旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

恵みの雨

2015年05月18日 19時56分59秒 | Weblog

先週は金曜に土日を加えて3連休だった。今週は土日に月曜を加えて3連休になる。先週は4日働いて3日休み、今週は5日働いて3日休む、そして来週は4日(正確には、3.5日)働いて2日(2.5日)休むことになる。4日間働いて3日間休むくらいが心地よい。
昨日の午後は足腰に疲労を覚えたので農園へでかけるのを見合わせた。金曜に肥料を畝に撒いているので、天気予報を信じて天の恵みを待つことにした。予報は的中し今日は農園に雨が降り注いでいる。


食後の買い物

2015年05月17日 20時01分04秒 | Weblog

晩食を済ませて近くのフタバ図書で本を漁った。新本には定価に値するよい本がない。自然と足は中古本に向かう。今日は久しぶりに9冊の新書を買った。
南部陽一郎著「クォーク 第2版 素粒子理論はどこまで進んできたか」、竹内薫著「超ひも理論とはなにか 究極の理論が描く物質・重力・宇宙」(以上講談社ブルーバックス)、佐々木健一著「日本的感性 触角とずらしの構造」(中公新書)、橋本徹・堺屋太一著「体制維新 大阪都」、佐々木知子「日本の司法文化」(以上文春文庫)、「英語教育はなぜ間違うのか」(ちくま新書)、日本語力向上会議「デキる人は説明力をこう磨く」(角川新書)、古賀茂明著「官僚を国民のために働かせる法」(光文社新書)、2ちゃんねる新書編集部編「特別な存在 2ちゃんねるの笑える話」(ぶんか社)、以上9冊で〆て774円也。
定価なら7000円を上回る。「日本の司法文化」以外はいずれも発行されて10年以内の新書だ。


耕す

2015年05月16日 08時10分11秒 | Weblog

これから農園に出かける。シュンギクの間引きと、トウモロコシとカボチャ・インゲンの土寄せ、サツマイモとダイコンの施肥が気にかかっている。先週の日曜からご無沙汰している農作業に気がはやる。午後から晴れるという。日増しに緑が濃くなってゆく山々に見守られながら畑を耕すことが、読書とならんで重要な楽しみのうちのひとつになっている。
昨日の法定講習会で詰め込んだ宅建取引に関わる判例や税制の改正、法令改正の趣旨等のみを反芻して記憶に留め、講習の毒を吐き出す。こういう実務(お金儲け)がらみの知識(情報)の摂取がもっとも不得意・苦手だ。
それでも情報の落差をお金儲けの種として恥じるところもなく「知っていることは力だ」などと豪語できるようなひとを羨ましいとも思わないし、そういうアジテーションに乗せられることもない。


宅地建物取引士

2015年05月15日 20時46分12秒 | Weblog

本日午前9時30分から17時(講習時間は内6時間)の法定講習を受けて20数年ぶりに、広島県知事から宅地建物取引士(旧 主任者)証の交付を受けた。
「従来は宅地建物取引主任者と呼ばれた資格が名称を変更した。不動産の取引環境の大きな変化の中で、宅地建物取引主任者が宅地建物の安全な取引のために果たすべき責任の増大や中古住宅の円滑な流通に向けた関係事業者の連携等、その役割が大きくなっていることを踏まえると、その役割にふさわしい資格名称にすることが適切である。『主任者』を『士』に変更する今回の改正は不動産業界からの要望ないし意見活動が立法府に受け入れられた結果である。」なのだそうだ。(本日の講習テキストから引用。)
わたしは、積水ハウスで専任の宅地建物取引主任者をしていた。その旧称がこの4月から宅地建物取引士に変わった。面白いもので名称が変わると資格の内容まで変わったような気がする(実は変わっていないのだが・・・)。本日になってようやく改称後初めての法定講習を受けて正真正銘の「宅地建物取引士証」を手にいれた


わたしの区画

2015年05月13日 21時22分15秒 | Weblog

6時前にわが家に着いた。陽が落ちないうちに家庭菜園の土を取り換えて、日曜から放置していたしおれ気味のトマトとピーマンの苗を植えてから、たっぷりと水をやった。先に施さなければならない石灰と有機肥料を切らしているので、明後日の朝にホームセンターで買って撒く。菜園は煉瓦で土留めが施してある。
白木山山麓が気にかかる。農園の区画では野性的な農業を心がけている。少なめに石灰、適度に有機肥料と腐葉土を撒いたのでよい土壌に仕上がっているはずだ。土づくりに成功したかどうかについては、この土曜に野菜の芽の出ようをみればわかる。今宵は20年ほど前から愛読している野菜作りの本2冊に目を通す。

 

 

私の区画の一部


『教えることの復権』

2015年05月12日 19時58分41秒 | Weblog

右遠方に白木山

 

情緒が安定しているから自然の流れに逆らうことがない。日曜に撒いた腐葉土と有機肥料は台風がらみの雨で土にしっかりと溶け込んだことだろう。明日の日照でかけがえのない野菜の滋養になる。
本を選ぶのは本に選ばれた私なのだ。『陶淵明全集 上下』(岩波文庫)と大村はま、苅谷剛彦・夏子著『教えることの復権』(ちくま新書)を興味深く読んでいる。畑を耕す、教える、人間は環境の産物だと思う。『われ思う、故にわれ在り』なんて僭越だ。


腕時計

2015年05月09日 23時20分50秒 | Weblog

7、8年ほど前に買った腕時計の金属バンドが壊れたので俄か修理で使用を続けていた。今日、時計屋に持ち込んで修理を依頼したら、15分以内に修理できるかどうか判断できるという。腕時計のメーカーなら4000円程度かかることは調べていた。その場合、バンドの取り寄せだけで数週間かかる由。なにぶん急いでいたことも手伝って4000円以内を条件に修理を依頼した。結局3000円余りの出費で、メーカーオリジナルではない新しい金属バンドをとりつけてくれた。外観は新品だが買った時の価格からみて時計の耐用年数はせいぜいあと数年だ。それでも新品の金属バンドに満足している。


豊作の予感

2015年05月09日 21時51分39秒 | Weblog

 

陽が大きく西に傾き始めた農園で、種まきと、種芋・芋ツルの植えこみ、苗2本の植えこみをおえた。サトイモ・ジャガイモ・サツマイモ・カボチャ・トウモロコシ・キュウリ・シュンギク・ダイコン・インゲンのうちカボチャをのぞいた野菜は最も安価な種芋と種から育てあげる。月初に種を撒いたシュンギクは、うれしいことに勢いよく若葉を出した。鳴門金時の蔓はよろこばしいことに根を張りはじめた。トマトとプチトマト・オクラ・バジル・オオバ・ネギ、ショウガ・ミョウガは自宅の菜園で栽培することにした。7月を迎えるころにはとれたての新鮮な野菜が農園から、家庭菜園からわたしを楽しませてくれることだろう。農園の遅い春を心いくまで味わうことができた。明日から仕事の世界へ向けて旅支度を始める。


田園の居に帰る 其の一

2015年05月09日 11時12分54秒 | Weblog

少きより俗に適う韻無く、
性 本と丘山を愛す。
誤って塵網の中に落ち、
一たび去って十三年。
羈鳥は舊林を恋い、
池魚は故淵を思う。
荒を南野の際に開かんとし、
拙を守って園田に帰る。

若い頃から私は世間と調子を合わせることができず、生まれつき自然を愛する気持ちが強かった。ところが、ふと誤って塵にまみれた世俗の網に落ち込んでしまい、あっという間に十三年の月日がたってしまった。
籠の鳥がもと棲んでいた林を恋い、池の魚がもとの淵を慕うように、私も生まれ故郷が懐かしく、世渡りべたなもちまえの性格を守り通して田園に帰り、村の南端の荒地を開墾しつつある。
(岩波文庫 陶淵明全集 松枝茂夫・和田武司訳注)


園田の居に帰る 其の三

2015年05月09日 10時59分07秒 | Weblog

豆を種う 南山の下、
草盛んにして豆苗稀なり。
晨に興きて荒穢を理め、
月を帯び鋤を荷って帰る。
道狭くして草木長び、
夕露 我が衣を沾らす。
衣の沾るるは惜しむに足らず。
但だ願いをして違うこと無からしめよ。

南山のふもとに豆を植えたが、畑には雑草がはびこり、豆の苗は情けない状態となってしまった。朝早く起きて雑草を抜いてまわり、月の光を浴びながら、鋤をかついで帰路につく。
狭い道には草木が生い茂り、着物は、夜露でぐっしょり濡れてしまった。着物が濡れるぐらいは段惜しいとも思わなぬが、どうかわたしの期待が裏切られず、豆が無事に育ってくれますようにと祈るばかりだ。
(岩波文庫 陶淵明全集 松枝茂夫・和田武司訳注)

 

わたしの畑


バーベキュー

2015年05月08日 20時03分42秒 | Weblog

買ったサトイモ・サツマイモ(鳴門金時)・ジャガイモの種芋を植えこみ、シュンギク、インゲン、キュウリ、ダイコンの種を撒いた。区画は有り余る収穫が見込める広さだ。夏から秋にかけてバーベキュー広場を利用できる。まだスイートコーンとトマト、カボチャを植えるくらいのスペースが残っているので、バーベキューむけの新鮮な食材の提供を目論んで、明日は追加の種まきと植え込みに励む。
JR芸備線の白木山駅から三田農園まで歩いて5分ほどだ。農園から、畑ふたつ向こうにプラットホームがみえる。アルコールを口にすると車で来るわけにはいかない。JRを利用することになる。自宅からR下深川駅までのんびり歩いて15分、列車に揺られて20分、40分もあれば農園のバーベキュー広場に着く。
炭や金網などのバーベキュー用品一式は園芸スーパー「コメリ」で調達できるし、「コメリ」隣のスーパー「ショージ」は食料品を主力にしたスーパーだから新鮮な肉や魚介類をはじめとしたあらゆる食材、ビール・ウィスキーなどのアルコール飲料まで揃う。このふたつの量販店は農園の川向うにあって、道のりで300メートルほどだ。手軽に夢のバーベキューを楽しむことができる。


サクランボの大木

2015年05月07日 19時39分45秒 | Weblog

きのう剪定した金木犀の葉と小枝を米袋で6袋、きょう広島市環境局施設部安佐北工場に自己搬入した。これでようやく剪定が済んだ。剪定には後始末を含むものと観念している。しばらく車中には春の青臭い香りがたちこめることだろう。その足で2か月遅れの確定申告を済ませた。この3ヵ月ほど気にかかっていた。
達成感を抱きながら昼下がりのアンテナシヨップ「食彩館」でバイキングの食事をとった。家に戻って庭で陽を浴びているうちに、不覚にもそのままガーデンチェアで眠ってしまった。家の者から「風邪をひくよ!」と叱責されてわれに返った。
わが家の庭はバス通りに面している。庭でうたた寝をするくらいなら緑が氾濫する農園の方がいいので三田市民農園まで車を走らせた。区画全体に地下水を撒いて、植えた野菜ごとに鋤で区割りをした。畝をあげるのに1時間余りかかった。額から汗がにじむ。
センターの軒下にある日蔭のベンチで仰向けになって、腕枕で周りを見渡してみた。交流広場のサクランボが高い陽に照らされて赤くみえた。赤くみえるほどサクランボは熟しはじめていた。赤い大木ごしに新緑が白木山に向けて駆け上がってゆくようだ。風の音が聞こえた。そっと目を閉じて耳を済ませてみた。


ガーリック・チャーハン

2015年05月06日 00時44分58秒 | Weblog

早朝から、お隣さんとの境界に植えた金木犀二十数本の剪定をした。食塩摂取の自粛とカロリー制限が続いている。3時間余りの剪定を済ませての昼食はガーリックチャーハンにした。チャーハンの具はニンニクのみ、フライパンでご飯とニンニクを炒めて減塩醤油を少々かけた。いつものように風味だけを味あい、空きっ腹を抱えたまま農園に向った。まずは根菜、30ばかりの穴を掘ってサトイモ30個をていねいに植えた。畝を作ってダイコンとシュンギクの種をまいた。さらに10ばかりの穴を掘ってから各穴あたり4、5粒のキュウリの種をまいて土をかぶせた。サツマイモと植えたばかりの区画全体に水をやって3時間ほどの農作業を終えたら5時になっていた。空腹に耐えたが疲労感はない。


種芋

2015年05月05日 23時27分32秒 | Weblog

ジャガイモの種芋についての考えが少々甘かったようだ。2店の種苗売り場の店頭で「在庫はないし、入荷する予定もない。」と明言された。その一方で季節外れのジャガイモんの種芋探しに走っているひとが多いともぼやく。ならば、即刻仕入れればいいのじゃないかと瞬時思った、が、よく考えてみたら店が種芋を在庫すれば費用を抱えることになる。ジャガイモは今の季節が成長期だ。
仕入れたと思ったら芽がでかねないような気温の上昇時期に、芽がでないような涼しい場所で保管しようとしたら費用がかかるし、芽が出させてしまった種イモでは売りものにならない。だから、ジャガイモの種芋は商業ペースでは年が明けるころから仕入れて春先まで店頭に並べる。発芽の心配がない季節が出荷のシーズンにならざるを得ない。素人園芸家の方で、早めに買った種芋保管場所に注意を払って発芽をコントロールすればよいのだ。
という常識論に惑わされないで、ジャガイモの種芋を探し続ける。なんとなれば今日はうまく、同じく季節外れのサトイモの種芋を入手することができたからだ。サトイモとジャガイモの種芋とではもちが違うにしても、季節外れにいいサトイモの種芋を買うことができた。ジャガイモのいい種芋だって気温が低いどこかにどっさりところがっているのではないかと信じて、明日も種苗店を回る予定にしている。


『白木山麓の畑にいます』

2015年05月04日 23時00分45秒 | Weblog

昼過ぎに雨があがったので、お天道様につられて農園まで出かけた。管理人さんが耕運機で耕してくれていたので救われた。炎天下でなんどもへばりかけながら畑を耕し石灰を撒いた。50平方メートルは意外に広い。手を休めて白木山の山頂あたりを見上げたら先週黄緑に輝いていた山が深い緑に静まりかえっていた。
「赤金時」の植えつけと里芋の植えこみをおえて、売り切れていたジャガイモの種イモをどうしようかと思案を巡らしていたら、確か、数年前がそうだった。「コメリ」になくても「ナフコ」「西村ジョイ」「ジュンテンドー」「ダイキ」のいづれかで売っている可能性がある。好物ジャガイモを食べるために農園を借りたようなものだから、なんとしても植えつけておきたい。明日は種イモ探しに走る。キュウリとトマトは種から育てる。ジャガイモには種イモがあっても種はないのだ。