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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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800人のロシア人子どもたちを救った日本人船長の物語 その4

2014-01-30 21:51:55 | 歴史

道/ 倉敷市児島・鷲羽山

(前回のつづき)
ロシア革命後の内戦を逃れてシベリアに疎開していたロシア人の子どもたちを人道上の理由から、米国赤十字社はウラジオストクの施設に約1年間保護していましたが、さらに戦火が及ぶことを心配し、フランスに輸送することを決めました。そして、その輸送の要請を引き受けたのが、勝田汽船の勝田銀次郎でした、船は貨物船「陽明丸」、船長は岡山県笠岡市出身の茅原基治でした。茅原船長は、3ヶ月かけて無事にフィンランド(当初の予定を変更し、ペテルブルグ近くの港)まで無事に送り届けました。

2009年、ロシアで個展を開いていた書家北室南苑さんが、その難民だった子どもたちの孫にあたるロシア人女性から、祖父母を助けていただいた命の恩人である日本人船長を探してほしいとの依頼をうけたことで、90年前のすっかり人々の記憶から忘れられていた茅原船長が再び世に知られることとなりました。確かに世界一周に近い大航海をし、第一次大戦直後の機雷接触の危険もあった太平洋、大西洋を、大きな自然災害に遭遇することもなく無事に航行して送り届けた船長も立派でしたが、船を貸し出したオーナー勝田銀次郎も同じくらい感謝されてもよいと思うのです。

勝田銀次郎は、明治6年(1873年)愛媛県松山市に生まれました。松山市といえば、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公、秋山好古、秋山真之、正岡子規の出身地で、勝田銀次郎は、一番若い秋山真之とは5つ違いであり、ひょっとしてどこかで顔を合わせていたかもしれません。先の北室南苑さんは、志の高さと実行力のある彼のことを「海の上の雲」と表しています。

19歳のときに北海道へ移住し一旗揚げようとしますが道中で出会った東京英和学校の本田庸一に説かれ同校に入学しています。その後、大阪と神戸で貿易店に勤務し、明治33年(1900年)に独立して勝田商会を設立しました。大正3年(1914年)第一時世界大戦勃発を機に同社を勝田汽船に発展させ、神戸を代表する海運事業主になっています。しかしその後の海運不況により昭和4年(1929年)に勝田汽船は倒産しています。
その4年後、昭和8年(1933年)に第8代神戸市長に就任し、2期8年を勤めあげ、昭和27年(1952年)79歳で亡くなっています。

船が出発したのが1920年、勝田汽船として大いに商売が繁盛した時期でタイミングもよかったのかもしれません。貨物船なので、勝田銀次郎が多額の寄付をして船を客船仕様の改修したことは知られていますが、すべての改修費を負担したのかどうかわかりません。要請をかけた米国赤十字社から援助はなかったのでしょうか。そして3か月間もの間の燃料、食料の費用はどこが負担したのでしょうか。乗組員その他を合わせ1,000人以上となると相当な費用がかかるはずです。おそらく米国赤十字社からだと思いますが、わからない点も多くあります。また、茅原基治の手記によりますと、輸送が完了した後、客船の仕様を貨物船に戻したとありますが、その費用も結構かかったものと思われます。

それにしても世界の状況が混沌としている最中、誰も引き受けない中で要請に応じた勝田銀次郎の度量の大きさには、感服せざるを得ません。資料によりますと、とにかく人情に厚い人で、すぐカッとなる性格でもあったようです。一度言ったことは、自分が不利益になることでも決して曲げなかったそうです。

石川県金沢市に住まいする北室南苑さんが、この偉業を顕彰するため、NPO「人道の船陽明丸」を立ち上げています。これはこれで素晴らしいことだと思います。勝田銀次郎については、神戸市長も歴任していることから広く知られているところですが、茅原基治につては、郷里の笠岡市、もしくは金光中学の出身でもあることから金光図書館にでも彼の顕彰会、少なくとも顕彰するコーナーでも是非、設けていただきたいと思うのです。


800人のロシア人子どもたちを救った日本人船長の物語 その3
800人のロシア人子どもたちを救った日本人船長の物語 その2
800人のロシア人子どもたちを救った日本人船長の物語 その1
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800人のロシア人の子どもたちを助けた船長の物語 その3

2013-12-17 22:06:53 | 歴史

MyRoseGarden 秋バラ 本文とは関係ありません。

人々の記憶から忘れられていた陽明丸と茅原基治船長がどうして再び取り上げられることになったのか、経過を追って見ていきましょう。

(最初のきっかけ)
(2009年9月) 書家・篆刻家(てんこくか)・北室南苑さん(本名北村正枝さん、女性)が、ロシアのサンクトペテルブルグで個展「篆刻アート展」を開いた時に、ロシア人女性・オルガ・モルキナさん(彼女は、この出来事に遭遇した子どもたちのその後の運命を訪ね歩いた著作を最近まとめていた。英語教師、フリージャーナリスト)から、祖父母を救ってくれた90年前に実在した日本人船長のその後の消息についての探索を是非お願いしたい、と依頼を受けました。

北室南苑さん、その後、石川県金沢市で船が陽明丸であることを特定します。船を所有していた太洋日本汽船株式会社の中西眞誠常務が調査に加わりました。
調べる過程で、東京都目黒区の防衛省防衛研究所の資料には、1920年5月にアメリカ赤十字から、ウラジオストクにいる800人のロシアの子どもを親元に帰すために協力して欲しいとの依頼があったことが記されていました。
軍部はできる限りの便宜をはかると返答しましたが、当時すでにシベリアから撤退しようとした時期であったため、具体的行動には出ていないようです。
しかし、この子供たちの輸送を、陽明丸のオーナーだった勝田銀次郎が買ってでました。陽明丸は貨物船であったため、勝田銀次郎は多額の改造費を寄付して船を改装しました。

(個展から2年後の2011年夏)
船長のカヤハラについては、北室南苑さんは、東京や神戸に出向いて調査を行いました。そして多数の資料を調査することで、ようやく茅原基治船長を特定することができたのです。
北室南苑さんは、2011年7月ごろ、船長が岡山県笠岡市の出身の茅原基治という人で、そのお墓が岡山県笠岡市にあり、その遠縁にあたる茅原好子さんというひとが、墓を管理していることを突き止めました。茅原基治は、出身の金光中学校の恩師、佐藤範雄校長あてに、年賀のあいさつ代わりとして、手記「露西亜小児団輸送記」を送り、この手記は、現在、金光図書館が神徳書資料として所蔵していることがわかりました。

(南山高校の生徒たちも協力)
ちょうど、その頃、北室さんの活動を知った名古屋市昭和区にある南山高校の生徒が、在日ロシア大使館などと連絡を取って、オルガ・モルキナさんの居場所を探し出して交渉し、授業の一環として日本に招請することを計画していました。 

(2011.10.27オルガ・モルキナさん来日)
南山高校の生徒の招きで、ついにオルガ・モルキナさんが来日し、南山高等・中学高男子部の生徒ら1200人の前で講演を行いました。
北室南苑さんは、オルガ・モルキナさんに会いに名古屋を訪れました。すでに依頼から2年が経過していましたが、オルガ・モルキナさんは、茅原基治船長のことが判明してうれしいと話し感謝の意を伝えました。

オルガ・モナキナさんは、このあと岡山県倉敷市のホテルで船長の親族と初めて対面し、午後墓参を行い、花束を供えて感謝の言葉を送りました。茅原好子さんは、生前の茅原基治氏のことをよく覚えており、とてもやさしい人だったと言っています。ただ、船長でロシア人の子どもたちを助けたというそのことは、知らなかったそうです。

(2013.2月NPO法人を立ち上げ)
北室南苑さんと、関係有志が集まり、「人道の船 陽明丸顕彰会」を立ち上げました。
この救出劇のことについての海外の評価は、米国赤十字社の記録に基づくものしか公表されておらず、日本側の献身的な協力の部分が大きかったことについてはほとんど語られていませんでした。
見返りはまったくなく、しかも引き受けることのリスクの大きさを考えれば、断わることもできたはずです。
会社としての大きなリスクを承知で快諾した陽明丸船主・勝田銀次郎氏の度量の広さ、義侠心をも併せて再評価を促すスタートラインに立てた思いと、北室南苑さんは言っています。
陽明丸関係者の事跡をさらに精査検証し、それらを整理保存してゆくことを通して日本人の美徳にもう一度日矢が差し込むことを望んでいます。

(2013.10上旬、オルガ・モルキナさん二度目の来日)
陽明丸の茅原基治船長らの功績を紹介する展示施設が、今月上旬、石川県能美市のNPO法人「人道の船陽明丸顕彰会」の顕彰館に開設されました。
開幕に合わせて、オルガ・モルキナさんが来日。茅原基治船長の親族から寄託された写真と愛用カバンのほか、祖父母から話をきいて歴史を調べたモルキナさんの著書などが並びました。(おわり)

次に、この救出劇に関わった、勝田銀次郎など関係者のことについて、もう少し詳しく調べてみたいと思います。(つづく)


800人のロシア人の子どもたちを助けた船長の物語 その1
800人のロシア人の子どもたちを助けた船長の物語 その2
800人のロシア人の子どもたちを助けた船長の物語 その4
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ロシアの子ども達、800人を助けた船長の物語その2

2013-12-12 22:05:39 | 歴史

茅原基治著 手記「露西亜小児団輸送記」表紙

米国赤十字社からの要請により、勝田汽船㈱所有の貨物船・陽明丸がその任にあたることになりました。社長は愛媛県松山市出身の勝田銀次郎でした。とにかく人情に厚い人で、数萬円という多額の改造費を寄付しています。貨物船は、子どもたちが航海できるように客船仕様に改造されました。すなわち中甲板全部を客室にし、上層甲板下に病室、浴場等を設け、また客室の喚起を行うため、要所に八個の電気通風機を備え付けるなどちょっとした汽船には見られない程の立派な設備を施したのでした。

米国赤十字社は当初、インド洋からスエズ運河を経由してフランスへ送り届ける予定でした。しかし、時折しも夏の盛りで、子どもたちの保健上、インド洋の航海を避けたいという医官の注意と、米本国赤十字社員の要望から、東回りすなわち太平洋を横断し、サンフランシスコ港(桑港)に入り南航してパナマ運河を通過し、再び北上してニューヨーク(紐育)に寄港し、それから一路、大西洋を東航するルートに決定したのでした。

陽明丸は、煙突に赤十字、舷側に「AMERIKAN RED CROSS」と大書し、メインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾には大日章旗を翻していました。神戸を出帆し、門司を経由して、1920年7月9日、ウラジオストックに到着。そして、給養品、食料品等を積み込み、7月13日の午後、一行960名が乗り込んで出発、室蘭に向かいました。

(内訳は次の通りです。)
ロシア男児 428名
ロシア女児 351名
ロシア婦人 87名
ドイツ兵士 77名(東部戦線でロシア軍に捕らえられていて脱出し、赤十字社収容)
米国赤十字社幹部 16名(隊長はアレン中佐)
米国Y.M.C.A派遣員1名
小児は10歳前後が最も多く、平均は12・3歳でした。
そして60余名の乗組員を合わせて、1000名以上の大所帯となりました。

7月15日室蘭の港に入港。肉類、野菜等を積み込み、上陸を願う一行のため、当局へ手続きしたところ、米人以外は拒否されました。しかし米国赤十字が保護監督している一行ということで、粘り強く交渉した結果、船長がその責任を持つということで了解を得たのでした。一行は小学校に案内され、地元の児童と交歓し楽しく過ごしています。

航行中は、万が一のための短艇操練、英語や数学などの授業も行われました。そして7月末日、サンフランシスコ(桑港)に到着。桟橋を埋め尽くすほどの歓迎を受けたのでした。燃料や食料を積み込む間、各種の歓迎会に参加し、市中見物などをして8月5日に帰船しています。その後、船は南下し、8月16日に太平洋の東端パナマ港に到着しています。その後、北上してニューヨーク(紐育)に到着し、ここで2週間停泊しました。この間、船長は義援金を募り、領事館を訪ね交渉事に奔走したようです。ところが、このニューヨーク滞在中、小児団から次のような突然な要求が出たのでした。

「フランスは、ロシアと交戦状態なので、我々をフランスに送ることは中止して、ペトログラードへ12時間以内で帰着できるバルチック海の一港へ送って欲しい、できなければ、このまま米国に置いてもらいたい」というものでした。米国赤十字社は当初断固として拒否しましたが、最終的には要求をのみ、陽明丸はフィンランドに向かうことになりました。こうして9月14日、陽明丸はニューヨーク(紐育)を出帆しました。ウラジオストックを出てちょうど2カ月を経過していました。

そして9月27日フランスの西北にあるブレスト港に到着後、翌日、キール運河に向けて出帆しました。バルチック海からフィンランド港一帯は、おびただしい数の機雷が放置されている海域でした。水先案内人を頼りに無事通過し10月10日にヘルシングフォース港に到着。在泊3日の後、ついに最終目的地のコイビスト港に上陸しました。ここでドイツ兵を残し、全員が下船しました。3ヶ月もの間、同じ暑さ寒さを味わい、寝食をともにした子どもたちと、乗組員たちは「さようなら、さようなら」と繰り返し、最後の別れをしました。

その後、コペンハーゲンでドイツ兵を降ろした後、臨時施設の一切を取り外して元の貨物船に復帰し、メインマストには、勝田汽船の社旗が翻ったのでした。
思えば90日あまりの航海中、大きな災害に会うこともなく、船内でも大きなもめごともなく、無事に送り届けられたということは、「一行の幹部、陽明丸乗組員及び関係者一同の熱意と、赤十字旗に垂れ給うた神仏のご加護によるもの」と手記を締めくくっています。

その後、陽明丸は、宮城県金華山沖で、濃霧のため暗礁に乗り上げて沈没したとのことです。
次に、人々の記憶から忘れられていた、陽明丸と茅原基治船長が、どうして再び取り上げられることになったのか、その経緯を見てみたいと思います。(つづく)


ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その1
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その3
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その4
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ロシアの子どもたち800人を助けた日本人船長の物語

2013-12-09 23:35:16 | 歴史

金光図書館(こんこうとしょかん) 金光教本部総合庁舎ビル内 HPはこちら

数日前の地元紙(山陽新聞)に、ロシア革命直後のシベリアで難民となった800人の少年少女を、米国赤十字社の要請により、日本人船長が、陽明丸という貨物船で太平洋、大西洋を横断し3ヶ月近く掛かってロシア近くのフィンランドの港に送り届けたという話が掲載されていました。その船長というのが岡山県笠岡市出身の茅原基治(かやはらもとじ)という人で、その船で助けられた少年少女の孫に当たる人が、命の恩人の子孫に、是非ともお礼をいいたいと、一昨年日本を訪れ、今回2度目の来日を果たしたというものです。

いろいろ調べてみると、この女性が最初に日本を訪れたとき、関わりのある地域の各新聞やローカルTVで紹介されていたようです。こういう人情味あふれる話には特別に心を動かされる私ですが、このことに関してはまったく知りませんでした。新聞記事によりますと、その日本人船長・茅原基治さんの手記が、金光図書館(岡山県浅口市)に残されているとあり、それなら是非ということで、昨日、思い立って金光図書館まで行ってきました。所用時間は幸いにも20分程度の距離です。この金光図書館、初めての訪問ですが、想像以上に立派な建物で驚きました。

受付で、「井原市の住民ですが、利用はできますか」と尋ねると「もちろんです」と快い返事が返ってきました。登録が済み、このような本を探していると要件を言うと、この件ですねと、すぐに新聞や関連資料の切り抜きのあるB4大のファイルを、「どうぞ!」と見せていただきました。その間にご希望の「露西亜小児輸送記」という書籍を探してみます、ということでした。それにしても、スタッフの方の対応ぶりには頭がさがります。パソコンの検索で探していただきましたが、ヒットする書籍は無く、いろいろ他の職員の方に聞いていただいていたようでした。

しばらくすると、上席の方でしょうか、「お探しのものは、これでしょうか?」と、ネットのブログで見た、赤十字の印が入った陽明丸のイラストが表紙に載っている冊子を持ってきていただきました。これは手記なので、蔵書のリストには入っていないとのことでしたが、内容は、なんと図書館のホームページで、見ることができる。とのことでした。
この方は特に詳しく、茅原基治さんは金光中学の出身で、初代校長の佐藤範雄氏の教えにより、特別に赤十字の精神を持つ慈悲深い人であったことや、直系の関係者が数年前までこの図書館に勤めていたことなど、貴重な話をいろいろ教えてくださいました。話の途中で急用が入り、あまり邪魔もできないので、お礼を言って図書館をあとにしました。

このロシアの難民を母国に送り届けることができた背景には、いくつかの要因がありました。それらを分析してみたいと思いますが、まず時代の背景とその輸送の実態はどのようなものだったのか、この件がどうして取り上げられるようになったのかを、まず整理してみようと思いました。
私がこのことに興味を持った理由のひとつに、江戸時代の末期、石巻の若宮丸の船乗り達が遭難してロシア領に流され、自分たちの意思とは関係なく、日本人として初めて世界一周を体験した歴史的事実がありました。世界一周という言葉にふとそのことを思い出したからです。

(時代の背景)
1918年、ロシア革命前夜の混乱期、首都ペトログラード(現在のサンクトぺテルブルグ)は飢餓と疫病が蔓延し、前年にソビエト政権が樹立され、英仏米日を巻き込んだ戦争と内戦が同時に起きていました。そこでペトログラードの親たちは、子供たちだけをウラル地方に列車で避難させました。しかし戦火はウラルにも迫り、首都に戻るのも危険この上ない。そこで救いの手を差し伸べたのが、極東ウタジオストックにあった米国赤十字社でした。
米国赤十字社は、ウラジオストックで受けいれて約1年間、面倒を見ましたが、革命が起きたロシアからの撤退を余儀なくされました。そして子供たちを海路で帰すことに決めたのでした。そしてこの仕事を引き受けたのが茅原基治船長の陽明丸だったのです。
(つづく)


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寺田屋の真実とは?

2013-06-06 23:04:34 | 歴史

宇治・萬福寺の布袋さん

(前回のつづき)
 宇治市内から15分、バスは本日の昼食場所・萬福寺に到着しました。それにしても駐車場から何と遠いことか。一周ぐるりという感じで、やっと総門に到着です。資料によりますと、この萬福寺は、黄檗山萬福寺といい、日本からの度重なる招請に応じて来朝した、中国の憎・隠元隆琦禅師(いんげんりゅうきぜんし)が1661年に開創したものです。萬福寺の伽藍建築・文化などは、中国の明朝様式となっています。私たちが身近な、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹(タケノコ)、木魚なども隠元禅師が来日してからもたらされたものであり、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えたと言われています。馴染のあるインゲン豆の語源が、ずばり隠元禅師からきていたとは知りませんでした。

 総門から三門を抜け、天王殿、雄賽殿を拝観しました。宇治方面には、ほとんど来たことが無かったので、この萬福寺ももちろん初めてですが、このような大きな寺院とは知りませんでした。特に印象的だったのは、天王殿正面の布袋さん像。中国で弥勒菩薩の化身だと云われているようですが、まさに中年体型のお腹丸出しのお姿は、不謹慎のようでもあり、微笑ましくもあります。
昼食場所は、一番奥に近い社務所の隣の建物です。本日、広間でお庭を眺めながらいただくのは、普茶弁当です。普茶ということばを初めてききましたが、普茶料理というのは、隠元禅師が伝えた精進料理のことです。案内によりますと、普茶弁当は、普茶料理の代表的な料理を松花堂弁当に詰めたとありました。これに、お吸い物とお菓子が付いています。精進料理ですから、お肉や、お魚はありませんが、見た目以上に味もしっかりとしている感じがしました。量的にもちょうどいいくらいで、皆さん完食されたようです。普茶料理を堪能したあと、駐車場に帰りましたが、何と出口のすぐそばで驚きました。

 次に向かったのが、伏見酒造の町並みです。こちらでの滞在予定時間は、1時間でしたのであまりゆっくりできません。本日のガイドも兼ねる運転手さんから、「そこの角を左に曲がると町並みです。寺田屋は左側にすぐあります。バスは月桂冠の駐車場で待機していますとのことでした。」寺田屋はすぐにありました。しかしこのころから雨がぽつぽつと降りだしたではありませんか。建物の隣に、史跡らしい看板がありました。せっかくここまで来たのだからと、寺田屋を見学することにしました。玄関を入るとすぐ左に受付がありました。入館料は400円でした。ナイロン袋に靴を入れ、見学スタートです。建物の間口に比べて奥行きのある間取りでした。写真はOKとのことだったので、まず写真に撮っておこうと思いました。
おりょうさんが、竜馬に知らせるため裸で駆け上がったという階段、鉄砲の弾痕や柱の刀傷のあと。臨場感が伝わってきます。今回のメンバーのうち、寺田屋を中に入って見学したのは、たったの4名でした。町並みや酒蔵も見たいのであまりゆっくりもできません。係の方の説明があるとのことでしたが、止むを得ず寺田屋をあとにしました。
 しかし、ここである疑問が湧いてきました。以前、聞いた話で寺田屋は当時のものではなく、あとで再建されたもの。場所も当時とは違う、というものでした。1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで、このあたり一帯は戦火に見舞われたはず。
そこで、調べてみると、次のようなことが判明しました。
2008年、旅館・寺田屋の建物が再建されたものだったとの可能性が指摘された問題で、京都市は、「当時の建物は焼失したと考えるのが妥当」との見解を発表し、また同施設に対して、観光客に対して誤解を与えることがないよう対策を取ることを要請しています。そこで、寺田屋はこの要請に対してどのように答えているのか、ということですが、改めて受付でもらったパンフレットをじっくりと見ても再建されたもの、とはひとことも書いてありませんでした。逆に「現在の台所にある太い大黒柱は、維新当時ここを定宿としていた薩摩藩主・島津家よりの拝領品である」という記述も見られました。

 例えば、善意に解釈して、建物は鳥羽・伏見の戦いで焼けたが、一部、使用できる建材も残っていて、跡地の横に、当時のまま再建された、ということは考えられないのでしょうか。一点気になるのが、「寺田屋の女将お登勢は、明治10年、48歳でこの世を去るまで約30年間に渡って女将をつとめ・・・」という記録です。この記録が正しければ、再建された寺田屋で女将を続けたということになります。そういうことになれば、あながち否定もできない気もします。いずれにしても気になるところです。(つづく)



寺田屋2階に弾痕。寺田屋事件で坂本龍馬が発砲したものでしょうか?
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