おこがましくも自分史なるものの纏めている所為か、最近両親の事がしきりの思い出されます。両親が夫々他界してから、約60年ほどの歳月が過ぎております。そんな訳で、私が両親と一緒に暮らしたのは、せいぜい14~5年位のものでしたが、その限られた年月に得たそれぞれ両親の想い出は、色々と数え切れないほど残っております。
山ほどある想い出の中で、特に想い出されるのが、日頃から良く口ずさんでいた次の歌です。
父の場合は無類の酒好きでした。普段は余り歌などは口にする事無く、どちらかと言うと無口で、小さかった頃の私らにはとても怖い存在でした。しかし一旦酒が入ると別人のようになって、歌い果は手振り身振りで踊り出すほどに俄然賑やかになります。更に興に乗って来ると長兄などを掴まえて相撲を初め、疲れると処かまわず寝入ってしまいます。
その父が酔うと何時も怪しげな呂律で口ずさんでいたのは、「鴨緑江節」と題名が未だ思い出せない次の歌です。
一番の歌い出しが「またも雪空・・・」で、終わりが「えぇ-えぇ満州が気にかかる」でした。特に終わりの「満州が・・・」の部分に来ると声を張り上げるので、ここだけは、今なおしっかりと記憶に残っているのです。
母は小柄の人で、近所でも有名な働き者でした。洗濯は殆ど毎日のようにしていたようで、「カラスの鳴かない日はあっても、洗濯物が干していない日は見たことが無い」と、近所で噂されて居たそうです。
その母が台所仕事や洗濯をしながら、いつも鼻歌まじりで歌っていたのが、「砂山」でした。他に母自身が好きだったのか、事あるごとに歌いそして教えて呉れたが、下記唱歌でした。それらの中で60年余経った今でも、はっきりと覚えているのは次の唱歌で、今でも何かの拍子に何気なく鼻歌などで歌っている自分がいます。
<砂山>
海は荒海向こうは佐渡よ
すずめなけなけ、もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ
<青葉茂れる桜井の>
里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の(え=上)に
散るは涙かはた露か
<青葉の笛>
一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁き寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか青葉の笛
<一寸法師>
指に足りない一寸法師
小さい体に大きな望み
お椀の舟に箸の櫂
京へはるばる上り行く
そして歌いながら父母を想い出しているうちに、知らぬ間に口じさんでいるのが次の歌です。
・・・「母の歌」・・・
母こそは 命のいずみ
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿