投稿日:2025(令和7)年7月7日
あまりにも大きなテーマを掲げてしまいました。今から1200年以上前の平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空海のお話です。
だいぶ以前のことですが、私があるテレビ番組を見ていてずっと気になっていたことがありました。空海、入唐時のことです。
遣唐使船に乗って最初に訪ねる寄港予定地は、当時の都・長安への最寄りルートである揚子江の河口付近でしたが、途中悪天候で船は難破、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州でした。そこから長安に向かうことになりましたが、その距離2400㎞、日数はなんと一か月半もかかりました。どのような苦難の道中だったのか、中国地図を頭に思い浮かべながら、ずっと気になっていたのです。
我が家の宗旨は真言宗で、お寺にお参りに行ったとき、住職との雑談の中で、背後に掛かっていた中国大陸の大きな地図を見るたびにこのことを思い出していました。
そんな中、今年の3月頃、福山市内の書店で偶然見かけたのが、司馬遼太郎の「空海の風景」(中公文庫)上巻でした。私は、その購入直後、インフルエンザに感染し勤務先も出入り禁止、おかげで読書する時間は十分にありました。読み終えて下巻を購入したころ、何と今度はコロナに感染してしまいました。皮肉にも、療養中、下巻も読み終えることができたのです。
「空海の風景」は司馬遼太郎が、自分自身の作品の中で一番気に入っていたものと言われています。夫人は富士霊園の文学者之墓にこの本を埋葬したとか。「空海という天才はいかにして成立したか」とはまさにこの本のテーマなのです。
刊行されて20年後、NHKの特別番組「空海の風景」が放映され、その後取材班による手記「『空海の風景』を旅する」が刊行されました。こちらは非常に読みやすく、司馬遼太郎の「空海の風景」を要約したようなものでした。当時の番組は現在でもYouTubeで視聴することができます。
空海に関しては、昨今動画でもたくさんアップされていますが、真偽不明のことが堂々と論じられています。そこで私は、疑問点を下記の項目に絞り、私なりに調べてみようと思いました。あくまで歴史好きの一個人の解釈です。

2025.3.23 善通寺 弘法大師像
空海という人は本当に天才だった と私が思う点
① 漢語(中国語)が話せ、サンスクリット語も理解できたこと。
もともと空海にはその血筋から言語に関し特別な才能があったともいわれています。大学寮での漢語の勉強も上達に拍車をかけたのではないでしょうか。奈良の大安寺などインド出身僧や遣唐使の経験のある人との交流も大いにプラスになったことでしょう。入唐後、普通に会話が通じたとも言われていますし、さらにインド僧般若三蔵からサンスクリット語を習いさらに仏典の読解力を身につけています。
② 書の達人
いろんな書体で字が書けたと言われています。また文章力も素晴らしいものがありました。中国では僧侶としてではなく書の達人として有名だそうです。(五筆和尚といわれた)。嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆のひとりに揚げられています。同時代の親交のあった3人が選ばれた理由は偶然でしょうか。(江戸時代前期 上田元周・和漢名数大全から)
③ 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を習得し抜群の記憶力
数少ない習得者のひとり。誰から教わったかがなぞのままです。習得すると抜群の記憶力が身に付き、仏典をまる暗記できたそうです。普通の人では到底習得できない難易度の高い修行です。
④ 正当な密教の相承者である恵果和尚からわずか3ヵ月で伝法灌頂を終了、その継承者となる
短期間で金剛界、退蔵の両部をすべてマスター。漢語やサンスクリット語が理解できていたことで習得も早かったと思われます。千人以上もの弟子を差し置いて他国の者が選ばれたというのはすごいことです。
空海という人は本当に強運の持ち主だった と私が思う点
① なんといっても、叔父が当代随一の儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)であったこと。
皇太子の侍講(家庭教師)でもあった大足に学べたこと、この環境こそが一番の強運に違いありません。この関係が無かったら、大学寮にも入っていなかったし、遣唐使船にも乗ることさえできなかったでしょう。
② 遣唐使の一員として第16次遣唐使船に乗船できたこと。
第16次遣唐使船は前年に出発していましたが瀬戸内海で暴風に会って船が損傷、止む無く難波ノ津に引き返し出港は1年後に延期されたため空海はこの船に間に合うことができたのでした。
③ そして、遣唐使船で無事に入唐し帰国できたこと。
当時の航海技術はとても未熟で、出発する時期も6月から7月と、西風が吹く危険な時期でした。長安で皇帝の年賀のあいさつに間に合うようにと決められたようですが実際に唐に無事に到着できる可能性は60%から70%と言われていました。無事に到着し、また帰国できたことはかなり運が良かったと言わざるを得ません。第16次遣唐使船も4隻の内、到着したのは、空海の第1船と最澄の2船だけでした。
④ 正当な密教の相承者である恵果和尚にタイミングよく出会えたこと。
空海は恵果和尚から3か月ですべての灌頂を受け阿闍梨となりました。恵果和尚はその4か月後に入滅しています。教えを受けることができるぎりぎりのところで恵果和尚に出会えたことは、ラッキーとしか言えません。
⑤ 翌年にやって来た遣唐使船に乗って、帰国の途につけたこと。
何と恵果和尚が入滅してまもなく遣唐使船がやっています。第16次遣唐使船の第4船の再派遣でした(諸説あり)。責任者は判官の高階遠成(たかしなとおなり)でした。空海は高階を通じて帰国の許可を申請し唐政府から許しを得ています。
遣唐使は通常20年に一度とされています。実際、この次に来たのは30年後でした。
*以上の一つでも欠けたら、私が知る空海の存在はなかったでしょう。
本当はどうだったのか、知りたい空海のこと
私が一番知りたかったこと、苦難の道中、実はこうだったらしい
遣唐使船第4船は、肥前国田浦を出発しましたが翌日に暴風にあいちりじりになってしまいました。空海の第1船は難破し、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州長溪県赤岸鎮(現在の福建省赤岸村)でした。
今では、多くの日本人の巡礼者が訪れ、聖地となっているそうです。あまりにも多いため、交通の不便な地に州はわざわざ高速道路まで建設したそうです。
漂着したとき、赤岸村での一行の様子や役所及び、村の対応はどうだったのでしょうか?
特にひどい扱いは受けていなかったようです。大使は県の役人宛に何度も文書を提出しますが、ここでは対応できないので福州の役所に行ってくれと言われます。船の応急修理や交渉を待つ間45日間も滞在することになりました。赤岸村の村民からも水や食料など援助を受けたことでしょう。
止む無く250㎞南下し福州の役所を訪ねることになりました。福州の馬尾港に着くと、ここでの対応は厳しいものでした。全員船から降ろされ海岸の湿地に座らされたのです。
この船には、遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)が乗船していました。役人宛に何度も手紙を書きましたが、蜜貿易船と疑われ、相手にもしてもらえません。そこで空海が依頼されて改めて文章を作成したのです。空海は戯曲風にさらさらと見事に手紙を書きあげ、それが功を奏して一行は遣唐使使節として認められることになったのです。
(このときの司馬遼太郎の表現がすごい)
空海という、ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧にすぎなかった者が、幕を跳ね上げるようにして歴史的空間という舞台に出てくるのは、この瞬間からである。
州の役人が長安の都にお伺いを立てると39日後に使いが戻って来て、国賓としてもてなせということでした。これにより扱いが一変。長安まで馬や馬車、船で案内をうけたようですが、海路、陸路をつないでその距離2400㎞(札幌から鹿児島までの距離に相当)の過酷な旅でした。1ヵ月半の日数を要したようです。(それにしても使いの者が39日で帰ってきたことに驚きます。)
私は、少人数で荷物を背負い、道を尋ねながら、歩いていった苦難の道中かと思っていましたが、その苦労はなかったようです。しかし大使が皇帝に年賀のあいさつをするため、日数に限りがあり、かなりの強行軍となったようです。
ともあれ、私は、事実を知って心が少し晴れたような気持になりました。
私が疑問に思うこと
その1 空海が留学の為持参した資金は、いかほどのものだったのか?
空海は第2船に乗った最澄と異なり、留学生(るがくしょう)のため、滞在費用のほとんどを自分で工面しなくてはなりませんでした。留学予定期間の20年間暮らせるだけの資金(生活費、勉学費)は、どのように調達し、どのような形で持参したのでしょうか?
空海は長安を去るとき世話になった青竜寺などの僧500人を招待し盛大な宴会を開いています。また法具を作らせたり、一等の絵師に曼荼羅を描かせています。また膨大な書物を買い入れる経費も相当なものだったに違いありません。20年分の資金を2年で使い切ったというものの、親戚、縁者からの寄進は相当な額であったと考えられます。
その2 空海はどんなお姿をされていたのでしょうか?

2025.3.23 善通寺境内の大クス 樹齢1200年以上 空海が植えたとも、上って遊んだともいわれている
肖像画や空海像で見る限り、その姿は中肉中背で四角張ったなかなか見栄えのいい人物に見えますが、実際のところはどうだったのでしょう。高野山御影堂には、入定直前の空海を弟子の真如法親王が描き、空海自ら瞳を入れたと伝わる肖像画が残っているそうです。しかし、秘仏の為見ることはできません。この肖像画がすべての空海像の元になっているのでしょうか。
また、世界遺産・醍醐寺の国宝「五重塔」の内部には10世紀中ごろに制作された、最古級の肖像壁画がありますが、経年のためイメージ程度でしかわかりません。
ところが司馬遼太郎が想像する空海像はまったくユニークです。「背が低く短足。どちらかというと小太りの男であった。」と極端な見方をしています。高野山大学の先生たちはいい気がしないでしょう。
ちなみに最澄についても「小柄な男で頭が大きく足腰がかぼそに見え、一本の槌が経っているように見える」と想像しています。
ただ、遣唐使に選ばれる選考基準について、過去の諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘もあります。
その3 空海と最澄が最初に出会った場所はどこか?
空海が最澄を見た(認識した)のはどこだったのでしょう。最初に挨拶をかわしたのはどこだったのでしょう。実際、記録に残っているのは、最澄が灌頂を授けてほしいと京都の乙訓寺(おとくにでら)に空海を訪ねた時です。
認識しただけというのであれば那の津(大宰府)でしょうか。修理された遣唐使船を待つ最澄を、他の船に乗る空海が見た可能性は考えられます。
その4 空白の7年間、空海は何をしていたのか?
聾瞽指帰(ろうこしいき)を著した24歳の時から、804年遣唐使として中国に渡るまでの7年間、空海は何故か歴史上から忽然と姿を消してしまいます。
その間、空海は何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも知られざる7年間として省略されています。
空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし7年間にわたり、空海に関する情報がまったく存在しないのです。
(諸説)
① 大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもった。
② 修行者となって日本全国を旅していた。
③ 唐に渡るための自己資金を蓄えるため、各地を旅しながらお布施を募った。
④ 7年間のうち何年間を中国に渡って、中国で暮らしていた(中国語が堪能な理由とも)
⑤ 吉野の山林で鉱物資源を探っていた(山師説)
⑥ 山林を歩き回りつつ、奈良の諸寺で仏典の研鑽を積んでいた。
*大日経のさらなる習得のため(入唐を決めた一番の理由といわれる)①+⑥が正解ではないかと思っています。
その5 唐から帰った空海は観世音寺で3年間何をしていたのか
帰国の大同元年から上京するまでの約3年間、太宰府での空海の消息は資料上ではほとんどわからなくなります。
朝廷は空海に観世音寺に留任するよう通達を出しています。国法を破って帰国した空海は謹慎の身の上、ここではおとなくしているしかありません。
希望は、遣唐判官・高階遠成に託した御請来目録が無事に朝廷に届き、時の嵯峨天皇がどう判断するかでしょう。
(諸説)
① 観世音寺に滞在し、長安から持参した経典を読み込み、その後の密教の基盤を考えた。
② 各地を巡った。讃岐もその一つでは。各地にその伝承が残っている。
③ 余り沙汰がないので、自由な放浪を始めた
その6 虚空蔵求聞持法とはそんなにすごい修行方法なのか
虚空蔵求聞持法は「記憶を増大させる」という実用性の高い行です。そのため膨大な経典を暗記する必要のあった僧侶や修行者だけでなく官人も挑戦したという記録があります。
空海は「一の沙門(ひとりのしゃもん)」からこの行を教わったそうですが、それは誰なんでしょうか。その修行内容は、虚空蔵菩薩の真言を100万回、100日間唱えると、あらゆる経典を暗記でき、その意味を理解できるというものでした。
その7 空海は奥ゆかしい人、それともずるい人?
通信使藤原門野麻呂が、州の役員宛てに何度も文書を差してもまったく相手にされず困っている時、空海は声がかかるまで自分から進んで助けようとしませんでした。このことについて恐らくですが、声がかかるのを予測し、この間、文章の構成を考えていたのではないでしょうか。
また、長安に入って、恵果和尚が自分を待っていると分かっているのに、五ヵ月間会いに行かなかったのは、じらしたという意味で空海のずるいところと言われています。空海は恵果和尚の名声は耳にしていましたが、果たして恵果和尚は空海のことをどこまで知っていたのでしょうか。この期間空海は、サンスクリットを習得していたとも言われています。
その8 最澄の乗る第2船はどういう航路をたどったのか
同時に出発した四つの船、空海が乗船した第1船は難破し34日間東シナ海を漂流したのち、8月10日に福州赤岸鎮に漂着しています。最澄らの第2船はそれよりもさらに20日間以上遅れて目的地に随分近い明州に到着しています。第2船は、2か月間ほどの間、ずっと漂流していたのでしょうか。いったいどのような航路をたどったのでしょうか。
その9 唐への往来は遣唐使船以外にはなかったのか
航海技術がまだまだ未熟な当時のことではありますが、民間の船で唐との交易はおこなわれていなかったのでしょうか。遣唐使船の20年に一度というのは、向かう方はまだしも、帰国する者にとっては、あまりにも不確実で待ちどおしかったに違いありません。
その10 空海の恩師・阿刀大足は、空海とどういう血筋だったのか
「空海の風景」で司馬遼太郎は阿刀大足について次のように語っています。
「空海の父の田公の実弟の大足が阿刀家を継いでおり、幼少の時から学問の師匠、空海の成立のためには奇跡の条件(文章と詩をならった)」と言っています。
しかし多くの研究者は、「母方の兄弟の阿刀大足について、論語や史伝、文章を学ぶ」とか
「空海の母方のおじを頼って平城京に上京。大学寮に入るまで、論議、孝経、史伝、文章など個人指導を行う。」と言っています。父方か母方かいずれが正しいのでしょうか。
父方なら幼少期から、母方なら15歳で上京してから学問を習うということになります。

2025.3.23撮影 佐伯祖廟(さえきそびょう)空海の父は地方の豪族 佐伯直田公善通
空海の伝説
① 洞窟で瞑想しているとき口の中に明けの明星が飛び込んできた。
② 断崖から身を投げたところ、落ちていく空海の下の方に紫雲が沸き起こり大光明とともに蓮華の花に坐した釈迦如来が現れて空海を抱きしめ「一生成仏」と宣した。
③ 各地に空海が建てたとか、立ち寄ったとか、水が湧き出たとか言い伝えがある。空海は例えば北方面ではどこまで足を延ばしたのか?
南無大師遍照金剛と同行二人(どうぎょうににん)とは?
遍照金剛の明号は、空海が唐に留学し、真言密教を極めた時の灌頂名で、大日如来の別名でもあります。
南無大師遍照金剛とは、弘法大師空海に帰依するという意味です。
歴史上、天皇から大師号を与えられた者は27名にのぼるものの、一般的に大師といえば弘法大師をさします。
同行二人とは、本人と弘法大師の二人を意味し、常に弘法大師と共にあるとの意です。

2013.11.23 八十八ヵ所 結願の霊場 大窪寺で見た「同行二人+ワン」のしおらしいワンちゃん
(司馬遼太郎 空海の風景)
この世にナマ身で存在した人間が、その死後千数百年を経てもなお半神としてあがめつづけられるというつらさ、もしくは空海の場合、それが自然以上の自然さをもつというのはどういう機微によるものであろう。
(機微 表面からは知りにくい微妙な心の動き。あまり人に知られたくないこと)
(終わり)

空海の幼名は真魚(まお) 善通寺境内の売店では「まおグッズ」が販売されていました。
参考文献:
空海の風景(上)(下)司馬遼太郎著 中公文庫
『空海の風景』を旅する NHK取材班
YouTube「空海の風景」
高野山大学公式YouTubeチャンネル
密教21フォーラム メディアサイト「エンサイクロメディア空海」
「空海を生きる」 ひろさちや著
「空海と密教解剖図巻」 武藤郁子著
あまりにも大きなテーマを掲げてしまいました。今から1200年以上前の平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空海のお話です。
だいぶ以前のことですが、私があるテレビ番組を見ていてずっと気になっていたことがありました。空海、入唐時のことです。
遣唐使船に乗って最初に訪ねる寄港予定地は、当時の都・長安への最寄りルートである揚子江の河口付近でしたが、途中悪天候で船は難破、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州でした。そこから長安に向かうことになりましたが、その距離2400㎞、日数はなんと一か月半もかかりました。どのような苦難の道中だったのか、中国地図を頭に思い浮かべながら、ずっと気になっていたのです。
我が家の宗旨は真言宗で、お寺にお参りに行ったとき、住職との雑談の中で、背後に掛かっていた中国大陸の大きな地図を見るたびにこのことを思い出していました。
そんな中、今年の3月頃、福山市内の書店で偶然見かけたのが、司馬遼太郎の「空海の風景」(中公文庫)上巻でした。私は、その購入直後、インフルエンザに感染し勤務先も出入り禁止、おかげで読書する時間は十分にありました。読み終えて下巻を購入したころ、何と今度はコロナに感染してしまいました。皮肉にも、療養中、下巻も読み終えることができたのです。
「空海の風景」は司馬遼太郎が、自分自身の作品の中で一番気に入っていたものと言われています。夫人は富士霊園の文学者之墓にこの本を埋葬したとか。「空海という天才はいかにして成立したか」とはまさにこの本のテーマなのです。
刊行されて20年後、NHKの特別番組「空海の風景」が放映され、その後取材班による手記「『空海の風景』を旅する」が刊行されました。こちらは非常に読みやすく、司馬遼太郎の「空海の風景」を要約したようなものでした。当時の番組は現在でもYouTubeで視聴することができます。
空海に関しては、昨今動画でもたくさんアップされていますが、真偽不明のことが堂々と論じられています。そこで私は、疑問点を下記の項目に絞り、私なりに調べてみようと思いました。あくまで歴史好きの一個人の解釈です。

2025.3.23 善通寺 弘法大師像
空海という人は本当に天才だった と私が思う点
① 漢語(中国語)が話せ、サンスクリット語も理解できたこと。
もともと空海にはその血筋から言語に関し特別な才能があったともいわれています。大学寮での漢語の勉強も上達に拍車をかけたのではないでしょうか。奈良の大安寺などインド出身僧や遣唐使の経験のある人との交流も大いにプラスになったことでしょう。入唐後、普通に会話が通じたとも言われていますし、さらにインド僧般若三蔵からサンスクリット語を習いさらに仏典の読解力を身につけています。
② 書の達人
いろんな書体で字が書けたと言われています。また文章力も素晴らしいものがありました。中国では僧侶としてではなく書の達人として有名だそうです。(五筆和尚といわれた)。嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆のひとりに揚げられています。同時代の親交のあった3人が選ばれた理由は偶然でしょうか。(江戸時代前期 上田元周・和漢名数大全から)
③ 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を習得し抜群の記憶力
数少ない習得者のひとり。誰から教わったかがなぞのままです。習得すると抜群の記憶力が身に付き、仏典をまる暗記できたそうです。普通の人では到底習得できない難易度の高い修行です。
④ 正当な密教の相承者である恵果和尚からわずか3ヵ月で伝法灌頂を終了、その継承者となる
短期間で金剛界、退蔵の両部をすべてマスター。漢語やサンスクリット語が理解できていたことで習得も早かったと思われます。千人以上もの弟子を差し置いて他国の者が選ばれたというのはすごいことです。
空海という人は本当に強運の持ち主だった と私が思う点
① なんといっても、叔父が当代随一の儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)であったこと。
皇太子の侍講(家庭教師)でもあった大足に学べたこと、この環境こそが一番の強運に違いありません。この関係が無かったら、大学寮にも入っていなかったし、遣唐使船にも乗ることさえできなかったでしょう。
② 遣唐使の一員として第16次遣唐使船に乗船できたこと。
第16次遣唐使船は前年に出発していましたが瀬戸内海で暴風に会って船が損傷、止む無く難波ノ津に引き返し出港は1年後に延期されたため空海はこの船に間に合うことができたのでした。
③ そして、遣唐使船で無事に入唐し帰国できたこと。
当時の航海技術はとても未熟で、出発する時期も6月から7月と、西風が吹く危険な時期でした。長安で皇帝の年賀のあいさつに間に合うようにと決められたようですが実際に唐に無事に到着できる可能性は60%から70%と言われていました。無事に到着し、また帰国できたことはかなり運が良かったと言わざるを得ません。第16次遣唐使船も4隻の内、到着したのは、空海の第1船と最澄の2船だけでした。
④ 正当な密教の相承者である恵果和尚にタイミングよく出会えたこと。
空海は恵果和尚から3か月ですべての灌頂を受け阿闍梨となりました。恵果和尚はその4か月後に入滅しています。教えを受けることができるぎりぎりのところで恵果和尚に出会えたことは、ラッキーとしか言えません。
⑤ 翌年にやって来た遣唐使船に乗って、帰国の途につけたこと。
何と恵果和尚が入滅してまもなく遣唐使船がやっています。第16次遣唐使船の第4船の再派遣でした(諸説あり)。責任者は判官の高階遠成(たかしなとおなり)でした。空海は高階を通じて帰国の許可を申請し唐政府から許しを得ています。
遣唐使は通常20年に一度とされています。実際、この次に来たのは30年後でした。
*以上の一つでも欠けたら、私が知る空海の存在はなかったでしょう。
本当はどうだったのか、知りたい空海のこと
私が一番知りたかったこと、苦難の道中、実はこうだったらしい
遣唐使船第4船は、肥前国田浦を出発しましたが翌日に暴風にあいちりじりになってしまいました。空海の第1船は難破し、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州長溪県赤岸鎮(現在の福建省赤岸村)でした。
今では、多くの日本人の巡礼者が訪れ、聖地となっているそうです。あまりにも多いため、交通の不便な地に州はわざわざ高速道路まで建設したそうです。
漂着したとき、赤岸村での一行の様子や役所及び、村の対応はどうだったのでしょうか?
特にひどい扱いは受けていなかったようです。大使は県の役人宛に何度も文書を提出しますが、ここでは対応できないので福州の役所に行ってくれと言われます。船の応急修理や交渉を待つ間45日間も滞在することになりました。赤岸村の村民からも水や食料など援助を受けたことでしょう。
止む無く250㎞南下し福州の役所を訪ねることになりました。福州の馬尾港に着くと、ここでの対応は厳しいものでした。全員船から降ろされ海岸の湿地に座らされたのです。
この船には、遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)が乗船していました。役人宛に何度も手紙を書きましたが、蜜貿易船と疑われ、相手にもしてもらえません。そこで空海が依頼されて改めて文章を作成したのです。空海は戯曲風にさらさらと見事に手紙を書きあげ、それが功を奏して一行は遣唐使使節として認められることになったのです。
(このときの司馬遼太郎の表現がすごい)
空海という、ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧にすぎなかった者が、幕を跳ね上げるようにして歴史的空間という舞台に出てくるのは、この瞬間からである。
州の役人が長安の都にお伺いを立てると39日後に使いが戻って来て、国賓としてもてなせということでした。これにより扱いが一変。長安まで馬や馬車、船で案内をうけたようですが、海路、陸路をつないでその距離2400㎞(札幌から鹿児島までの距離に相当)の過酷な旅でした。1ヵ月半の日数を要したようです。(それにしても使いの者が39日で帰ってきたことに驚きます。)
私は、少人数で荷物を背負い、道を尋ねながら、歩いていった苦難の道中かと思っていましたが、その苦労はなかったようです。しかし大使が皇帝に年賀のあいさつをするため、日数に限りがあり、かなりの強行軍となったようです。
ともあれ、私は、事実を知って心が少し晴れたような気持になりました。
私が疑問に思うこと
その1 空海が留学の為持参した資金は、いかほどのものだったのか?
空海は第2船に乗った最澄と異なり、留学生(るがくしょう)のため、滞在費用のほとんどを自分で工面しなくてはなりませんでした。留学予定期間の20年間暮らせるだけの資金(生活費、勉学費)は、どのように調達し、どのような形で持参したのでしょうか?
空海は長安を去るとき世話になった青竜寺などの僧500人を招待し盛大な宴会を開いています。また法具を作らせたり、一等の絵師に曼荼羅を描かせています。また膨大な書物を買い入れる経費も相当なものだったに違いありません。20年分の資金を2年で使い切ったというものの、親戚、縁者からの寄進は相当な額であったと考えられます。
その2 空海はどんなお姿をされていたのでしょうか?

2025.3.23 善通寺境内の大クス 樹齢1200年以上 空海が植えたとも、上って遊んだともいわれている
肖像画や空海像で見る限り、その姿は中肉中背で四角張ったなかなか見栄えのいい人物に見えますが、実際のところはどうだったのでしょう。高野山御影堂には、入定直前の空海を弟子の真如法親王が描き、空海自ら瞳を入れたと伝わる肖像画が残っているそうです。しかし、秘仏の為見ることはできません。この肖像画がすべての空海像の元になっているのでしょうか。
また、世界遺産・醍醐寺の国宝「五重塔」の内部には10世紀中ごろに制作された、最古級の肖像壁画がありますが、経年のためイメージ程度でしかわかりません。
ところが司馬遼太郎が想像する空海像はまったくユニークです。「背が低く短足。どちらかというと小太りの男であった。」と極端な見方をしています。高野山大学の先生たちはいい気がしないでしょう。
ちなみに最澄についても「小柄な男で頭が大きく足腰がかぼそに見え、一本の槌が経っているように見える」と想像しています。
ただ、遣唐使に選ばれる選考基準について、過去の諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘もあります。
その3 空海と最澄が最初に出会った場所はどこか?
空海が最澄を見た(認識した)のはどこだったのでしょう。最初に挨拶をかわしたのはどこだったのでしょう。実際、記録に残っているのは、最澄が灌頂を授けてほしいと京都の乙訓寺(おとくにでら)に空海を訪ねた時です。
認識しただけというのであれば那の津(大宰府)でしょうか。修理された遣唐使船を待つ最澄を、他の船に乗る空海が見た可能性は考えられます。
その4 空白の7年間、空海は何をしていたのか?
聾瞽指帰(ろうこしいき)を著した24歳の時から、804年遣唐使として中国に渡るまでの7年間、空海は何故か歴史上から忽然と姿を消してしまいます。
その間、空海は何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも知られざる7年間として省略されています。
空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし7年間にわたり、空海に関する情報がまったく存在しないのです。
(諸説)
① 大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもった。
② 修行者となって日本全国を旅していた。
③ 唐に渡るための自己資金を蓄えるため、各地を旅しながらお布施を募った。
④ 7年間のうち何年間を中国に渡って、中国で暮らしていた(中国語が堪能な理由とも)
⑤ 吉野の山林で鉱物資源を探っていた(山師説)
⑥ 山林を歩き回りつつ、奈良の諸寺で仏典の研鑽を積んでいた。
*大日経のさらなる習得のため(入唐を決めた一番の理由といわれる)①+⑥が正解ではないかと思っています。
その5 唐から帰った空海は観世音寺で3年間何をしていたのか
帰国の大同元年から上京するまでの約3年間、太宰府での空海の消息は資料上ではほとんどわからなくなります。
朝廷は空海に観世音寺に留任するよう通達を出しています。国法を破って帰国した空海は謹慎の身の上、ここではおとなくしているしかありません。
希望は、遣唐判官・高階遠成に託した御請来目録が無事に朝廷に届き、時の嵯峨天皇がどう判断するかでしょう。
(諸説)
① 観世音寺に滞在し、長安から持参した経典を読み込み、その後の密教の基盤を考えた。
② 各地を巡った。讃岐もその一つでは。各地にその伝承が残っている。
③ 余り沙汰がないので、自由な放浪を始めた
その6 虚空蔵求聞持法とはそんなにすごい修行方法なのか
虚空蔵求聞持法は「記憶を増大させる」という実用性の高い行です。そのため膨大な経典を暗記する必要のあった僧侶や修行者だけでなく官人も挑戦したという記録があります。
空海は「一の沙門(ひとりのしゃもん)」からこの行を教わったそうですが、それは誰なんでしょうか。その修行内容は、虚空蔵菩薩の真言を100万回、100日間唱えると、あらゆる経典を暗記でき、その意味を理解できるというものでした。
その7 空海は奥ゆかしい人、それともずるい人?
通信使藤原門野麻呂が、州の役員宛てに何度も文書を差してもまったく相手にされず困っている時、空海は声がかかるまで自分から進んで助けようとしませんでした。このことについて恐らくですが、声がかかるのを予測し、この間、文章の構成を考えていたのではないでしょうか。
また、長安に入って、恵果和尚が自分を待っていると分かっているのに、五ヵ月間会いに行かなかったのは、じらしたという意味で空海のずるいところと言われています。空海は恵果和尚の名声は耳にしていましたが、果たして恵果和尚は空海のことをどこまで知っていたのでしょうか。この期間空海は、サンスクリットを習得していたとも言われています。
その8 最澄の乗る第2船はどういう航路をたどったのか
同時に出発した四つの船、空海が乗船した第1船は難破し34日間東シナ海を漂流したのち、8月10日に福州赤岸鎮に漂着しています。最澄らの第2船はそれよりもさらに20日間以上遅れて目的地に随分近い明州に到着しています。第2船は、2か月間ほどの間、ずっと漂流していたのでしょうか。いったいどのような航路をたどったのでしょうか。
その9 唐への往来は遣唐使船以外にはなかったのか
航海技術がまだまだ未熟な当時のことではありますが、民間の船で唐との交易はおこなわれていなかったのでしょうか。遣唐使船の20年に一度というのは、向かう方はまだしも、帰国する者にとっては、あまりにも不確実で待ちどおしかったに違いありません。
その10 空海の恩師・阿刀大足は、空海とどういう血筋だったのか
「空海の風景」で司馬遼太郎は阿刀大足について次のように語っています。
「空海の父の田公の実弟の大足が阿刀家を継いでおり、幼少の時から学問の師匠、空海の成立のためには奇跡の条件(文章と詩をならった)」と言っています。
しかし多くの研究者は、「母方の兄弟の阿刀大足について、論語や史伝、文章を学ぶ」とか
「空海の母方のおじを頼って平城京に上京。大学寮に入るまで、論議、孝経、史伝、文章など個人指導を行う。」と言っています。父方か母方かいずれが正しいのでしょうか。
父方なら幼少期から、母方なら15歳で上京してから学問を習うということになります。

2025.3.23撮影 佐伯祖廟(さえきそびょう)空海の父は地方の豪族 佐伯直田公善通
空海の伝説
① 洞窟で瞑想しているとき口の中に明けの明星が飛び込んできた。
② 断崖から身を投げたところ、落ちていく空海の下の方に紫雲が沸き起こり大光明とともに蓮華の花に坐した釈迦如来が現れて空海を抱きしめ「一生成仏」と宣した。
③ 各地に空海が建てたとか、立ち寄ったとか、水が湧き出たとか言い伝えがある。空海は例えば北方面ではどこまで足を延ばしたのか?
南無大師遍照金剛と同行二人(どうぎょうににん)とは?
遍照金剛の明号は、空海が唐に留学し、真言密教を極めた時の灌頂名で、大日如来の別名でもあります。
南無大師遍照金剛とは、弘法大師空海に帰依するという意味です。
歴史上、天皇から大師号を与えられた者は27名にのぼるものの、一般的に大師といえば弘法大師をさします。
同行二人とは、本人と弘法大師の二人を意味し、常に弘法大師と共にあるとの意です。

2013.11.23 八十八ヵ所 結願の霊場 大窪寺で見た「同行二人+ワン」のしおらしいワンちゃん
(司馬遼太郎 空海の風景)
この世にナマ身で存在した人間が、その死後千数百年を経てもなお半神としてあがめつづけられるというつらさ、もしくは空海の場合、それが自然以上の自然さをもつというのはどういう機微によるものであろう。
(機微 表面からは知りにくい微妙な心の動き。あまり人に知られたくないこと)
(終わり)

空海の幼名は真魚(まお) 善通寺境内の売店では「まおグッズ」が販売されていました。
参考文献:
空海の風景(上)(下)司馬遼太郎著 中公文庫
『空海の風景』を旅する NHK取材班
YouTube「空海の風景」
高野山大学公式YouTubeチャンネル
密教21フォーラム メディアサイト「エンサイクロメディア空海」
「空海を生きる」 ひろさちや著
「空海と密教解剖図巻」 武藤郁子著