マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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丹後庄松本寺十日盆

2011年09月07日 06時43分44秒 | 大和郡山市へ
天文九年(1540)といえば大和郡山百万石で名高い豊臣秀長が尾張で生まれた年にあたる。

その十年後の天文十九年(1550)には筒井城主の順昭が病気で亡くなり、琵琶法師の杢阿弥を城主にしたてあげ三年間もそのことを隠した時代だ。

そのころはまだ郡山の城下町は形成されていない。

その以前、もっと昔の庄園時代の頃に形成された大和郡山の旧村地域はその面影を残すところが多く、室町期に広まったとされる環濠集落が各地に散見される。

その旧村の一つにあげられるのが丹後庄町だ。

その名のとおり平城京を造るにあたって丹後からやってきた人たちが住んだとされる。

郡山にはそういった名称の旧村がこの付近に点在している。

美濃庄町もそうだ。

時代は若干異なるらしいが飛鳥の地からやってきた豊浦町、小南町もある。

それはともかく丹後庄町にはかつて松本寺があった。

あったというのは廃れて今では当時の堂を示す建てものがみられないからだ。

松本寺はその字が示すように「まつもとでら」と呼ぶ人が多いようだが、本来の名称は「しょうほんじ」と呼ぶ。

「まつもとでら、ってどこにあるのですが」の問い合わせがあって困ると話す檀家たち。

実は寺が存在しており集会所の中にあった。

本尊の仏像は宿院仏師の二代目である源次作とされる釈迦如来坐像。

天文九年(1540)十二月の作品で源次が仏師と名乗った最も早い時期に造られたと伝えられている。

銘記には源次の息子である源三郎と与一の名があるそうだ。

もう一つの仏像は阿弥陀如来坐像で同じく源次の作品。

翌年の天文十年(1541)四月に造られた。

宿院仏師は正統の仏師系図に載らない番匠(大工関係)出身の仏師集団だったそうだ。

両仏像は平成17年に奈良国立博物館で「戦国時代の奈良仏師~宿院仏師」特別展示で紹介された。

このことを誇りに思っている丹後庄の人たちはそろってそのことを話される。

この日は「十日盆」と呼ばれる法要の日。

三代前から飛鳥寺から住職が参られて法要を営まれる。

先代らが来ていたときは近鉄電車で飛鳥から筒井駅にやってきた。

そこから丹後庄まではたくさんの人たちが曳くリヤカーに乗ってきたそうだ。

平成10年、紀伊半島を上陸した台風7号が県内を縦断して荒らし回った。

室生寺の五重塔が倒木で損壊したことを覚えている人も多いだろう。

その台風は丹後庄も襲って千体寺(浄土宗)本堂の紫檀塗螺鈿厨子(したんぬりらでんずし)<鎌倉時代初期作>が危うい状況に陥った。

前記した仏像と同様に奈良国立博物館に特別展示されたこともある国文化財指定の厨子を守っていきたいと地元民は立ち上がった結果、国の補助が出てコンクリート収蔵庫の建設、厨子の修理やクリーニングが実現したのである。

それまでは松本寺の本尊仏は千体寺に納められていた。

安寿さんが居る時代だった。

その頃も同じように十日盆の営みはあったが場所はといえば千体寺だった。

いつのころか廃寺となった松本寺の本尊は千体寺で安置されていたのである。

そのときの十日盆は松本寺本尊の前ではなく「千体寺の本尊の前に座って手を合わせるのです」と安寿さんから叱られたことを思い出す総代たち。

それが台風の結果が功を奏し、同時に本尊阿弥陀如来坐像も修復されて元の場所に収まった。

今では会所になっているが「ここが松本寺なのです」と口々に話す。

さて、十日盆とは盂蘭盆会のことであって夏の夏安居。

インドでは坊に籠って修業をする。その前に供養をして亡き母親に救われる。

日本で最初に盂蘭盆会を始めたのが飛鳥寺。

そのころは7月であったが今は8月。

お釈迦の筆頭弟子にあげられる目連。先に亡くなった母親の恩に報いるに修業で得た神通力で亡き母親を探した云々・・・。蛾鬼道に堕ち込んで苦しむ霊を救うに食べ物を施した。その功徳を先祖への追善法要となった施餓鬼会の様相であると住職が話す丹後庄の十日盆の営み。

仏説盂蘭盆会経や般若心経が行われた。

焼香を終えてからは回向文。

そのとき、突然に廊下にあった太鼓を出してきた。



障子の扉を開けてそれを叩く。

住職は鉦を叩いて「ナンマイダー」をバチで叩く太鼓とともに50回。

調子併せて唱える作法だ。

話によれば「その昔、天気がヒヤケ(干上がって)になって、その年は疫病が流行った。祟りがあったからと太鼓を叩いた。それからはどんなことがあっても続けな」という伝えがある十日盆の作法。

それゆえ今日も続けていると話す。

盆の行事に疫病退散の作法が混ざったのではないかと思われる。

その太鼓には「和州平群郡安堵邑西川兵蔵張之」が書かれていた。

先祖を弔い皆が幸せになるようにと最後は回向文を唱えた。

その後はカマボコを肴に供えたお酒をいただく。



4、5年前まではカマボコでなくアブラアゲだったそうだ。

ぶ厚いアブラアゲは斜めに切って醤油、みりんで味付けして炊いた。

平端のとうふ屋さんで買っていたという。

そのアブラアゲはゼンマイやコンニャクと一緒に炊いて葬式のときにだしていたと話す。

(H23. 8.10 EOS40D撮影)


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