昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

少年の日の想い出<コッペ>

2006-04-03 18:14:09 | じゃこしか爺さんの想い出話
 コッペとはロシア語の筈で、その言葉の意味は確か「物々交換」のことだったと思うのですが、正確なロシア語なのかどうかは、かれこれ約60年も昔のことで、私自身の記憶が薄れ定かでありません。この言葉を覚えてきっかけは、駐留していたソ連軍家族が、到底日本では見られないほどの大きさの上、ラベルも無く中身の実態がまるで何だか見分けられない缶詰を手にしながら、しきりに「コッペコッペ」と云いながら、大人たちの腕時計を指差していたからでした。
 それ以来私たちもその言葉を真似て、子供同士の遊びの中で使って楽しんだものです。

 子どもの目から見て感じたのは、コッペ(物々交換)の対象で、ロシア人が主に欲しがった物としては、圧倒的に腕時計や懐中時計などでしたが、他に万年筆類や日本人の衣類などが多かったようです。衣類の中でも華やかな花柄の着物、特に非縮緬の長襦袢に人気があったということです。
 私は直接に見たことは無く、友人から伝え聞いたことですが、ソ連軍の兵士が軍服の上に紅い長襦袢を着込み、中にはそれに腰巻まで着けて得意気に踊り騒いでいた兵士までが居たそうです。
 子どもだった私たちには、実際に交換する品物の細かい内容まで知りませでしたが、日本人が欲した物は当時手に入り難い生活必需品が主で、やはり魚肉類などの缶詰製品を選んで居たと言うことです。

 やがてそのコッペの方法も日が経つにつれて変り、その対象も兵士や一般ロシア人から、石炭積み出しのために入港する船舶の船員たちの方が、品数も多い上に有利との噂が流れ出し、石炭運搬の使役を利用して行われるようになり、その使役を希望する者が多くなり、中にはコッペだけが目的の年配者までが出てくる始末でした。そして遂にそうした年配者から不幸な事態が起きてしまったのです。
 当時の石炭積み出しは、大型運搬船の場合は接岸出来ないために、沖合に停泊した石炭運搬船までは艀舟で運ばれていました。本船に横付けされた艀舟からの積み込みは、石炭を積めた「大型モッコ」(ロープをネット状に編んだもの。石や砂利などを運搬するのに使用)を本船のウンイチで吊り上げて船倉に納めるのです。
 普通モッコでの積み込みはかなり危険な作業ですから、人は絶対に近寄れないのですが、日本人がコッペの目的で船員と接触出切るのはこの機会しかなかったのです。危険と充分知っていながら、船員たちは見て見ぬふりをしていたわけで、その事故は当然起こるべくして起きたものでした。一旦は船橋の高さにまで吊り上げられる、モッコにしがみ付いたままで居るのは、体力のある若い人でも容易なことではありません。まして60歳を過ぎた老人には、まさに過酷な重労働に等しいものです。その上身体一つでは無く、コッペ用の荷物を背負っていたのですから、それはかなり過重な状態だったわけで、風か或いはウインチの一寸したトラブルだったかも知れませんが、モッコそのものが大きく揺れたその瞬間、その老人は大きく弾き飛ばされて海中に没したきり、二度と浮かんで来なかったそうです。悪いことに時期は真冬でしたから、心臓は一分と持たなかったことでしょう。
 この事は私が直接に見ていた訳では無く、噂として人からの又聞きなので、事実とは多少違っている箇所が在るかも知れません。

 しかしこれが教訓になったかというと、人の欲望はこれくらいのことでは一向に怯まないようで、その後も危険を犯すものは少なく無かったと言うことです。
 このコッペには危険が伴う事は充分に知りながらも、家族の為の食料確保の重要な手段として、一家の家長たる父親に課せられた辛い役目の一つで在ったのでしょう。

 この事故の事は私にとって、ソ連軍が上陸して来た折に、民間人ながらも港湾の守備隊の一員として出向いたまま、終戦になっても生還出来なかった父の事とも思いあわせて、後々まで心に残こる悲しい出来事でした。