ブルーベルだけど

君にはどうでもいいことばかりだね

時の流れに Ⅸ

2016-05-21 12:33:13 | 日記
勿論こんなマンガを読んだことはないが、大学2年に進級して半年ほどが過ぎた。


リーバイスにロンドンブーツ、ブラックのTシャツ、ブラックストライプのシャツ、ダークブルーのジャケット、ネックレスに指輪、そして赤い髪を背中まで伸ばし、サングラスをかけた。


簡単な自炊もした。 猛暑の日は毎日素麺。 おかずは専ら、シーチキンの油を切り、ネギと竹輪を輪切りにして、マヨネーズとウスターソースで和えたもの。 これが妙に美味かった。

梅雨に作ったカレーが、次の日カビていたのはショックだった。 茫然自失の状態でゴミ袋に落としたことは、素麺を食べながら後悔しつつ、今なお鮮明に覚えている。


洗濯機がなかったので、大量の衣服を入れた袋2つを両手に提げ、とぼとぼと15分歩いて HG先輩のアパートに行った。 ドア枠上部(外)に置いてある鍵で中に入り、いつもの場所から洗剤を取り出し、外の洗濯機へ汚れものと一緒に入れ、水栓を開けスイッチを入れる。

但し、〝Ⅵ〟で書いたように、実は徒歩7分のところにあった〝本当の最寄駅〟なら駅前のコンビニにコインランドリーが隣接していたのだが、目的は洗濯だけではない。

室内に戻り、いつもの場所からインスタントラーメンを取り出し、鍋で煮て、冷蔵庫最上段の卵を割り、腹いっぱい食べた。 この頃は極めて大食で、HG先輩が居るときには4合焚いて2人でたいらげていた。


自由で気ままな生活 ・・・ 待っていたのはお決まりのコース ・・・ その年度の試験で再履修科目が3つできてしまい、僕は2年生を2年間続けることになった。


直後には、不思議なくらい実感がなかった。 近くに越してきた Iくんと、アパート前の駐車場でオートマ車の話をしたり、いつも通り街に出かけたりしていた。

そんな頃に健康診断があり、友人と学校へ行き順番待ちで並んでいると、学籍番号と名前を訊かれた。 これに答えると、「名簿にない」と言う。 そう、その日は新3年生が対象で、そのまま列を進んでいく友人とばつ悪く別れた春の日、とろとろと帰宅した。

このとき初めて〝留年というもの〟を思い知った。 故郷の親には本当に申し訳ないことをしてしまった。 一方、時間はたっぷりある。 思う存分バンド活動し、思う存分遊んだ。


狭い活動テリトリーでは知られていたが、ある日、彼女と葉山へ行き、いつもの海の家で水着に着替えて入口に戻ると、カウンターの女性から 「〇〇さんですよね?」 と名前を呼ばれた。 一瞬、「ライブに来てくれたファン?」などと思ったが、よく見れば ・・・

これには 「 訳 」 があり、正直冷や汗が出た。(どんな 「 訳 」 かは、いずれ書くことにする)


学外活動に軸足を置き部活と疎遠になると、「留年した引け目で顔が出せないのだろう」と思われ、TTくんから参加を促された。 従前通り、正月に帰省をしないでいると妹から電話があり、「気にしなくてもいいんだよ」と慰められた。

いずれも勘違いで、こういったテレビドラマのような「気遣い」が、やたら鬱陶しかった。


そう、時間はたっぷりある。 僕は落とした科目の教科書に初めて目を通した。 〝勉強〟というものをしたことがない僕にとっては、これが精一杯。 テストの日には狂ったように書き上げ、途中退出可能な 〝開始後15分〟 となった瞬間、演台の試験監督に用紙を手渡した。 「諦めですか?」と尋ねる相手に「もう書き終えた、よく見なよ」と吐き捨てるように言って教室を出た。

後ろから「おーっ」と、少々抑え気味の歓声が聞こえたが、そもそも1年前にすべきこと。 学生として、ひととしての〝当たり前〟にさえ至らなかった僕は、翌年3年生に進級した。




フォトは、青池保子のマンガ作品〝エロイカより愛をこめて〟。 最近、このエロイカの容姿モデルが Robert Plant であることを知った。 ということは、右下のキャラってもしかして ?



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時の流れに Ⅷ

2016-05-14 09:41:38 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったけど、僕は大学2年に進級した。 この時期の様子は今も時々夢で見る。


楽器や機材を運ぶために8年落ちの超安中古ボロ車を購入。 こいつはクラッチワイヤーがよく切れた。 バイト代がローン、維持費へと消えた。 同時期に、僕にギターを貸してくれ〝あの人の手紙〟を歌ってくれた TTくんも車を入手する。

TTくんは、中小だが血液製剤を扱う会社を経営している父親と「小さい車が欲しい」「小さいのでいいんだな」といったやりとりをした後、故郷九州に帰省すると、そこに待っていたのは〝GOLF〟!  カラーはもちろん〝赤〟。

当時のGOLFは高嶺の花だったが、「曲がる、止まる、走る」といった基本性能以外は雑な造作で、通気口のフィンを始めとする車内の部品がよく外れてしまった。(←これがまた簡単に元に戻せる(笑)) 気前の良い TTくんは、よくこの車を貸してくれた。

横浜の某公園辺りに出掛け、自分の車の如く路駐していると、女の子達が寄って来て ・・・ 後に赤GOLFを購入した背景がここにある。(現在は遠隔地で長男夫婦が使用中)

本格的なバンド活動は BIG BOX(高田馬場)のコンテストで、THくんが作ったオリジナル曲を披露し、特別賞を貰ってから。 審査員の1名が Ritchie ファンだということを知り、ソロの一部を急遽、Burn のそれに挿げ替えて演ったことが奏功し、ベタ褒めされ、いい気になった。(Gm ではなく Em だったので、本来3弦ですべきことを1弦で演った ・・・ と言えば、どこを挿げ替えたのかが分かるはず)

学生としては劣悪で、後輩に出席の代返を頼みつつ、時折昼過ぎに登校しては、その日の午前中にテストがあったことを掲示板で知った。 どうやら身内や仲間がいない時の表情は凶悪らしく、たまの登校では道すがらに「怖っ!」といった声があちこちから上がった。

9.8cm ヒールのロンブーを履き、いよいよ髪を赤く染めた。 この努力は当時出演していたライブハウス側の意向を酌んだもの。 「黒髪でステージは失格。 だいたい薬剤師になるんじゃプロとしての根性ないんじゃないかって皆言ってるよ」との有難い忠言だった。

テクノカット(古い!)が流行していた当時、僕の外観が馴染むのは原宿の竹下通りか渋谷の某ディスコくらいで、特に自宅周辺ではひどく浮いていた。

その後、たどたどしく作曲も始めると、それまでのメンバーではアンマッチとなり、チェンジを繰り返した。 学内向けメンバーも、ボーカルを TTくんに、ベースは近隣の大学から引っ張ってきた HTHくんに変更。

このベースマンはジャニーズアイドル並みのイケメン。 一方、小柄で女の子のようなルックスだったことから、当時付き合っていた彼女と一緒に街を歩いていると、ペアでナンパされることが多かったそうな。 裏腹に、亭主関白を地で行くような図太い性格。 本来はギターを担当していたところ、負けを認め、「仕方ないからベースを演ってやる」と啖呵を切っての仲間入りだった。

そいつはいいヤツで、サッパリしていて情に厚く涙もろく面倒見が良かった。 その後、白血病で亡くなってしまうなんて ・・・ なんでまた白血病? ・・・ だから、もうバンドのことは書かない。


暴風雨の翌日、アパート近くのドブ川で犬が死んでいた。 緑映える初夏の朝、その光景を眺めながら、自然の恵みと恐ろしさ、運命の意味などを、バカなりに考えていた。




フォトは、無期限中止を解いた1979年8月、ステージに舞い戻った Robert Plant 31歳。 ガラス細工の人形のような表情ではなく、より血の通った人間味が感じられる。

親は子供のことを忘れることはない。 たとえもういなくとも。 2003年11月4日にリリースされた Sixty Six to Timbuktu のライナーノーツは Robert Plant に抱き上げられた Karac の無邪気な笑顔で締めくくられている。


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時の流れに Ⅶ

2016-05-10 22:42:23 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったけど、僕はアパート住まいを始めた。 まー、そんなことはどうでもいい。 今回は回顧録ではなく Robert Plant にフォーカスしたい。 ちなみに僕は、ミュージシャンのプライバシーにはあまり興味がない。


Robert Plant は Led Zeppelin として売れっ子になる以前、20歳の時に結婚して2人の子供に恵まれている。 僕はあるとき、Robert Plant のプライバシー記事を目にした。

MUSIC LIFE だったろうか? それは、当時5歳の愛息子 Karac が腹部感染症で亡くなったというもので、その後のツアーは全てキャンセルされ、Led Zeppelin の活動は無期限中止、と書かれていた。 当時の僕にとっては、目の前を数多く通り過ぎる様々な情報の一つ。


その後、随分な時間を経て、僕は結婚して父親に。 初めての子は重度の小児喘息。 時折、呼吸困難で救急車のお世話になった。 電動ネブライザーも購入し、アンプルを常備した。

深夜のサイレンは、はなはだ迷惑だ。 一方、当事者にとっては、交差点で信号をパスできる 〝心強い音〟。 健康であればいい ・・・ 生きて、元気でいればいい ・・・

早生まれで幼少期は少々引っ込み思案なところもあった。 小学校に入って間もなく「嫌になったら、学校辞めてもいいんだよ」と、妻に頼んで伝えてもらったら、長男は泣いたそうだ。

幼いなりに、心に押し込めたものがあったんだろう。 低気圧の未明、病院には馴染みの面々が集まり、朝まで点滴をした。 今はあの記事がいかに重いものだったかが分かる。




フォトは、かつて Robert Plant が居た日溜りのような時代。 編集していて目の前の景色が砕けてくるのは経験からか、それとも年齢を重ねたからだろうか。







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時の流れに Ⅵ

2016-05-04 12:59:16 | 日記
勿論こんなかっこ良くなかったけど、僕は第一志望の大学に入学した。


バス停から池を右手に歩くと、左手に校舎があった。 う~ん、これが東京? 分かったぞ、この大学は広大な敷地があるから田園地帯に見えるけど、その外はビル群なんだろう ・・・ などと田舎者特有の希望的観測を膨らませていた。

入学式に至る道程では、大勢の先輩がPRチラシを手に入部勧誘を行っていた。 僕は不覚にも合唱部のを手に取ってしまった! 今と違い、ID、PASSがある訳ではないが記憶力を頼りに、次回の出校時には確保され教室に連れ去られた。 そこには同じ下宿の隣室住人 YMくんもいた。 彼はそのまま入部。 僕もとりあえず話を訊く。

目前に座る先輩は部長だと言う。 机にひじをつき、その手の甲で狐眼の如く目の端をつり上げ「うちの軽音はさー、薬科大だからってナメてるんだろうけど、プロ並みの奴もいるし、ギターでやるのは難しいよ。 合唱部なら楽しくバンドもできるしいいんじゃない?」と忠言。 なら結論は出た。 軽音楽部に入る気持ちに揺らぎがないことを告げ、教室を後にした。


軽音楽部はこれといって勧誘をしていなかった。 大学の案内図を片手に正門広場の奥へと進み、テニスコートを左に見ながら階段を登り切ると大きな運動場があり、これを取り巻く打っ放しのコンクリートにより造形された建物の一番端にある部室に入った。

そこには Jugg Box に座り入口に背を向けてストラトを弾く男性がいた。 D先輩 ・・・ 後に、助教授となったが、この頃はそっけない学生だった。  「Jeff Beck か ・・・ 確かに上手い」などと思いながら入部意思を告げると、「じゃあ入れば」との返事。 暫くすると、HT先輩や HG先輩、N先輩も来て、模範演技のように歓迎された。

同部の規約から、まずバンドを組むこと、所定の用紙に予約した上で部室を使用すること等の説明を受ける。 直後にプラプラと到着した Iくん(偶然ベース志望)、THくん(偶然ボーカル志望)、YKくん(偶然ドラムス志望)と組むことに決め、更に髪を伸ばし始めた。

大学は面白い。 同期なのに年齢(高校卒業年度)が異なる。 その大学には、8浪なんていう輩が平気でいた。 例に漏れず、即席バンドメンバーも YKくんを除く 2人は〝先輩〟だった。 全く子供で礼儀を弁えない僕は、全員を呼び捨てにした。


私立の薬学部は学費が高い。 ゆえに金持ちの子女が多い。 従って、通学のために車を買ってもらったり、中には外車やマンションを有している友人もいた。 仲良くなった2年上の先輩も、HGさんを除き、車を持っていた。

車に分乗して大学近隣の喫茶店にたむろした。 但し、〝田舎道を抜けて〟の到達である。 その喫茶店には入口右手にガラスで仕切られた狭いDJルームがあり、ミキサー卓の前壁には Y社の黒い有名モニタースピーカーが設置されていた。

いかに劣悪なリスニング環境であっても、Jeff Beck の Goodbye Pork Pie Hat がかかった途端、歌わないスピーカーであることが露呈される。

ネットも存在せず、メーカーからの賄賂に寄り添うオーディオ評論家が書いた記事、手厚い恩恵に与る有名レコーディングスタジオや放送局の設置実績が全てだった時代 ・・・ 金の力による巧みな操作で捏造された偶像こそが是だった。

誰の耳にも明らかな事実、正直な感想などは一笑に付される一方で、ユーザーに向けては「鳴らしにくいスピーカー」などとうそぶき、混乱を回避した。 この あざとい策略に騙され、大枚叩いて購入するケースは少なくなかったようで、2016年となった今でも、中古ショップで数多く見掛けるモデルである。


父親が地方市議だという友人が誇らしげに鳴らす JBL 4311 は明らかに左右逆相で空間に異常をきたしていた。 スピーカーを台から降ろしてターミナルを見せ、極性に誤りがあることを確認させたうえで接続を直すと、定位がピンポイントで決まるようになり、見違えるほど量感が出て引き締まった 4311 本来の音に、それまでの自慢顔は消え失せていた。

当時の〝自称オーディオマニア〟にはこの手が多く、僕は「低音や高音が大音量で出りゃいいなら、バカでかいラジカセ(古い!)でも買えば?」と小馬鹿にしていた。 オーディオマニアではなく音楽好きで、生演奏に慣れ親しんだ僕には不自然な音が我慢できなかった。


当時、喫茶店はインベーダーゲームや高級オーディオが必須。 相模湖への途中には EV PATRICIAN 800 を据え、そのまま店名にしている喫茶店もあった。 実際には PATRICIAN よりも、泡洗浄の先進的便器を備えたトイレが6帖ほどあり、ドアが遠くて落ち付かなかった記憶の方が鮮明だったりするが ・・・ 。


入学直後に基礎学力を確認するテストがあり、これがやはりマークシート。 あまりにも簡単で最後まで解かずに窓外を眺めていると思いのほか時間が経ち、慌てて最後までこなしたが回答欄が一箇所余ってしまった。 一問飛ばしたようだが見直そうにも既に遅くて、そのままタイムオーバー。 結果は まさかの不合格で補講決定 !

ところが隣室の YMくんが「浪人時代の予備校みたいで懐かしいから」と、代わりに受講を希望。  半年ほど続いたその講義には1度も出席することなく、所定のメニューを修了した。


時代は右肩上がり。 生活のゆとりを「モノ」を買い揃えることで実感していた。 ダイエーを始めとするスーパーさえこぞってオーディオコーナーを設け、各社のスピーカーシステムがパズルの如く壁面を埋め尽くし、スイッチで切り替えつつの比較試聴が可能だった。

田舎育ちで聴覚が鋭敏だったことから、繋がっているスピーカーが電光表示されない店で、どのセットが鳴っているか瞬時に当て、店員を驚かせるのが楽しみだった。


友人の多くはアパート住まい。 特によく遊びに行った 第二〇〇荘 は最寄駅がなくバス便が頼りだ。 学校からの斡旋で新築物件丸々一棟に同期が住んでいた。 外の公衆電話が全戸の代表番号として活用され、水道蛇口の取手がなぜか左側につくそのアパートは田園地帯にあり、一部屋に集まればいくら騒いでも平気 ♪

あろうことか各戸を〝麻雀部屋〟、〝オーディオ部屋〟、〝憩いの部屋〟などと呼び共用していた。 大鍋で作る サッポロ一番 塩ラーメン を皆で囲んで食べた。 最後のジャンケンに勝つと、鍋底に残存する麺カスと切り胡麻を独占する権利が与えられた。


下宿近くの楽器店だけでなく、御茶ノ水にも出掛けて購入したパーツでギターをカスタマイズした。 5Way のセレクターを 3Way に交換し、リアピックアップを Fender製に。 更にピックガードとボリュームノブ、スイッチノブをブラックにしたその外観は、日本法人がなく高嶺の花だった Fender そのものになった。

この時期のバンド活動は専ら学内。 そんなことより新しい仲間、新しい先輩、新しい学校、新しい街 ・・・ 渋谷や新宿で夜を明かし、駅のシャッターが開くのを待って始発で帰るなど、しょっちゅうだった。 昼夜逆転の不摂生をしていても誰も咎めない新世界。 兎にも角にも 遊べ!、遊べ!、遊べ! である。


ある夕方、自室を出ようとした時 FMから流れてきた曲に足が止まる。 アコギ一本のライブ演奏で、人間の本音や本性といったものを正直に曝け出したその歌詞と歌唱は、あまりにも後ろ向きで孤独で衝撃的だった。

その曲は 長渕剛 の 巡恋歌。 世の中にこれほど惨めな曲があるのかと、正直 感動よりもショックを受けた感が大きく、一方では斬新な旋律で歌い上げる感性とパワーに心打たれ、伸びやかで少々女々しい歌い方が耳に憑いて離れなくなった。


夏休みには合宿に参加。 バスをチャーターして、東北地方のペンションを貸し切り、大勢で寝起きし、真剣に練習し、肝試しでは今なお不可思議なる体験をして、夜は際限なく飲み、宴会場ではそのまま雑魚寝。 翌朝は腹いっぱい食い、また真剣に練習 ・・・ これを1週間繰り返した。

この頃、僕は TGちゃんと急接近。 学内でも目立って可愛い子だったが、恋愛感情というより友達感覚で、一緒にいるだけで楽しく、女人禁制の掟を無視して下宿にも泊めた。 玄関を入り、誰もいないことを確認したうえで招き入れ、靴を部屋まで持って来させ、声を落として過ごすという一連の行為がスリリングだった。

この〝掟破り〟がエスカレート。 未明に仲間やその彼女ら合計7~8人と飲んでいると、これまで見て見ぬふりをしていた A先輩(但し他校)から厳重注意を受けた。 賄の夕食を食べなくなって久しく、「夕食不要なら一報を」との約束も反故。

元教師という大家の心証を悪化させ居辛くなった僕は、心配する父を説得してアパート探しを開始。 街には Sultans of Swing や My Sharona が流れ、 Rainbow の Down to Earth がリリースされた。


その年の学園祭の前夜祭では、アコギ一本を持って、別バンドのフォーク専科2名と仮設の野外ステージに飛入りし、スポットが当たると、それまで飲んで騒いでいた大勢から一斉に声援が上がる。 新入生で初々しかったんだろう。 僕はマイクを調整し、曲名も自己紹介もすることなく、やや大きめの音で黙々とかき鳴らし始めると、皆 驚いて立ち上がった。

高校生っぽさが残る僕が弾くギター(借り物)は Tokai 製で8万程だが、アマチュアが陥る手抜きなど一切を排し、やや時間を置いて弦を馴染ませたうえ、入念にピッチ合わせを行い、手慣れたマイクポジション調整でバランス良く響き渡る。 素人でも一聴して分かる 〝プロの音〟。

右側に並ぶ2名が 〝あの人の手紙〟 を歌い出す。 大したことをしていなくても、ラジオやレコード(現在の CD)で聞き慣れたサウンドに、豊かな倍音を伴った巧いボーカルを乗せる ・・・ ただそれだけで、ひとは〝本物〟と感じる習性がある。 2名はその条件を満たしていた。

うち1名の TTくん だが、改めて聴けばハイトーンも太い優れたディープボイス。 ルックスも若き日の長与千種似で人気があり、しかも性格優良だったことから、メンバーに引き入れることを決意し、後にその決意は叶った。 Tokai のアコギも TTくんから借りたものだ。

酒の勢いも相俟った恐ろしいほどの歓声の中、弾き終えるとそのままギターを持って退場。 アンコールを求める手拍子も無視し、そのまま帰宅。


本件は部活動のまとまりを乱す勝手な行動とみなされ、翌日の朝一番には1年上の先輩達から注意を受けたが、これがまた快感 ♪ 部長の HG先輩から「お前らに嫉妬してるだけ、嫉妬だー、嫉妬」とフォローがあった。

当日は階段教室における本番だったが、いかにも学園祭風のノリに嫌気が差し、順番待ちの間にモチベーションが果ててしまい、適当に演奏して場を終えた。


一方のアパート探しは HG先輩の指導もあって順調。 某駅徒歩3分、築5年で3.2万の超格安物件が出るも、もっと安いのを求めたが、結局その後には好条件のものが出ず、仕方なく徒歩15分、築3年で3.5万のアパートに決めた。 この物件、何と隣駅からは徒歩7分! 盲目的に不動産表記を信じた僕が真実に気付いたのは、そこから転居する1年前だった。

「チャンスは逃さず」との教訓になった本件も、分譲物件の買い替えも経験した現在では「相場から乖離した超格安ゆえ、最悪は事故物件だった可能性も」と考えるようになった。

何はともあれ、僕は自分一人だけの空間とその鍵を手にすることができた。 このとき両親に感謝したが、その後 長男に同じ環境を与える立場を経て、感謝の念はより強くなった。

契約は2月からだったが現空だったため、嬉しさを我慢できず、時折行っては勝手に風呂に入っていた。 この常識外れの行動は、入居後に大家から「ガス代はつくし、いないはずの部屋が明るかったりするし ・・・」などと注意されたが、このときばかりは素直に反省した。


白木風でガラス扉のスリムな書棚が展示処分品で3千円。 迷わず買ったこいつはしっかりとした造りで、今もグラス入れとしてマンションのクローゼットの中へ思い出と一緒に収まっている。 特価品のカーテン、特価品の蛍光灯ペンダント、中古の冷蔵庫、超目玉品のベッドと買い足しながら段々と部屋らしくなっていく。

秋葉原の〇丸電気で半額購入した LUXMAN のプリメイン(長男宅で休眠中)、DENON のプレーヤーを、横置きにした特価品のカラーボックス上に配し、当時流行の焼酎〝樹氷〟のブロック形状の空ボトルに水を入れ寝かせてスピーカースタンドに ・・・ バイトで得たキャッシュは瞬く間になくなった。


HG先輩に倣い、合鍵をドア枠上部(外)に置いた。 友人達が部屋に入ろうとしている様子を電車内から目撃したり、帰ると大人数が酔っ払っていたりと、寂しがり屋が治安良き世間に助けられたそのアパートで、様々なことを経験し味わった。


硬派で空手部だった親友の HGTくんが学校に来なくなった。 携帯電話もない時代、何度自宅を訪ねても不在で心配していた。

ある日 帰宅すると、夕日が差し込む折り畳みの安テーブルに菓子折りが置かれていた。 添えられた手紙には家業の寿司屋が潰れ学費が払えなくなったこと、中退したくないと何度も懇願したこと、僕に心配かけないよう黙っていたことが綴られていた ・・・ 辛かったろうな。
僕は珍しく声を上げて泣いた。


本命の彼女もでき、自動車教習所からの帰り道、アパートにオレンジの明りが灯っていると本当に嬉しかった。 巡恋歌を地で行くかのように、ひとの温かみが身に沁みた。




フォトは Led Zeppelin 全盛期の Robert Plant 25歳。 そのファッション、歌唱法、パフォーマンスとも過去に例を見ないものであり、この時点でハードロック、ヘヴィメタルのスタイルは確立され、後のミュージシャンはこぞって模倣した。

連日、全世界を飛び回る過酷なコンサートツアーで喉を痛め、特徴的な超ハイトーンボイスが出なくなり、歌メロを変えざるを得なかった、この頃の Robert Plant 。 余裕と自信に満ち溢れた表情でステージに立つ彼の心の中は、焦りと辛さ、不安と悔しさで一杯だったろう。 間もなく入院し手術するも、その声が戻ることはなかった。







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