マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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和爾町和爾坐赤坂比古神社の御田植祭

2017年12月21日 09時32分12秒 | 天理市へ
天理市の和爾町で仕出し料理もしている「川北食料品店」さんが、この年に注文を受けて配達に来ていた。

配達先は奈良市米谷町の座行事だった。

そこで会話したからわかった仕出し屋さんは和爾町の和爾坐赤坂比古神すぐ横だったことだ。

和爾坐赤坂比古神行事の御田植祭を拝見したのはずいぶん前のこと。

あれから9年も経っていた。

当時、氏子らから聞いていた秋のマツリに特徴があるのだが、未だに拝見できていない。

マツリにお渡りがある。

一行は先に山の神に出かけて参ってから神社に向かう。

特徴というのはそれでなく、子どもたちが取り組む相撲である。

お札を手に入れようと真剣勝負の子供相撲は座中のうち中堅どころの人が行司を勤める。

大賞を勝ち取った男子は御幣を受け取る。

生まれたばかりの子供は泣き相撲の取り組みになると聞いていたが、マツリの日は体育の日の前日。

つまりは第二日曜日。

県内で最も行事が重なる日。

都合をつけるのが難しく、未だに拝見できていないので申しわけないと思っている。

神社行事は五人の長老、宮守(一年神主)と十一人の大老、若衆四人で構成されている大老会の名がある宮座二十人衆が務めていた。

宮座の役目を終えて引退になる人があって、若衆の座入りが認められる。

座中は一番若い人でも70歳を超えるくらいの高齢者であるが、皆元気だと云っていた。

しかし、あれから9年も経っている。

70歳だった方も80歳になっていることだろう。

入れ替わりに新入りが入られたとすれば半数ぐらいの顔ぶれが替わっているであろう。

顔繋ぎではないが、前回に拝見できなかったチンチロ付きの松苗を見たくなって訪れた。

9年も経っておれば神社の所在地は頭の中にあっても道中はどの道を行けば良いのか真っ白になっていた。

取材当日に道でも迷うことになっては、と思って前日の14日に道中下見に立ち寄っていた。

そのおかげもあってこの日は道に迷うことなく来られたが、駐車場はどうするか。

実は特定日だけ解放される富の森広場が駐車場になる。

神社より数百メートル南寄りの公園のような広場である。

特定日は4回。

弁財天祭(※7月7日19時善福寺の境内弁財天社開帳弁財天)は3日間、お盆は5日間、秋祭が5日間にお正月は一週間も期間だけであるが、弁財天祭っていつにされているのだろうか、存知しない。

ともかくこの日は御田植祭。特定日でもない。

神社におられた自治会役員や大老会の皆さんにお願いして停めさせてもらった場所は公民館前。

神社前の消防団施設はいつ何時もあるので不許可。

南にある公園の扉が開いておれば、そこに、といわれたが閉扉状態。

「公民館前ならなんとかいけるやろ」と、ギリギリ、キワキワの位置に停めさせてもらった。

ありがたいご指示に感謝する。

和爾町は東、中久保南、中久保北、北西、北東の5垣内。

集落は西に寄って集中しているが、エリアはとても広くて東側は町の5/6を占める田園地区である。

和爾坐赤坂比古神社本社殿は拝殿の向こう側に鎮座する。

中央に本社を配して右が春日神社。

左に八幡神社である古社。

10年前にも聞いたことがある本社殿が建つ土地は横穴式古墳の上に鎮座しているということだ。

年号を刻んでいる灯籠は見つからなかったが、手水鉢に「文政三辰(1820) □□□ 奉納 若連中」が見つかった。

さて、拝見したいのは松苗作りである。

行事を始める前の1時間前から作っていた松苗作り。

今は最期の追い込み作業中と聞いて大慌て・・。



稔りの稲穂(粳米)にチンチロ付きの松苗を括って固定する。

半紙を巻き付けて紅白の水引で括ってできあがるところを撮らせてもらった。

御田植祭が始まるまでの時間帯に撮らせてもらった祭具がある。

牛役が被る牛面に田主が操るカラスキとマンガ。



それにスキと二つのヒラグワを使って御田植祭の所作をする。

前回も拝見していたと思うが、あらためて確認した「牛頭面箱」に墨書があった。

箱の蓋に「奈良縣磯城郡上ツ郷村大字小夫 彫刻人 桒山辰蔵 大正六丁巳(1917)年五月」とある。

箱の横面にも墨書があった。

「大正六年八月新調 氏子総代 冨森定雄 池村富次郎 松岡順三」。

桜井市小夫におられた桒山辰蔵氏に発注して作ってもらった牛頭は当時の氏子総代であるご三方が寄贈されたことがわかる記銘である。

いまから丁度、100年前に新調された牛頭を被るのは宮守さんのようだ。

和爾坐赤坂比古神社の年中行事はこの年は代理ですと云っていた女性神職が斎主を務めたが、宮守の名で呼ばれる一年交替の村神主(中堅)もおられる。

祭典に捧げる御供当番は毎回交替する大老が務める。

秋祭の宵宮もあれば大祭に(勤労)感謝祭、元旦祭の本日の御田植祭である。

また、境内の掃除当番は大老20人のうち2人ずつが交替する月当番も決められている。

松苗が出来あがって祭具も調えたら春祭とも称される祈年祭(としごいのまつり)神事が始まる。



大老たちは本社殿と拝殿の間に設えたスチール椅子に座って神事に臨む。



自治会役員は松苗御供や神饌を供えた拝殿に座って始められた。



祓詞、修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、宮司一拝で終えた。

一同は退座されて境内に移動する。

「これから伝統的な行事を、元気よい形にしてください」と宮総代の挨拶を受けて、直ちに動き出した1人の大老。



最長老の一老がわが身で使っている杖を用いて線描きをする。

ほぼ決まっているかのようにちょちょいと□に描いた線は田作り初めの畝のように思えた。

ちゃちゃっと地面に書いた区画は実に正確。

まるで定規を当てていたかのような真っすぐな線描きである。

御田植祭の所作をする神聖な祭場である。

はじめに登場した農具はヒラグワ。



撫でるような感じで畝を作る。

逆に畝作りをしていたヒラグワが中央で落ち合った。

特に決まりのない畝作りは二人ですれば早くなる、というような感じであった。

ヒラグワ役の二人が退いたと同時に牛役が登場する。

牛役は面を被る人と後ろで支える二人がかりで所作をする。



牛の後方は田主が操るカラスキ曳き。

「モォウー、モゥッー」というような感じで上下に首を振る牛。

腰を下ろし加減にして足も。

左右にも首を振る巧みな演技に感動する。

動きも良いし、鳴き声も大きな声で「モォォー、モゥー」。

田主がその度に手綱を操って「ちゃい、ちゃい」。

よくみればカラスキの後ろにはマンガもついていく同時進行の牛耕である。

纏めてやっちゃえ、という感じなのだろうか。

平成20年に訪れたときの所作を振り返ってみれば、同じであった。

若干の違いがあったのは最初に登場するヒラグワで耕す所作である。

今年はヒラグワ二人が同時に動き出したが、お互いが逆の方向に向かって耕した。

ところが平成20年ではヒラグワにスキ、もう一つのヒラグワ役の三人が一列揃いで耕していた。

どこかの年度に変化したことも考えられるが、和爾の大老たちの動きを見ているとなんとなく基本形はあったとしてもある程度は自由、おおらかさをもっているのかもしれない。

高鳴る大きな声で「モォォー」と、最後に一声。

カラスキ、マンガで曳く牛耕も時計回りの一周で終えた。

線引きから始まって田んぼを耕すまでの所要時間は4分間。

見ている間に終わったという感じであるが、御田植祭の所作は耕すだけで終わることなく、田植えもある。



神事に奉納したチンチロ付きの松苗を下げて大老めいめいが田植えの所作をする。

手にした松苗は田んぼに見立てた祭場に植える形をする。

植えるといっても松苗を立てるわけではなく、神さんに向かって寝かすような恰好で植えていく。



整然と並べた松苗は37束。

綺麗に植わった。

例年作る松苗の束数は30束。

余分に数束を足して作っていた。

ちなみにかつては50束も作っていたというから農家の戸数も多かったのだろう。

植付け状態を確認したら、直ちに撤収。

ではなく形式は撤収のようにも見えた稔りの稲刈りを想起されよう。

こうして今年の稔を予祝する祈年祭、並びに御田植祭を終えた大老や自治会役員は神職ともども公民館内で直会をされる。

先に片づけておくのは拝殿に掲げた幕下ろし。



その役目は自治会役員が担っていた。

豊作を願った松苗は趣のある公民館の玄関の出入り口付近に置いて、貰いに来る人を待つ。



松苗は苗代をした際に水口などに祭る。

だいたいが5月3日から5日の期間中になるようだと話してくれたOさん。

苗代が決まれば取材させてもらっても構わないですかと声をかけたら、午前中で風が吹いてなければ、という条件付きで了解してくださった。

一方、四老のKさんは何人かで、営農センターで籾さんをカルパー処理、それから直播きをしているという。

カルパー処理した籾は動力散布機で撒いているが、池水の都合で日程が決まる。

苗代を作らず直に撒くから営農直播き方法も興味が湧いた。

営農センターができるまでは直播はしていなかったが、今では主流になったという工程は是非とも拝見したいと申し出たら、こちらも取材願いを承諾してくださった。

ありがたいことである。

かつてイロバナを添えていた苗代に「あんじょう育ってください」と手を合わせていたという大老もおられる。

当時は、6月末頃に田植えをしていた。

昭和10年生まれのUさんが伝える子どものころに見ていた苗代作業である。

親父さんからはあまり話を聞くことはなかったが、お爺さんが話していたことは今でも覚えていると云いだす囃子詞。

「イリゴメ喰わなきゃ、亀はます(ぞ)」の台詞で囃して苗代に立てた松稲苗付近にあったイリゴメを食べていた。

イリゴメは煎った米のことで苗代に蒔いていた。

蒔いていたという表現であるが、直接苗代場に蒔いたわけではなく、お盆に盛っていたものだという。

イリゴメはぽん菓子と同じ米やった。

ホウラクで煎ったら爆ぜ(はぜ)て大きくなる。

米ぬかについたイリゴメは花のようになったと云う。

爆ぜたら1/3ぐらいが大きくなる。

まるでポン菓子と同じような膨らみ方である。

イリゴメだけでなくキリコもホウラクで煎っていた。

イリゴメやキリコは子供のお菓子であった。

現在のような飽食ではない時代。

81歳になるUさんが子供のころといえば10歳。

70年も前であれば戦後間もないころである。

私も戦後だが、生まれた年は昭和26年。

それでも食べ物はまだ豊富でなかった時代に育ったと思っている。

県内各地で高齢者が話す戦後の暮らしはひもじ(※空腹の意)かった。

苗代に供えたイリゴメやキリコはそのころに育った子供にとっては美味しいお菓子である。

ここではキリコを煎っていたが、揚げるキリコも聞いたことがある。

それが現代になれば袋入りのアラレになるのだ。

そんな美味しい供えたイリゴメやキリコをくれなきゃ「亀を這わすぞ」ということである。

台詞は「イリゴメ喰わなきゃ、亀はます」であるが、正確に云えば「イリゴメ喰わさなきゃ、亀を這わす(ぞ)」のようだ。

苗代に育つ稲苗。

その場に亀がおればどうなるか。

芽が出たての苗代田に亀が這うと苗がやられてしまうということだ。

足が短い亀が苗代田を這えばせっかく育った苗を腹で潰して苗を倒してしまう。

つまりは食べたい子供は亀を苗代に放して悪さをしてしまうぞ、ということになる。

田主にとってはそんなことされたら困ってしまう。

堪らんからお菓子をあげるから放さんといてよ、ということである。

山添村北野の津越で行われたヤッコメ行事にでてきた台詞は「やっこめ(焼米)くらんせ ヤドガメはなそ(※放そう)」だ。

焼き米は煎り米である。

亀はヤド亀になっているがまったく同じ意味をもつ台詞である。

津越だけでなく桜井市小夫の台詞も「やっこめくれな ドンガメはめるぞ」だ。

亀はドン亀になっているが、「はなそ」も「はめる」も苗代田に亀を放り込むということだ。

ちなみにキリコは二ノ正月に搗いたカキモチである。

搗いたカキモチは棒のようなもので薄く伸ばした。

伸ばしたその端っこは包丁で切る。

切るモチだからキリモチであるが、端っこは細切れ。

それをキリコと呼んでいた。

つまりは二ノ正月(1月の末)に搗いた寒の餅であろう。

寒に搗いた餅はカキモチにすると聞いた地域もある。

カンノモチは寒の入りから寒の内ころにカンノミズ(寒の水)で搗くと話してくれたのは大和郡山市矢田町の住民

モチを包丁で切って天井に吊るした竹にぶら下げる。

それがカキモチであった。

そのような話題を提供している最中に松苗を買っていく人がいる。

神さんに豊作を祈願した松苗は1束が10円。

箱に180円もあることから松苗は18束も売れていた。

実は私も購入した。

1本と云わず、2本でも、3本でもと云われて賽銭代わりに購入した松苗は記録として自宅保管することにした。

ちなみに神社の年中行事は、この日の御田植祭以外に1月1日の元旦祭、4月15日の春の祭、9月1日の総会を兼ねた八朔祭の他、9月18日の宮守を引き継ぐ交替行事などもある。

(H29. 2.14 SB932SH撮影)
(H29. 2.15 EOS40D撮影)


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