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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

勝原の子供涅槃

2017年12月17日 09時03分53秒 | 山添村へ
山添村の大字勝原の子供涅槃を取材したのは8年前。

平成21年の2月21日だった。

勝原の子供涅槃は大きく分けて三つの段階がある。

はじめに米集め

そして、オヤが接待役を務めるヤド家で昼の膳のよばれ。

昼食を済ましたら薬師寺のお堂廻りを駆け抜けて竹でオヤを叩く試練なども。

再びヤド家でよばれる夜の膳の3部構成行事である。

平成21年は12人の子どもたちによって涅槃行事が行われた。

今年はオヤを入れても3人だけになった。

しかも、前日から降った雪は大雪。

降り積もった雪道を歩いて村全戸を巡る米集めは大人の判断で中止された。



やむを得ないことであるが、午前中にもてなしをしてくださったS家の玄関には、子どもたちに渡す白米はお盆に盛って待っていたが、叶わぬことになった。

勝原の涅槃には昭和56年から記帳してきた『涅槃帳』がある。

内訳の一つに図もある献立がある。

椀は五つ。

大きい皿に盛るコンニャク、豆腐、ほうれん草、人参で作る白和え。

少し薄味で調理する里芋に三角切りの大根に焼き豆腐の煮しめ。

小さい皿に盛る漬物に小切りの豆腐を入れたすまし汁と白ご飯は昼の膳の献立。

なぜか夜の膳の献立は書いていなかったが、但し書きに「昼食後はぜん(※膳)に名前を書き置き夜、そのまま使う」とあった。

また、「ごはん、すまし汁はざしき(※ヤド家の座敷)で子供がよそう。おにぎり(黄な粉にぎり)はこない人の分と2つぐらい寺(※薬師寺)でたべてもらうこと」とあった。

涅槃行事に諸祭具を要する。

祭具はオヤ家(当屋)からオヤ家(当屋)に引き継ぐものもあれば、区長保管もある。

また、供える御供や食事はもとよりオヤ家が食材まで揃えて料理もする。

オヤ叩きをする笹竹は竹林から伐り出す準備もあるから主体はオヤ家である。

『涅槃帳』に書いている諸具を列挙しておく。

一つは薬師堂本堂に掲げる釈迦涅槃図である。

保管責任者は区長である。

薬師寺正面入り口にかけて、その前に黄な粉おにぎりを大重に入れて供える。

その両側に2本のローソクを立てる。

二つ目は、黄な粉おにぎり。

薬師寺で配る分以上に2個作っておく。

配るのは昼食に来られなかった子供だけとし、半紙や新聞紙を用意することとか、どんぶり山盛りの表記もある。

またビニール袋へ入れることも書いてあった。

三つ目が、膳に食器。

これらは薬師寺にあるから区長や公民館長に連絡しておく。

四つ目は、叩く笹竹に半紙。

御幣状態に切っておいた紙片を子どもたちが竹に括り付ける。

五つ目に、呼び使いで、保育所の子どもより呼ぶこと、と書いていた。

他に、区長にお願いする村のマイク放送とか、夜は同じメニューの膳を作り、ご飯だけはかやくご飯(※)とメモ書きもあった。

奈良県内で呼ばれるかやくご飯はイロゴハン、或いはアジゴハンとかばかりである。

郷土の言葉は親や村人が伝えてきた名称。

しょうゆ飯が訛ったショイメシの呼び名もあるが、実はかやくご飯(混ぜご飯の呼び名もある)は大阪である。

昨今は炊き込みご飯とか五目ご飯は一般的。

関東に倣えという具合になった時代。

この『涅槃帳』にメモっていたかやくご飯の記入者は大阪で育った女性が嫁入りした結果ではないだろうか。

そう思うのである。

尤も、この年に取材したオヤ家(当屋)の人はアジゴハン若しくはイロゴハンと呼んでいた。

基本的な涅槃の献立料理は決まっているが、その他にも子どもたちが大好きな見計らい食がある。

昼食の見計らいは、まめたき、サラダ、コロッケ、ハム(焼きブタ)、かまぼこ、さや豆のみそあえ、冷ややっこ、ウインナー、キュウリ、果物だった。

当初に書かれていた別途料理は変化があった。

コロッケは抹消されて唐揚げに。

さや豆のみそあえはハンバーグに。

冷ややっこはエビフライ。

キュウリはモテトサラダに。

いつしか変更したポテトサラダも、まめたきもかまぼこも消えた。

大人の料理はことごとく消えて子どもたちが食べたいという料理になっていた。

夜の膳も変化があった。

当初の料理は昼の膳の残り物にスパゲティ、ナスのでんがく、あじご飯(※)である。

ここでもわかるように『涅槃帳』本来の記帳はかやくご飯でなく、あじご飯なのである。

夜の膳で消えた料理はナスのでんがく。

追加した料理がフルーツポンチである。

こうしてみれば年代は不明であるが、子どもの好きな料理に変っていく様子がよくわかる。

変化は料理だけでなく、合間に出すお菓子にもあった。

午後3時ころに渡していた袋詰めのお菓子は150円程度。

それが300円になっていた。

お菓子は夜の膳を済ませてから帰宅する子どもに持たせていた。

それも同じように一人、ひと袋ずつに詰めた当初のお菓子は300円だった。

物価が上がったのか、それとも子どもたちの要望で増量したのかわからないが、500円になっていた。

お菓子の注文先注記は「上嶌」とある。

「上嶌」は大字勝原にある和菓子製造会社の上島製菓である。

隣村の毛原で行われた節句行事に供えるチマキは上島製菓製であったことを付記しておく。

諸要綱はこれまでだが、『涅槃帳』にあるのは各年に引き継がれてきたオヤ家(当屋)の実施日と家名に参加した子どもの人数である。

この日の午前中にもてなしてくださったS家は昭和58年の2月13日がオヤ家。

参加人数は16人だった。

昭和56年に起こした『涅槃帳』の実施年月日は毎年ではなかった。

昭和56年から平成2年までは毎年であったが、平成3年は空白だった。

主役対象となるオヤ家(当屋)を務める子どもは15歳の中学3年生。

その年は対象年齢の子どもがいなかったということである。

平成6年、10年、11年、14年が空白の年であった。

私がかつて取材した年は平成21年。

平成18年、19年、20年は3年連続の空白の年であった。

先にも伝えたが、今年の子どもたちはオヤを入れても3人だけ。

この年にオヤを卒業する子どもは高校生になって参加資格を失う。

残った2人の子どもはまだ小学生。

次の年も次の次に年も対象者は不在。

その明くる年になってようやく調うが、笹竹でオヤ叩きをする子どもは一人。

オヤに対してたった一人で戦うことになる。

昭和56年から記帳し続けてきた『涅槃帳』。

これまでの時代では考えられなかった状況は否が応でも実現してしまうのが辛い。

午後一番に始めると聞いていた薬師寺に向かう。

平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に勝原の涅槃講を報告している。

「釈迦入寂は陰暦の2月15日。大字勝原の15歳男子をかしら(※頭)を筆頭に、村で生まれた長男たちによって涅槃講の会式を行ってきた。室町時代の前期。勝原氏と称する土豪が支配していた。村の氏寺として薬師寺を建之したころから、涅槃講会式が始まったと推察される」と書いてあった。

明治31年、豊央(とよなか)小学校を開設した以降から、陰暦でなく新暦の2月15日前後の日曜日に移された。

そして、昭和28年より、長男枠を解いて、15歳以下の男子すべてを参加できるようにした、とある。

昭和10年までの薬師寺は本堂だけであったが、その年と昭和37年の2度に亘って改築し、本堂と庫裏が同じ棟になった。

さて、涅槃講会式の子供涅槃である。

先にも書いたようにこの年は大雪になったことによって米集めは中止されたことになったので、『やまぞえ双書1 年中行事』から行事の在り方を以下に書いておく。

涅槃の日は15歳男子が、当屋になる。

その年に15歳男子が一人になる場合もあるが、同い年生まれが複数人ある場合は、最年長男子が年下の子どもたちを接待する親当屋(オヤトウヤ)を務めることになる。

早朝、年下の子どもたちを従えて村の全戸を巡ってお米貰いに出かける。

天竺木綿布で作った米集めの袋を背中に背負って一軒、一軒巡っては、村に人から涅槃に対してお米を寄進してもらう。

「ネハンですけどー」と声をかけた玄関口。

子供たちは、声を揃えて「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃(はや)す。お家の人が入れやすいように、お米集めの袋の口を拡げてやる。

今ではお米だけでなく、お菓子も貰って、次の家に向かう。

「キャハン」は足を保護して歩きやすくする脚絆布。

「オシャカノスズメ」はお釈迦さん寄進する米を拾うスズメ。

お釈迦さんの修行を見習って、その使いとなった子供たちがお米を集めるという説である。

また、米を食べる雀ではなく、「涅槃の勧め」が訛った「ネハンのスズメ」という説もある。

こうした詞章は県内各地で伝承されている。

大和郡山市椎木町・光堂寺の涅槃会である。

今では子どもの涅槃を見ることもないが、平成3年10月に発刊された『(大和郡山市)椎木の歴史と民俗』によれば、昭和10年頃までは子供の涅槃があったそうだ。

子供たちは「ねはんさんのすすめ ぜになっとかねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」を三辺繰り返しながら村中を廻ってお供えのお金を集めていたようだ。

椎木の詞章は「ねはんさんのすすめ」である。これを「ねはんのすずめ」と呼んでいたのは奈良市日笠の子供の涅槃だった。

今では廃れたが、奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」だった。

こうした詞章事例は山添村の桐山でもかつては「ねはんコンジ、コンジ ねはんコンジ、コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(または豆なら一荷)」であった。

「コンジ」はなんとなく「献じ」のように思える米集めである。

桐山事例ではもらう米の量が明確で、「米なら一升」である。

対して勝原では三合程度の量である。

ただし、初入講する男の子が生まれた家は一升の米を寄進するのが習わしであると『やまぞえ双書』に書いてあった。

また、昭和33年までは玄米であったから、当時は村内の家から臼を借りた子どもたちがウスツキ(臼搗き)をして白米にしていたそうだ。

集めたお米はオヤ家(当屋)に手渡されて、昼の膳、夜の膳に配膳される子どもたちがよばれるご飯になるのだが、この年は、その昼の膳の接待も中断された。

そのようなわけもあって始まった子供涅槃である。

先に薬師堂に来られていたのはオヤ家(当屋)のN夫妻。



下の子どもを接待する15歳男子の両親は本堂に大きな釈迦涅槃図(※縦1m76cm×横1m67cm)を掲げていた。

平成21年に訪れた際に拝見した釈迦涅槃の納め箱。

黒ずんだ箱は相当古いと察してじっくり拝見したことを覚えている。

このとき一緒に見てもらっていたのがSさんだった。

釈迦涅槃図は1670年以前とされていたが、箱の蓋にあった墨書年号は、なんとなく寛政年(1790年代)のように思えた。

もう一度拝見してみたい。

そう思っていたが、涅槃図そのものに年号を墨書していたことがわかった。


上部右側が「勝原村持(※現物は手へんでなく木へん)物」で、上部左側に「寛文拾庚戌(1670)ニ□□」とあった。

『やまぞえ双書』によれば、納めていた涅槃図箱の墨書年号は「寛政九(1797)丁巳年二月九日」。

涅槃図と箱の年代が異なっているのは、江戸時代に涅槃図をよそから購入したとある・・・。うん?。

で、あれば、箱より古い涅槃図を買ったことになるのだが。

年代は箱より古い・・・。

なんで・・。



そして、オヤ家の父親が作業しだした、幣で作った護符の括り付けである。

このころも雪は舞っていた。

吹雪とまではいかなが、冷たい外気に作業をしていた。

本来は子どもたちがする作業であるが、この年はオヤ家がしていた。

涅槃の祭具が揃ったところで会式が始まった。

本来であれば、護符括りした竹を担いでオヤ家を出発する。

薬師寺までの道中においても「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃すのであるが、オヤ家で昼食も摂っていないので、これもまた省略された。



本堂に登った子どもたちの前には重箱に盛った黄な粉を塗したおにぎりがある。

大きなおにぎりは一つずつナイロン袋に詰めて御釈迦さんに供えていた。



燭台に立てたローソクに火を点けて一同は揃って参拝する。

きちんと正座して手を合わせて拝んでいた。

今年の会式はこうして始まった。

記念写真を撮った子どもたちは一斉に本堂を飛び出した。

下の子どもは護符を括り付けた笹竹を担いで走り出した。

スタートラインについたわけでもなく、運動会のようなバンという鉄砲の音もなく、突然のごとく走り出した。



今年は下の子どもが二人。

年齢差は1歳か2歳ぐらいの差。

走る勢いが違うから離されてしまう。

走る場所は薬師堂廻り。

反時計回りに駆け抜けていく。



その様子を見守るオヤの男子は本堂にあがる階段に座っていた。

参加できるのは男子だけ。

女の子は見ることしかできない行事である。

雪が積もった寒い日であっても、村の行事を一目見ておこうとやってくる人もいる。

平成21年は参加者が12人もいた。

親家族は高齢者とともに見に来ていたことを思い出す。



堂廻りの儀式は静の姿で見守るオヤと駆け回る動の姿の子どもたちで描かれる。

下の子どもは2人。

足が早い男の子に下の子どもは離されるばかり。



一周早く追いついてしまった。

一周遅れであっても13周も廻らなければならない堂廻り。



オヤの男子は数えていたのだろうか。

「疲れたわ」という年少さんの声の余韻もそのままに、オヤ叩きが始まった。

二人の前に登場するオヤ。

立つ位置は特に決まっていない。

笹竹を手にする子どもたちはオヤを遠巻きに。

人数が多ければ、取り囲んでしまうような状況になるが、1対2ではモロの戦い。



バシバシとしばくように叩く長い笹竹を振り下ろす。

叩くつもりがしかりと掴まれた。

その一瞬、翻ったオヤは笹竹をがっつり握って離さない。



掴んだ竹は両手で握って足で踏んだ。

踏んで両手をぐっと引き上げたら折れた。

オヤの勝ちである。

一方、年少の子どもはただただ見ているばかりで戦いどころではない。

戦意喪失したのか、オヤの成すがまま。

この子の持つ竹は叩きもできないうちに勝負がついた。

時間にして1分もかかっていないオヤ叩きの儀式はこうして終えた。

『やまぞえ双書』の記述では、「ネハン キャハン オシャカノスズメ」の声を張り上げて、オヤを叩くとあったが、台詞どころではなかった。

すべての竹を折って儀式を終えるオヤ叩きは、子どもから大人への通過儀礼だとされる。

竹を折る行為は子どもに戻らないという覚悟を表しているのだろう。

オヤは15歳の中学3年生。

昔は元服の年であることから、大人社会に出る試練でもあるようだ。



オヤ叩きを終えた子どもたちは、もう一度本堂にあがってお釈迦さんに手を合わせる。

オヤの父親も一緒になって手を合わせていた。

堂内に掛けていた時計は午後1時45分。

儀式を始まる前に拝礼していた時間帯は午後1時31分。

短時間で終えたのがよくわかる。

一連の儀式を終えた子どもたちは、この日の涅槃会に参加できなかった子たちに食べてもらうために、本堂下に建つ民家まで下っていった。

その間のオヤの親は供えた黄な粉おにぎりを下げて、集まっていた人たちに配っていた。

丸盆に盛った黄な粉おにぎりを少し崩して箸で摘まむ。

摘まんだおにぎりは、参拝者が拡げた手のひらに落とす。



箸(はし)は使わずに手で受けのテゴク(手御供)でいただく。

黄な粉の味は涅槃の味だというお釈迦さんのおすそ分け。

これら一連の行為もまた、涅槃行事の一つであった。

涅槃講会式を終えた子どもたちはオヤの家に集まる。

オヤ家の心を込めて接待する料理もあるので、是非いらしてくださいと云われて大雪の道を歩く。

着いた時間帯は午後4時50分。

会式を終えた子どもたちはオヤ家で遊んでいた。

遊んでいたのは下の子たち。



オヤを務める男子は庭に積もった雪を箒で掃いていた。

普段からこうして親の手伝いをされているのだろう。

しばらくしたら、ヤド家のおばあさんが夜の膳を始めますから座敷に上がってくださいと云われて靴を脱ぐ。



大人入りした孫はこの日はじめてのご飯を椀によそう。

昼の膳がなかっただけに夜の膳料理は親の心がこもっている。



特に目から毀れるほどに可愛がっているおばあさんにとっては一番大事なことである。

「こうするんよ」、と先に教えていたのか、よそう手付きも慣れているように思えた。

夜の膳の献立は主食のアジゴハン(イロゴハンとも)。

アゲサン、チクワ、ゴボウ、シメジに鶏肉をどっさり入れて炊いたそうだ。



もう一つの椀はコンニャクに豆腐、ほうれん草、人参で作った白和え。

中央に配した椀盛り料理は里芋に三角切りの大根と焼き豆腐を薄味で煮たもの。

その他、コウコの漬物に豆腐のすまし汁の5品である。

黒色の高膳は村のマツリのときも使用されると聞いている。

高膳に乗せられない子どもたちが大好きな料理は畳に置く。

平成21年もそうしていた膳以外の料理は現代版。

ハンバーグにベーコン入りケチャップ味のスパゲティ皿。

唐揚げにチキンナゲット、エビフライなど。プチトマトを乗せたフライ盛りはマヨネーズを混ぜたソースを付けてよばれる。

チャーシュー肉にポテトサラダも盛ったごちそう料理。

ヤド家のご厚意をいただいて、釈迦涅槃図に手を合わせていた子供たちが夜の膳を共にする場面を撮らせてもらった。



しかも、炊きたてのアジゴハンも食べていってくださいと椀に盛ってくださった。

とても美味しくてお代わりを迫られたが、ここは遠慮する。

長時間に亘って取材させてもらったヤド家のN家族にはたいへんお世話になった。

一連の行事を案内してくださったS家に感謝する。

この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

この日は大雪で米集めは出来なかったが、涅槃の釈迦さん参拝にお堂廻り、オヤ叩きも体験した勝原の子どもたち。

ヤド家がこしらえた美味しい涅槃の料理を舌鼓。

勝原の歴史を紡ぐ子供たちは、村の行事を体験することで継承していくのだろう。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

勝原・S家のもてなし

2017年12月15日 09時06分35秒 | 山添村へ
白の世界を拝見していた山添村の勝原。

この日は子供涅槃が行われる。

当初の予定では朝から2人の子どもが集落全戸を巡ってお米集めをする予定であったが、生憎の大雪にやむない決断がくだされた。

午後に始まる薬師堂での行事はあるが、何時間も待つことになる。

この日にお邪魔した家は昨年の11月16日に行われた奈良県主催の「農とつながる伝統祭事フォーラム」を主に担当する職員さんだった。

ひょんなことから出合ったSさんとは、これもまた昨年の12月4日、山添村大西で行われた新嘗祭で再びお会いした。

仕事の関係もあってマツリに供えられる芋串の取材をしておられた。

奇遇にもこの日に同行取材していた写真家Kさんも居た。

そこでお願いした勝原の子供涅槃の取材願いに承諾してくださった。

ありがたいことであるが、涅槃行事が始まるまでの時間はたっぷりある。

どうぞ、ごゆっくりと云われても、ほんまに申しわけない、といいつつ家人に甘えてついつい長居してしまう。

シャーレのよう見えた容器の蓋に落としたビーンズ。

さまざまな種類があるから実にカラフル。

点々のある文様は鶉のように見えるから鶉豆のネーミングがある。

それ以外はなんの豆であろうか。

緑色に鶯色。

淡い黄色もあれば白色に茶色も。

これら含めて鶉豆なんだろうか。

いや違うような気がする。

形から云えばやや扁平。

レンズ豆なんだかなぁ。

ネットをぐぐって一つ、一つを検証するのもなんだかなぁ。

昼食までの時間帯は、初めて拝見したあじさい節句に感動するやら、写真家Yさんが当村で世話になっているO氏と山添村で開催する山添村の風景写真展示会への取り組み方などを相談する日でもあった。

そろそろお昼ご飯、といわれてS家のもてなし料理をいただく。



自家製のコンニャクに味付け。

漬物は白菜、蕪。いや、違った、日野菜漬け。

大盛りの漬物もあれば、ハムに茹でブロッコリーに胡麻和えサラダも。

主役はカレーライス。

これがまた、美味しいんだなぁ。

なにもかも世話になりっぱなしで、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

勝原・雪掻き道造り

2017年12月14日 09時38分47秒 | 山添村へ
子供涅槃が行われている山添村の勝原を訪れるのは、実に5年ぶり。

平成24年の8月28日以来である。

訪問目的は八柱神社で行われていたという風の祈祷であったが、最近なのか、ずっと前なのかわからないが神社付近におられた婦人の話しでは中断したと云っていた。

ついでといってはなんであるが、元日行事の歳旦祭も尋ねたが、これもなんとなくしていないような口ぶりだった。

歳旦祭は村の人の初老祝儀式も兼ねていた。

初老の祝いは県内事例に多くあるようだが、未だ拝見できていない村行事である。

山添村の大塩でも元日に数え42歳になった初老や61歳の還暦に米寿を祝っている。

天理市山田町の下山田では元日ではなく4月21日のお大師さんの日に、大塩同様に数え42歳の初老、61歳の還暦の人たちの厄払いに祝っていた。

勝原の歳旦祭には酒を並々と注いだ高砂盃を飲み干す習慣があった。

祝いの謡いはザザンザーである。

酒杯のザザンダーも拝見したかったが、叶わなかった。

昨年のことである。

11月16日に橿原市の施設である橿原市立かしはら万葉ホールで奈良県主催の「農とつながる伝統祭事フォーラム」を聴講していた。

会場で担当されていたS氏と知り合うことになった日である。

S氏のお住まいが山添村の勝原と聞いて子供涅槃を思い出した。

平成21年の2月21日が実施日だった。

取材ができるまで4年間も経っていた。

子供涅槃にオヤを務める15歳の子どもがいなければ、行事はない。

対象となる子どもは中学3年生。

4年前に下見をさせていただいたときはまだ小学5年生だった子供がこの年にようやく15歳になる。

その間は対象の子どもがいないから、行事をすることはできない。

待ち続けてようやく拝見できたときはとても嬉しかった。

勝原の子供涅槃は大きく分けて三つの段階がある。

始まりは米集め

そして、オヤが接待役を務めるヤド家で昼ご飯をよばれ。

昼食後は薬師寺のお堂廻り駆け抜け、竹でオヤを叩く試練などがあって夜の膳もヤド家でよばれる3部構成の行事である。

今年もするが、人数は3人になったと話してくれたSさんに取材をお願いしたのは言うまでもない。

ちなみに平成21年に取材した子供の涅槃は当方のブログにアップしている。

アップされた写真に、私の子どもが映っていると云う。
このときの人数は12人。

人数が多かったこの年は2組に分かれてお米貰い。

私が同行した組にお子さんがおられた。

しかも、である。

オヤ家の父親とともに記念の写真を撮っていたもう一人の男性がSさんだった。

なんという奇遇であろうか。

当時、撮らせてもらった写真はオヤ家のK家には差し上げたが、Sさんはアルバムを見ただけのようだった。

あらためて現画像をメール添付で送らせてもらったら、大層喜んでくれはった。

奇遇な出会いに、交わる経緯もあって再訪する勝原は前夜から降った雪で辺り一面が真っ白になっていた。

名阪国道は除雪していたので難なく走って来られたが、神野口ICを出て勝原に向かう農道からはバリバリ状態。

慎重に運ぶハンドルさばきにスタッドレスタイヤが効果を発揮してくれるには時速20kmが制限速度。

1.8km先の勝原に着くまではドキドキだった。

目的地はさらにそこから下った公民館駐車場で落ち合う集合地。

子供涅槃を是非拝見したいと申し出ていた写真家Kさんと、風景写真家のYさんとともに勝原入りである。

実は朝から始まる予定だった小学生2人の子どもの米集めは大人の判断で中止となった。

米集めに大雪になった50戸余りの勝原集落全戸を巡るには滑って転げることが考えられる。

そういう判断である。

朝の9時。

道先案内人に誘われて雪景色いっぱいが広がる勝原集落を眺めながら歩く。

その先に見える人影が動いた。

近づいてようやくわかった雪掻き作業。



青色のスコップで庭先や道に積もった雪を掻いていた婦人。

このお家はたしか、平成21年に子供涅槃にヤド家を務めたK家。

婦人はそのことを覚えておられた。

懐かしい昔話をしている暇はない。

右下に下りていく里道。

点々と続く足跡は一直線

人間の足跡ではないような気がするが、ゆっくり観察している場合でもない。



K家のお爺さんも出動する雪掻き道具は手造り。

勝原は大雪になることがままあるらしく、道具は降ってからでは間に合わないから、予めに作っておく。

形はスコップのようだが、道具を押して雪を掻き集める。

集めた雪は、適度な場所に捨てる。

これを繰り返すことで道路は車も走らせることができる。



屋根に積もった雪よりも先に作業をしたのは足の確保であった。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)

岩屋の山の神

2017年10月19日 08時41分38秒 | 山添村へ
鵜山のオコナイ取材を終えても、日暮れまでの僅かな時間がある。

そんな時間も活用して少しでも山添村の民俗を紹介したい。

この日、同行取材していた写真家Kに見ていただきたい山の神は岩屋である。

ここもまた、1月7日にされている。

どこともそうだがお供えは7日の朝。

翌日は暴風雨。

雨にあたられた鵜山の山の神はクラタテに敷いた半紙が溶けていたし、ミカンもなかった。

岩屋はどうであろうか。

これまで、中出、下出辻の上、下出辻の下の3カ所の山の神御供を拝見したことがある。

一つは平成23年の1月10日

供えてから3日も経っていた日だった。

翌年の平成24年1月7日は写真家仲間を案内して山添村の毛原、岩屋、三ケ谷、菅生の在り方を見て回った。

大字ごと、或いは垣内ごとに祭り方の違いが見られた。

この日はすべてを見るだけの時間はない。

残された時間はとても少ない。

オコナイ行事を取材した鵜山から迂回する山間道路。

帰り道にもなると判断して岩屋に着いた。

撮れる時間は20分しかない。

大慌てで3カ所を見て回る。

まず一つ目は下出の辻の上。

3月になれば真っ赤な花を咲かせる椿の樹の下にクラタテがある。

個数は七つだ。

平成24年は九つであったが、少し減っていた。



無残な姿であるが、仕方がない。

個数確認の記録でもあるので撮っておく。

その場でもわからなくもないが、撮る位置を移動して横から拝見するホウソウ(コナラ)の木で作ったカギヒキ。

中に石を詰めたフクダワラも見える。

二つ目が下出の辻の下。



昔も今も変わらない情景に山の神御供がある。

クラタテをざっとかぞえてみれば10個ぐらいか。

平成24年から比べてみれば1個が減った。

ここもホウソウの木(コナラ)で作ったカギヒキにフクダワラもある。

ホウソウの木にある枯れた葉の形状からコナラであるのがよくわかる。

三つ目に中出を選んだ。

中出の特徴はここにある。

柴垣に囲われた竹林。



その内側にある大岩が山の神である。

いつも綺麗に作られている柴垣が美しい。

手入れをされる日は前年の11月7日

この日もまた、ある意味山の神。

この方角からは1月7日に供えられた山の神の御供は見えない。

向こう側に見える所まで下って降りる。

16個ほど並んだクラタテ。

壮観な景観のどこからとらえてみるか。



道の下にずらりと並ぶ石仏群の由来は知らないが、これもまた壮観なお姿に惚れこんで並べて撮った。



岩屋の山の神の地は5カ所あると聞いているが、残る2カ所は上出にある、と思われるのだがどこにあるのか、未だ探せていない。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)

鵜山・真福寺のオコナイ

2017年10月18日 08時55分18秒 | 山添村へ
山添村の最奥の東に位置する大字に鵜山がある。

同じ大字名の鵜山は名張川を隔てた東の三重県名張市にもある。

両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ、奈良県と三重県側に二つが存在することになった。

山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。

三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。

その地にある寺社は真福寺に八柱神社だ。

当地に始めてやってきたのは平成25年の1月7日だ。

その日にお会いしたご婦人が話してくれた鵜山のオコナイ行事である。

長老が唱える般若心経がある。

オコナイに般若心経では僧侶の姿が見えない。

たぶんにそうであろう。

そのうちランジョーと呼ばれる作法がある。

ハゼノキを縁か何かに叩く。

その間には太鼓も打つ。

ランジョー作法をしているときの各家はどうしているか。

婦人が云うには各家の座敷を掃除するというのだ。

これはどういうことなのであろうか。

一般的にいえばランジョーは村から悪霊を追い出す所作である。

悪霊は家の座敷からも追い出す。

そういうことではないだろうか。

オコナイを終えた村の人は勧請縄を椿の木に架けると云っていた。

同時進行かどうかわからないが、村の初祈祷、つまり修正会にはオコナイにツナカケの両方をしている村がある。

山添村でいえば岩屋である。

興味を持ちづけてから早や5年。

ほぼ時間帯も聞いていたから、とにかく行ってみようということにした。

午後1時前、鵜山に着いてはみたものの誰もいない。

時間帯が違ったのか、それとも日にちが替わったのか不安になる。

どなたかが来られる可能性も捨てきれず、二日前に行われた山の神の痕跡を拝見していた。

前日は暴風雨であった。



雨がいかに激しかったかわかるクラタテに敷いた半紙である。

クラタテは四つ。

いずれも幣を取り付けている竹を四方に立てていた。

その真上にあるカギヒキ。

大木カシにぶら下げていた1本、2本。

いずれも藁で作ったホウゼンもある。

村の戸数は17戸。

山の神の御供は5年前より、また少なくなっていた。

さて、本日に行われるオコナイは真福寺である。

本堂一部の扉を開放していた。



鴨居に注連縄を張っている。

お参りに来られる人のために扉を開放しているのだろう。

賽銭箱があり、その横に松の束もある。

細い注連縄もあり、シキビと思われる葉を挿していた。

そこへ村の人と思われる男性がホンダ製の電動カートに乗ってやってきた。

行事取材のことを伝えたら受け入れてくださった。

男性はこの日に務める話しを堂下(どうげ)さん。

行事進行を手伝う役目にある。

ここ山添村では手伝いさんのことを堂下で呼ぶ地域は多い。

ほとんどと云っていいくらいに多い。

寺の扉を開けるから上がってと云われて入堂した真福寺は村の会所にもなっているようだ。

村の行事を下支えする手伝いの堂下さんの計らいで本尊を安置する場も案内してくださる。

正面は美しい姿の地蔵菩薩立像。

その下にある小像は不動明王であろうか。

右座は弘法大師。

左に阿弥陀仏であろうか。

その並びのさらに右横に役行者に赤鬼、青鬼の二体。



赤鬼、青鬼は前鬼に後鬼であろう。

その右横に架けてある掛図も弘法大師。

同寺は高野山真言宗である。

その弘法大師尊像を描いた掛図は新調されたのか、それとも修復されたのか、真新しい。

もしかとしてと思って掛図の裏面を拝見したら、あった。



表装仕直したときに昔の書を切って貼ったのだろう。

元の書面に寄進されたと思われる講中10人の連名書がある。

寄進年号は享保四亥年(1719)正月□一日。

右写し之講中5人の名もある。

その時代は弘化三年(1846)午六月。

表具云年とあるから表装仕直し。

さらに年月を経た昭和14年は手直し。

続けて平成6年9月に表具とあった。

300年も継承してきた弘法大師尊像の掛図である。

ちなみにお葬式の際にお墓にもっていった傘も残していると話してくれたが、実物を拝見する機会を逃した。

本堂を拝見させてもらって気がつく仏間の清掃時期。

1月はオコナイ行事の前。

3月は春の彼岸前。

5月は月末日。

8月はお盆の前。

秋の9月も彼岸前。

10月は村の祭りの前である。

いずれも掃除をされる人は堂下さん。

行事の日までに清掃されて、美しくしている。

そのような話題提供をしてくれる堂下さんは準備に忙しい。

しばらくすれば区長以下村の人たちもやってきた。

人数が多くなれば準備作業が捗る。

天井に吊っていた太鼓を降ろして床に置く。

太鼓を吊っていたロープを紐解けば緩やかに降りてくる。

手慣れた作業ぶりである。



先に来ていた堂下さんは用意していた注連縄に松葉とフクラソの枝木を挿し込む。

堂下さんが云うには、この注連縄は縄であっても勧請縄だという。

村の入口辺りに生えている太い椿の木がある。

その木に架ける勧請縄は一年間も鵜山の入口に祭られる。

悪霊が村に入ってこないように村を守る勧請縄を架ける地は「カンジョ」の名で呼んでいる。

もう一人は墨を摺る。

おそらくごーさん札の墨書であろう。

そう思った通りの墨書は手書き。

やってくる村の人が一枚一枚書いていく。



書いた文字は右から「牛王 真福寺 宝印」だ。

細筆で書いたものだから文字は細い。

そこに押す朱印は古くから使われてきた宝印。



角がすり減って丸い。



朱肉のベンガラにつけて印を押す。

来られる村の人、それぞれがごーさん札を書いているのが珍しい。

これまで数々のオコナイを拝見してきたが、村の人の各自一人ずつが作るのはおそらくここ鵜山だけではないだろうか。

もう一つの特徴は「蘇民将来」の紙片である。

名前書きの紙片もある。

「蘇民将来」の紙片の文字。

「そうみのしそんなり」の表現もあればカタカナ表記の「ソミノシソンモンナリ」とか「ソミン シソンナリ」というのもあるし、漢字書きの「蘇民生来子孫門也」もある。

何枚かに分けて書かれた紙片は、先を割っためろう竹(女竹)に挟んでいる。

枚数は家族の人数分であろうか、聞きそびれた。

これを見て思い出したのが、隣村になる別れの村の三重県名張市の鵜山・福龍寺で行われたオコナイ行事である。

名張市鵜山のオコナイによく似たものが登場する。

福龍寺本堂の柱に括り付けた紙片がある。

フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。

コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符。



紙片には「ソミノシソンナリ」の文字がある。

供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りというのである。

挟む竹の違いは見られるものの、両鵜山の人たちはいずれも蘇民将来の子孫成り、であった。

平成25年の1月13日に取材させてもらった名張市鵜山のオコナイに感謝したのは言うまでもないが、山添村鵜山の「蘇民将来」の紙片の名称を聞かずじまいだった。

村の人たちはそれら以外に御供する餅2個を持ち寄っていた。

餅は1軒について2個ずつと決まっているそうだ。

もう一つの仕掛りは勧請縄に架ける板書の木札である。

古くから使われてきた木札に文字がある。



右から「記 奉修勧請 天下泰平 村内安全 五穀成就 ☆ 表象 平成二十八年」とあった。

この板書の木札は毎年使ってきたが、年に一度は年号を書き換える。

年号は替わっていないから書き換えるのは年数である。



今年は平成29年であるから、「八」の部分を小刀で削って文字を消す。

消えたら「九」の文字を墨書する。

堂下さんも忙しいが村の人たちもすることがある。

区長も一緒になって朱印を押したごーさん札を竹に挟んでいた。



竹の先っぽは三ツ割。

3カ所の切れ目にごーさん札を挟む。

図で書けばわかりやすいが、文字で説明するには難しい。

三つに割いた2カ所の切れ目に二つ折りしたごーさん札を丸めるように挟むのだ。

挟むと云うか、窄めて丸めて切れ目に入れる感じである。

札は二つ折れのまま二枚重ねで残る切れ目に挟む。

そうすれば抜けることはない。

今では竹挟みになっているが、かつてはハゼウルシの木を三つに割ってそうしていたと推測される。

このごーさん札はオコナイによって初祈祷される。

祈祷されたお札は持ち帰って苗代に立てると云っていた。

時期はいつになるのか聞いていないが、おそらく早植え。

していれば、であるが、JAから苗を購入している場合はおそらく立てることはないと思われる。

こうした準備を整えてもまだ終わらない。

作業は勧請縄作りである。

鴨居にロープを三本垂らす。

それに差し込んでいくモノがある。

松の枝木とフクラソ(フクラシの木)の枝木である。

葉がある松の枝木は2本。

葉はそれぞれが外側になるようにする。



写真でわかると思うが、ロープを一回転させて固定するのは葉側の外のロープだけだ。

中央のロープを拡げて、そこに枝を差し込む。

そうすることで中央のロープに固定する。

その次も同じようにして固定する材はフクラソ(フクラシの木)である。

フクラソは葉っぱ付き。

松と同じように葉が外側になるように固定していく。

上から順に、松、フクラソ、松、フクラソ、松、フクラソのそれぞれを順に三段組み。

それを2セットの一対を作って、間に幣を挟む。



こうして出来上がった勧請縄は壮観に見える。

完成すれば本尊前の祭壇に置いて祈祷する。

女竹に括り付けた「ソミノシソンナリ」のお札にごーさん札も並べる。



お神酒もお餅も供えてオコナイの準備が調った。

堂下さんが下支えされた作業は材料の調達から道具の準備に祭具の調整などに直会後に行われる勧請縄架けまである。

受付が始まった時間は午後1時。

祭具などすべてが調った時間は午後2時半であった。

そうして始まった鵜山のオコナイ。



太鼓打ちを役目する堂下さんも席に着いた。

もう一人の堂下さんは掃き箒を手にした。

太鼓を打つ間に座敷の床を打ち鳴らすダンジョーの所作がある。

かつては内陣であったろう。

今は会所にもなっている場は畳座敷。

畳が傷んでしまってはいけないからと叩かれるめろう竹は横に置く。

叩く木は平成26年までハゼノキであった。

採取するのが難しくなって、翌年の平成27年より市販の丸太材にした。

本尊、祭壇前に座る長老が導師となって般若心経を唱える。

一同も揃って唱える般若心経である。

一同がそれぞれの場に着座されてから始まる。

それぞれの席にはめろう竹と叩く丸太材も並べた。

おりんを打って唱える心経は読本もある。

一字、一字の心経を丁寧に唱えられる。

そのときだ。



大きな声で発せられた「ダンジョー」の合図に太鼓はドドッド、ド・・の連打。

丸太材で叩く人たちもカタカタカタ・・と連打する。



突然に動き出した箒掃きの堂下はせっせと勧請縄を作っていた残骸を掃きだす。

それまで閉めていたお堂回廊側の扉を開放して箒で掃きだす。



このような所作ははじめて見る。

これまで拝見した村行事のオコナイ事例は67行事。

その中でも特筆すべき所作である。

尤も県内事例にオコナイすべてにランジョー所作があるわけではない。

私が取材した範囲であれば42行事。

その中にも類事例は見当たらない。

驚くばかりの箒掃き所作に感動する。

箒掃きは太鼓や丸太材叩きのランジョーが終わるまで掃き続ける。

時間にしてみれば1分間もなかったであろう。

音が消えたらあの喧噪さはどこへいったのだろうと思ってしまうぐらいの静けさの村に戻る。

太鼓や丸太材(かつてはハゼノキ)で叩く音が村内に響き渡る。

その音を聞こえた人も、聞こえなかった人も、聞こえたと想定して、各家に居る婦人たちは家の座敷を箒で掃く。

まるで普段の生活のように座敷を掃除するかのように箒で掃くと堂下さんが話してくれた。



縁側まで掃いて外庭まで掃くような感じで悪霊を追い出したということである。

音も掃除も悪霊を追い出す所作。

板書に書いた「天下泰平 村内安全 五穀成就」の如く、村から悪霊を追い出して村内は安全にと祈祷されたわけだ。

オコナイは未だ終わらない。

ありがたいごーさんの朱印がある。



どこともそうであるが、朱印は額に押して印しを受ける。

ベンガラの朱印だけにベタっとつく。

いくつかの村で押してもらったことのある額押し。

そのまま帰宅したときの家人の驚いた顔が忘れられない。

この額押しを含めた所作が一連のオコナイ行事。

終った時間は午後3時前だった。

それからは直会をしていると聞いていた。

会食を含む直会はだいたいが1時間。

それが終わってから勧請縄架けに行くと話していた。

凡そ1時間と判断して遅くなった昼食を摂る。

鵜山にはスーパーもコンビニエンスストアもない。

何も用意していなかったから近くのスーパーイオン名張店まで。

鵜山からそれほど遠くはないように思えたが、思った以上に時間がかかる。



大急ぎで食べた時間は午後3時半。

落ち着いて食べている場合でもない。

真福寺に戻って直会が終わるのを待っていた。

そこにやってきた堂下さん。

もう済ましたと云うから大慌てだ。

カンジョ場はすぐにわかった。



なるほど、ここが村の入口。

風景写真家が撮った写真を見たことがある景観であるが、彼らはカンジョ場に架けた勧請縄を知ることはないだろう。

架けた大木の樹齢は何年になるのだろうか。



古木のような感じはしないでもない樹木は椿。

3月になれば赤い花を咲かせているのだろうか。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)

切幡の弓始め

2017年10月17日 09時32分27秒 | 山添村へ
切幡の小正月行事はかつて1月15日だった。

その日は垣内ごとのトンドが終わってからは上出、下出垣内ごとの弓始め行事があった。

今でもしていると思われた弓始めを拝見したくなって、この年の当家がどの家であるのか、教えてもらって行事の家を訪ねる。

小正月行事には違いないが、日にちが替わったのはいつだったろうか。

これははっきりしている。

ハッピーマンデーの施行日である。

週休二日制が全国に浸透し始めたのは平成時代に入ってからであろう。

「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」および「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」が定まって、平成10年に「成人の日」と「体育の日」がハッピーマンデーの月曜日に移った。

「海の日」に「敬老の日」は平成13年になってからだ。

切幡の弓始めがハッピーマンデーの「成人の日」に移行して、早や19年。

月日というものは早いものである。

村の安全や五穀豊穣を願う年初の行事。

初祈祷のオコナイは1月7日の山の神の日。

これは昔も今も替わらない年初の村行事。

7日は山の神行事が終わってからオコナイ行事をされる。

成人の日はトンド行事が終わってから弓始め行事がある。

なんとか間に合うと思われた今年の弓始め行事の場は上出のトンド場の真ん前の家だった。

今、まさに始めようとしていた当家は馴染みのある人だ。

急な撮影にも応じてくださったのが嬉しい。

弓始めは儀式であるが、弓を射る人も当家家族も普段着で行われる山添村切幡の弓始め。

平成22年の1月11日に取材させてもらったときとなんら変わっていない。

射る矢はアマコダケ(ススンボ竹)。

弓は青竹で作ったという。

平成22年に聞いていた弓の材はシンブリの木で弦はフジツルであった。

矢の本数は特に決まっていないが、射る方角は最初に天を。

次が地である。



東、西、南、北に矢を放って最後の〆に鬼を射る。

的の鬼は手書きでなくカラー色の写し。



ダンボール紙に貼り付けていた鬼の絵は平成22年に拝見したときも写しであったが、デザインは違っていた。

矢を射る人は村神主に次年度に村神主を務めるミナライの二人。

打ち終わって二人に問う下出の弓始め。

それについては、今はない、という。

ないというよりも4年前に上出、下出それぞれにあった当家制度を村一本化にした。

そういうことで弓始め場も統合化、ということである。

村行事のあり方は少しずつ変化させてきた。

今後もまた改革することになるだろうと話していた。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)

切幡のトンド

2017年10月16日 08時12分28秒 | 山添村へ
明日香村の八釣はトンド焼きの翌日に灰を「豊年、豊年」と云いながら畑に撒く。

同村の川原や小山田では灰撒きをしたら田に虫がつかない、と云われていた。

山添村切幡に同じようなことをされている人がいる。

お家で行われている年中行事の数々になにかとお世話になっている。

大字切幡のトンド焼きは平成22年の1月11日に取材したことがある。

あれからもう7年も経っていた。

月日の廻りはとにかく早い。

早いと云っても宇宙の運行は一定であるから、気持ち的に早くなっているだけだ。

かつては小正月の1月15日に行われていた。

15日は成人の日でもあったが、ハッピーマンデー施行によって毎年の日は動く。

トンド日を成人の日で覚えていた人は記憶がこんがらがってしまった人も多い。

いつされているのですか、と問えば、成人の日を応える人もあれば小正月の15日という人も多い。

慣れ親しんできた小正月行事がハッピーマンデー施行によって大きな変革があった。

県内各地のとんど日が変動する成人の日に移した地域があまりにも多くなったから、実にややこしい。

それも慣れてしまえば、覚えられるもの。

慣れとはそういうものだ。

さて、切幡のトンドは垣内単位でされている。

上出、下出、井ノ出谷の他、もっと少ない軒数でされているところもある。

上出は仕掛りはじめ。

調えば火点けをされる。

存知している人が多い地域。

走る車から頭を下げて次の垣内へ向かう。

ここ井ノ出谷は火点けを済ませていた。



ポン、ポンと燃えた竹が爆ぜる音が谷間に拡がる。

もう一カ所は二人だけで行われる小とんど。



以前はもう1軒もあったが、今は村を離れている。

昨夜に降った雨で畑は水浸し。

近くに生えている竹を伐り出して火を点けた。

ここもポン、ポンと音が鳴る。

枯れた竹でも鳴る場合はあるが、青竹であれば必ずや鳴る。

竹の内部に詰まっていた空気が弾ける音を聞くと懐かしい。



火が落ち着けば、家から持ってきた餅を焼く。

竹の先に挿すことなく、網焼きである。

焦げ目がついたら焼き上がり。

ほくほく熱々。

手で転がさないと冷めてくれない。

普段であれば焼いた餅は家で食べる。

今回は特別に焼いた餅をくださってよばれた。



食べ終わってからおもむろに動いた男性は手造りの大型ジュウノ(什能)でトンドの灰を掬う。

灰がジュウノから毀れないように、そのままの状態でもって田んぼに移動する。

豊作を願う灰撒き。



地方では虫が寄りつかないようにというまじないでもある。

田んぼの枚数ごとにこうして灰を撒いている、という男性はかつて味噌を家で作っていた。

焼けた竹を持ち帰って、家にある味噌樽の上にのせておいたら作るのがしくじらんかった、と云う。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)

ナルカナランカ

2017年10月15日 11時35分53秒 | 山添村へ
O家に寄る前に先に伺ったT家。

庭に長い木を横たえている。

そこに置いてあった小豆粥。



昔は小正月の1月15日にしていたT家の「ナルカナランカ」のお供えであるが、どちらかといえば小正月の小豆粥が色濃い様相である。

これより始まる垣内のトンドの前に伐ってきた木はホウソの木。

ホウの木の名で呼ぶこともあるらしいが、たぶんにコナラの木であろう。

そのホウソの木の本数は家に居る男の人の数を揃える。

お爺さんに息子さんに孫さんにひ孫。

三世帯同居の大家族だ。

長さに決まりはないらしいが、立派な大きさのホウソの木である。

このホウソの木はトンド焼きを終えたら割り木にする。

その割り木は翌年の薪に利用すると話してくれた。

撮らせてもらったときの時間帯は午前9時半。

村にある他の垣内の行事を拝見して戻ってきた午前11時過ぎ。



チェーンソーで切って束ねていた。

間に合わなかった。

山添村でナルカナランカをしているお家は少ない。

聞いているのは先ほど拝見したT家とこれから向かうO家だけだ。

他の村々でも話題に上らなくなったナルカナランカ。

民俗語彙で云えば成木責めである。

編集発行は田原本町教育委員会。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「成木責め」のことが書かれている。

大字矢部のトンド行事に関連する小正月行事の記事に「正月14日に集めた丸太の心棒に藁束。大きなトンドを組んだ翌朝15日の4時に点火する。燃え尽きるころのトンドの火は提灯に移して持ち帰り神棚の燈明に移す。トンドの火はそれだけでなく家で小豆粥を炊く種火にする。炊いた小豆粥は家の神仏をはじめ出入口や井戸にも。宮さんの杵都岐神社に三社、観音堂、薬師堂、ツナカケ場、地蔵尊などにも小豆粥を供える。子どもたちは、トンドで燃え残った竹の棒をもって、家々の成木(※実の成る木で特に柿の木)に向かって、“成るか、成らんか”と声をあげる。次に、それに応えるように“成ります、成ります”と自問自答してあちこち走り回る。これを成木責めという」解説文(※わかりやすいように一部補正して文章化した)がある。

尤も現在は休止中と補足してあることから、昭和59年にはすでに中断している習俗である。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

その中に、項目「ナルカナラヌカ」に挙げていた御杖村習俗の解説文に「15日の朝の小豆粥を柿の木に供える。このとき、一人がナタを持っていき、「ナルカナラヌカ ナラントチョンギルゾ」と唱えると、もう一方の一人が「ナリマス ナリマス」と、唱えてから柿の木に粥を供えた」と書いてあった。

「ナラントチョンギルゾ」とは思い切った言い方であるが、同じような台詞を聞いたことがある。

その地は東山中。

奈良市別所町で話してくださったO婦人の体験記憶。

「正月七日の七草の日だった。一人の子どもがカキの木にナタを“チョンしてなるかならんか”と声をあげた。そうすれば、もう一人の子供が“成ります 成ります”と返答した。親から“ナルカナランカをしてこい”と云われたのでそうしていた」という事例の言い方は若干の違いはあるが、まさに同意表現である。

ただ、何をちょん切るのか、曖昧のように思えた。

昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。

「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口もシラメの口も焼こう”と云って餅を焼いた。家では小豆粥を炊いて神仏に供えた。また、柿の木にナタでキズをつけて、“この木、成るか、成らんか”と叩いて木責めをして小豆粥を挟むこことある」という記事も注目される。

また、編集・発行が京都府立山城郷土資料館の昭和59年10月に発刊した『京都府立山城郷土資料館企画展-祈りと暮らし-』に、精華町祝園で行われていた成り木責めの習俗が書かれている。

「正月の井戸飾りに使った竹の先に餅をさして、トンドの火で焼いてたべていた。この餅は歯痛のまじないになり、屋敷の乾(戌亥)の方角に立てて蛇除けにした。この他、トンドで餅を焼いた竹で、柿の木を叩いて、成り木責めをしていた」とある。

他にもかつてしていたという地域が多々ある。

天理市苣原町、天理市藤井町、奈良市都祁南之庄町、山添村大塩、山添村毛原、宇陀市菟田野佐倉、宇陀市大宇陀本郷に御所市東佐味などだ。

奈良県内の広い地域に亘って行われていた「ナルカナランカ」は今や絶滅危惧種。

山添村内の一大字で数軒が今尚続けておられたことに感謝する。

先に挙げたT家も昔はナタでキズをつけて「ナルカナランカ」をしていたが、今はそれをしていない。

ただ、ホウソの木に供える小豆粥は今も継承しているのであるが、これから向かうO家はナタでキズをつける「ナルカナランカ」はしている。

両家の在り方を見ることで、一つの事例として記録させていただくのである。

貴重な事例を撮っておきたいと願い出た写真家Kさんの希望を叶えたく訪れた。

O家もT家を同じように伐ってきたホウソ(コナラ)の木を並べていた。



家のオトコシ(男)の数だけ伐ってくるというホウソの木。

「ほんまは4人やけど、今年は5本にした」という。

T家ではここに小豆粥を供えていたが、O家にはそれがない。

これから出かける自前の山。

ご主人が生産している茶畑まで案内されるが、山の上。

急な坂道に軽トラが登っていく。

一面いっぱい広がる茶畑に残り柿がある。

前述した事例のすべては柿の木。

「ナルカナランカ」をするには必須の山の木である。

男性が云うには、ここには柿の木が数種類あるという。

熟しが美味いエドガキにコロガキ、イダリガキがある。



そのうち、一本の柿の木に向かってナタを振り上げる。

カッ、カッと音を立てるナタ振り。

数か所にキズを入れたら小豆粥をおます。

供えるというよりも「おます」の表現の方が合っている。

奈良県人のすべてではないが、供えることを「おます」と云う人は多い。

尤も若い人でなく、高齢者であるが・・・。



小皿に盛っていた小豆粥を箸で摘まんで伐り口におます。

キズをつける場所は二股に分かれる部分であるが、この年は幹の数か所にキズをつけた。

キズ口は白い木肌。



そこに小豆粥を少し盛る。

男性は「ナルカナランカ」の台詞を覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしているという。

「もう一本もしておこう」とすぐ傍にあったカキの木に移動した。

そこでも同じようにナタを振って伐りこむ。

そして、小豆粥をおます。

眺望は山村ならではの地。



美しい風景に思わずシャッターを押した向こう側を高速で走り抜ける車。

眼下を走る道路は名阪国道。

資本経済を運ぶ物流の道でもあるから平日はトラックが多く見られる。

山添村毛原で聞いたトンド焼きがある。

書初めの書も焼くトンド焼きに餅も焼く。

竹の先を割って餅を挟む。

それを火の勢いが落ちたトンドに伸ばして餅を焼く。

焼いた餅は小豆粥に入れて食べる。

餅を焼いた竹は1mほどの長さに切断して持ち帰る。

家にある味噌樽や醤油樽の上にのせておけば、味が落ちないという俗信があった。

焼けたトンドの灰は田畑に撒く。

トンド焼きの前にしていたのが、「ナルカ ナラヌカ」であった。

柿の木の実成り、つまり豊作を願って柿の木の根元辺りの粗い木の皮をナタで削り落として、「ナルカ ナラヌカ」を叫びながら、ナタ目を入れる。

ナタで削った処に持ち帰ったトンドの火で炊いた小豆粥を供えた。

時間帯は早朝だった。

この事例でもわかるように柿の実成りを願う作法なのである。

おます小豆粥はトンドの火で炊く。

二つが揃って成り立っていた「成木責め」は小正月行事であった。

「成木責め」は奈良県特有でもなく、他府県にもあった。

ネットで紐解けば、日本大百科全書どころか、ブリタニカ国際大百科事典や世界大百科事典にも載っている項目である。

なお、同村の知り合いにNさんが居る。

同家も「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さんが生きて時代だった。

柿の木をナタでキズをつけてアズキ粥を供えていたと云う。



そのときの台詞が「成るか、成らんか 成らんならな、ちょちぎる」だったことを思い出した。

成木責めをもって村起こしをしている長野県飯田市鼎東鼎の事例もある。

(H29. 1. 9 EOS40D撮影)

大西・チョウジャドンの祝い膳

2017年10月10日 08時54分48秒 | 山添村へ
大きな注連縄を玄関にかけているお家を訪ねる。

元日の朝、お家の正月祝いにチョウジャドンの祝い膳のイタダキをしていると話してくださったのは山添村大西在住の婦人だった。

座祭りが終わりそうなときにお会いした婦人が云ったお家の習俗に思わず取材のお願いをした。

お許しいただければ是非とも取材させていただきたいと申し出た結果は、年明けの1月4日になってからだった。

見てはもらいたいが、家の都合もある。

しかも、腱鞘炎まで起こしてしまって重いものを持ち上げるのに苦労している。

お餅は小さくするなど工夫したと云っていた。

ありがたいお言葉に甘えて出かける大字大西。

オコナイ行事を終えてから寄らせてもらいますと伝えていた。

時間帯は午前11時半になってしまった。

ありがたいお言葉をいただいて、お年賀持参の民俗取材に心が弾む。

弾む心に迎えてくれた形が美しく綺麗な注連縄に「笑門」の木札がある。

伊勢の猿田彦の講に属しているので講中に頼んで入手したものだそうだ。

婦人が初めに案内してくれたのはカドニワに奉っていた門松である。



日にちが経過しているから葉は日焼けでチリチリ感がある。

普段であれば砂盛りをしたところに立てる門松。

今年はそうすることもできない重い道具の持ち運びであるが、松、竹(笹竹)、梅を立てた。

ナンテンもあればセンリョウも。

そこにサカキもフクラソウ(フクラシであろう)も添える。

ただ、今年は入手できなくて代替にビシャコを選んだそうだ。

注連縄は眼鏡型。

ユズリハにウラジロを添える。

これらは第二日曜日の朝8時半にトンドで燃やす。

昔は習字焼きの天筆もしていたが、誰も書くことがなくなった現在は見なくなったそうだ。

松は1月4日になれば穂先というのか知らないが、てっぺんの先っちょを伐って仕事始めをするという。

そのときはシバ(柴)を結う。

山行きして伐ってきた枝を束ねるのであろうか。

そのシバはトンド焼きの心棒にするというから、割合長めであると思われる。

カドニワに立てた門松の前にポリバケツがある。

中には若水を入れてある。

若水は正月の三が日。

元日の朝に柄杓を浸けて若水を汲む。

水が溜まれば顔を洗う。

若水は裏木戸の前にある井戸から汲み上げる。

昔は釣瓶で汲んでいたが、今では水道の蛇口にように捻るとジャーである。

手押しのポンプで汲みだした時代もあったが、いつしか電動ポンプの汲み上げ。

ポンプもやがて消えて蛇口を捻ればでてくる仕掛けになった。

その井戸を拝見して、つい「捻るとジャー」やと口が出る。

婦人も同じように「捻るとジャー」。

同世代ならではの生活文化の語彙が出てくる。

こうした門松立てや若水文化の民俗を拝見したら、祝い膳である。

膳は三種。

正月三が日も終えたこの日までわざわざ残してくださった祝いの膳にあっと驚く。



方形や円形のお盆に盛った品々。

丁寧に、そして綺麗に盛り付けされている。

椀からはみ出しそうな大きなカシライモ(頭芋)。

キナコは雑煮餅に漬けて食べる。

あまりにも大きすぎるカシライモ(頭芋)でその下にあるものが見えない。

婦人に具材を教えてもらわないとわからない。

その答えは豆腐に人参、蒟蒻、牛蒡、大根。

すべてが2個ずつ。



カシライモに載せている人参の形を見ていただきたい。

象って切り抜いた形が松(三枚葉)、竹(三枚葉)、梅(五花弁)。

実にお正月らしい飾り野菜である。

クシガキ(串柿)のニコニコ(2個、2個)。

1個であれば、一人もん。

一対の2個であれば、夫婦仲良く睦まじく、である。

お正月の餅は押し餅。

保存するのに最適な餅である。

かつて我が家も正月の餅を搗いていた。

小餅もあれば鏡餅も。

ひと際大きかったのは太く長い形の餅だ。

これをネコモチと呼んでいたことを思い出した。

小正月に切ったネコモチは厚さが1cmぐらいだったか。

ぜんざいに入れて食べていたことも思い出す。

それはともかく取材地民家の祝い膳。



たくさん搗いた餅を保存する場は「ナナワ」の奥の座敷。

ゴザを敷いて餅を並べているという。

髭のあるトコロイモは長寿の印し。

特に髭が長いのが良い。

トコロイモは家族の人数分の数。

栗は2個。

枝軸付き干柿も2個であるが、普段であれば2個でも1個でも構わないという。

それに葉付きのユズ。

昔はミカンだった。



祝い膳は家族の人数分を盛る。

子どもにあげるお年玉の膳に載せて拝む。

拝む順序は長老からだ。

その年の恵方か、若しくはお日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

「ちょうじゃどん」と、一回云って座りながら拝む。

この場は座敷ではなく、玄関土間。



「このような感じでしているのです」と云いながら“形”を再現してくださった。

床の間辺りに並べておいて、「ちょうじゃどん」して長机に置く。

お爺ちゃん、お父さん、男の子の次がお婆ちゃん、お母さん、女の子の順でそれぞれが「ちょうじゃどん」の作法をする。

先祖さんを祀るお仏壇にも同じように供える餅、トコロイモ、栗、串柿、ユズのセット盛りである。

神棚さんは床の間。

かつてはそこには三宝も載せていたというから、その形式は年末に拝見した木津川市山城町上狛・M家や大和郡山市雑穀町の元藩医家の三宝飾りと同じであったろう。

方形のお盆に盛ったそれぞれも同じであるが、異なる形の餅もある。

右下角にある餅はまるで乳房のように見えるが、それは山の神さんの餅。

家ではオカイサン(お粥)を足して祭っているという。

山の神さんの餅は男の人数分を用意する。

炊いたオカイサン(お粥)に七草を入れて食べる。

山の神さんに参る行事を拝見したことがある。

場所は山添村の大塩。

小字キトラデ在住のK家の山の神行事である。

1月7日は山の神。

その日は七草の日である。

山の神参りを済ませた親子は家に戻ってから七草粥を食べていた。

ここ大西の住民も同じようにされていたものと思われる。



山の神さんの餅の左横にあるのが三日月餅。

ちょんと、くっつけているのがお星さんだ。

その左横に並べた餅は小判型。

本来は家の蔵に供える蔵の餅。

広げたシダの葉を敷いて、その上に載せる。そのシダは村の人(子供だった可能性もあるが)に頼んで採ってきたもののようだ。

方形盆の右上角に並べた12個の餅はツキノモチ。

12個あるから一年間の月の数。

新暦の閏年の場合は13個にするというから、元々は旧暦の閏年であったろう。

その新暦の閏年の年は伊勢講が揃って参るお伊勢参りがあるという。

方形盆の左下角に並べた10個の餅はそれぞれ。

恵比寿大黒さんに供える餅は2個。

三宝荒神さんは3個。

井戸の神さんは1個。

門松さんも1個。

山の神さんに参る分に1個。

トンドの神さんは2個。

これは先を尖がらせた竹に挿してトンドの残り火で焼く。

ほどよく焼けたら、その場で食べる。

その際、炊いて作った小豆粥を持っていく。

そのトンドの火の燃え殻。

炭としても役立つ燃え殻を拾って帰る。

それを味噌樽の蓋の上に置けば、味噌が美味しくなると云われてきた。

さまざまな神さんに供える正月の餅の数々。

今年は訪問者のために一つの方形盆に盛り合わせてくださったから、例年とは違う形式である。

しかも餅などの大きさは方形盆に乗せられる大きさであることを添えて紹介する。

昔、お婆さんが「丸い栗はダメ」だと云っていたそうだ。

栗の実は蒸すか、茹でるかにして、それを数珠玉のよう吊るして干した。

通すのは布団針のような太くて長い針だった。

そう話す婦人は冷凍して保存しているようだ。

「カンピンタン」は硬くて食べられないからトンドにあげるともいう「カンピンタン」とは・・・。

帰ってから調べた結果は奈良県の宇陀郡や三重県の南牟婁郡、志摩郡、四日市市の方言のようで、干乾びた状態というらしく、充てる漢字は「寒貧短」っていうのが面白い。

さらに調べてみた「カンピンタン」。

小学館の『日本語大辞典』によれば、まったくお金がない無一文のことを「スカンピン」。

子ども時代から使い慣れている「スカンピン」を充てる漢字は「素寒貧」。

なるほど、であるが、「カンピンタン」ははじめて耳にした言葉。

しかも、尾鷲のようにサンマの寒風干しを製品化する場合においてもそう呼ぶ地域もある。

婦人が提供する話題は次々と広がる。

トコロイモは水に浸けておくと元気になる。

籾も水に浸けておくと芽出しが良い。

トコロイモも同じことだと云うトコロイモはモグラが好物のようだ。

恵比寿大黒さんにはカケダイをする。

カケダイモ新品の大型マッチも紐で吊るして供える。

マッチを供えるのは、火が起こせるからだ。

火を起こすマッチ擦り。

マッチは火起こしに欠かせない道具であるから食べられるようになるということから供えるという。

カケダイは三重県伊賀市治田まで出かけて「まるそうスーパー」の魚屋さんで買ってくる。

山添村からそれほど遠くない地であるが、婦人の家では夏のお盆に乾物のトビウオを供える。

トビウオはホントビもあればアオトビもあるらしい。

そのトビウオは両親が揃っておれば2尾。

片親であれば1尾。

ともに亡くなれば買うことも、供えることもないが、祝いに供える場合は、終わってからそのトビウオを下げて、分け合って食べているそうだ。

山添村の北野津越松尾でされているサシサバのイタダキさんと同じ様相である。

東山間に今も聞くサシサバの風習はサシサバでなくてトビウオもあると聞いていた。

それをしていたのはここ大西の婦人宅であった。

なお、婦人が云うには隣村の菅生もトビウオの風習になるという。

話題は替わってカシライモ。

カシライモは赤ズイキでオヤイモになる。

ズイキは芋がらとも呼ばれる芋茎である。

八ツ頭(ヤツガシラ」とか唐の芋(トウノイモ)などのサトイモの葉柄の部分である。

一方、赤ズイキに対して青ズイキもある。

青ズイキの子芋は食べられるから芋串祭りの御供に出しているが、カシライモ(頭芋)になる部分は食べられない。

他にも竃の三宝荒神さんは松の枝に注連縄などなどを飾るなど豊富な在り方にただただ感動するばかりだ。

その上に別途雑煮の用意までしてくださった。



キナコもあれば雑煮の餅に大きなカシライモも。

ありがたく同家のお味を堪能させていただいた。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)

大西のオコナイ

2017年10月09日 07時44分48秒 | 山添村へ
昨年の平成28年10月9日に行われた山添村大西の座祭りの場。

座祭りの場にもなるし、村の会所でもあるその施設は旧極樂寺跡である。

1月の6日にオコナイと呼ばれる正月初めの初祈祷にランジョーされると聞いていた。

一般的なランジョーはごー杖と呼ばれるウルシの木を寺の縁に叩く作法があるが、大字大西ではその作法は廃れて、僧侶が読経中にオリンを打つ、そのものがランジョーになったと云っていた。

作法はある意味、特殊になったわけだが、初祈祷であることには違いない。

この日のオコナイに参集されたのは区長や檀家総代の人たち。

時間ともなれば隣村になる大字春日の不動院住職がやってくる。

その時間を待っていた会所の屋外。

不思議な景観がある。

会所の窓側下になにがある。

よくよく見れば松である。

違いがある2本の松。

右はオン(雄)松で左はメン(雌)松だ。

旧極樂寺跡会所の元日は扉を閉めていたのだろうか。

聞こうと思った男性はおもむろに動いた。

門松と思われる、その場に移動した。



そこに挿していた松を抜いた。

抜いたのは二本ともだ。



それはどうされるのか。

後ろからついていけば会所へ、である。

松を抜いた男性は屋外に咲いていた椿の花を摘んだ。

紅白それぞれの花が咲いている椿も持ちこんで花瓶に立てた。

花瓶を置いていた場所は床の間の前に組んだ祭壇である。

祭壇は座でも利用されていた長机である。

左側に白花の椿。右が赤色の椿の花瓶に抜いた松も立てた。

仏式の花立てに神式の門松を立てた。

村の人らの話しによれば三段の松を伐って立てた門松の先端部分を正月迎えた三が日を過ぎたら、それを伐って、旧極樂寺跡会所に立てるということだった。

珍しい正月飾りの形態に驚くばかりだ。

祭壇に門松を調えたところで不動院住職が到着された。

早速、始められた祈祷札の墨書。



大字大西の『大西修正㑹牛玉ノ書帳』に記されているごーさんの祈祷札の書き方通りの「牛玉 不動院 寶印」文字を墨書する。

寺名は大字大西の旧極樂寺でもなく大字春日の不動院である。

住職の話しによれば随分と前のことであるとお断りを申される。

その昔はわからないが、山添村大字大西のオコナイ作法が廃れたようである。

きっかけはわからないが、不動院が継いで大字大西の寺行事を務めてきたということである。

転記されていた『修正㑹牛玉ノ書帳』には「修正㑹一月五日廣代(ひろたい)云々・・」の文字があった。

3日後のことであるが、山添村の東の端に大字鵜山がある。

そこでもオコナイ行事を拝見させてもらったが、僧侶は登場されずに村の人たちだけで作法をされる。

そのときに拝見させてもらった資料がある。

その資料によれば、山添村の3カ大字で初祈祷とも呼ばれている修正会の日程がある。

1月5日は広代(ひろたい)で6日は大西。

10日が遅瀬である。

オコナイはその3カ大字であるが、涅槃会は大字上津がある。

彼岸会となれば鵜山、広瀬、吉田、広代、上津、菅生、春日、大西、葛尾にも出向かれる。

つまりは、不動院住職が山添村で兼務している大字はそれだけある、ということだ。

広代のオコナイは平成26年1月5日に取材させていただいた。

遅瀬は未だ取材ができていないが、米寿祝いを兼ねたオコナイ行事はハゼの木を用いると聞いている。

縁かどうか記憶にないが、ダンジョーという名の縁叩きをしていると聞いた。

ハゼの木にお札を挟んだごーさんは見たことがある。

平成22年10月10日の神社行事に訪れた際にそれがあったと認識している。

墨書したごーさん札はご祈祷される。



祭壇のローソクに火を点けて始まった初祈祷のオコナイ。

重箱に詰めたお節料理を供えて線香も火を点ける。

この段階では朱肉をつけない宝印は押さない。

ごーさん札の前に置いてあるだけだ。

大西に迎えたお正月の挨拶を述べた住職はこれより初祈祷の法会を行う。



はじめにお清めの作法。

次に仏さんを詠みあげる諸仏勧請。



その次は全国津々浦々の神さんを詠みあげる神名帳詠み、である。



そして、花餅(けひょう)帳に沿って寄贈者の村人名も詠みあげて般若心経に移った。

ちなみに、花餅(けひょう)帳に記載された名前は家族のうちでも男だけだそうだ。

それからしばらくしたら「ランジョ-」のご発声。

オリンを叩く。

それもリンリンリン・・打ちの連打である。

続いて、祭壇の角にあたる部分も叩く。

それもカタカタカタ打ち・・の連打である。

叩くのは住職お一人。

この作法が大西のオコナイのランジョー作法。

他所では見られない作法である。

正月初めに行われる修正会のお勤めは、村人の健康を願い、村内安全を祈願する。

去年の罪を懺悔する。

広島の因島の僧(因島薬師寺)に教えを乞うた。

神さんも仏さんも拝むが、先祖さんを拝む。

先祖さんをずっと辿っていけば、神、仏に近づく。

神と仏の力を借りて命を繋いできた先祖さんを拝むということ。

先祖さんに感謝するとともに、拝むことによって村ともども子孫繁栄に繋がるということであるとお話しされる。



法会を済まされた住職は祈祷されたごーさん札に押印する。



押印は宝印。

水で溶いたベンガラを宝印に付ける。



朱のベンガラは山に出かけて採取したもの。

水は村の湧き水の若水である。

朱印は「牛玉」、「不動院」、「寶印」それぞれに押す。

朱のベンガラがべったり押されたから印の状態がわかり難いが、炎のような輪郭はよく見える。

朱印を押したごーさんの祈祷札は、これも山で採取してきたハゼウルシに挟む。

木肌を削って真っ白になったハゼウルシの木は年々少なくなってきたという。

どこへもっていくこともなく、旧極樂寺跡会所の床の間に立てて残している。

一番古いものから数えて5本目になるそうだが、今年はそのハゼウルシでなく「ウルシ」の木そのもの。

生のうちに木皮を剥いで作っておく。

翌年は再びハゼウルシ。

持ち回りで入れ替えをするという。

祈祷法会を終えて朱印押し。

ベンガラをべったり塗った宝印が動いた。



実際に動いているのは区長であるが、一人一人の席の前に立って額に押す。

べったり塗られた額の朱印はなかなかとれないものだ。

こうしてオコナイとも呼ばれる修正会お終えた人たちは座敷で直会。

初祈祷に供えた重箱を下げる。

小皿に取って箸で摘まむ。

重箱の蓋を開ければお節料理が見える。

甘く煮た黒豆に甘栗もある。

かつお節を降ったカズノコもあればゴマメもある。



供えたお神酒もいただく直会中に明日の大西の行事を聞く。

1月7日に行われる山の神がある。

時間帯は特に決まっていないが、早い人は今夜の零時の鐘がなったら出かけるそうだ。

持ってきた藁束を燃やす。

山の神のオソナエの形はクラタテを表現しているが、村では単にオソナエと呼んでいる。

山の神の地はジンスケの名がある屋敷跡。

大木のケヤキがある地。

急勾配の地に山の神を祀る土段は事前に調えておく。

オソナエをしてクリの木、或いはオツゲの木で作ったカギの木でカギヒキの作法をする。

そのカギの木にはモチ、或いは砂を詰め込んだ稲藁で作ったクラカケをぶら下げる。

他所であるがオツゲの木は、たしか、ウツギの木だったと記憶する。

山の神に奉る土段に山や農仕事に使う七つ道具を供える。

七つ道具は白い木肌を削った農具を象ったカマ、クワ、スキ、ナタ、ノコ、ヨキにクマデの七種。

すべてニスを塗っているそうだ。

やや太めの刀も作る。

それには五穀豊穣、家内安全の文字を墨書する。

これらを作る木材はホウの木。

イモギの名で呼ぶこともあるホウの木で伐り出す刀。

その形からケン(剣)の木と呼ぶ人もいるらしい。作る人は区長。

奉る人も区長。

かつては、というか、昨年までは、毎年に交替する区長が作って奉っていたが、この年から毎年作ることにはせずに、夕刻に引き上げて区長保管。

翌年に再び登場する使い回しに改正したという。

ところで住職が法会の席についた頭上に何かが見える。

村の人のお許しを得て、法会中も扉を開けていたその内側に安置されている仏像を拝見する。

床の間頭上の仏壇と云えばいいのか、わからないが、左側が行者坐像で、右側は毘沙門立像である。

暗がりで判断は難しいが、右隣の毘沙門立像は木造のようであるが、行者坐像は石造りのように見える。

それとは別に左端に大きな縦長の扉がある。

村の人たちがいうには、そこにはお大師さんを安置しているそうだ。

大西には念仏講がある。

その講中が寄進したお大師さんは四国八十八寺霊場の第45番・岩屋寺のお大師さんを祀っているという旧極樂寺のご本尊は阿弥陀さん。

かつては「座っていたはずだ」と云う。

で、あれば、どこに行ってしまったのだろうか。

(H29. 1. 6 EOS40D撮影)