旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

蕪村

2009年12月20日 19時57分21秒 | Weblog
蕪村集をめくってみた。

老いが恋 忘れんとすれば 時雨かな (59歳)
庵の月 主を問へば 芋掘りに (63歳)

行く春や 撰者をうらむ 歌の主
掴みとりて 心の闇の ほたる哉
貧乏に 追いつかれけれ けさの秋

なぜか気にかかる不揃い

2009年12月13日 23時15分51秒 | Weblog
「The Wealth of Nations」の原著のペーパーバックは1000円もしない。ジュンク堂の英語本コーナーに並べられていたので即座に買い求めた。「Moby Dick」がちょうど1000円だった。10数年前に買ったペーパーバックより活字が大きいので悩んだが、結局やめた。よくよく考えてみるとこの「Moby Dick」(白鯨)、ここ数年というもの読みたいという願望はあったが、手にした記憶がない。

先々週、「新・哲学講義」の7巻と8巻をネットで買った。気にかかっていた「基本的人権」の各論2冊も手ごろな価格で売り出されていたので、北海道の古書店から買った。そして不揃いは、「The Wealth of Nations」(国富論)の原著2分冊のうち2分冊目のみとなった。ところが、八方を尽くしてもこれがない。随分と古い本だからやむをえない。とうとう、1000円もしない「The Wealth of Nations」を買い求める羽目に陥ってしまったというわけである。実をいうと、岩波文庫「諸国民の富」全5巻を読み始めたばかりだ。

英語本コーナーには三島の作品の多くが並べられていた。「金閣寺」を英文で読んだ際、その英文翻訳の確かさに驚いた記憶がある。せめて、「豊饒の海」4部作くらいは英文で読んでおきたいと思う。いずれにしても半端な蔵書はしない。残された時間に限りがあることは承知だ。こころの健康のために、全集・選集・講座ものに加えて大作は全巻を揃えておくことに決めた。

メルロ・ポンティ

2009年12月09日 21時26分02秒 | Weblog




モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。

思想 [編集]
彼の哲学は「両義性(Ambiguïté[1])の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己の概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。

例えば、「枯れ木」について、最初に見た時は、「枯れ木」という存在を眼で見ることで名前のない「現象」としては知ることができるが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るようになる。これは、それまで現象として見てきた「枯れ木」というものが、言葉(記号)を知ることで同一言語下では共通した認識を得られるということである。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。

そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。

それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬(ごびゅう)の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

数学

2009年12月08日 21時05分42秒 | Weblog
著名な予備校に務めた経験をもつ数学の講師と話す機会があった。講師いわく。「高校生の学力の低下が著しい、特に数学がいけない。受験数学に対応しすぎた結果とうとう数学までも暗記科目になってしまった。」私が聞く「微分とか積分について、その考え方を知った時の感動をいまだに忘れない。最近の高校生は微分や積分にすら感動しないのですか?」「高校生にとっての数学は、受験数学ですからね。微分や積分といっても単なる試験問題の回答法としての意味しかありません。そうですね、東大に合格する受験生の90%程度は暗記科目としての数学しかできないでしょうね。数学に限らず高校性や予備校生の学力低下が顕著です。」と数学講師。「じゃ、受験数学ではなくて本物の数学の学力をつけることができるような私塾をつくられてはいかがでしょう?」数学の講師いわく「市内だけで100を超える塾や家庭教師の派遣会社があります。無理です。生き残ることはできません。」妙に声が弱々しかった。

最近、朝日新聞が「高学歴」の特集をやっていた。まわりのひとがあの人は高学歴だと感じる事例を2つ挙げていた。損害保険の約款を英訳した。高学歴の人はみなさん、ほぼ完璧に日本語に翻訳できた。法務部から数10ページの文書が送られてきた。高学歴の人は、もれなく前半のある個所と後半のある個所の矛盾に気がついた。ここでも入試が言語情報の読解分析能力に偏重していることが明らかになったようだ。入試科目としての数学の場合、幾何・代数情報の単なる記憶能力のテストになってしまったというのだろうか。数学講師の話がよくわからない。数学に哲学的論拠を与えたといわれるカントやその現代的解釈にひとつの指針を与えたといわれるメルロ・ポンティの現象学を読んでみることにした。

徒然

2009年12月03日 22時22分30秒 | Weblog
早く仕事に慣れるためにがむしゃらに仕事と取り組んできた。実感として7合目あたりを過ぎたようなので以降は量から質への転換を図る。劇的な転身から5カ月が経過した。遣り甲斐のある仕事だ。現在の職業に満足している。

『止まるを知りてのち、定まるあり。定まりてのち、よく静かに、静かにしてのち、よく安く、安くしてのち、よく慮り、慮りてのち、よく得。ものに本末あり、ことに終始あり。先後するところを知ればすなわち道に近し。』「大学」の第一章の後半部だ。曾子はうまいことをいう。

そういえば、メルロ・ポンティの著作の英訳"Phenomenology of Perception" "The Primacy of Perception" が近いうちに届く。現象学にかかわる著作だ。サルトルの「分別ざかり」の日本語訳の切れの悪さに閉口したことがある。英文で読んでみると明快だった。到着を待っている。カントの”Metaphysics of Morals”(道徳形而上学言論)の英訳も手に入れた。

メルロ・ポンティはフランス人、もちろんカントはドイツ人。曾子は中国人なのか漢人なのか、他の民族なのか。そのあたりはよく解らない。