昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

少年の日の想い出<夏の遊びから>

2006-04-20 17:30:40 | じゃこしか爺さんの想い出話
             ・・・山城(隠れ家)つくり・・・
    
 戦局の拡大からの石炭の需要の増加に伴ない、炭鉱町の人口が日を追って増加していった。それに伴い小学校の生徒数が増えて遂に教室の不足を来たし、三学年から六学年の授業は、午前の部と午後の部に分けられ、いわゆる二部授業が実施されるようになった。

 学校とは朝早くから行くのが当然と思っていただけに、それが昼からとなると、時間の調整に戸惑い時間を持て余すようになった。そう云っても勉強は手につかず、遊ぶにも近所の遊び仲間の数が満足に揃わず、時間潰しの遊び相手は、偶々二部授業で午後の授業となっていた弟だけだった。
 当時私たちの間では山城作りが流行っていた。城と云っても、丈の高い松を骨組みにしただけの、簡単な隠れ家のようなものだった。更に周囲の監視のための見晴台を設け、その上他人からは見付かり辛いように、その周りを枝葉で囲って迷彩を施した。

 私と弟は居住性を良くするために、普通は枯れ枝などを組み合わせて作る床板を、わざわざ家からベニヤ板を持ち出して作り、座ることも寝そべることも出来る、居心地良いものを作り上げた。
 
その日は秋も半ば過ぎの頃で、朝から気温が低く、冬の近さを思わせるような日であった。例によって私と弟は学校道具を手に山城へ向かった。昼までここで過ごそうと思っていたのだった。暫らくすると肌寒さを感じるほどになって来たので、予め暖房用にと用意してあった、一斗缶の半切り缶の底に土を敷き詰め、枯葉と枯れ枝などを集めて火を点けた。初めの内は煙が燻って目が痛いくらいだったが、その煙も煙出しから流れ出して行き、小屋は再び元の快適さに戻っていった。
その後しばらく弟と話していたが、やがてそれにも飽きて、小屋の屋根上の見晴台に登って周辺を見回して驚いた。

直ぐ山の下の住宅詰所前に大勢の人たちが集まっていて、こちらを指差して騒いでいるのが見て取れたのです。
 初めは何事かと不審に思ったのですが、直ぐに此処の煙の所為だと気付きました。取敢えず弟と手分けして火の始末だけをして、その場から逃げ出しましたが、途中で詰所の係員に見付かり詰所に連れて行かれました。
 早速く母が呼ばれて親子共々きついお叱り受けましたが、日頃は一応優等生で通っていたこともあって、学校にも知らされず、また警察沙汰になること無くその場だけの説教で返されました。

 今にして想えば何とも無茶なことを仕出かしたもので、一歩誤れば山火事に至っていても、決しておかしくないほどの危険な事だったのです。
 山城はその時直ちに解体されてしまい、私たちも山城遊びはもう懲り懲りと、当分の間は山に入る事さえしませんでした。