マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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佐紀東町・葛木神の節分祭

2019年08月08日 08時57分46秒 | 奈良市へ
東町の座中から教えてもらった2月3日の節分祭。

枡に盛った節分の福豆を交換すると聞いた再訪である。

節分祭に相応しい福豆を供えておく。

村神主、八人衆が乾垣内に鎮座する葛木神社の本殿に吊るす四つの吊り提灯。



しばらくしてから村神主がお祓いをされた。

神事を終えた村神主は供えた福豆を下げて拝殿の前に移す。



お神酒にカワラケ。

スルメイカに捻り昆布を盛っておく。

これより来られる参拝者によばれてもらうお神酒に肴である。

神事を終えてすぐに来られる参拝者。



鈴を振って手を合わせていた。



ただ、下げた福豆やお神酒にカワラケ。



スルメイカに捻り昆布を並べた状態を見られた参拝者。

さてどうするのか、迷っておられた。

初めてこられたのだろうか。

節分祭の要領を知らないのか、「どうしたらいいのでしょう」と尋ねられる。



「参拝を済ませたら、どうぞいただいてください」と伝えていた座中。

参拝の一番手は隆光僧正の初名、川辺隆長が先祖にあたる川辺家の人だった。

豆を供えることなく熱心に手を合わせて拝んでおられた。

次の人も参拝するが、豆ではなく、栗が良いだろうと供えた。

栗を供える形式は初見である。

節分或いはトシコシ(年越し)とも呼ばれる旧村行事につきものの豆交換。

参拝に豆を供えて、先に参拝した人が供えた豆を持ち帰る。

簡単にいえば豆の交換であるが、ごくごく普通にある習俗である。

ここ佐紀町では、かつてあったのかどうかわからないが、参拝者が“福”を持ち帰る福豆交換の習俗信仰が薄らいでいるのでは・・と思った。

平成26年の2月3日。

すぐ近くになる佐紀中町の門外神社にも節分祭がある。

福豆の交換をしていた村の習俗。

個々参拝に持ち帰るには少しの懸念、村の人が申し出た意見を取り上げ、中身の見えるビニールの袋詰めに切り替えた。

斑鳩町目安の春日神社にも豆交換はあるが、袋詰めでなく半紙を摘まんだオヒネリの形である。

大和郡山市新木町(にきちょう)の新城神社の節分祭。

ここには袋詰め、オヒネリの形は見られない。

参拝者は別器に持ってきた豆を供えて、村神主が別途用意していた器に盛った福豆を一握り持ち帰る。



地域によって一定の形でない福豆交換。

本来のあり方よりも清潔さを考えた手段はさまざまな形式を生む。

境内にずっと立ち尽くす男性がおられた。

大阪の堺から来たという男性。

堺のある神社。

仁徳天皇というか、おほさざきのみこと(大鷦鷯尊)に導かれて当地に来たという。

男性がいうには、若宮さんという神々が枕元に立たれて「葛木神社に参られよ」とお告げがあった、という。

ネットなどで探した結果、お告げがあった神社は佐紀町だった。

今日初めての参拝でなく、初参拝は昨年の12月。

その後にまたお告げがあった。

「神さんにお酒を供えよ」というお告げだった。

そのお告げがあったから、本日も参ったと語る男性。

お神酒として献酒をしたいが、どうするのかわからなくて拝殿に置かせてもらった。

しばらくして拝殿に寄進者名のあるお神酒があるとわかって本社殿に供えたと・・。

その経緯を村神主に伝えて場を離れた。

そういえば、すぐ近くにヒシアゲ古墳がある。

仁徳天皇の皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵墓とされる。

佐紀町との繋がりはここにあった。



さて、参拝の波が和らいだところで拝見させてもらった社務所保管の絵馬。

大正元年拾月吉日に寄贈された武者絵である。

寄進者は東部青年會。

連名された寄進者数は55人。

京都・山城町の祝園(ほうその)の人も併せて寄進された武者絵馬。



描いた製造人は大阪の難波。

御堂筋南本町の稲垣製、とある。

墨書された寄進者名はどなたも存じていないという。

大正元年生まれの人なら107歳。

大正元年に寄進した青年會(青年団)なら、さらに下って、仮に二十歳として計算すれば明治25年のころの生まれ。

存知し難い127年前のころの寄進者である。

(H30. 2. 3 EOS40D撮影)


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