「集団的自衛権」という言葉が、極めて安易な解釈と説明のもとで、我が国が大きく自衛隊の存在を変貌させようとしている。安倍首相の諮問機関である“安全保障の法的基盤再構築に関する懇談会”を、8月初めに再招集するというのである。一次安倍内閣で棚上げしてきたことである。
集団的自衛権解釈には、子供の喧嘩のように稚拙な事例を引き合い
に出す。「友人がやられているのを指をくわえてみているのか」という論法である。国家間の紛争は子供の喧嘩ではない。
ましてや、安倍の目指す集団的自衛権とは、アメリカの後方支援である。第二次世界大戦以後生じた国家間の紛争の全てに、アメリカが絡んでいる。そんな国を武力的に支援することを、法的に可能にしようというのである。
これまでの政府法制局の見解は。「集団的自衛権は持つが行使しない」というものである。この見解も曖昧であるが、これは憲法を変えずに、解釈だけでその場を凌ごうとする、解釈改憲と言われるものである。
この時点で、いずれ改憲派が多数を占める時が来てその意志を持った時に、集団的自衛権は容認されるのではないか危惧していた。残念ながらその時が近づいてきた気がしてならない。
近代の戦争の全ては、自衛・防衛のための戦争である。アメリカのイラク攻撃も、大量破壊兵器があってスカッドミサイルはロンドンを標的にできるため、自衛のために侵攻したとブッシュは説明する。
ベトナム戦争も同様である。共産主義防衛のための自衛の戦争である。自衛の理由がなければ、トンキン湾事件や大量破壊兵器があると、でっち上げもする。そして自衛権の発動で攻撃する。
これを集団的にやるということは、アメリカの戦地にいくらでも派兵できることになる。憲法九条は自衛隊の存在すら認めているかも怪しいところである。だからこそ、自民党は改憲に意欲的なのである。
かつては自民党にも戦争体験者が多数いた。党是とは関係なく、改憲に慎重な重鎮が目を光らせていたものである。その縛りも今はない。安倍国粋主義者のもとで、いつでも戦争が出来る国へと歩みだす。