路肩の雪がなかなか解けないので、自転車は封印して今日は徒歩で、厳冬期の富士山登山にチャレンジすることにした。無論、富士山登山と言っても、写真の白い峰に登るのは無謀だ、そんな訳はない。
以前、鶴見川の向こう、池辺周辺の富士山登山をしたり、ご近所を自転車で走って、その幾つかは回っていた。ただ、江戸時代に盛んに行われていたと言う、菅田村(今の区割りだと神奈川、緑、保土ヶ谷に跨がる)の7富士山巡りを完全には制覇してなかったので、今日完全制覇を目指したのだ。厳冬期なので、寒くならないように、アンダーアーマーのフリースを着て、徒歩で近所の富士山ポイントへ。
一番目の目標は、東本郷富士。明治時代の古い地図によると、この辺りなのだが、、、立派な住宅街に変貌している。第一の富士山はあえなく登頂不可能でまず一敗。
ただ、社を無くしてしまうのは恐れ多いので、20mほど離れた、北斜面に富士山の描かれた碑と共に社は配置されている。
二番目の目標の小机富士に行く途中で立寄った本郷神社も言われ書きを読むと、昭和初期にこの辺りの幾つかの神社を統合して、本郷神社としたらしい。
さて、小机富士、どう登るのかが事前調査では余り判っていなかった。小机城址の側には無く、第三京浜よりも山側のようなのだが。ひょっとして、あの赤い鳥居か?
以前新米を買った農家の庭先の細い道を登って、これかな?でも富士浅間は周辺より高い位置に有るはずなのだが、さらに上には墓地があるし、ちょっとおかしい。
本来の道に戻り少し進むと、富士浅間ではなく、富士仙元は右への標識。
ありました、小机の富士仙元。山の上にさらに土盛りして、富士山のような形をした富士塚≒古墳をつくってある。無事山頂にて、お参りをして、これで、富士山登山は1勝1敗。
辺りが林で覆われているので、眺望は望めないが、少し歩くと、この眺望。富士塚が出来た頃は、煙のたなびく富士山が見えたはずだ。
さて、三番目の富士山は菅田は中村の富士山。谷を一つ越えて、市営菅田団地を横切り、菅田公園へ。冠雪して、富士山らしい山容で、螺旋状に登る登山道も見える。
ただ、この富士浅間は完全に囲われていて登頂することができない。残念、登頂は1勝2敗。
で、さらに野越え、山越え次の下菅田の富士山を目指す。
最勝寺に着いたが、境内に富士山らしきものが無い。周りを見回して、山の上の方を見ると、、、あ、あそこだ。
菅田の富士塚群の中では最大級と言うように、江戸時代の沢山の石碑が富士山のそこかしこに林立している。
自然の地形ではありえない、斜度の急な山肌をジグザグに付けられた登山道を登り、山頂におわす仏様にご挨拶する。
これで、登頂は2勝2敗。一度下山して、ぐるっと回ると以前発見した水道道へ出る。
ならば、神明社にもお参りしていきましょう。
さて、5番目はおなじみの羽沢の富士山。道路に左側の裾野が削られてしまっている。
でも、この方角から見れば、完全な富士山形だ。
横にある平成の碑を見ると、ここに登れば月山、湯殿山、羽黒山に登ったことになるのかもしれない。
これで富士登山は3勝2敗。さて、次は未知の西谷の富士山を目指す。
梅の木近くの住宅地の急登を登れば、富士山神社の立派な鳥居とお社。
お社の向こうには富士山が見えるはず。
だが、残念ながら、西谷の新幹線の向こうに見えるのは大山まで。午後になったら富士山は隠れてしまった。
これで、富士山登山は4勝2敗。さあ、家に戻りましょう。戻る途中に有るのが、上菅田の富士山。
以前はこの辺りの小高い場所にあったはずで、
電信柱にも富士見の名前が書かれているのだが、
今は住宅の隅に追いやられている。ただ、誰かがお参りをするのか、しめ縄だけは掛けられている。
碑文を見ると、小御嶽。富士山への登頂はかなわなかったが、御嶽山を拝むことはできたのかもしれない。
と言う訳で、厳冬期の富士山登山は4勝3敗。縄文のはるか昔、煙たなびく富士山を望む丘に古墳が作られたり、江戸時代には盛んに火を噴いていた富士山、浅間山、御嶽山、、、を畏怖し、祭ったのだろう。さらには、その富士浅間を巡るレジャーが盛んで、これら7富士も盛んに訪れられていたのだろうが、今となっては、半分忘れ去られたものや、一方盛んに参拝されている富士山神社のようなものまで、色々な富士浅間があるようだ。
ネットを見ても菅田7富士塚の正確な位置が良く判らないものが多い。今日歩いたのは16km、2万6千歩あまり。下図はWadachiで作った、実際に歩いたルートと実走時間。7富士塚は青い色のマーカー、他の場所は赤で示してある。7富士巡りをしてみたいと思われる方はGoogleマップ形式で表示されるので、ダブルクリックして、拡大して、位置を確認してほしい。