろう。

Pink Floydの Wish You Were Here、吉田拓郎さんの 伽草子、Deep Purpleの Shades Of Deep Purple、The Book Of Taliesyn、Fireball、Led Zeppelinの BBC Sessions 等々、様々なアルバムを聴きまくった。 そして高校受験のときを迎える。


そんなある日、某 FM局が放送開始前に流していた曲に一目(耳?)惚れをした。 それは朝もやがかかった都会の風景から始まり、徐々に時代を退行 ・・・ エンディングでは何かに背を向けて懸命に逃げているような激しいパートを経て、原始時代を彷彿とさせるアフリカンドラムで幕を閉じる。

その試験放送は何日も続き、我慢できなくなった僕は、自宅最寄駅から電車で40分程の街にある、某メーカー経営の〝ビル一棟全てがレコード&楽器売り場〟という超大型店舗のギター売り場で男性店員を捉まえ、アドリブで弾いて聴かせた。 すると笑顔で曲名を教えてくれたのだ。 その店員もファンだったのかな?

その曲名は Mike Oldfield の〝 Ommadawn 〟。 今なお週に1回は聴いている程、この世で一番好きなアルバムとの運命の出会いを果たすこととなった。 勿論なけなしの小遣いで即購入し、ワクワクしながら家路に就いた。


高校受験のための進路指導では、地元にできた新設校への強引な誘導が盛んだったが、僕は兄と同じ歴史ある上位校を選択。

上位校は成績から見て安全圏だったのに、担任からは「オマエよりできる〇〇(←友人の名前)も〇〇〇(←新設校)を受けるんだぞ」などと嫌みを言われるし、以前から時々自覚していた偏頭痛が悪化して一時的に視力を消失してしまう症状(高校時代も時々発症して駅のベンチから動けなくなったりと、僕を困らせた)も出るようになるしで意気消沈し自信がなくなって、一旦、誘導先とは異なるもう1つの新設校へ志願変更をしたが、改めて第一志望校へと再変更し、何とか入学することができた。

因みに現在、この新設校は2校とも他校へ統合され廃校となっている。 一方、僕が選んだ上位校は当時と同じ偏差値ランクを保っている。 強引な誘導に負けて母校を失うようなことにならず、本当に良かったと思う。




フォトも段々と大人の階段を上っている。 少しずつ、あの雄姿が重なるようになってきた。


そうそう、先週は知り合いの結婚式で名古屋の徳川園へ。 庭園も人口滝もスタッフマナーもなかなかだったが、テーブル毎の撮影をする際にカメラマンが断りもなく客席を機材置きとしてしまうという粗野で劣悪な光景を目にしている。

実は、以前にも名古屋が地元という部下の結婚式で訪れており、その際、料理が綺麗に並べられた皿の中に小さな籠で蓋をした一品があったのだが、この籠を開けると中から小バエが出てきた、というお粗末もあった。

所詮二流のくせに由緒を悪用して一流ぶるなんて滑稽だ(笑)







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時の流れに Ⅱ

2016-04-08 21:32:49 | 日記
勿論こんな可愛い子じゃなかったけど、幼稚園では ・・・・・

ヘマをしては〇頭〇子ちゃんに 「そんなことしちゃだめでしょ」 と諭されたり
ある日通路に落ちていたボタンを届けたら実は自分のだったり
昼食で肉の香りの濃いラーメンが出されたり
粘土細工がくそ面倒で工作板の上に原形のまま置いて「島!」と言い逃れたり
部屋一杯に敷いた布団にタオルケットを掛け、雑魚寝形式で昼寝をしたり
金属の水道管に穴が開けられただけの水栓で手を洗ったり
夏になると砂を除去して水を張った窓外の庇の柱を挟む形で2つずつ、計6箇所造作された足浴場でバチャバチャと涼んだり
登園したら玄関に誰かがお漏らししたらしく灰が被せられていて、思わず「汚ねー!」と大きな声を出したり
象の滑り台やジャングルジムや砂場やブランコで遊んだり
おやつの時間に目の前で「カランカラン」と真鍮製のボールに取り分けられたせんべいとピンク色の肝油を食べたり
屋内運動場にあった漕ぐだけで進む遊具に乗ったり
誕生月に小さな箱に入ったバタークリームにアラザンを鏤めたケーキを貰ったり
松葉ボタンの葉に松葉を刺して「バナナ!」などと喜んだり
貼り絵が苦手で手抜きして提出して「〇〇くんの貼り絵はいつも寂しいね・・・ 」などと常評されたり
いたずらして Y先生に「(鬼がいるという噂の)倉庫に入れちゃうぞ」と脅されたり

・・・・・ そんなことをしていた僕も、いよいよ小学校入学のときを迎える。


入学式は覚えてないけど、その後の教室での顔合わせで隣が〇内〇子ちゃんだったことや通学団会があったことは覚えてる。

学校に隣接する小川にボンドG17を落下拡散させたり、授業そっちのけで体育館のふちっこで遊んだり、給食の一部を運び忘れたり、初恋の先輩だった西〇久〇子ちゃんがいる教室の廊下で騒いだり、宮〇恵〇子ちゃんから手渡しされた初めてのバレンタインチョコに当惑したり、校内に入ってきた野犬にウキウキしたりと、結構楽しい小学生時代だったんだろう。

この頃から常態的な耳鳴りや飛蚊症を自覚しているが、「皆同じなんだろう」と思って気にもしなかった。 そんな僕が「皆同じ」ではないことを知ったのは相当後のこと。




さてさて、今回のフォトは〝イケメンは子供の頃からその片鱗をうかがわせる〟という真実を物語っているんだろう、恐らく。


ところで明後日は知り合いの結婚式。 明日は現地ホテルに Sくん、Mくんと一緒に前泊するけど、Mくんは仕事で遅くなるそうな。 できれば3人揃って飲みたいな。







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時の流れに Ⅰ

2016-04-02 21:39:04 | 日記
勿論こんな可愛い子じゃなかったけど、父方の親戚に好かれていて東京に連れて行かれることが多かった。


一方、母方の親戚での評判は今ひとつ。 「何を考えているのか分らん変な子」と言われていたそうな。 僕自身は伊勢も嫌いじゃなかったけどね。

何だか妙なところにホクロがあり、風呂上がりなどに祖母が時々「ノミ?」と見誤り反射的につねってしまって、その度に泣いたとか(笑)




フォトの子が後に世界中を席巻することになるなどということは、誰も思わなかっただろう。







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