ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

Jim Morrison の話 <第5回>

2009-07-27 00:27:27 | 日記
      ☆☆☆☆☆☆☆ ショパン、モンタン、ピアフらとともに眠る ☆☆☆☆☆☆☆




Jim 「Jimi 、Janis に続く “ 3つ目の J ” 27歳の死」.......。

1971年7月3日、ジム・モリスン(ボーカル・詩人)はパリのアパートのバスタブの中で死体となって発見される。 当時「時代の必読書」となっていたオルダス・ハックスレーの著書そのままに「知覚の扉」を行き来しながら、ぎりぎりのところで踏みとどまり、素晴らしい作品を創出し続けたジムは、ついに扉の向こうへ行ってしまった。

パメラ・カーソンの願い出により死亡証明書にはこう記されている・・・ “詩人 ジェームズ・モリスン” 。 ジムを死に導いたヘロインがパメラの所有物だったため、責任を感じ自分を責め続けた彼女は、ジムの死の3年後にヘロインの自殺的な過剰摂取で死亡した・・・27歳で・・・。

一説によると、ジムはサム・バーネットが経営するナイトクラブ「ロックンロール・サーカス」のトイレで亡くなり、医者に検死してもらった後、二人のドラッグ売人がアパートまで死体を運び、バスタブに入れて生き返らせようとした、とも言われている。

ジムがパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されてからは訪れるファンの落書きやゴミがひどく、そのシンボルだった墓石上の胸像さえ盗難に遭い紛失してしまっている。


謎めいたジムの死はファンやマスコミの間で噂を呼び、薬の過剰服用説から果てはアメリカ政府による暗殺説に至るまでのまことしやかな逸話として語り継がれ、更には「にわか伝記作家」を数多く輩出したが、その死因は公式には心臓発作と発表されている。

一方、ジムの死はスポットライトから逃れるための偽装だと推理し、今も生きていると信じて疑わないファンもいる。 「ジムは疲労がひどく病院で療養中」というパメラのコメントが新聞記事となったことが主な原因だが、更にその死が確認される直前にジム自身がバンドのメンバーの前でアフリカへの逃亡をほのめかしていたこと、死体の埋葬に立ち会った人数が極めて少ないこと、ジョン・デンスモアがジムの墓を訪れたとき、「墓の長さが足りない」と話したことも大きく影響している。


“ The End ” ドアーズの終焉.......。

ジム・モリスンを失ったドアーズは、 その後2枚のアルバムをリリースするもヒットしていない。 理由は簡単・・・ボーカルがジムではないから。 ドアーズのメンバーはカリスマ性のあるボーカリストを求めてロンドンへ渡る。 その最有力候補はストゥージズのイギー・ポップだったが実現には至らなかった。

1973年1月、ドアーズは正式に解散を表明した。

ジム・モリスン・・・「生存説」のまま、彼が今も生きているなら・・・やはり片時もノートを手放すことなく、どこかで詩を書き留めているのだろうか・・・。


※ジム そして ドアーズの終焉をもってこの退屈かつ長々としたシリーズは終了とします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jim Morrison の話 <第4回>

2009-07-25 11:07:47 | 日記
           ☆☆☆☆☆☆☆ James Douglas Morrison ☆☆☆☆☆☆☆




Jim Morrison の話・・・今回は「アルコール、ドラッグ、反社会性、そして活動の終焉」。


ジムといえばアルコールそしてドラッグを連想させる。 それはレコーディングの際にも及び、スタジオテイクでは Five To One でのしゃっくり、ライヴで泥酔状態となったジムが腐った魚のようなうつろな目で People Are Strange を歌う姿、またロレツさえ怪しくなりゲップをしながら歌う When The Music's Over 、挙句の果てには他人(ジミ・ヘンドリックス!)のステージに乱入し演奏を無視して詩を即興で朗読したり、リズムも音程も外し叫び歌うテイク等、そんな様子が数多く収録されている。

1967年4月、ドアーズはセカンド・シングル「Light My Fire」をリリース。 全米No.1を獲得した。

時代背景に反し、エディプス・コンプレックスをダイレクトに表現した The End 「Mother I Want To・・・」に続く台詞はライブで全て明かされ、初期の聴衆に衝撃と不快感を与え、由緒正しき人気TV番組「エド・サリバン・ショー」では、出演に際し Light My Fire の歌詞、「Higher(ハイになる)」がドラッグを暗示していて放送上好ましくないから「better」と変更して歌うように、と通告されていたにも関わらず平然と歌ってしまい、以後出演禁止になった。 この「エド・サリバン・ショー」での雄姿(?)は YouTube でも見ることができる。 ちなみに「出演禁止」と告げられた際、ジムは「もうエド・サリバンは卒業したよ」と静かに言い放っている。

1967年11月、セカンド・アルバム「Strange Days」を発表。 その直後の12月、コネチカット州ニュー・ヘイヴンのコンサートでジムが警官を挑発し、侮辱したとしてステージ上で逮捕された。 翌日すぐ釈放されたが、この事件以来コンサートに来る客は違法スレスレの破天荒なパフォーマンスを期待するようになっていった。

1969年3月、マイアミのステージでは何とズボンを下げ自慰行為を見せたとして逮捕されたが、こういったハプニングもジムを伝説化しカリスマとして決定づける要因となった。 一方その代償も大きく、逮捕後はマスコミによる「ドアーズ排斥運動」の影響で、コンサート活動を3ヵ月半に渡って全く行えない状況に陥っている。

マイアミにおけるジムの逮捕以降、ドアーズは「反社会的存在」というレッテルを貼られ、コンサート会場側からのキャンセルが相次ぎ、確保できたステージのそでには常に警官が立ち監視されることとなり、ライブ活動は次第に縮小していく。

1970年12月12日、ドアーズはニューオーリンズでのステージを最後にライブ活動を停止した。


1971年3月、ジムは著作に専念するためにパリへ移住・・・。(次回に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jim Morrison の話 <第3回>

2009-07-22 00:00:38 | 日記
               ☆☆☆☆☆☆☆ Jim & Pam ☆☆☆☆☆☆☆




今回はドアーズ そして ジム・モリスン(ボーカル・詩人)にまつわるキーワードとデビューまでの略歴。


まずはキーワード.......。

バンド名「ザ・ドアーズ」は、オルダス・ハックスレーがメスカリン(ペヨーテというサボテンから採取される催幻覚性成分)の服用テストを綴った書のタイトルを、18世紀の詩人ウィリアム・ブレークの詩「天国と地獄の結婚」の一節「If the doors of perception were cleanseds every thing will apear to man as it is , infinite(知覚の扉が拭い清められる時、万物は人の目にありのままに、無限に見える)」にちなみ、「The Doors of Perception」としたものが元となっている。

ジムは自らを「ミスター・モジョ・ライジン Mr. Mojo Risin'」と称したが、これは「Jim Morrison 」のアナグラム(文字の入れ替えで全く別の意味にさせる遊び)。 そしてそれは最後のアルバムに収録された「L.A.ウーマン」のリフレインにおける歌詞としても使われている。

さらに彼は「トカゲの王 The Lizard King」とも呼ばれていた。 これはアルバム「太陽を待ちながら」の中に現れる彼の有名な叙事詩「ザ・セレブレーション・オブ・ザ・リザード」に由来。


そしてデビューまでの略歴......。

1965年7月、UCLAを卒業後にニューヨークへ行く予定を延期しヴェニス・ビーチ近くの廃ビルの屋上で黙々と詩を書き綴っていたジムは、たまたまビーチで再会したUCLA 時代の友人レイに「Moonlight Drive」の原曲を歌って聴かせた。 その詩の鮮烈なイメージに感動したレイは、ジムをヴォーカルとしたバンドの結成を決意。

レイは既に「リック&レイヴンズ」というバンド(ギターのリック、ハーモニカのジムはレイの兄弟)でピアノとヴォーカルを担当し、地元のクラブで細々と活動をしていた。 バンドに加わったジムはレイがボーカルを取るものと思っていたが、ジムの世界を表現できるのはジムしかいないと考えたレイはジムを説き伏せ、音楽の素養がないジムにヴォーカルレッスンを施した。

さらにドラマーのジョン・デンズモアが加入。 これに「謎のベーシスト(名前もわからない)」を加えたメンバーでデモ・レコードを製作し、ここで彼らは初めて「ザ・ドアーズ」を名乗った。 この頃、レイの兄弟である2人・・・ギターのリックとハーモニカのジム・・・がバンドを辞め、その代わりにギタリストとして加入したのが、ジョンの高校時代の友人ロビー・クリーガーだった。

1965年末、デモ・レコードを手に、片っ端からレコード会社を回ったが全敗。 ちなみにレイがピアノからオルガンに転向したのは、この頃唯一進展があったコロンビアから契約破棄の代償としてオルガンをもらったため。

1966年1月、サンセット・ストリップのバー「ロンドン・フォッグ」にバンドとして雇われたが、数少ない客の中に「運命のひと = “パメラ・スーザン・カーソン(Pam)” 」との出会いがあった。

1966年5月、「ロンドン・フォッグ」をクビになり、「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」に前座バンドとして雇われる。

1966年夏、「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」における過激さと狂気と知性を増したギグにより人気を集め始めた彼らに目をつけたプロデューサー、ポール・A・ロスチャイルドによってドアーズはエレクトラ・レコードと契約。

1966年9~10月、レコーディングに入る。 デビューアルバムは数日間で収録され、ほとんどの曲は第一テイクが採用された。 そしてジムはレコーディング中に消火器でスタジオ内を泡だらけにした。

1967年1月、ドアーズはシングル「Break on Through」とアルバム「The Doors」でのデビューが決定した。(次回に続く)


フォトの「Pam」・・・メグ・ライアンとは少々雰囲気が違いますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jim Morrison の話 <第2回>

2009-07-18 08:39:23 | 日記
       ☆☆☆☆☆☆☆ 「Jim」 というより 「Ray Manzarek」 ☆☆☆☆☆☆☆




Jim Morrison の話 <第2回>。 面倒なんで今回からカタカナを多用したい。

ドアーズの基本構成にエレキベースは存在せず、レイ・マンザレクのキーボードがベースラインを担当。 アルバム収録時にはしばしばエレキベースも加えているものの、この「キーボードによるベースラインの限界」がドアーズ作品に「他にはない個性」を与えている。

この「他にはない個性」はどのように成立したのか・・・ジムとともにバンドの核を成すレイとの出会いに至る略歴は以下の通り。


1943年12月8日、ジム・モリスン(本名 James Douglas Morrison )はアメリカ海軍の提督ジョージ・スティーヴン・モリスンおよびクララ・クラーク・モリスン夫妻の息子としてフロリダ州メルボルンで生まれた。 厳格で保守的な両親によって育てられたものの、両親の教育方針とは徹底的に異なった価値観で作品表現を行っている。

1947年、ニューメキシコ州への家族旅行中、彼の人生で最も重要な出来事があった。 かつて彼は次のように語っている。


    僕が発見した最初の死だった...僕と母と父、そして祖母と祖父は夜明けに砂漠
    を通っていた。
    インディアン達の乗ったトラックが別の車か何かと衝突して、彼らはハイウェイ中
    にまき散らされ、血を流して死んでいた。
    僕は単なる子供だった。 だから、父と祖父が事故を確かめに行ったけれど、
    僕は車の中にとどまっていなければならなかった。 僕は何も見なかった。
    僕が見たのは奇妙な赤ペンキとまわりに寝転がってる人たちだった。 でも僕は
    彼らが僕同様に何が起きたのか分かってないのを理解した。
    それは僕が初めて味わった恐怖だった...そして僕はその瞬間感じた。
    死んだインディアン達の魂は...たぶん彼らの内一つか二つ...ちょうどそこらを走り
    回り、幻覚のように奇妙な行動をしながら僕の中に入り込んだ。
    そして僕はスポンジのようにそこに座ってそれを吸い取る準備が出来ていた。


父の職業柄、転居を重ねていたため家に閉じこもって読書にふけることが多かった。 ディラン・トーマス、ウィリアム・ブレイク、ボードレール、アルチュール・ランボー、ジャック・ケルアック、そしてニーチェ、ルソー、サルトル、カフカ・・・IQ149だったというジム・モリソンは高校に入る頃には教師をはるかに上回る知識を身に付け、皆が知らない詩や小説の一節を口にして人をはぐらかすのを得意としていた。 高校卒業後フロリダ州立大学に入学したものの、哲学や詩にのめり込んでいく。

1964年1月、家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入。 同じクラスにはフランシス・フォード・コッポラ、レイ・マンザレクらがいた。

フランシスは後年このクラスメイトの曲を自らの作品「地獄の黙示録」に使用し成功した。 「地獄の黙示録」には1964年に出会ったクラスメイトの才能が集結し見事に昇華している。

ある日、レイに自作の詩を読んで聞かせたところ、レイは彼の詩に惹かれるとともに、前回書いた「いい加減な偶然」も重なって、2人はドアーズ結成へと導かれていった。(次回に続く)


ちなみにうちの子(長男)は、ドアーズと言えば「ジム」ではなく、なぜか「レイ」の印象が強いようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jim Morrison の話 <第1回>

2009-07-17 00:00:00 | 日記
  ☆☆☆ 類稀な才能を発揮し27年の生涯を閉じた3つのJの1人“Jim Morrison” ☆☆☆




これから何回かに分けて Jim Morrison のことを書いてみたい。
もちろん世間からの乖離行為ゆえ、アクセス数激減は覚悟の上で。(笑)

まずは序章・・・。

Ray Manzarek のバンドが高校のダンス・パーティーで SONNY&CHER(美少女&中年男のデュオ)のバックを担当することになったが、ちょうどその頃メンバー1人が脱退してしまい6人から5人に。 契約上6人編成じゃないとギャラは払えないという学校側の主張をかわすため、「立ってるだけでいいから・・・」と頼んだ相手が Jim Morrison。 このいい加減な偶然が伝説のバンド Doors を誕生させた。

僕が Doors と出会ったのは小学時代・・・歳の離れた親戚のお兄さんの部屋の足の長い家具調ステレオから流れてくる奇妙な音楽と同時に聞かされたドラッグの話に、幼いながら「これはいけないことなんだ」と感じていたことを覚えてる。
中学入学後に買った何枚かのアルバムを、なぜか僕は隠れるようにコソコソと聴いた。(笑)

今は亡き Jim と同じ1943年生まれには、他にも素晴らしいミュージシャン(その他)がいる。
ちなみに、3つのJの1人 Jimi Hendrix は1942年11月27日生まれ。


1943/01/01  尾崎 紀世彦 (おざき・きよひこ) 【歌手】 〔神奈川県〕
1943/01/19  ジャニス=ジョップリン (Janis Joplin) 【歌手】 〔アメリカ〕
1943/02/20  アントニオ猪木 (あんとにお・いのき) 【格闘家/プロレス】 〔神奈川県〕
1943/02/25  ジョージ=ハリスン (George Harrison) 【ミュージシャン】 〔イギリス〕 元 《ビートルズ (The Beatles)》
1943/03/01  加藤 茶 (かとう・ちゃ) 【タレント】 〔東京都〕 《ザ・ドリフターズ》
1943/04/05  ファイティング原田 (ふぁいてぃんぐ・はらだ) 【ボクシング】 〔東京都〕
1943/04/21  輪島 功一 (わじま・こういち) 【ボクシング】 〔北海道〕
1943/04/27  ジョージ秋山 (じょーじ・あきやま) 【漫画家】 〔栃木県〕
1943/05/03  橋 幸夫 (はし・ゆきお) 【歌手】 〔東京都〕
1943/06/04  梓 みちよ (あずさ・みちよ) 【歌手】 〔福岡県〕
1943/07/13  関口 宏 (せきぐち・ひろし) 【俳優、司会者】 〔東京都〕
1943/07/16  桂 三枝 (かつら・さんし) 【落語家】 〔大阪府〕
1943/07/26  ミック=ジャガー (Mick Jagger) 【ミュージシャン】 〔イギリス〕 《ローリング・ストーンズ》
1943/08/01  田村 正和 (たむら・まさかず) 【俳優】 〔京都府〕
1943/11/22  尾藤 イサオ (びとう・いさお) 【俳優】 〔東京都〕
1943/11/23  小室 等 (こむろ・ひとし) 【ミュージシャン】 〔東京都〕
1943/12/08  ジム=モリソン (Jim Morrison) 【詩人、ミュージシャン】 〔アメリカ〕
1943/12/18  キース=リチャーズ (Keith Richards) 【ミュージシャン】 〔イギリス〕 《ローリング・ストーンズ》
1943/12/27  加藤 登紀子 (かとう・ときこ) 【歌手】 〔旧・満州〕
1943/12/31  ジョン=デンバー (John Denver) 【シンガー・ソングライター】 〔アメリカ〕
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする