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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

箕輪の民俗調査

2020年05月13日 09時44分45秒 | 山添村へ
昨年の5月5日に訪れた山添村の箕輪。

植え初めを実施している地域調査。

結果的に云えばまったく見つからなかった日である。

いろんなところを回遊してきたが、とうとう見つからなかった。

ぐるっと巡ったところにサシナエをされていた婦人。

その婦人はKさんの奥さん。

前年までは植え初めになんとフキダワラをしていたと話してくれた。

出会いに一つの事例に遭遇であるが、その年でやめたという「幻のフキダワラ」である。

実物はもう見ることはできないが、当時していたあり方は、記憶の一部であるが、文字で記録させてもらった。

箕輪に着いた時間は午前10時。

特に時間を決めたわけでもなくK家に向かう表敬訪問であるが、先に出合ったご夫婦に少しばかりのお話を伺う。

除草剤を撒きたいが強風で煽られて今日も難しい、という85歳の男性。

植え初めにしていたフキダワラは昭和20年代にやめた、というからずいぶん前の戦後のことである。

牛耕は、昭和30年代までしていた。

そのころに導入された農村の機械化。

戦後も早や10年も経った時代に発展する近代的文化。

牛に代わった耕運機である。

実は、箕輪に寺はない、という。

えーっ、そうなんだ。

村、それぞれにお寺は必ずあるものだと思っていたが、思い込みの認識が覆された日である。

調べてみれば、箕輪以外にもお寺の存在がない村もあるが、このブログもそうだが、調べきれていないだけだろう。

寺院欄が空白の松尾、的野、峰寺、遅瀬、中ノ庄、吉田、箕輪であるが、遅瀬に地蔵寺がある。

涅槃会を取材した地蔵寺は間違いなく存在している。

遅瀬にはもう一つある。

現在は集会所になっている中南寺で取材した観音講の営みである。

吉田も集会所内に自作寺が存在する。

それはともかく、寺院はなくとも信仰のお家に来てもらって拝んでもらわなあかん。

ここは旧都祁村の針にある観音寺から北谷さんに来てもらっていた、と。

現在は身体を壊した北谷さんに替わって息子さんに来てもらっているそうだ。

北谷さんといえば、務めていたお寺は大字伏拝(ふしょはい)にある真言宗豊山派の神野寺(こうのじ)。

先代住職の北谷さんの後任に弟さんの北谷住職が継いだ、と話してくれた。

息子さんも北谷住職も村行事取材になにかとお世話になったことがある。

85歳の男性が続けて話すお寺関係。

旧都祁村の針・小倉・下深川も檀家。

総数は400軒にもなるという。

なお、下深川の隣村である上深川は檀家でないが、頼まれ、で法要しているとも。

檀家話題を聞いてすぐ近くのK家に立ち寄った。

訪ねていけば、ご夫妻とも屋外に座って日向ぼっこ。

こんな日もあるらしく、ほのぼのとした時間に迎えてくれたが、フキダワラはもうすることはないという。

植え初めのカヤサシはもうすることはないが、田植えは当然なこと。

明日にしますが、のお言葉に甘えることにした。

箕輪から離れて車を走らせる。

道なりに行く坂道カーブに見た花畑。



目に焼き付けておきたいくらいの花は菖蒲。

さて、ここはどこだろう、とカーナビゲーションを見たら隣村の大字助命(ぜみょう)。

奇麗に咲く花から、その坂道は、菖蒲街道と呼んでみようか。

ところで、後年にお会いしたKさんに尋ねた箕輪の山の神。

めいめいが参る箕輪の山の神は最近になってみなやめた、と。

平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書』によれば、箕輪の山の神は以下のような状況だった。

「一月七日、丑の刻から、だれと出会っても口を開かず、無言で参拝する。その男の数だけそろえた“カギ”を担いでいく。その家の男の数の餅、柿、蜜柑などをお供えする。ご神木の木に“カギ”をひっかけ、引きつけながら無病息災、山仕事の安全を祈願する。“西の国の糸綿(いとわた)、東の国の銭かね、赤牛の鞍に積んで、どっさりこ”のかけ声をかけて引く、という。前の参拝者が供えた御供さんをいただいて帰るのが通例であったが、最近は供えてすぐに持って帰るようになった。この日は、終日とも山仕事のたぐいの仕事をしてはならないことになっている(※若干補正)」と書いてあった。

ちなみに隣村の大字助命(ぜみょう)にも山の神の記述がある。

「一月七日は、山の神で男子の行事である。七日の未明の時間帯。重箱に詰めた男子の人数分の餅に串柿、蜜柑、勝栗(かちぐり)、昆布、ところ芋などをもって参拝する。健康、すなわち無病息災を祈願する。お参りは無言。道中は、人と出会っても挨拶は交わさない。お供えの御供はいただくが、男子のみとし、女子はいただかず、朝食は家族揃って七草粥のお粥を食べる(※若干補正)」とあった。

(H30. 5. 5 EOS7D撮影)

大西・稲荷神社の初午

2020年02月06日 09時57分35秒 | 山添村へ
今年こそは失念せずに訪れたいと思っていた山添村大西・稲荷神社の初午行事。

この年の1月7日に立ち寄らせてもらったジンスケ屋敷跡の山の神

早朝、いやその時間帯よりももっと早く来る人もいるという山の神行事であるが、事情があって訪れたのは遅い時間帯の午前中。

山の神に捧げ供える七つ道具などを拝見していたときである。どなたもおられない時間帯に足音が聞こえた。

やってきたOさん親子。

次いで来られたOさんもまた、遅めの時間帯の山の神参り。

そのときに話してくれた初午行事。

来るか、来るかと待っていたそうだ。

初午はその年初めの「午」の日であるが、稲荷社行事の場合は、2月初めの「午」の日にされる初午と3月初午の二ノ初午にされる地域がある。

大西は二ノ初午であるが、近年は3月の第一日曜日に移行された。

大西の稲荷神社行事を拝見するのは、平成28年12月4日に行われた新嘗祭以来の2回目である。

新嘗祭と同様に参籠所に幕張り。



白地に狐の姿を大きく描いた狐の幕。

よく見れば赤味がかかっている幕は大正四年二月に寄進された。

狐の目の前にあるのは三方に盛った三つの牛玉の寶印。

炎のような線描き。

おそらく手書きしたものであろう。

大西の稲荷神社の狛犬は獅子狛犬でなく、稲荷大明神の使いである眷属の狐である。

大正十四年一月に野村佐次郎十二歳が寄進建之した狛狐の台座にも三つの牛玉の寶印がみられる。

もう一つの印は、2本の幟旗である。

いずれも一反の長さ。

およそ7mの幟旗に圧倒される。

「奉納 稲荷大明神 村内甚七」とある。

もう1本は、風合いが魅力的な薄紺色地に白抜き文字の「稲荷大明神」。



その下にある柄模様に見惚れる。

上から正面に向き合う2匹の狐の姿。

その下に、三方に乗せた神酒口。

扇のように広げた形にコヨリのようなものまである。

また、花瓶のような神酒口には、見たこともない彩色柄がある。

その下にあるのもまた彩色した五つの牛玉の寶印。

こんなに素晴らしい図案の幟旗は今まで見たことがないだけに嬉しさ一頻りだった。

集まった村の人は35人。

一昨年、先代のT神職から引き継がれた柳生・阪原在住のO宮司が祭主を務める。

境内に並んだ役員たちに氏子ら。



祓詞に祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。

玉串奉奠の順は区長。

氏子たちは区長の動きに合わせて拝礼する。

次は大トウ(大当家)に小トウ(小当家)。

両当家に合わせて関係者も揃って拝礼する。

撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた初午神事。

参籠所に場を移して直会を始める。

稲荷社左側にはずらりと末社が並ぶ。



左側から金毘羅大神、橿原神社遥拝、金峰神社遥拝、大国主大神、大宮姫大神、廣田神社。

右側に保食神社がある。



その前の灯籠に「干時 天保八丁酉年(1837)二月初午」とある。

直会はじめに説明される大西の稲荷神社のこと。

同神社は、元々隣村の菅生(すごう)領であった。

昔は菅生と大西の人たちが祭っていた神社。

いつしか菅生が離れて、大西だけが行事を継承してきた。

昭和27年6月に宗教法人化。

設立時の神社規則によれば在地は波多野村の大字大西である。

ところが規則が変更された昭和31年4月には、大字菅生に移った。

移ったといっても同じ番地だから事実上は移動していない。

なんらかの事情で大字名が菅生になったようだが、正しい在所の大西番地に規則を変更した。

63年を経て正しい地番表記に法務局へ出向き登記変更した、と伝えられた。

上座に並ぶのは宮司に区長に、上の老人と云われる座の一老、二老、三老。

四老は右列の上座側に座る。



大西の歴史変遷がすっきりしたところで始まった乾杯。

初午に供えたお神酒を一杯。

早速、動きだした両当家。



お酒注ぎに動きまわるし、酒の肴のジャコと竹輪もまわす。

ジャコと竹輪は新嘗祭と同じ。



いつも決まった肴であるが、かつてはこれに煮しめもあったそうだ。

直会が始まっておよそ50分後。



当家が動きだした。

実は、神事が終わっても神饌御供は拝殿に置いたままだった。

不在であればエサを求めて飛んでくるカラスの餌食になっては、と当番の人がずっと見張り、現れたら追い返すそうだ。



神饌ものは、お神酒・塩・水の他、洗米、丸太の生鯖、海苔、キャベツにバナナ。

そしてゴクマキに登場する大量の御供餅。

オーコで担いで運んできたと思われる桶の餅が4杯。

お重に盛った餅もまた大量である。

下げた生鯖は早速、調理にかかる。



この年、当家を務めるFさんは、入院中の身であるため与力が代理参列。

また、当家婦人は鯖を切り身に包丁を入れていた。

切り身にした鯖は、炊事場のコンロで焼いて作るが、そのときの道具はアルミホイルを敷いたロースターやフライパンである。

切り身自体の焼き時間はそれほどでもないが、大勢に食べてもらうにはちと時間がかかる。

表を焼いて裏面も焼いてできあがった鯖は熱いうちに配られる。



並行して供えたバナナも配るが、これもまた食べやすいように三つ切り。



盛った皿が廻ってきたらめいめいがとっていただく。



その後もしばらくは団らんの渦。

お酒も入って賑やかに直会時間を過ごした人たちは、場を移した境内でゴクマキに興じる。



当家や役員たちが放り投げる御供餅に歓声が飛び交う。

僅か数分ですべての御供餅を撒き終えた。

初午行事にしか立てない幟旗も撤収。



一年後もまた美しく色彩豊かな牛玉の寶印に狐さんを見せてくれるだろう。

ところで、直会を終えた直後に、上座におられた上の老人に声をかけられた。

実は、上の老人はF当家の与力でもあった。

奉行与力でなく、いわゆる村落における与力制度をここでは詳しく述べないが、与力は本・分家を支援するようだ。

F家の助け人でもある上の老人のお願いは、本日撮らせてもらった写真である。

入院中の身だけに参列できなかったF家に、本日の初午行事はこうして、無事に終えたから安心してほしく、写真で伝えたい、ということである。

後日に整備した初午写真と、前年の1月6日に撮らせてもらったチョウジャドンの膳写真とともに持参した。

不在だったのでポストに投函しておいたら翌日にお礼の電話をもらった。

初午行事の写真はすぐさまお願いされた上の老人の手から入院中のFさんに届けたそうだ。

記録の映像がお役にたった。

写真家冥利に尽きるお礼の電話が嬉しい。

(H30. 3. 4 EOS40D撮影)

毛原・長久寺の子供涅槃

2019年08月23日 10時53分05秒 | 山添村へ
山添村毛原の長久寺で子供涅槃をされていると知ったのは何時だったのか。

ずいぶん前のことだけにすっかり忘れている。

尤も毛原の涅槃は平成5年11月に山添村教育委員会および同年中行事編集委員会が発刊した『山添双書』に書いてあった。涅槃会及び子供の涅槃講である。

「数え年、17歳までの男子が主体となって、講を営むことになっており、それを子供涅槃講と呼んでいる。釈迦の亡くなった2月15日に行うのが建て前であるが、当日は学校が休みでない場合は、休日に繰り上げて営むことにしている」とあった。

「当日の朝9時ごろ、講員の子どもたちが集まって、2班に分かれる。大スズメとなる大きい子は、米を入れる袋を肩に掛けて他の子スズメたちは大声で“ネハンノスズメ 米ナラ一升 銭ナラ百ヤ”、と連呼しながら各家々を巡り、米またはお金の喜捨(きしゃ)を受ける。“ネハンの雀(すずめ)”、と唱えているようだが、おそらくは“ネハンの勧め”、の意味であって、“勧め”が転訛(てんか)、“雀”、になったと考えられる」とあった。

長久寺では毎月のお勤めに村の東寺大師講の人たちが参られる。

東寺大師講のお勤めは21日であるが、都合によってはその日より前にする場合もあると聞いていた。

2月に行われる子ども涅槃のときもそうである。

初めて毛原を訪れた日は平成22年2月21日だった。

子供の涅槃など毛原の年中行事を教えてくださったのはFさんだった。

その年の4月1日。

毎月の月初めに八阪神社で行われる再拝(さへい)を拝見した。

翌年の平成23年は1月10日に訪れて長久寺のオコナイを拝見したかったが、すでに終わっていたと、当時区長だったOさんがいっていた。

子供の涅槃のことも聞いたと思うが、たぶんに日程が合わなかったように思う。

次の平成24年の1月7日

写真家3人を連れだって毛原の山の神の様相を撮りにきたことがあるが、他所の山の神を拝見したく、このときもまた子供の涅槃は聞かずじまいだった。

2年後の平成26年、意を決して車を走らせた2月16日

日曜日だったその日にしているのでは、と思って雪道をトコトコ走ってきたが、一週間前に済ました、と京都東寺から息子さんの住職とともに来ていた母親のHさんが話してくれた。

翌年の平成27年は2月15日が日曜日。

本来の日であるから、間違いなくその日にしていると判断して訪れたが、前日土曜日の14日に済ませたという。

まことにショックなことであったが、お寺さんの都合もあるので例年とも固定の曜日でもなかったわけだ。

翌年の平成28年の2月は身動きがとれない状況下にあった

平成27年7月に発症した心臓弁破損による手術。

同年の12月にはカテーテル処置にために再び入院。

退院したものの車を運転できる状態ではなかったから取材どころではない。

ほぼ復帰できたのは平成28年の3月半ばだった。

主治医の許可を得て再び民俗取材に立ち上がった。

毛原に再訪したのは、その後の5月21日

Kさんや村教育委員長になられたFさんの奥さんに聞いた年中行事をきっかけに、八阪神社の端午の節句、そして云十年ぶりに復活された田の虫送り、八阪神社のヨイミヤまでも取材させてもらった。

子供の涅槃は不定期日程。

村の長久寺・東寺大師講がお寺さんと日程調整されて決めているようだと思ってN区長に電話した平成29年2月11日。

時すでに遅しで、その年もまた終わっていたと知る結果に、平成30年は早めに電話を架けて確認することにした。

電話したのは2月7日。

実施日は2月11日であるが、檀家総代など関係者の確認を要するということで、今夜の集まりに確認しておくということであった。

子供の涅槃の件を聞いてから8年目のこの年になってようやく拝見することになった。

お聞きしていた時間帯は午前10時。

扉を閉めていた長久寺本堂。

堂内から洩れ聞こえるご詠歌。

毎月の例会に唱える西国三十三番のご詠歌である。

そろりと扉を開けさせてもらって入堂する。



実は東寺大師講の講員のうちお一人は存じている。

再拝に端午の節句。田の虫送りの祭にもお世話になった女性はN区長の母親だった。

よろしくお願いしますと頭を下げて取材に入る。

例月のご詠歌はいつも7番まで、だという。

左手におりんを持って鳴らし、右手は小型の鉦を打つ撞木(しゅもく)。

ご詠歌を唱えながらおりんに撞木。

穏やかに、そしてゆったりと流れる東寺大師講の所作にうっとりする。

観世音菩薩のご詠歌を願わくば・・とから始まる長調子のご詠歌。

導師に合わせて14人の講員が唱えるが、おりんに撞木を持っているのは前列の7人だけである。

後方に座った講員は詞章に合わせて唱えている。

導師はYさん。

伸び伸びと、そして優しく唱える調子がまた心地良い。

7番を唱え終えて、打ち止めの33番を唱える。

そして、「巡り来る人も願ひのかずあれば 慈悲もつもるや長久の寺」とある毛原長久寺本尊地蔵菩薩詠歌で締めくくり。

なーむだいし、かんぜんのんぼーさつ・・そくしんじょうぶつ・・なむだいしへんじょうこんごう・・ねがわくば・・と唱え、おりんを置いた。

およそ15分のご詠歌に引き続き唱える涅槃和讃もまた長調子で唱える講員たちであるが、掲げた大きな涅槃図に向かってである。



座布団ごと向きを少し移動して唱える涅槃和讃。

「くしなの森に夕日落ち 尼蓮の河水瀬をとどむ 天地静かに声なく 沙羅樹の花ぞ乱しく 時しも如月十五日の夜に 月も御空にかかる時 如来は涅槃の床に座し 最後の法門説き給う ・・・・」もまた、ゆったり和讃の長丁場におよそ10分もかけて唱えていた。

子供たちがそろそろやってくる時間帯であるが、来る前に拝見しておきたいお軸を収めている軸箱の墨書文字。



「大恩教主釋迦年尼如来涅槃像」とあった。

また、子供の涅槃を終わった際に拝見した涅槃図の裏打ち文字は「明治廿八年二月大吉祥辰長久寺現住寶山智龍代」であった。



寶山智龍とは・・・山添村の語り部にあった高僧智龍が詳しい。

明治2年に大和長谷寺に入門、修行された高僧智龍は、明治7年に無住荒廃していた長久寺の住職に就いた。

その後の明治13年、病に伏していた智龍は夢枕に現れた弘法大師のお告げを聞いた。

明治15年、裏山に霊場大師山を開き、山にあった自然石を利用するなど四国八十八カ所に倣って自力で造った大師石仏をはじめ、大師堂や大師夢想湯など数々の施設を調えたとあるから、さらに、その後の明治28年に涅槃図を新調したようである。

なお、本日はお寺さんの都合もあってやむなく欠席された住職。

実は、と聞いたのはこの日のお勤めである。

日が重なった長久寺住職は、この日に隣村の勝原に三カ谷へ出向いて先祖供養の回向をしていたそうだ。

午後11時のころ。

次々と本堂に集まってきた子供たち。



これより始まるのが子供の涅槃であるが、現在は涅槃図に向かって手を合わせ、そして東寺大師講のみなさんとともに般若心経を唱えるだけになっている。



かつては前述したあり方であったが、実に簡素化されたのである。

この日に親ヤド家を務めるのは昭和47年生まれのFさん。

子供さんの女子中学生がオヤ。以前は男子が務めるオヤであったが、現在は緩和されて女子も務めるようにしたそうだ。

父親のFさんが子供のころ。お米貰いに中学3年生のオヤとともに村各戸を巡っていたという。



米を集めることはなくなったが、今でも継承しているのは涅槃図の前に供えるきな粉ご飯である。

お茶碗一杯に詰めたご飯にきな粉を塗して供えたきな粉ご飯。

めいめい一人一人が賽銭をあげて手を合わせる。



偉大な徳に感謝、心からご加護を願って祈っていた。

熱心な姿で祈る子供たちの作法を見守る東寺大師講のみなさん方。



お詣りを済ませたら、お下がりのお菓子をもらう。

順番に廻ってくる参拝の列。

今年は17人であったが、少ない方だという。

前年が25人だった、というから毛原の子供が実に多いとわかる。

今日はいい機会だから、と講員たちは子供たちとともに般若心経を唱えることにした。

導師は涅槃図の前に座って申した。



最初にご真言を唱えて、般若心経を一巻。

そして、なーむだいし~ぼさつ。

神妙な面持ちで手を合わせる子供たち。

落ち着きのない子もみな手を合わせていた。

「この涅槃図に一匹だけ動物が多いって知っていますか。知っていることだけ、知っていたらええんよ」と伝えたら、一人の子どもが、声をあげて「猫」と云った。

十二支にならんかった猫のことも知っているとは、たいしたものだ。

ちなみにヤド家を務めたFさんの父親は、端午の節句などの神社行事で世話になったFさんだった。

その節はたいへんお世話になった、と息子さんにもお礼を述べた。

心経を唱えたら場は解散。

子どもたちは寺下にある構造改善センターに集まって涅槃の食事。

現在はカレーライスになっているが、かつては五品の煮物が主。

大根と里芋の煮付にコンニャクもコーヤドーフも煮付け。

その他にネギの酢和えやホウレン草のおひたしに油揚げ飯であった。

構造改善センターを利用するようになったのは平成元年から。

その数年後には会食の材料である豆腐粉が入手困難になったことから、この一品は廃止したとある。

献立のあり方を簡略化。

カレーライスに移っていったのは何も毛原だけでなく、奈良市東部も同じような傾向にあった。

カレーライスを味わっていた子どもたち。



部屋中で遊ぶよりも外の方がいいようだ。

(H30. 2.11 EOS40D撮影)

大西のジンスケ屋敷跡の山の神

2019年05月31日 09時26分18秒 | 山添村へ
ホウの木で毎年作り変えるのは手間がかかる。

区長の役目であるホウの木造りの刀。

山添村の下津でも聞いた役目であるが、ここ大西も同じだった。

山の神の祭場に供える数々の祭具。

刀の他に山仕事に関係する七つ道具。

それらを拝見したくやってきた山添村の大西。

平成28年10月9日に拝見した座祭り。

八王子神社の参拝に座祭りされた旧極楽寺会所。

格式のある座行事であった。

大西の神社行事は八王子神社から少し距離が離れた地の稲荷神社においても行われている。

平成28年の12月4日は芋串祭りとも称される新嘗祭だった。

また、1月6日は旧極楽寺で行われるオコナイも拝見させていただいた。

この日の行事は神社行事でもなく寺行事でもない山の神に参る行事であるが、集団で行われるものではない。

各家、めいめいが個々に行われる山の神参り。

カギヒキの作法もあると聞いていた。

早い家では夜中の0時過ぎになれば参拝する。

朝日の昇らない時間帯に来る人とか、明るくなってから参るとかまちまちの時間帯。

毎年を同じ時間帯に来る人もおれば、毎年が違うという人もいる。

ずいぶん前のことである。

同村の春日の山の神を拝見したことがある。

どなたが何時来られるのか、さっぱりわからないが、何人かが参られるだろうと出かけた大字春日。

真っ暗な山の道を歩いて着いた山の神の場

辺りはシーンとしていた。

ときおり風が囁く。

何かの動物が動いたような音もするが・・・。

時間の経過は覚えていないが、参拝に来られた人に撮影許可をお願いして撮らせてもらったことがある。

真っ暗な時間帯の山の神参りにピントが合わずに難儀したことを覚えている。

大字大塩では予め許可をいただいてお家を出発するところから同行させてもらったこともある。

そんなことも思い出す山の神の取材。

地域、それぞれの様相がある。

供えたホウの木造りの刀の他に七つ道具。

毎年、造ってきたが手間のかかる作業。

区長の役目であるが、これは数年前に作ったものらしい。

ホウの木造りの山の神はニス塗り。

汚れは多少つくが1月15日になれば下ろして奇麗に拭きとって次の区長の廻りに保管預かりをしてもらうようだ。

予め聞いていた大西の山の神。

到着した時間帯は午前11時。

車を停めさせてもらう場から眺める田んぼ付近に人だかりができていた。

かすかに見えた“火”遊びではなく、とんど焼きであろう。

気になるとんど焼きにブルーシートを被せている藁積みもあるが、今日の本題は山の神。

大欅があるからすぐ見つかるといわれて先に出かけた「ジンスケ屋敷跡」。

実はこの日は大字大西のとんどの日。

そのことを教えてくださったのは同大字大西在住のFさん。

正月3日に行われるチョウジャドンの膳を取材させていただいた際に話してくれた地区4軒のとんど焼きである。

地区はまさにその方角。

とんどは大きなものでなく小っちゃなとんど、といっていたから間違いない。

かつては習字焼きもしていたが、今は誰も・・・といっていたが火点けの時間帯は早朝ではなかったようだ。

ちなみに「ジンスケ屋敷跡」下に住んでいる高齢の婦人がいうには、ここもとんどをしていたそうだ。

道路向かい側にある共同井戸。

その前の道でしていたが舗装路になったことから中断に至ったそうだ。

その婦人が指さした山の神行きの道。

急な坂道を登ってすぐ。

鬱蒼とした樹林の向こうに大木が見える。

それが大欅。



その地に整然と並べられた山の神に奉る刀と七つ道具。

真上に注連縄を張っていた。

注連縄右横にあるのはフングリ。



近くにクリの木で作ったカギヒキがある。

中央に刀。

艶のあるニスを塗ったホウの木に「五穀豊穣、字中安全」の墨書文字。

下部の柄に付けた×××印でわかる刀。

裏側も確認したかったが、触ることは厳禁だ。

左右に並べた七つ道具。

左からカマ・ナタ・ノコ・ヨキ・・・2本のクワ・スキ。

クマデもあると聞いていたが見当たらない。

2本のクワとみたが、うち1本がクマデかも・・・。

道具の前にあるのがクラタテ。

他地域とは違いのあるクラタテ。

蔵になる部分の四本柱のない1本柱の構造にシデ。

三角巾のように敷いた半紙の上に二段の鏡餅。

クシガキに栗、葉付き蜜柑を揃えた周りに置いてあるのは参られた各家が供えた御供。

長さは短いが同じようにクシガキ、栗、蜜柑にキリコ餅(切り餅)。

メザシや髭のあるトコロ芋を供える家もある。



これら祭具に御供を撮っていたとき、下から登ってくる家族連れに出会った。

存じている男性は平成28年10月9日に行われた座まつりに相当家を務めたOさん。

持参した一束の藁をとんど場に置いてから2個の御供餅を山の神に供える。

手を合わせて拝んだら手前にあるクリの木でカギヒキの所作をする。



山の神呼びの詞章は聞こえなかったが、もう一度手を合わせて参拝を終えた。

実は心の中で五穀豊穣を唱え、カギヒキは3回したという。

参拝したら供えた餅を持ち帰る。

山を下る前にとんど場で火を点ける。



藁束を燃やして餅を焼く。

その様子を見守る息子に孫さん。

ここでは少し焼くだけで、家に持ち帰ってから本格的に焼いて、家族揃って食べるという。

それから数分後。一人の男性が登ってきた。

なんと、座まつりに大当家を務めたOさんだった。



前相当家と同じように御供餅を供えて、カギヒキの所作をする。

前大当家のOさんも同じように心の中で五穀豊穣を唱えていたのだろう。

Oさんも同じように話してくれた共同井戸の前でしていたとんど。

新道路が完成してきれいになったから止めたという。

とんどはしなくなったが、この共同井戸は8月7日に井戸替えをしているという。

今でも使用している共同井戸はポンプで汲み上げる。



汲み上げた井戸水はパイプを敷設して地区の家に供給しているようだ。

8月7日は七日盆。

オコナイをしていた極楽寺にある石塔墓地である。

7月24日からの毎日。

輪番の人がその墓地に行燈を灯す。

井戸替えは7日にしていたが、現在は第一日曜日の朝。

6~7人が集まって井戸周りに生える雑草刈り。

大欅の周りも奇麗にするが、井戸そのものは洗ったことがないという。

洗いがあれば拝見したいと思った七日盆の井戸替えであるが、10日盆も清掃しているらしい。

座まつり取材にお世話になった両人。

3月の第一日曜日に行っている初午行事。

ゴクマキに来てくれるやろと思って待っていたという前年行事の稲荷神社の初午。

失礼したことが申しわけなく、今年こそは寄せてもらいますから・・。

(H30. 1. 7 EOS40D撮影)

テントバナに風切りカマ

2018年05月28日 09時24分05秒 | 山添村へ
三重県伊賀市の下見帰りに途中下車して山添村切幡で行われているおつきようかの状況を視察する。

ついさっきに立てたとOさんと立ち話に30分間。

4月30日に田植えをしたけど、蕗が小さくて植え仕舞いのフキダワラは、せんかったということであった。

ところで、この日のテントバナに、なんと“カマ“があるではないか。

下から登ってきたときは瓦の色に溶け込んでいて気がつかなかったが、家屋前から拝見したら“カマ”に気づく。

インパクトのあるカマ映像が眼前に迫る。

そのように感じた“カマ“であるが、昨年に立てたテントバナの様相からずいぶんと変容した。

同村におられるTさんから聞いていたかつての同家の在り方がこの形。

風を切るカマの立ち姿にしたという。

Oさんが云うには、都合で一日早めた昨日に立てたそうだ。

そのカマはおつきようか竿の先端に括り付けた。

ヤマブキは見つかったので竿に括って飾ったが、フジの花が少なすぎて・・。

また、ベニツツジも見当たらなかったから、普通のツツジをあしらった。



元気でいるから今年もできたというOさんは昭和16年生。

平成23年に行われた村行事の田の虫送りを終えたあとの会話で話してくれた数々ある家の行事。

その一つがおつきようかであった。

昔しは5月9日におつきようかの竿を倒していた。

飾ったお花は括りから外して近くの川に流していたという。

この年は4月30日に田植えをした。

蕗の成長はまだ早かったらしく蕗の葉が小さかった。

植え初めのご飯も載せられないくらいに葉が小さい。

この年は仕方のないことで、断念したという。

おばあさんが生きていたころの植え初め。

蕗の葉の上にご飯をおましていたから、今でも継承している。

蕗の葉の枚数は12枚。

旧暦の閏年の場合は13枚になる。

旧暦の閏年は大の月が2回あるから、月数が13になる。

江戸時代からそうであった旧暦年の在り方である。

家の行事はいつも教えを乞う。

この日はそれだけでなく交友関係も・・。

実は、と云って語る同級生。

室生・下笠間の春覚寺に出仕されるS住職に旧都祁村・馬場の金龍寺のI住職も同級生。

なんと、お二人とも行事取材でお世話になった僧侶である。

また、この年限りで寺住職を引退した福住・西念寺のMさんの話題も出る。

その流れから旧都祁村・白石の興善寺までも。

興善寺は大阪・平野の大念仏寺が本山。

住職は大念仏寺の社務職に移った。

その代わりに息子さんが引き継いで、この年の5月21日に晋山式を務める予定があるという。

(H29. 5. 7 EOS40D撮影)

箕輪・サシナエからフキダワラの話題

2018年05月22日 09時13分42秒 | 山添村へ
奈良県内の、特に東山間でこれまでずっと行われてきた田植え作業に纏わるフキダワラが瀕死の状態にあるとわかった。

旧五ケ谷村から登っていく旧道。

やがて西名阪国道に出会う。

そこからは高速道。

次のICは天理市の福住町になる。

訪ねてみたい家は見つかったが、不在だったM家。

福住S・ジョブズ・スクール代表のMさんをしばらくは待っていたが、何時になるのかわからないまま待つわけにもいかず、ここ上入田を離れて同市内の山田町に向かう。

山田町は上から下へと下る。

下ると云っても道はなだらかな道。

スピードが出過ぎないようにセーブしながら走らせる。

この地は上山田、中山田、下山田の三村。

数年前から田植え初めに行われるウエゾメ(植え初め)の在り方をみている。

今年はどのような状況になっているのか・・。

昨年に伺ったときはほぼ壊滅したような状況であった。

今年もそうであってほしくない現状調査。

生憎、これまでウメゾメをしていた中山田、下山田には影も形もない。

とうとうやってきた全廃状態に愕然とする。

旧都祁村の荻。

そして山添村の峰寺に室津を辿っていた。

そこから東へ向かう地に北野がある。

何年か前に拝見したことのある田圃に行ってみるが植え初めの痕跡は見られない。

そこからさらに東へ。

大塩に住まいするY家を訪れてはみたものの、先週の4月29日に緊急入院された奥さんの付き添いに今から病院へ行くと云われる。

Yさん夫婦とは私も通院している病院で何度かお会いしたことがある。

今度ばかりは血相抱えて今から・・。

すまんけど、と云われて期待していたフキダワラの件は聞かずじまいだった。

大塩と云えばもう一人。

年中行事の数々の他、お家の行事も取材させてくださったKさんがおられる。

2年前の平成27年5月6日

私が当時勤めていた仕事を終える時間に合わせて、フキダワラを供えてクリの木を立てるミトマツリをしてくださった。

そのご厚意が嬉しかった。

大塩から山手の方に向かう。

神野山へ行けばいいのだが、この日は隣村の箕輪。

田植え時期なら何かうかがえることもある。



そう、思って車を走らせたら田圃でサシナエしている婦人を見かけた。

手を休めたときに話してみたフキダワラ。

今年は足腰が痛くなってできなかったが、いつもならフキダワラを作って食べていたのに・・と。

大豆を入れて炊いたご飯は蕗の葉に包んでフキダワラを作っていた。

例年は24個も作っているフキダワラ。

オツキの花を添えて田植え初めの場所に立てるウエゾメ(植え初め)をしていた。

フキダワラは12個ずつ、1本のオツキの枝2本に、それぞれ括って合計24個も垂らしていた。

話しを聞いただけでも壮観なウエゾメ(植え初め)の在り方。

昨年の平成28年までしていたという。

オツキという花はウツギである。

北野でウメゾメをしていた高齢の婦人はウツギをオツゲと呼んでいたことを思い出した。

ウツギは地域によってオツキ或いはオツゲの名で呼んでいたことを知る。

家はサシナエしているところからすぐ近くに家があるというK婦人。

作ったフキダワラを隣近所なのであげたら、「あんたとこ、まだ、こんなことしてたんか」と云われることもあったが、今年は足が思うように動けなくて断念した身体事情。

来年には是非伺ってみたいと思った。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)

華香る芝桜庭園

2018年05月21日 09時31分34秒 | 山添村へ
さて、である。旧都祁村荻で売っていた臭い猪肉の原因がわかったところで、次はどこへ行く。

ここより川沿いに下っていく国道25号線がある。

北上すれば山添村桐山にでるが、手前の的野から県道80号と交差する信号の少し手前に集落がある。

そこは峰寺の村外れ。

数日前に通りかかったときに見つけた田植えの初めの在り方と思えるミトマツリである。

田の所有者はたぶんに宮総代のMさん。

伺ってミトマツリの件の教えを乞いたい。

そう思って家までたち寄ったら不在だった。

M家の隣になるお家は平成24年の当家を務めたくO家。

六所神社の祭りに出仕される当家。

宵宮のお渡りに本祭のお渡りについていって取材させてもらった。

祭りを終えて当家に戻ってくれば当家の祭りを家でする。

祝い唄を謡いながら神社奉納から戻ってきた一行は当家家でもてなし宴になる。

賀状でやり取りはしているもののお元気にしておられるのか、表敬訪問する。

玄関扉の向こう側はピンク色の庭園がある。

呼び鈴を押したらOさんが居られた。

懐かしいお顔に再会する。

当家の祭りのときの庭園はなにもなかった、と云えば失礼だが、お渡りの出発地だけにお花を植えるわけにはいかない。

あれから数年かけてここまえ拡がったという芝桜で覆いつくしている。

見事な庭園にうっとりする。

この芝桜はピンク色だけでなく白色もあれば紫色も。

同じピンク色でも濃淡がある。

何種類の芝桜を植えたのですか、ときけば一種だという。

何年か経てばそうなったという華の庭園に寝そべってみたいと思った。

Oさんと別れて隣村の室津に行く。

戸隠神社の祭りも宵宮、本祭ともお世話になった当屋家がある。

撮らせていただいた何十枚もの写真を届けたくて訪れた。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)

峰寺のミトマツリ

2018年04月24日 09時05分54秒 | 山添村へ
山添村大字北野・津越のヤッコメ行事を拝見してから南に向かう。

大橋の信号を曲がって西名阪国道に出るコースを選んだ。

大橋の信号より少し走ったところに数軒の集落がある。

そこはお世話になった祭りのトーヤの家もあるし、六所神社の宮総代もおられる。

在所は山添村の峰寺である。

カーブを曲がった直後に現われた水田。

田んぼは水を張っていた。

よくみれば苗がある。

田植えはもう始まっていた。

そういえば奈良市の田原の里。

特に矢田原ではほとんどが田植えを済ませていた。

通った時間帯は朝一番であるか、本日の田植えではない。

日曜とすれば4月23日であろうか。

ここ峰寺もそうだと思った田植え後の田んぼに白いものが目に入った。



もしかとすれば、それはお札・・・。

停車して近寄ってみれば半分に割ったところに白く長い紙を挟んでいた。

上から覗いても文字は見えない。

もう一本は竹筒である。

そこにあった植物はサカキであろう。

で、あればお札もサカキも2月25日に峰寺に鎮座する六所神社の祈年祭に奉られる御供である。

この御供は峰寺、的野、松尾の三カ大字、それぞれの神社名を記したお札である。

峰寺は六所神社、的野は八幡神社、松尾は遠瀛(おおつ)神社。

それぞれの大字に鎮座する神社名を記して朱印を押していた。

平成22年2月25日に訪れた祈年祭。

拝殿に置かれた御供は御田のお札と聞いている。

ここら辺りの村では苗はJAで購入するから苗代はない。

苗を買ってすぐさま田植えをする。



その場に供えることからミトマツリと称しているが、田植え初めの場であればウエゾメ(植え初め)であるかもしれない。

田主はおそらく宮総代のMさんだと思うのだが・・。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)

北野・津越のヤッコメ

2018年04月22日 08時57分36秒 | 山添村へ
平成23年に取材して以来、6年も経った。

その後の状況はどうされているのか。

前回取材時と同じように姉妹3人が集落を巡ってお菓子貰いをしているのだろうか。

かつては焼き米貰いに巡っていたからそれを「ヤッコメ」と呼んでいた山添村の大字北野・津越のヤッコメ行事に再訪する。

ヤッコメとは焼き米もらいのことだ。

今ではその姿さえ見ることのない焼き米。

郷土料理でもなんでもない昔からあった米の保存食。

籾のついたままの新米を煎って、爆ぜた殻を取り除いたもの。

平成22年5月8日に取材した桜井市小夫でのときだ。

植え初めに話してくれたヤッコメ(焼き米)。

水口の両脇に2本の松苗を挿して、ヤッコメ(キリコやアラレの場合もある)を田に撒いた。

そのときに囃した詞章に「ヤッコメくれんなら どんがめはめるぞ」だった。

美味しいヤッコメをくれなかったら、どんがめと称していた石を田んぼに投げるぞ、という囃子詞である。

ここ山添村の大字北野・津越に小夫ととてもよく似た詞章があった。

「ヤッコメ(焼き米)くらんせ ヤドガメはなそ(放そう)」という囃子詞である。

今ではこの詞を聞くことはないが、平成5年に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に記されている。

ヤッコメならぬイリゴメの名称であったが、意味はまったく同じ囃子詞を知ったのは平成29年3月15日に訪れた天理市和爾町・和爾坐赤坂比古神社行事の御田祭植祭に参列していた一人の長老であった。

昭和10年生まれのUさんが話してくれた過去の体験はおよそ70年前の戦後間もないころだった。

「イリゴメ(※煎り米はつまり焼き米)喰わさなきゃ 亀を這わすぞ」の囃子詞の様相は津越や小夫とほぼ同じである。

植え初めした稲は亀が這うことによって倒され、潰してしまう。

つまりはイリゴメを食べたい子供は亀を植えたばかりの田んぼに放して悪さをしてしまうぞ、ということだ。

田主にとっては亀を放されては困るから、イリゴをあげるから放さないでと嘆願する、ということだ。

ほぼ一年後の平成30年4月10日に訪れた際に話してくださったカメのことである。

こちら津越ではドンガメといえば、昆虫のカメムシだった。

ところ変われば、名も替わるという事例である。

奈良県内におけるヤッコメ行事は極めて珍しい。

おそらくここ山添村の大字北野・津越だけではないかと思う。

その珍しさというか、貴重な行事を拝見したいと願った写真家Kさんの希望を叶えるために予め取材許可をもらっていたご家族。

お盆の風習行事であるサシサバイタダキや先祖さん迎え火も撮らせてもらったことのあるお家。

なにかにつけてお世話になってばかりいて恐縮する。

ヤッコメならぬお菓子貰いにでかける民家は10軒。

前回より1軒少なくなったが、津越は度々の村行事も取材しているから顔なじみの家もある。

1軒は我が家の長男が勉学していた大学の友達の家。

親父さんのKさんも存じているから話題と云えば東京から奈良に帰省する道中の出来事である。

それは夕方に発生した。

津越の友達と一緒に東京を出た長男の愛車が走っていた東名高速道路で負った追突事故である。

渋滞に巻き込まれた道路に停車した。

そこへブレーキもかけずに眠り運転で走行してきたトラックに追突されてしまった。

バックミラーでトラックの動きを見ていた長男は危険を察知して二人とも横になった。

そのおかげもあってむち打ち症にはならず。

とっさの判断が功を奏した。

長男の車は軽自動車。

後の窓ガラスは割れて、ボコボコ。

命は助かったし、車もそこそこの損傷で済んだのが幸いだった。

私も親父さんも冷や冷やであったが、身体が無事やっただけにほっとしたことを覚えている。

親父さんは「息子が同乗したから事故したんや、すまんかった」と云われるが、予期しない出来事に巻き込まれただけ。

むしろ、二人とも無事だったのが嬉しいのです、と伝えた。

そんな話題は二人だけに通じる話し。



長話はさておいて、お菓子をもらった子どもたちは母親と共に先に向かって去っていた。

急な坂道を駆けあがっていく子どもたち。



着いた家はいつも薪割りをした割り木を揃えている。

今年も待っていたという婦人は笑顔で渡すお菓子袋。

姉妹二人分はそれぞれが受け取る。

平成22年に訪れたとき。

6年前の下の女児は母親が押すベビーカーに乗っていた幼子だった。

上の子は保育園児。

ともに成長して小学一年生、小学四年生になっていた。

都合で、中学一年生になった上の子は都合によって今年は参加できなかった。

大きくなった姿を毎年見ている村の大人たちは目を細める。

もう一軒は元裁判官のAさん。

かつては重箱をもって神野山へ山登り。

おやつも持っていたというから5月3日の春祭りの様相を話してくださる。



道を下って何軒か。

次の一軒は平成22年の八幡祭京の飯行事に年預を務められたKさん。

平成18年に取材した豊田楽のときにお声をかけてくださった先代の親父さんも存じていたが・・・。



庭に立ち入った子どもたちが声をかけたら屋内から飛んで出てこられた奥さん。



嬉しそうなお顔でお菓子を手渡す。

いつもなら朝9時に家を出て村を巡るのであるが、この日は中学一年生の長女はあいにくの不在。

表彰式出席のために馬見丘陵へ出かけたという。

その長女のためにもお菓子袋は用意してくださっていた。

ふと振り返ったK家の玄関。



「二月堂」の焼き印を押した木札に紅白の水引結びをしていた。

その横には少し焦げ目が見られる杉の葉。

たぶんに修二会の行法に先導をいくおたいまつではないだろうか。

確かめる時間もなく次の家へと先を急ぐ。

さらに下ったら県道80号線に出る。

道沿いに下った隣家はH家。

製材所を営むH家の発注に写真家Kさんのお仕事関係もお願いしたことがある。

なにかとお世話になるHさんも平成22年の京の飯行事に年預を務められた。



姉妹にお菓子を手渡すHさんは目を細める。

Hさんが云うにはヤッコメはキリコ或いはカキモチだったそうだ。

もらって集めたカキモチは敷いた筵に広げて、公平に分け合った。

子どものころはもっと大勢が居た時代。

軒数も今より多くあった時代のヤッコメ行事は半日もかかった。

お腹が減った、でもなく巡っている途中で食べていたそうだ。

Aさんも云っていたように、当時子どもだったころの焼き米は美味しかったそうだ。

話しをしておれば、つい焼き米を喰いたくなってくると思いだされる。

さらに下って何軒か。



家で待っていたFさんもお菓子を手渡す。

持参した大きな袋が溢れそうになっている。

残すは数軒。



少女は一年生、四年生になりましたー、と告げる津越のヤッコメ行事の日。

毎年の成長を報告する台詞は挨拶代わり。

大きくなったなー、が合言葉のように思えてきた。



1時間足らずで自宅に戻った姉妹は喜んで家に入っていった。

孫の成長に目を細める店主のOさんもやはりキリコ或いはカキモチだったという。

かつてはフライパンで煎ったカヤの実もあった。

カヤの実は特に美味しかったと懐かしそうに話される。

昔は男の子だけが廻っていたが、少子化の波を受けて女児も加えた。

下はヨチヨチ歩きの幼児から上は中学2年生までが対象年齢。

再来年は長女も参加できなくなるO家が頼りのヤッコメ行事。

今年、下の子どもが小学一年生だから、あと数年は続けられるようであるが・・・。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)

遅瀬・地蔵寺の涅槃会

2018年01月28日 09時00分06秒 | 山添村へ
山添村遅瀬の行事取材はずいぶんと間が空いた。

「マジャラク」とはどのような形であるのか。

拝見したく訪れたのは平成22年の10月10日

その日に寺行事があると聞いて伺った場所は集会所にもなっている中南寺(なかなんじ)。

毎月の17日に集まってくる観音講の営みである。

訪れたのは平成23年の9月17日だった。

遅瀬にはもう一つの寺がある。

場所は村当家祭が行われた八柱神社。

その年は生まれたばかりの男児がいなくて村当家(むらどー)

対象の幼児がおれば本来の当家祭になる。

神事を終えた一行は公民館でもある八柱神社の参籠所に上がって「座」の営みが行われる。

その参籠所奥にあるお部屋が地蔵寺。

その場で正月初めの初祈祷が行われる。

そう聞いていたが、なかなか都合がつかなくて未だに拝見できていないが、祈祷したハゼの木に挟んだごーさん札があると聞いていた。

あれから7年も経過した。

当時にお会いできた長老たちは元気にされているのだろうか。

村の代表者も替わったことだろう。

気にはなるものの、どうするか迷っていてもしかたないので、毎年の年賀状を届けてくれるUさん家を訪ねる。

訪れたのは通院を終えてからだった。

天理市内から山添村に走る。

お家は見つかったがUさんは職場におられるということだった。

訪ねた職場は山添村の役場だった。

受付にお願いしたら出てこられた。

久しぶりに顔を合わせてお願いする現在の氏子総代を紹介していただく。

尤も紹介は電話でのこと。

地蔵寺で行われる涅槃会取材の許可取りができてほっとする。

参籠所の扉の向こうには人がおられる。

声がするから扉を開けて声をかける。

どうぞ、と云われて上がらせてもらった参籠所の奥の部屋におられた3人の氏子総代にご挨拶をさせてもらった。

こうして拝見するこの日の行事は涅槃会。

地蔵寺の正面壁に掲げていた涅槃図はとても大きい。

高さは200cm。

幅は165cmの涅槃会は彩色が美しい。

劣化もない涅槃図の最幅は表装部分を入れて185cm。

氏子総代らが云うには15年ほど前に表装をし直したということだった。

遅瀬の涅槃図は猫もいる珍しい様式だと話される。

探してみれば右下にちょこんといてはる。

涅槃図に猫が描かれているといえば、京都の東福寺である。

縦が15mの横幅が8m。

とてつもなく大きい大涅槃図は室町時代の応永十五年(1408)の作。

私は未だ拝見しない大涅槃図にたいへん珍しい特徴があるという。

それが「猫」である。

東福寺ではこの猫を「魔除けの猫」縁起として伝わっているそうだ。

一般的に涅槃図は「」を描くことはないそうだ。

遅瀬の涅槃図にも「猫」が描かれていた。

「猫」の表情、構図はまったく違うが、珍しい。

村も自慢する涅槃図であるが、調べてみれば他所にもあるようだ。

ネット検索して見つかったお寺は千葉県安房郡鋸南町にある瑞雲山天寧寺

寺名は不明だが神奈川県にある寺院にもあるらしい。

また、茨城県守谷市にある雲光山華厳院清瀧寺にも涅槃図があるそうだ。

探してみれば奈良県内にもあるがわかった。

一つは橿原市正連寺大日堂にも。

記録によれば涅槃図を寄進したのは、当時橿原市豊田町住民。

寄進年代は延享三年(1746)。

同寺では涅槃会の法会をすることなく大日堂資料室で拝見できるそうだ。

ネット探しはそれぐらいにするが、FBでの知人たちからここにもあると伝えてくれた猫有り涅槃図。

一つ京都市東山区の御寺泉涌寺の涅槃図である。知人がいうには縦が16m。

横幅が8mもある。

凄いとしか言いようのない大きさは日本一とか・・で、吊り上げるだけでもたいへんな作業を伴う。

また、薬師寺東京別院にもあるとメールで伝えてくださった。

年に数回行われる特別大写経会のうちの2月13日~15日が釈迦涅槃会。

同院のHPにその日程が書かれていないことから特別な方の写経会であろう。

ちなみにその涅槃図の年代は天正五年(1579)である。

もう一人のFB知人が伝えてくれた山添村勝原の涅槃図。

私も実際に拝見したことはあるが実測はしていない。

寄進年代が寛文十年(1670)とわかったのはこの年に訪れた2月11日だった。

年代ばかり気になっていたので、猫があることは失念していた。

県内だけでなく、探してみれば全国あちこちにあるような気がしてきた猫入り涅槃図。

先に挙げた東福寺HPの解説によれば、同寺の涅槃図は室町時代の画聖とされる兆殿司(吉山明兆;きつさんみんちょう)によって描かれたとある。

寺伝によれば、裏山の谷から絵具を銜えた猫が現われて献じた。

そのことを大いに喜んだ画僧明兆はお礼に描き加えたという説話に続きがある。

涅槃図には鼠がいる。

その鼠が薬袋をかじって落とそうとしていたので猫が阻止したとうのだ。

三重県鈴鹿市にある龍光寺

同寺にも猫が描かれた涅槃図がある。

毎年3月の第二土曜日より3日間に亘って行われる「かんべの寝釈迦まつり」と呼ぶ涅槃会である。

同寺の涅槃図も吉山明兆の作。

東福寺は龍光寺の大本山。

その関係があったものと推定される。

紹介するブログによれば、同じく三重県津市榊原町にある林性寺にも。

同寺は毎年3月14日より3日間に亘ってご開帳されているが、東福寺繋がりでもなさそうだ。

暗黙のルールを外して猫を涅槃図に描き加えた吉山明兆は正平七年(1352)~永享三年(1431)。

室町前期、後期に亘って活躍した臨済宗の画僧。

明兆以前には猫入り涅槃図の存在が見られないとすれば、各地に存在する猫入り涅槃図は、応永十五年(1408)明兆作の東福寺涅槃図を模して各地の絵師が描いてきたものと考えられる。

長々と猫入り涅槃図について調べてきたが、話しは遅瀬の涅槃会に戻そう。

遅瀬の涅槃図を納めている「涅槃像入箱」に目を移す。

その箱に墨書文字がある。

「大和國山辺郡遅瀬村地蔵寺什物」とある表面。

黒光りはしているものの古さはそれほどでもないように思えた。

ただ、念のためと思って表面の蓋を裏返してみたら文字がでてきた。

「昔 明治十五年春貳月新調現在越後國高橋教連」とあった。

やはり、時代は新しい。

とはいっても明治時代のことである。

さらに拝見した「涅槃像入箱」。

今度は底の裏面である。

表も裏もひっくり返したあらゆる面から探りを得る。

その結果が報われること・・。

箱の側面に貼ってあった白いシールの印刷文字が「釈迦念仏供養(涅槃会)掛図」。

いや、これではなく底面に、あった薄っすらとした墨書文字は「干時 正徳六丙申(1716)三月十□五日」である。



正徳年間は西暦1711-1716年/6月まで。

「涅槃像入箱」の底面を拝見してようやく年代がはっきりした。

法会を終えてから拝見した涅槃図の裏面にも墨書があった。

「添上郡月瀬村大字尾山 表具再調人 岡本重五郎 長老世話人(連名で西山菊松 長島岩松 奥端猪々松 井戸根市松 上峰駒石 井尾□吉 永谷岩吉 井戸元由松 昭岩松 今中由松 以上10名) 昭和四年七月二十二日調之」とあった。

15年ほど前の表装し直しどころか、89年前に再調されていたのだった。

「涅槃像入箱」などを拝見させているころに来られた僧侶は山添村大字春日の龍厳山不動院住職の前川良基さんである。

平成26年の9月5日に行われた自寺院の高野山結縁行脚である。

直近にお会いしたのは2カ月前に行われた大字大西のオコナイであった。

支度を調えて始まった地蔵寺の涅槃会。



総代はご本尊を安置するところに立てた燭台に火を灯す。

本堂には総代の他、区長に7人のネンヨ(以前は8人/8組だった)と呼ばれる組長さんらが座る。

地蔵寺の空間は広い。



壁際いっぱいに座られているから超広角でもない限り、全員が座る様相は撮れなかったことをお詫びする。

まずは礼拝。

そしてお堂は・・・。

漢語、和語で唱える涅槃の法会。

お釈迦さんの入滅について讀まれた釈迦仏法要和讃を唱える。

節をつけてゆっくりとした調子で唱える。

時間にしてはおよそ30分。



その途中に廻される焼香。

一人、一人に廻される。

和讃を終えたら般若心経に移る。



そして礼拝で法会を終えた。

住職が云うには、山添村の涅槃会はここ遅瀬と上津しかない。

そう云われたが、僧侶の姿のない涅槃会は勝原にある。

(H29. 3.15 EOS40D撮影)