ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

現実逃避できないひとたち

2011-03-28 00:54:06 | 日記

小学6年生のとき、友人のM君の部屋でK君達(あとは忘れた)とギターを弾いていると、M君の父親に怒られた。 「お前ら才能もないのに勉強しないで楽器弾いて・・・」等々。 午後7時頃だったか、 既に暗かったしね。  M君はその後、 「あの日は楽しかった」と言ってたけど、ダメ人間予備軍みたいに言われてちょっとショックだった。 

そんな僕も気が付けば大学生になって一人暮らし。  今思うと、 現実逃避も十分可能な環境だったけど、目の前で起こっていること、目の前にいるひとが好きで、相当嫌なことがあっても、相当な劣等感を味わっても、日々現実に身を置いていた。 まー、現実とやらが好きだったのかも知れない。

今はどうだろう。 ネットが生活に欠かせないものとなり、そこでは様々な形で自分を表現することができる。

生活力の源になるのは知識だったり才能だったりコンピテンシーだったりする。 この内どれかがあって、何とか稼げる場を確保できたひとは幸せ ・・・ いやいや、今や入社後も厳しい競争が待っていて、成果を出せないひとは満足な給与が貰えなかったり、やんわりと退職勧奨されたり、そうでなくても後輩からもバカにされたりする。 公務員は別かも知れないけど。

じゃ、元々そのいずれも持たないひとがネットにハマったらどうだろう。 普通は現実とネットとのバランスをとりつつ上手くやっているが、もしも生活力の源になるものを得ようとせず、ネットの中に生活シーンの多くを埋没させてしまったら? この段階で現実逃避が成立する。

社交性のあるひとが、ネットで交流の輪を拡大する。 こういったひとのサイトへ書き込みをするひとは、友人であり仲間だ。 一方、ネットへの書き込みに奇妙かつ重篤な思いを向けているひと達もいる。

かつて人事部時代、面接に来た学生の履歴書には性格の長所として「友人が多い」と書かれていた。 エントリーシートレベルではなかなか面白そうな印象だったけど、目前にいる等身大の彼は思考が稚拙で、現実における交友について何一つ話せない。 案の定、友人とはネットの書き込みのことだった。 訊けば、何十社も受けていて全て不合格だと言う。 残念だけど、僕も不合格にした。

ネットで知り合った  “ 優しい ”  男性に殺される女性もいる。  ひとは、目前にし、直に接してしか判断できないものなんだけど、当たり前のことが理解できなくなる程神経が麻痺してしまうところがネットの闇なんだろう。

被災地は瓦礫の山。 引越しを何度も経験した僕でも、目の前に乱雑に置かれた本や雑貨を片付けるのも大変だ。 昨日TVに映ったひとは、大震災当日に新築一戸建てを購入していた。 現実逃避もしたくなるだろうが、今、皆が辛い現実と真正面から向き合っている。

何だか分からないけど、「頑張れ日本!」と言いたい。

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先日、子会社へ

2011-03-27 00:40:26 | 日記

行ってきました。 最寄の佐〇駅に到達する路線がほとんど動いていないので、その2駅前の〇手駅で待ち合わせることに。

予定の1時間ほど前に到着し、東口を出て左手の松屋で朝セットを食べていると、強い揺れを感じた。 震度は5弱。 僕もカウンター内の店員も特に慌てない。 11日の記憶の影響だろう。 「慣れっこになってる自分が怖いね。いざ激震が来たら、俺達絶対逃げ遅れるよな」などと店員に話しかけ、お互いに大笑い。 

食事の途中でU本部長から電話があり、 松屋にいることを伝える。  食べ終えて店を出ると、 暦日に反する寒風の中、 U本部長が立っていた。  コーヒーに誘って駅に戻るとM部長も到着していた。

駅改札左側の喫茶店へ入り、しばし談笑。 U本部長は地震に気付かなかったと言う。 こりゃ重症だ。(笑) 待ち合わせの5分前になり、駅前ロータリーへ向かう。 ほどなくH社長とM専務が車で迎えに来てくれた。

「社員は被爆を意識していて、20年後には何らかの症状が出るでしょう」などと話をするH社長は、断水の中工夫をしながら営業を続けた功労者だ。 社屋に到着し、会議開始。

まずは2月単月の業績と今期予測が報告される。 その間、絶えず響く振動。 「機器か何かの振動ですか?」と訊くと「地震です」とのこと。 被災地に近いこのエリアでは始終揺れているという。 途中、いよいよ横揺れがあった。

報告も審議も終わり、昼食をとりに別事業所へ。 「震災直後に送っていただいた野菜やカレールー、ミネラルウォーターは本当に有難かった」などと感謝されつつ、豪華な食事をいただく。 そして食事を終え、2月に新設された事業所へと向かった。 フォトはその際に撮ったもの。

5月人形が並ぶ店は端がつぶれ、無残な姿になっている。 経営者であるご主人は亡くなったそうだ。  屋根をビニールシートで覆った家屋が目立つ。 修理は2ヶ月待ちとのこと。

H社長とM専務が、被爆を意識する社員の不安を和らげるためガイガーカウンターを購入しようと探したところ、秋葉原にもなかったそうだ。 ネットも品切れ。 頑張っている子会社メンバーのため、関西の関連会社を通じ調達することを約束した。

S室長、W部長は医師団と共に被災中心地へ行き、3日間支援活動を行った。 出発日の朝には元気なメールが入ったが、2日目から途絶えている。 明日は現地の生々しい話を聞くことができるだろう。

被災地および周辺地区と東京とは相当な温度差がある。

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15日の朝

2011-03-21 08:21:33 | 日記

Iphone やベッドサイドの目覚ましのお世話になることもなく、5時5分の揺れで目が覚めた。  早朝の景色は何事もなかったかのように静かだ。 シャワーを浴び、コーヒーを飲んでいると、通勤に必要な電車が本数制限付きで運転を再開したとのTV報道があった。  N本部長から、「これから出社します」というメールが届き、 僕も社長にメールを入れ、オフィスへ向かった。

デスクにつき仕事を始める。 気が付くと11時前。 例の合同ミーティングに向かう。 この頃になると、情報収集が進んでいなかったグループ会社も自らの詳細を把握していた。 既に定例となった報告を行い解散となる。 デスクに戻るとS次長が笑顔でやってきて、今日から3日間、新〇〇国〇ホテルを押さえていると言う。 僕は「電車が運転再開したから大丈夫」と伝えた。

17時には最後の合同ミーティングが行われたけど、社長と「サボっちゃおうか」と言っていた程既に形骸化していて正直ウザかった。 現場との一体感がなく、理屈っぽく、どうでも良い枝葉ばかりに拘り、スピードを欠くグループ会社の言動に嫌気がさしていた。

この日は19時過ぎに仕事を切り上げ、ホームに着いたのは19時15分。

オフィス最寄駅のホームはひとで溢れていて、 しかも運転は20~30分間隔。  寒い中震えていると電車がやってきた。 気がつくと各ドアに1人ずつ駅員が配置。 長いシート前に立つひとが窓ガラスに手をつく程混んでいるものの、降りるひとが結構多かったため、4列に並んだうち半分が収まった。 「まー次だろう」と思いだましだまし待っていると2本目がやってきた。

降りるひとはほとんどなく、7、8人しか乗れない。 この時点で賢明な判断を下した大勢のひとが地下鉄の方に移動。 僕のポジションは前から2人目へ急速前進。 4列に並んでいるので、8人目には入っている。 こうなりゃ意地でも乗ってやる。 いよいよ3本目がやってきた。

ところが降りたのは3人だけ。 最前列2人が無理やり身体を押し込むと、無情にも発車した。 次の電車に乗っても、この先乗降で遅延するだろうし、車内はもみくちゃだし、僕は諦めた。 時刻は20時35分。 結局僕は寒いホーム上、1時間20分間ただただ立っていたことになる。

ホーム反対側へ移動し、同じ路線に乗る。 逆方向は空いている。 次の駅で降り、某電鉄線へ乗り換える。 こちらも空いていて座ることができた。 そして更に某駅で某線に乗り換えた。 本数が少なく10分程待ったけど馴染みのある混み方で、暖かい車内に何となく安心する。

そして稲〇〇駅で降り、某電鉄へと続く道にある中華料理屋で遅い夕食をとった。 稲〇〇駅は旧々オフィス時代に乗り換えで使った駅。 この中華料理屋も結構立ち寄った。 僕はTVに映し出される渋谷駅の混乱を他人事のように見ていた。 その後乗車した某電鉄も空いていて座ることができた。

翌朝この話をすると、何とN本部長は同じホームで1時間半待っていたと言う。 結局、僕と同様迂回して帰ったとか。 ただ、腹が立って新幹線を使ったそうな。 気持ちは分かるが会社経費の無駄遣いだ。

 3本待って乗れなかった路線も、翌日16日からはいつものように戻っていた。 但し、本数制限は継続されているから、15日の混乱は帰宅を急いだ僕達が自ら招いた人災なんだろう。

いつものように途中で某電鉄に乗り換え、いつものように自宅最寄駅からバスに乗り、いつものように帰宅した。 “ いつものように ” ・・・ この言葉の有難さが身に染みた1日。 早く、早く、出来る限り早く、被災地にも「いつものように」が戻るよう、切に願う。

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14日の朝

2011-03-20 00:49:33 | 日記

マヌケな僕は通勤経路が寸断されていることを知らず、いつも通りバスに乗り電車に乗った。 電車に乗り次の駅に到着する寸前に流れたアナウンスで初めて、乗り換え駅から先の電車が終日運転を見合わせていることを知る。 急遽下車して反対側のホームへ移ると、T課長から電話が入った。 「大丈夫ですか?車で行きますよ」

好意に甘え、ギリギリたどり着くことができる「稲〇〇駅まで来て欲しい」と伝えると、「わかりました」との返事。 本当にありがたい。 ちなみに、T課長はオフィスまでバスで通っている。

その後、オフィスから1駅離れたところに住みバスで通うU本部長に電話したところ、既にデスクにいて、N本部長はT部長の車でオフィスへ向かっていると言う。 僕は何とかオフィスにたどり着いていたH課長に電話を入れ、通勤手段のないメンバーへの自宅待機指示を頼んだ。

稲〇〇駅ロータリーで待つこと約1時間でメンバーは到着。 T課長が走ってきた車線も混んでいるが、オフィスに向かう反対車線はほとんど動いていない。 T課長は笑顔で「裏道を行きましょう!」と言い、そのままロータリー抜け、来た道に対し丁度直角に延びる道をひた走る。

車内にはビートルズが流れる。 明るいT課長と楽しく話をしながら、時折、珍しく営業しているガソリンスタンドと、そこから延々と続く車の列に目を向ける。 奇跡的に、ほとんど渋滞なし。 土日に行った緊急手配の達成感で極楽トンボのように飲んだ僕は、渋滞があってもいいように駅ロータリーにあったコンビニのトイレで準備万端だったけど。

約1時間半でオフィスに到着。 社長もN本部長もまだ到着していない。 その後30分程で両者到着。 緊急会議を始めると、程なくグループ会社から合同ミーティングの申し入れがあった。

11時からミーティングが始まる。 途中おにぎり、弁当、サンドイッチが出された。 ちぐはぐな種類は総務本部メンバーが苦労して近隣コンビニでかき集めたもの。 僕はおにぎりを選び、感謝しつつ食べると落ち着いた。 誰が言ったか、やっぱり「まずはご飯」だ。

解散後、ミーティングで出された課題解決と対策実行でひっきりなしにかけまくり、ひっきりなしにかかってくる電話。 他社、他部署との調整と、嵐のような1日が始まる。 運良く、夕刻の再ミーティングでは課題のほとんどが解決されていた。

19時に仕事を切り上げ、T部長、M部長と軽く飲んだ後、社長、N本部長と、オフィス最寄駅ビル上階にあるホテルへ向かった。 翌日の会議の原稿をまとめ終えて外に目をやると、16階ではあるけど、節電に努めるささやかな夜景が不謹慎なほど綺麗に見えた。

通勤手段が車に限定される状況下、会社で手配された余裕のあるシングルに宿泊できることを感謝しつつ Iphone とベッドサイドの目覚ましをセットし、25時過ぎ就寝。 様々な方に様々な形でお世話になった1日でした。 

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それぞれの役割

2011-03-13 01:04:57 | 日記

昨日は全社の状況調査と対応指示をするため、旧オフィスへ出社。 ちなみに社長とN本部長は現オフィスに昨日から泊まり込み。 到着すると、朝一番で移動してきたN本部長がいた。

震源に比較的近い事業所は躯体にヒビが入った。 静岡エリアの物流はマヒ状態。 〇千人の社員は皆無事だ。 足も宿も手配できず職場に泊まった社員の多くが、健気に朝から仕事に就いている。 現オフィスにはU本部長も出社し、W部長とともに労務対応を通知した。

Kマネージャーが全社の状況を取りまとめている。 Uさんは地震で滞った委託先業務の手配をしている。 Y課長は物流の調整結果を全社に通知。 現状を把握し緊急指示を出し終え、僕とN本部長は帰途についた。

深夜の就寝時には心配で仕方なかったけど、皆が使命感を持ち、それぞれの持ち場で会社を力強く支えていた。

“ 愛社精神 ”  ・・・ 巷では既に死語と化した二文字が、今、皆の心で燃えている。

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