昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

戦争が終わっていたことも知らずに・・・

2007-08-15 21:01:08 | じゃこしか爺さんの想い出話
 62年前の今日、戦争が終わったことなど少しも知らずに、戦争終結の間際に突如として参戦してきたソ連機に追われていた。
 当時、私たち国民学校高等科の生徒は、住民が避難したあとの住宅街の見回り役として編成されていた。

 終戦に当る日の前夜、ソ連軍が上陸侵攻してくるという報せで、早々と住民たちが避難した深夜の住宅街の見回り中、急病人を発見した。かなりの老人だったから、おそらく避難するにも足手まといになるだろうと、避難を終えて帰ってくる家族を、独りで家を守って居ようとしたのでしょう。

 少年見回り隊の私たちの班が、町の詰所係員の指示で炭砿病院に連れて行くことになり、リヤカーに乗せてさっそく出掛けたのです。
 急病人を病院に無事に送り届けての帰りのことでした。突如としての飛行機の爆音と同時に、深夜の真っ暗闇の空にゆらゆらと揺れながら落ちてくる、奇妙に明るい物体に気づきました。
 とにかく深夜なのに、真ッ昼間のように明るくなり、その明りのなかに炭砿の建物や市街地が浮かび上がっていたのです。
 その正体が、ソ連機から落とされた照明弾だと判ったのはずうっと後のことで、その時はてっきり爆弾だとおもい、道路の側溝脇の防空壕にとびこんだのでした。 その後しばらくは、遠くまたは近くで爆発音が響きわたり、私たちはお互い抱き合うようにして慄いていました。

 そして今にしておもえば、その日こそ終戦の日だったのですが、そんなことはまったく知らない私たちは、解散され避難することになりました。
 
 その日の天候のことなどは、正確に覚えておりませんが、おそらく写真のような穏やかな良い天気だったのでしょう。
 住宅街の奥にある避難場所の炭砿坑口を目差して歩いている時でした。飛行機の爆音を耳にして、はっとして見上げた雲のかげから、一機のソ連機がとつぜん現れて、見る間に近付いて来たかと思うと、いきなり銃撃してきたのです。
 私たちはまさに蜘蛛の子を散らす状態で逃げまどい、やっとのことで町外れの馬鈴薯畑に逃げ込むことができて、その時の難を逃れました。
 いまから思うと、戦争はすでに終わったことを知りながらも、そのソ連機の兵士は、面白半分か遊び半分で、一目で子どもと判る私たちを追いまわしていたのでしょう。その時近付いてくる戦闘機のなかには、大口で笑いあっている操縦士の顔が見えたのです。
 その顔は、今でもはっきりと想いだすことが出来ます。
 
 避難後家に戻って知ったのですが、デマなどの流言を恐れた軍部の手で、住宅街の家のラジオがすべて破壊されていたのでした。
ですから、敗戦や「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ・・・」の玉音放送のことは、まったく知らなかったのです。
 
 ちなみに、今度の戦争とくにソ連参戦によって起ったわが家の不幸の一つは、ソ連軍の上陸侵攻から、石炭積み出しの港湾設備を守るために、徴用された民間警備隊の一員だった父は、港へ行ったままその後幾日経っても家族のもとへ帰ってくることが、ついになかったことです。
 いささか大げさになるようですが、わが家の不幸は、終戦を境にして始まったのです。後のちあの戦争さえ、とくにソ連の参戦さえなかったら・・・と恨めしくおもうことが少なくありませんでした。

 なお、このブログを初めて以来、毎年のように載せてきた終戦の日の想い出は下記のとおりです。

 1~避難
 2~避難の末に白旗を
 3~終戦の日
 4~第60回終戦記念日
 5~あの戦争さえ無かったら・・・

 62年前の終戦の日が、今日のように暑い日であったのどうかは、はっきりと記憶に残っておりませんが、たしか、とても穏かな真夏日の昼間のことです。
 夏雲が浮かぶ青空の彼方から、突然ソ連機が現れ、襲ってきたのです。