マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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吉田秋祭りの饗膳

2012年12月30日 08時28分51秒 | 山添村へ
岩尾神社での祭典を終えれば集会所に場を替える。

会所は本尊を安置している自作寺であるが広間の座敷が饗当屋の座となる。

安置されていた不動明王三尊像と千手観音像が盗難にあった。

容疑者は県警に逮捕されて盗難にあった仏像が返還された。

平成21年9月28日のことである。

テレビや新聞などで大々的に報道されたことを覚えている。

3カ月ぶりに戻ってきた佛像は元禄五年(1691)の江戸時代に造られたそうだ。

戻ってきた仏像は心ある仏師によって修理された。

その際に見つかった体内の木片。

「大佛師新八心 申十二月七日」と書かれていたそうだ。

その事件を機会にセキュリテイを設置したという。

村の人たちが参集する会所座敷にはたくさんの膳が並べられている。

餅(ノ)膳と呼ばれている膳である。

膳の盛りは神さんに供えた御供と同じでゴマメに新藁で結わえた乾物イワシ。

3個のサトイモ汁椀とエダマメ。

中央にはキナコを振り掛けた丸モチである。

かつての餅膳にはエダマメをすり潰してヒジキを混ぜたクルビがあった。

温かいヒジキクルビは作るのも難しくゴマメに替えたという。

宵宮の饗膳にはイワシの昆布巻や塩漬けダイコン青菜は小皿に盛り。

ゴボウ、イモ、ダイコンそれぞれ2個の椀。

ナスの味噌汁椀に蒸した餅米を高く盛ったつくねがあったが塩漬けダイコン青菜とともに廃止したそうだ。

会所での餅の膳はずらり。



30膳ほど並べられる。

神饌に供えた御供と同じである。

会所の外には岩尾大明神と記された白い幕が張られている場がある。

その場は会所と同じように座布団が敷かれている。

話によれば昔の座は男性たちだけであった。

婦人たちは縁に並んだという。

村人が多かった時代である。

溢れる人たちで賑わった時代があった。

その頃に設えた外の仮宮の台座に宮幕を張る。

そこも溢れた時代もあったという。

いつしか参拝者も少なくなったが、外の仮宮は今でもしている饗の座。

県内では珍しい光景と思われる座は一般参拝の人たちが座る。

饗の座に座るのは上座にオトナサン。

老大人(オオオトナ)と呼ばれる人たちは年齢順の座に着く。

60歳になれば大人衆入り。

現在は65歳になった人たちは宮さんを守っている。

毎月一日が神社の清掃。

賽餞の管理などをするという宮守さん。

老大人の最長老は一老で村神主。

生きた神さんだと話す。

前日の宵宮では神主を勤めた。

老大人衆は神さんであるという。

大人衆であっても当屋を勤めることもある。

重なった場合はその大人衆の息子が当屋を勤めるという。

この年は座敷にあがる人も少なかった。

婦人も交えた饗の座は上座に詰めて寄り添った。

座は饗当屋が口上を述べる儀式で始まる。

口上は決まっており会所に貼られた「座式目口儀」通りに進められる。



月番が述べる口上は「例年ノ通り 酒ヲ受取リマシタノデ 宜敷クオ上リクダサイ」だ。

下座に正座して口上を述べる。

当屋を勤めるのは6軒。

この年は服忌であった当屋もあって5軒。

男女二人で接待するから10人。

男女は夫婦であっても構わないし親子でも良いという。

婦人たちは台所で下支え。

熱燗の準備もしている。

始めの口上を述べればお神酒を注いで回る当屋たち。



一献の酒杯の儀式である。

次が「燗酒差上ゲノ口儀」で「燗酒ヲ 差上ゲマスノデ 宜敷クオ上リクダサイ」。

同じように口上を述べて熱燗を注ぎ回る。

二献の儀である。

箸をつけてよばれる肴は盛った膳料理。



しばらくすればシメサバと海苔が配られる。



これも饗応の肴の一つである。

次に「ヒスイ差上ゲノ口儀」で「ヒスイヲ 差上ゲマスノデ 廻リマシタラ 宜敷クオ上リクダサイ」。



「ヒスイ」と呼ばれるのは3個のサトイモ汁椀のこと。

そこに味噌汁を注ぎ回る当屋の人たち。

かつては吸い物だったというからすまし汁。

それをもってヒスイと呼んでいたのであろう。



これらの配膳は外の仮宮でも行われる。

一人一人の座に配るのは婦人たち。

饗応の座はしばらくの歓談の場となった。

最後は「受膳ノ口儀」。

「受膳ノ方ハ 落チノ無イ様 オ受ケクダサイ」と口上を述べて餅膳の座を締められた。

こうして饗宴を終えた当屋はようやく食事に着くことができる。

ほっとした婦人たちのお顔がそれを物語る。



御供のセキハンやサトイモのヒスイ椀を配ってお神酒もいただく慰労の場。

微笑ましい情景である。

これを地蔵まつりだと話す当屋の人たち。

自作寺を借りての会食の場は神仏一体。



お祭りをしたからお礼だという地蔵石仏は会所の外。



子安地蔵と呼ばれている場所には参ることなく食事をする。



その右側にあったのが冨士山と書かれた石造りの碑。

かつては富士講があったようだ。

吉田の氏子は村入りした男子。

婿養子の人も認められるが披露をしなければならないという。

(H24.10.21 EOS40D撮影)


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