我が国の食料自給率は、40%をわずかに下回っている。これはカロリーによる評価である。その他重量ベースによる評価もある。穀物は重く、野菜類は軽いのでこの評価は、運送屋の都合であろう。
そうした評価に異議を唱える評論家たちがいる。金額よる評価をするべきというのである。金額ベースで食料自給率を評価すると、70%以上にもなるというのである。貿易収支ならともかく、人の命を支える食料である。金銭評価は不謹慎である。
しかし、現実の世界はお金の量によって農業経営も支えられている。日本などの先進国の畜産は、主にアメリカの安価な穀物を大量に給与し、高価な畜産物に替える飼養形態である。
大型化、多頭化、高生産化、近代化と言われる飼養形態はすべて、輸入穀物の大量給与が前提になっている。採卵鶏が最も特化しているが、こうした飼養形態は、畜産加工業であって農業などではない。
僅かな中空のケージに空間を与えられた鶏たちは、閉塞された暗黒の鶏舎で、10時間ごとに明かりをつけられて、一日を20時間で過ごす。一週間を8日半と思わせ、穀物を与えられ産卵を強制させる。牛や豚も大差ない。
安価と思われるアメリカの穀物は、先進国の家畜に与えられるが、その一方で貧国の人間の食料を奪う作用をすることにもなる。家畜に与えられる穀物は、アメリカとの関係からほとんどの国で無関税となっている。
カロリーベースで自給率を計算すると、大量の穀物を給与する畜産物の生産は、自給率を極めて低くする。一方で、金額ベースで自給率を計算すると、極めて高くなる。先進国では大きな位置を占める畜産事情が、いずれの場合も大きな意味を持つ。
金額ベースの計算する新自由主義者たちの意図は、世界の食糧事情の現状を理解せず貧富の差を大きくするものである。あるいは、世界のに展開する穀物メジャーの傘下で生きることを意味する。
食料は人の命を支えるものであって、一日たりとも欠かすこともできない。摂取量を倍にはできないし、3割以上も減らすことが出来ない。一気に数倍も売れたりその逆になったりする商工業製品とは、明らかに異なるものである。
そのために可能な限り食糧の自給は、国家としての最低限の安全保障なのである。時の流れや特定産業や国家に依存することになる金額評価は、食料の本質を見失うものである。