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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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空海という天才はいかにして成立したか! その謎に迫る 第一章

2025-07-07 17:39:22 | 歴史
投稿日:2025(令和7)年7月7日

あまりにも大きなテーマを掲げてしまいました。今から1200年以上前の平安時代、真言宗の開祖・弘法大師空海のお話です。
だいぶ以前のことですが、私があるテレビ番組を見ていてずっと気になっていたことがありました。空海、入唐時のことです。
遣唐使船に乗って最初に訪ねる寄港予定地は、当時の都・長安への最寄りルートである揚子江の河口付近でしたが、途中悪天候で船は難破、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州でした。そこから長安に向かうことになりましたが、その距離2400㎞、日数はなんと一か月半もかかりました。どのような苦難の道中だったのか、中国地図を頭に思い浮かべながら、ずっと気になっていたのです。

我が家の宗旨は真言宗で、お寺にお参りに行ったとき、住職との雑談の中で、背後に掛かっていた中国大陸の大きな地図を見るたびにこのことを思い出していました。
そんな中、今年の3月頃、福山市内の書店で偶然見かけたのが、司馬遼太郎の「空海の風景」(中公文庫)上巻でした。私は、その購入直後、インフルエンザに感染し勤務先も出入り禁止、おかげで読書する時間は十分にありました。読み終えて下巻を購入したころ、何と今度はコロナに感染してしまいました。皮肉にも、療養中、下巻も読み終えることができたのです。
「空海の風景」は司馬遼太郎が、自分自身の作品の中で一番気に入っていたものと言われています。夫人は富士霊園の文学者之墓にこの本を埋葬したとか。「空海という天才はいかにして成立したか」とはまさにこの本のテーマなのです。

刊行されて20年後、NHKの特別番組「空海の風景」が放映され、その後取材班による手記「『空海の風景』を旅する」が刊行されました。こちらは非常に読みやすく、司馬遼太郎の「空海の風景」を要約したようなものでした。当時の番組は現在でもYouTubeで視聴することができます。
空海に関しては、昨今動画でもたくさんアップされていますが、真偽不明のことが堂々と論じられています。そこで私は、疑問点を下記の項目に絞り、私なりに調べてみようと思いました。あくまで歴史好きの一個人の解釈です。



2025.3.23 善通寺 弘法大師像

空海という人は本当に天才だった と私が思う点

① 漢語(中国語)が話せ、サンスクリット語も理解できたこと。

もともと空海にはその血筋から言語に関し特別な才能があったともいわれています。大学寮での漢語の勉強も上達に拍車をかけたのではないでしょうか。奈良の大安寺などインド出身僧や遣唐使の経験のある人との交流も大いにプラスになったことでしょう。入唐後、普通に会話が通じたとも言われていますし、さらにインド僧般若三蔵からサンスクリット語を習いさらに仏典の読解力を身につけています。

② 書の達人 

いろんな書体で字が書けたと言われています。また文章力も素晴らしいものがありました。中国では僧侶としてではなく書の達人として有名だそうです。(五筆和尚といわれた)。嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆のひとりに揚げられています。同時代の親交のあった3人が選ばれた理由は偶然でしょうか。(江戸時代前期 上田元周・和漢名数大全から)

③ 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を習得し抜群の記憶力

数少ない習得者のひとり。誰から教わったかがなぞのままです。習得すると抜群の記憶力が身に付き、仏典をまる暗記できたそうです。普通の人では到底習得できない難易度の高い修行です。

④ 正当な密教の相承者である恵果和尚からわずか3ヵ月で伝法灌頂を終了、その継承者となる

短期間で金剛界、退蔵の両部をすべてマスター。漢語やサンスクリット語が理解できていたことで習得も早かったと思われます。千人以上もの弟子を差し置いて他国の者が選ばれたというのはすごいことです。

空海という人は本当に強運の持ち主だった と私が思う点

① なんといっても、叔父が当代随一の儒学者・阿刀大足(あとのおおたり)であったこと。

皇太子の侍講(家庭教師)でもあった大足に学べたこと、この環境こそが一番の強運に違いありません。この関係が無かったら、大学寮にも入っていなかったし、遣唐使船にも乗ることさえできなかったでしょう。

② 遣唐使の一員として第16次遣唐使船に乗船できたこと。

第16次遣唐使船は前年に出発していましたが瀬戸内海で暴風に会って船が損傷、止む無く難波ノ津に引き返し出港は1年後に延期されたため空海はこの船に間に合うことができたのでした。

③ そして、遣唐使船で無事に入唐し帰国できたこと。

当時の航海技術はとても未熟で、出発する時期も6月から7月と、西風が吹く危険な時期でした。長安で皇帝の年賀のあいさつに間に合うようにと決められたようですが実際に唐に無事に到着できる可能性は60%から70%と言われていました。無事に到着し、また帰国できたことはかなり運が良かったと言わざるを得ません。第16次遣唐使船も4隻の内、到着したのは、空海の第1船と最澄の2船だけでした。

④ 正当な密教の相承者である恵果和尚にタイミングよく出会えたこと。

空海は恵果和尚から3か月ですべての灌頂を受け阿闍梨となりました。恵果和尚はその4か月後に入滅しています。教えを受けることができるぎりぎりのところで恵果和尚に出会えたことは、ラッキーとしか言えません。

⑤ 翌年にやって来た遣唐使船に乗って、帰国の途につけたこと。

何と恵果和尚が入滅してまもなく遣唐使船がやっています。第16次遣唐使船の第4船の再派遣でした(諸説あり)。責任者は判官の高階遠成(たかしなとおなり)でした。空海は高階を通じて帰国の許可を申請し唐政府から許しを得ています。
遣唐使は通常20年に一度とされています。実際、この次に来たのは30年後でした。


*以上の一つでも欠けたら、私が知る空海の存在はなかったでしょう。

本当はどうだったのか、知りたい空海のこと
私が一番知りたかったこと、苦難の道中、実はこうだったらしい

遣唐使船第4船は、肥前国田浦を出発しましたが翌日に暴風にあいちりじりになってしまいました。空海の第1船は難破し、1ヵ月以上漂流の末、着いた先は、はるか南の福州長溪県赤岸鎮(現在の福建省赤岸村)でした。
今では、多くの日本人の巡礼者が訪れ、聖地となっているそうです。あまりにも多いため、交通の不便な地に州はわざわざ高速道路まで建設したそうです。

漂着したとき、赤岸村での一行の様子や役所及び、村の対応はどうだったのでしょうか?
特にひどい扱いは受けていなかったようです。大使は県の役人宛に何度も文書を提出しますが、ここでは対応できないので福州の役所に行ってくれと言われます。船の応急修理や交渉を待つ間45日間も滞在することになりました。赤岸村の村民からも水や食料など援助を受けたことでしょう。

止む無く250㎞南下し福州の役所を訪ねることになりました。福州の馬尾港に着くと、ここでの対応は厳しいものでした。全員船から降ろされ海岸の湿地に座らされたのです。
この船には、遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらかどのまろ)が乗船していました。役人宛に何度も手紙を書きましたが、蜜貿易船と疑われ、相手にもしてもらえません。そこで空海が依頼されて改めて文章を作成したのです。空海は戯曲風にさらさらと見事に手紙を書きあげ、それが功を奏して一行は遣唐使使節として認められることになったのです。


(このときの司馬遼太郎の表現がすごい)
空海という、ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧にすぎなかった者が、幕を跳ね上げるようにして歴史的空間という舞台に出てくるのは、この瞬間からである。

州の役人が長安の都にお伺いを立てると39日後に使いが戻って来て、国賓としてもてなせということでした。これにより扱いが一変。長安まで馬や馬車、船で案内をうけたようですが、海路、陸路をつないでその距離2400㎞(札幌から鹿児島までの距離に相当)の過酷な旅でした。1ヵ月半の日数を要したようです。(それにしても使いの者が39日で帰ってきたことに驚きます。)
私は、少人数で荷物を背負い、道を尋ねながら、歩いていった苦難の道中かと思っていましたが、その苦労はなかったようです。しかし大使が皇帝に年賀のあいさつをするため、日数に限りがあり、かなりの強行軍となったようです。
ともあれ、私は、事実を知って心が少し晴れたような気持になりました。


私が疑問に思うこと

その1 空海が留学の為持参した資金は、いかほどのものだったのか?

空海は第2船に乗った最澄と異なり、留学生(るがくしょう)のため、滞在費用のほとんどを自分で工面しなくてはなりませんでした。留学予定期間の20年間暮らせるだけの資金(生活費、勉学費)は、どのように調達し、どのような形で持参したのでしょうか?

空海は長安を去るとき世話になった青竜寺などの僧500人を招待し盛大な宴会を開いています。また法具を作らせたり、一等の絵師に曼荼羅を描かせています。また膨大な書物を買い入れる経費も相当なものだったに違いありません。20年分の資金を2年で使い切ったというものの、親戚、縁者からの寄進は相当な額であったと考えられます。


その2 空海はどんなお姿をされていたのでしょうか?


2025.3.23 善通寺境内の大クス 樹齢1200年以上 空海が植えたとも、上って遊んだともいわれている

肖像画や空海像で見る限り、その姿は中肉中背で四角張ったなかなか見栄えのいい人物に見えますが、実際のところはどうだったのでしょう。高野山御影堂には、入定直前の空海を弟子の真如法親王が描き、空海自ら瞳を入れたと伝わる肖像画が残っているそうです。しかし、秘仏の為見ることはできません。この肖像画がすべての空海像の元になっているのでしょうか。
また、世界遺産・醍醐寺の国宝「五重塔」の内部には10世紀中ごろに制作された、最古級の肖像壁画がありますが、経年のためイメージ程度でしかわかりません。
ところが司馬遼太郎が想像する空海像はまったくユニークです。「背が低く短足。どちらかというと小太りの男であった。」と極端な見方をしています。高野山大学の先生たちはいい気がしないでしょう。
 ちなみに最澄についても「小柄な男で頭が大きく足腰がかぼそに見え、一本の槌が経っているように見える」と想像しています。
ただ、遣唐使に選ばれる選考基準について、過去の諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘もあります。


その3 空海と最澄が最初に出会った場所はどこか?

空海が最澄を見た(認識した)のはどこだったのでしょう。最初に挨拶をかわしたのはどこだったのでしょう。実際、記録に残っているのは、最澄が灌頂を授けてほしいと京都の乙訓寺(おとくにでら)に空海を訪ねた時です。
認識しただけというのであれば那の津(大宰府)でしょうか。修理された遣唐使船を待つ最澄を、他の船に乗る空海が見た可能性は考えられます。


その4 空白の7年間、空海は何をしていたのか?

聾瞽指帰(ろうこしいき)を著した24歳の時から、804年遣唐使として中国に渡るまでの7年間、空海は何故か歴史上から忽然と姿を消してしまいます。
その間、空海は何をしていたのでしょうか。その空白の期間については空海の伝記にも一切記載がないため、多くの大師伝でも知られざる7年間として省略されています。
空海ほどの人物ですから、国内を旅したならば、必ずその地域に何らかの軌跡が残されているはずです。しかし7年間にわたり、空海に関する情報がまったく存在しないのです。


(諸説)
① 大日経の経典を入手した後、その習得のために再び山奥にこもった。
② 修行者となって日本全国を旅していた。
③ 唐に渡るための自己資金を蓄えるため、各地を旅しながらお布施を募った。
④ 7年間のうち何年間を中国に渡って、中国で暮らしていた(中国語が堪能な理由とも)
⑤ 吉野の山林で鉱物資源を探っていた(山師説)
⑥ 山林を歩き回りつつ、奈良の諸寺で仏典の研鑽を積んでいた。
*大日経のさらなる習得のため(入唐を決めた一番の理由といわれる)①+⑥が正解ではないかと思っています。


その5 唐から帰った空海は観世音寺で3年間何をしていたのか

帰国の大同元年から上京するまでの約3年間、太宰府での空海の消息は資料上ではほとんどわからなくなります。
朝廷は空海に観世音寺に留任するよう通達を出しています。国法を破って帰国した空海は謹慎の身の上、ここではおとなくしているしかありません。
希望は、遣唐判官・高階遠成に託した御請来目録が無事に朝廷に届き、時の嵯峨天皇がどう判断するかでしょう。
(諸説)
① 観世音寺に滞在し、長安から持参した経典を読み込み、その後の密教の基盤を考えた。
② 各地を巡った。讃岐もその一つでは。各地にその伝承が残っている。
③ 余り沙汰がないので、自由な放浪を始めた


その6 虚空蔵求聞持法とはそんなにすごい修行方法なのか

虚空蔵求聞持法は「記憶を増大させる」という実用性の高い行です。そのため膨大な経典を暗記する必要のあった僧侶や修行者だけでなく官人も挑戦したという記録があります。
空海は「一の沙門(ひとりのしゃもん)」からこの行を教わったそうですが、それは誰なんでしょうか。その修行内容は、虚空蔵菩薩の真言を100万回、100日間唱えると、あらゆる経典を暗記でき、その意味を理解できるというものでした。


その7 空海は奥ゆかしい人、それともずるい人?

通信使藤原門野麻呂が、州の役員宛てに何度も文書を差してもまったく相手にされず困っている時、空海は声がかかるまで自分から進んで助けようとしませんでした。このことについて恐らくですが、声がかかるのを予測し、この間、文章の構成を考えていたのではないでしょうか。
また、長安に入って、恵果和尚が自分を待っていると分かっているのに、五ヵ月間会いに行かなかったのは、じらしたという意味で空海のずるいところと言われています。空海は恵果和尚の名声は耳にしていましたが、果たして恵果和尚は空海のことをどこまで知っていたのでしょうか。この期間空海は、サンスクリットを習得していたとも言われています。


その8 最澄の乗る第2船はどういう航路をたどったのか

同時に出発した四つの船、空海が乗船した第1船は難破し34日間東シナ海を漂流したのち、8月10日に福州赤岸鎮に漂着しています。最澄らの第2船はそれよりもさらに20日間以上遅れて目的地に随分近い明州に到着しています。第2船は、2か月間ほどの間、ずっと漂流していたのでしょうか。いったいどのような航路をたどったのでしょうか。


その9 唐への往来は遣唐使船以外にはなかったのか

航海技術がまだまだ未熟な当時のことではありますが、民間の船で唐との交易はおこなわれていなかったのでしょうか。遣唐使船の20年に一度というのは、向かう方はまだしも、帰国する者にとっては、あまりにも不確実で待ちどおしかったに違いありません。


その10 空海の恩師・阿刀大足は、空海とどういう血筋だったのか

「空海の風景」で司馬遼太郎は阿刀大足について次のように語っています。
「空海の父の田公の実弟の大足が阿刀家を継いでおり、幼少の時から学問の師匠、空海の成立のためには奇跡の条件(文章と詩をならった)」と言っています。
しかし多くの研究者は、「母方の兄弟の阿刀大足について、論語や史伝、文章を学ぶ」とか
「空海の母方のおじを頼って平城京に上京。大学寮に入るまで、論議、孝経、史伝、文章など個人指導を行う。」と言っています。父方か母方かいずれが正しいのでしょうか。
父方なら幼少期から、母方なら15歳で上京してから学問を習うということになります。



2025.3.23撮影 佐伯祖廟(さえきそびょう)空海の父は地方の豪族 佐伯直田公善通

空海の伝説

① 洞窟で瞑想しているとき口の中に明けの明星が飛び込んできた。
② 断崖から身を投げたところ、落ちていく空海の下の方に紫雲が沸き起こり大光明とともに蓮華の花に坐した釈迦如来が現れて空海を抱きしめ「一生成仏」と宣した。
③ 各地に空海が建てたとか、立ち寄ったとか、水が湧き出たとか言い伝えがある。空海は例えば北方面ではどこまで足を延ばしたのか?


南無大師遍照金剛と同行二人(どうぎょうににん)とは?

遍照金剛の明号は、空海が唐に留学し、真言密教を極めた時の灌頂名で、大日如来の別名でもあります。
南無大師遍照金剛とは、弘法大師空海に帰依するという意味です。
歴史上、天皇から大師号を与えられた者は27名にのぼるものの、一般的に大師といえば弘法大師をさします。
同行二人とは、本人と弘法大師の二人を意味し、常に弘法大師と共にあるとの意です。



2013.11.23 八十八ヵ所 結願の霊場 大窪寺で見た「同行二人+ワン」のしおらしいワンちゃん

(司馬遼太郎 空海の風景)
この世にナマ身で存在した人間が、その死後千数百年を経てもなお半神としてあがめつづけられるというつらさ、もしくは空海の場合、それが自然以上の自然さをもつというのはどういう機微によるものであろう。
(機微 表面からは知りにくい微妙な心の動き。あまり人に知られたくないこと)

(終わり)


空海の幼名は真魚(まお) 善通寺境内の売店では「まおグッズ」が販売されていました。

参考文献:
空海の風景(上)(下)司馬遼太郎著 中公文庫
『空海の風景』を旅する NHK取材班
YouTube「空海の風景」
高野山大学公式YouTubeチャンネル
密教21フォーラム メディアサイト「エンサイクロメディア空海」
「空海を生きる」 ひろさちや著
「空海と密教解剖図巻」 武藤郁子著
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岡山県総社市 吉備路五重塔と菜の花畑、日本百名城・鬼ノ城を訪ねて

2022-03-12 22:55:42 | 歴史
訪問日:2022年2月28日(月)
2月の最終日、青空が広がり、撮影意欲を掻き立てる朝でした。このところ午後から風が強くなり、雲が広がる傾向があるため、早めに家を出発することにしました。
久しぶりに総社市の備中国分寺と鬼ノ城(きのじょう)を訪ねることにしたのです。

向かう途中、いつものように矢掛の町並みにある老舗のお店で旬の“いちご大福”を買い求め、すぐに倉敷市真備町を経由して吉備路・国分寺に向かいました。


備中国分寺五重塔周辺を歩く


菜の花畑と備中国分寺五重塔はこの季節の定番カット


吉備路自転車道

緩やかな丘陵地の田んぼの向こうに、堂々とそびえる重要文化財の五重塔が実に絵になります。その田んぼの一角に、菜の花が植えられており見ごろとなっていました。
この季節を象徴する菜の花と五重塔は、カメラマンお決まりの構図です。


こうもり塚古墳

菜の花畑を撮影したあと、散歩がてらに、こうもり塚古墳を訪ねてみることにしました。
小山のように見える前方後円墳。後円部石室の巨大な石組と石棺には驚くばかりです。その大きさは奈良の石舞台古墳にも匹敵するといわれています。
6世紀後半、古代の人はどのように運び積み上げたのでしょうか。また貝殻石灰岩をくり抜いて造られた石棺は、現井原市野上町から運ばれたとありますが、その距離も気になるところです。
このあと、国分寺の梅林を訪ねましたが、残念ながら見ごろはもう少し先のようでした。



石室の入り口


堅牢な石組


石棺


出口付近 スケールの大きさに圧倒される


備中国分寺正面


梅園の白梅と五重塔


境内の地蔵様


こんもりと繁るモンキーポッドのような巨木

日本百名城 鬼ノ城(きのじょう)

そして次に向かったのが、鬼ノ城です。平野部からも山の頂上にその姿を確認することができます。
つづら折りの山道を、対向車が来ないことを祈りながら進むこと10分。やっと駐車場に到着しました。周辺には民家も見られ驚きます。駐車場からきつめの坂道を歩いて進むと、脇道にそれる感じで学習広場があり、ここからの眺めが一番のビュースポットになっています。



古代山城 鬼ノ城遠景



復元された西門


学習広場に続く散策路


7世紀後半に築かれた


西門を内側から見る


素晴らしい眺望


逆方向から見る


城壁の内外に敷石を残す


高さ約6mの版築土塁

鬼ノ城は、古代の山城で大和朝廷が倭国防衛のため、7世紀後半に築城したと伝えられています。
遺構は保存状態がよく、西門付近では、柱の本数や大きさ、土塁や石垣が完全な形で残されていました。城の周囲は、2.8㎞、この西門が木造で復元されており、古代の山城を象徴するシンボルとなっています。
眺望は実に素晴らしく、森林浴で気分もリフレッシュ、おまけに他の観光客の姿はほとんどなく、たまにすれ違うハイカーとの、「こんにちは!」と交わすあいさつも心地よいものでした。


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北前船で栄えた日本遺産・御手洗は遊女が支えた港町だった。

2021-04-01 19:51:27 | 歴史
訪問日:令和3(2021)年2月21日


本州と下蒲刈島とを結ぶ安芸灘大橋(有料)平成12年1月開通・長さ1,175m 大津泊庭園から

久しぶりに広島県呉市を訪ねました。一番の目的地は、大崎下島の御手洗(みたらい)です。
訪ねるのは、橋で陸続きとなってから2度目です。自宅からの所要時間は2時間半、距離にして146kmでした。
ナビを信じて進むと何と、安芸津港にやってきました。フェリーでの案内でした。これには少々慌てましたが、気を取り直して185号線を海岸沿いに走っていると、海には牡蠣筏が並び、さすが牡蠣の生産高日本一の広島だと思いました。
そしてやっと安芸灘大橋までやってきましたが、通行料金730円とその高額にびっくりです。ここから、さらに蒲刈大橋、豊島大橋、豊浜大橋を渡らなければなりません。安芸灘大橋から御手洗までの所要時間は、24km40分でした。



豊浜大橋 平成4年11月開通・長さ543m 豊島と大崎下島を結ぶ

(歴史の見える丘公園)

御手洗で最初に訪ねたのは「歴史の見える丘公園」です。公園への案内表示があったので迷わず進みました。細いくねった山道です。対向車が来ないことを祈りながら走らせること5分ほどで駐車場に到着しました。
展望台からの眺望は素晴らしいものでした。ベンチには静かに海を眺める老夫婦の姿があり印象的でした。眼下に御手洗の町を俯瞰することができます。さて、この公園の一角に「おいらん公園」があるはずなのですがよくわかりません。ちょうど下から登ってきた若い男性に道を尋ねると、「この下の方にありましたよ」とのことでした。
また戻ってくるのは大変だなと思いながら真下に続く階段を下ると、おいらん公園と書かれた石碑がありその下に墓地がありました。
墓地は、海が見下ろせる高台にあります。そこには100基以上の遊女の墓が整然と並んでいました。



駐車場から展望台につづくスロープ


御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて、地区を見下ろせる高台に設けられた公園。御手洗や来島海峡、四国の山々が一望できる。まさに天然の良港。


眼下に広がる御手洗の町並み。千砂子波止も見える。


高燈籠のアップ


ベンチで静かに海を眺めるご夫婦

(おいらん公園)


展望台から急な階段を下る

御手洗における遊女に関する最も早い記録は、元禄5(1692)年にドイツ人医師ケンペルが著した「江戸参府旅行日記」と考えられています。そして、公式にはじめて認可されたお茶屋は、享保9(1724)年に開業した若胡屋(わかえびすや)です。その後3軒のお茶屋が開業し、最も栄えたのは宝暦期(1751~63)と推測されています。宝暦5(1755)年には、若胡屋/46名、藤屋/27名、海老屋/27名で計100名の遊女がいた(豊町史)と記録され、全国の花街番付にも載るほどでした。実に町の住人の2割が遊女だったといいます。
その遊女の数も江戸末期には41名に、そして近代以降も御手洗の花街は存続し、最終的に売春防止法が施行された昭和33(1958)年まで継続していました。



急傾斜防止工事の際、享保15(1730)年頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓が百墓に余って発掘された。


墓石が整然と並ぶ


若胡屋の文字が見える

この御手洗の花街は、他と違い周辺地域から隔絶された存在ではありませんでした。地域住民との密接な繋がりを持ちながら維持されてきたのです。2003年、土に埋もれ忘れられていた墓石を海の見えるこの地に移す中心的な役割をした今崎仙也さんは、NHK「日本風土記・北前船の旅人たち」の番組の中で、少年の頃の記憶を懐かしみながら次のように語っています。

「御手洗には銭湯が3軒あって、一番風呂は遊女なんですよ」
「夕方、化粧を早くしなきゃならんということでね」
「遊女たちも学校に勉強にいく子もおるし、一緒に町民運動会にも参加する子もいる」
「あまり違和感もない状況で私たちは接してきました」
墓石を移して整備したことについて
「江戸時代から非常に御手洗を支えてくれた人たちということでね」
「感謝の気持ちを込めて景色のいいところに移設してあげようじゃないかということになったんです」
「遊女たちは自分の出身地の船が港に入ると、あの船に乗って帰りたいと思ったんじゃないでしょうか」


関連ブログ 前回の記事「遊女たちの悲しい物語があった
参考文献:「大崎下島御手洗における花街の景観と生活」加藤晴美
     NHKBS新日本風土記「北前船の旅人たち」
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ねんねこしゃっしゃりませ♪ 中国地方の子守唄・誕生秘話 岡山県井原市高屋町

2021-01-21 23:45:14 | 歴史

井原鉄道 子守唄の里高屋駅

井原市高屋町の井原鉄道「子守唄の里高屋」駅の高架のプラットフォームへつづく階段を登っていると、「ねんねこしゃっしゃりませ~」のメロディーが自動的に流れてきます。
ご存知、山田耕筰編曲の、「中国地方の子守唄」です。



高屋町のランドマーク・華鴒大塚美術館 美しい日本庭園(華鴒園)で知られています。

この唄が世に出るきっかけとなったのは、同町出身の声楽家、上野耐之が東京の音楽学校在学中に、山田耕筰のもとを訪ね、故郷で歌われている、子守唄を披露したことが始まりでした。まもなく中国地方の子守唄として発表され、日本を代表する子守唄のひとつとなりました。


上野家の道路わきに設置された中国地方の子守唄紹介盤
耐之は、この山陽道高屋宿脇本陣上野家で出生した。

このことで私が残念に思うことは、なぜ中国地方なのか、ということです。井原市高屋町は、県境にあり、広島県福山市神辺町に接しています。どのあたりで歌われていたのか、そのエリアを特定することは困難かもしれません。
しかし、中国地方は、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県の5県にまたがるエリアで、その範囲はあまりにも広いのです。
できれば、高屋の子守唄、もしくは、井原地方の子守唄、もしくは備中地方の子守唄としてもらいたかったと思います。今さらどうすることもできませんが、いつも思う残念な点です。

しかし、調べてみると山田耕筰は東京生まれですが、岡山市に住む姉の家に寄宿し高校に通学しています。しかるに岡山県の地理にはある程度詳しいはずなのですが、あえて中国地方としたのは何か意味があったのでしょうか。



教会堂 高屋におけるキリスト教の歴史は、明治34年、プロテスタント岡本清が神戸から郷里に帰り伝道に従事したことから始まる。教会堂は上野家一族が中心になって資金を出し、大正2年に建立された。

さて、本題に戻りますが、上野耐之は幼いころから母=今(いま)さんの子守唄を聞いて育ちました。
この上野家の血をひく、故Sさんは、寄稿文で次のように紹介しています。
その頃家業は醤油の醸造販売を手掛け、父母はキリスト教に入信、敬虔なクリスチャンとして過ごしていました。耐志もまた両親に伴われ礼拝に出席、その時歌われる讃美歌で、母・今の歌声が一段と透き通る声で美しく聞こえ、信者間でも評判になっていました。

耐之もその影響で歌に興味を持ち、自分も歌の世界を目指し、興譲館中学校を経て東京の上野の音楽学校に進学、作曲家を志望し勉強中、ある日、山田耕筰の門をたたき作曲の指導をお願いしたところ、「君は何が得意か」との質問に「自分は歌が得意です」と答え「それでは君の好きな歌を歌ってご覧」と言われ「幼少の頃母が歌ってくれた子守唄です」と答え、地元の子守唄を披露しました。

「君の声、また歌詞曲、共に素晴らしい、すまないがこの歌を俺に呉れないか」と言われ、この子守唄を、正式な歌曲に仕上げられ「中国地方の子守唄」として世に紹介、広く世の中の人々に愛唱されるようになりました。



当時の面影が残る小路(裏通り)
旧山陽道の高屋の町並み、神辺宿と矢掛宿の合いの宿、江戸時代末期頃から伝わったとされるこの地方の子守唄。あの篤姫も通ったであろう町並みを歩くと、機織(はたおり)の音とともに、子守唄がどこからか聞こえてきそうです。


歌のあと、耐之がお願いしたのが、「ころは、眠たい昼下り、井戸つるべのガラガラ・・・という音がやんで、やがて国道を通る巡礼の鳴らす鈴の音が聞こえてくる、のどかな田舎の村、こんな情景を伴奏にとりいれていただければ幸いです」と。
まもなく中国地方の子守唄として出版されましたが、耐之は、のちに「母の子守唄」としてほしい気持ちであったと、新聞に述べています。


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井伏鱒二の小説「黒い雨」の舞台を行く。映画を見て私が気になってしょうがなかったこととは!

2020-09-15 22:33:24 | 歴史
(黒い雨とは?)
黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物の一種です。核分裂で生成される物質は水溶性ですが、火炎や強風にによって舞い上がった煙の中の泥やほこり、すすの成分が雨滴に吸着して黒い色になったものです。

(黒い雨訴訟)
戦後75年、いまだに原爆と戦っている人たちがいます。広島地裁は、令和2年7月29日、原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を国の援護対象区域外で浴びた原告84人全員を被爆者として認めました。しかし、広島県、広島市、国は控訴しました。過去の最高裁判断や、健康被害を黒い雨の影響とする新たな科学的知見がないことをその理由としています。また、県や市が求める援護対象区域の拡大に関し、区域の拡大も視野に入れた再検討を行うため、これまでに蓄積されてきたデータを最大限に活用し、最新の科学技術を用いて、可能な限りの検証を行うとしています。今後の展開を注視していきたいと思います。

(映画のロケ地、岡山県八塔寺ふるさと村)
そんな折、先月の初め、映画やテレビドラマのロケ地としても知られる、岡山県備前市吉永町の「八塔寺ふるさと村」を久しぶりに訪ねました。美しい田園風景には心を癒されましたが、その茅葺民家の象徴的な1棟が、八塔寺国際交流ヴィラでした。もともと村のはずれにあったものを、わざわざ映画「黒い雨」のために今の場所に移転させたそうです。
今村昌平監督は、撮影の候補地としてその実際の舞台である小畠(現広島県神石高原町)を訪ねたそうです。しかし当時の状況から随分様変わりしているので、当地での撮影をあきらめ別の候補地を探していたところ、八塔寺の存在を知り決めたそうです。


八塔寺ふるさと村 岡山県備前市吉永町加賀美 撮影日:2020.8.11


小畠村の閑間重松宅に使用された、八塔寺国際交流ヴィラ

(映画「黒い雨」を見て気になったこと)
実際に八塔寺のロケシーンが銀幕でどのように映っているかとても興味がありました。その物語のラスト、矢須子(田中好子さん)が倒れ、救急のトラックで運ばれるシーンがありました。私が気になっていたのは、その後の矢須子のことです。突然終わった感じがして、気になって仕方ありません。
DVDのデジタルニューマスター版では、矢須子が生き延びて原爆投下から20年後に四国の霊場をヤケドの四十男と共に巡礼として歩く原作には無いエピソードが19分のカラー映像として描かれているそうです。しかし映画で、今村監督は最後まで迷ったあげくそのシーンは採用しなかったそうです。(Wikipediaより)
こちらでのロケは100日間もかけて行われました。ある雑誌のインタビュー記事で、田中好子さんは、次のように語っています。
「撮影現場の八塔寺に行ったとき、最初はセーターとGパンだったけど、いつかジャージーになり、スニーカーはサンダルになって、気がついたらもんぺと長靴の毎日。村のたたずまいや合宿生活が私を変えて、矢須子という役に近づいた。」と。


(井伏鱒二の小説・黒い雨には、モデルがあった
井伏鱒二は、旧深安郡加茂町の出身でした。釣り仲間の旧神石郡三和町小畠の重松静馬から、自分が体験した被爆のことをノートにまとめてある、孫の世代に知ってもらうため、ぜひこれを題材にして小説を書いて欲しいと頼まれます。当時東京在住の井伏は、被爆に関してはまったく知識がなく、この日記を使用してよいか尋ねます。すると一向に構わないとの返事。井伏は新潮社と相談し、10万円を新潮社から、後日5万円を井伏が負担し、買い上げています。また、重松に幾度も相談をし、調査の依頼もしています。また、実際の被爆者から聞き取り調査もしています。まさにこの小説は、二人三脚で出来上がったものといえます。当初は、姪の結婚という題でスタートしていますが、途中から黒い雨に改題しています。
物語は、閑馬重松・シゲ子夫妻と、姪の矢須子の3人を主人公に、広島での被爆から、重松の生家である小畠村でのできごとを題材にしています。


(重松日記の誕生)
日記の原本は、重松家に保管されていましたが、重松家現当主の文宏氏ご夫婦の了解を得て、太宰治の研究で知られる・相馬正一氏(そうましょういち:1930~2013)が重松の被爆日記から表記を現代仮名遣いで活字化し、筑摩書房から「重松日記」として出版したのでした。日記の著者は重松静馬となっています。静馬氏が逝去して実に20年後のことでした。
但し、重松日記には、広島から小畠村に帰った以後のことは、一切書かれていません。当時、小畠村の生家には、小学生の養女フミエさん(現当主重松文宏氏の奥様)がいました。重松日記・巻頭の手紙はこのフミエさん宛てに書かれたと思われます。
重松日記は、2001年5月に第一冊が発行され、以降第三冊まで7000部が発行されましたが在庫切れとなっていました。2018年、実に17年ぶりに第四冊1000部が発行されました。



筑摩書房から発行された重松日記 小説「黒い雨」の第一資料

(志麻利で重松文宏さんから聞いた話)

そこで、物語の舞台となった神石高原町小畠を訪ねてその資料を拝見したいと思いました。特に、矢須子のモデルとなった安子さんの物語への関わり合い、その後どのように生きられどのような生涯を送られたのか?を知りたいと思ったのです。

訪ねたのは、黒い雨の資料を保存展示している、ふれあい平和サロン歴史と文学の館「志麻利」です。玄関先で声を掛けると「わざわざ、このために県外からお出でいただきましたか」と恐縮しながら、うれしそうに、迎えていただきました。玄関の受付で記帳し、資料が展示されている畳の部屋に案内されました。この志麻利、週3日のみ開館し、会員が交代で対応しているとのことでしたが、この日はたまたま重松文宏館長が当番に当たっておられたようで本当にラッキーでした。



ふれあい平和さろん・志麻利 右側の建物


重松文宏氏から詳しく説明をいただいた


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二の原稿 題は「姪の結婚」


展示室


展示室 

展示室は、井伏鱒二と重松静馬氏の出会いから始まって、黒い雨の執筆に至る経緯、また関連する資料が、ぐるりと並べられていました。私は事前にネットから重松日記関連記事を読み、ある程度は理解できていたと思います。重松さんとの会話の中で、何度も「これはよくご存知ですね」と感心いただきました。

重松文宏さんは、当年84歳だそうですが、とてもお元気でしっかりされていました。初め、矢須子のモデル安子さんのご主人かと思いましたが、年齢が合いません。前出の幼いころから養女に入られていたフミエさんのご主人にあたられます。

(訪問日:2020年8月23日)

(矢須子のモデル、安子さんのかわいそう過ぎる生涯)
重松日記の最後の章に、その後の安子さんについて書かれていました。私が最も感心があった部分です。安子さんは、重松夫妻と広島から帰ってきて、翌年結婚しています。その後しばらく子どもはできませんでしたが、9年目(昭和30年)にして待望の第1子誕生。2年後に第2子が誕生したあと軽度の原爆病を発症、昭和35年1月21日、原爆症による心臓疾患で死去、若干35歳の命でした。
映画の矢須子役の女優・田中好子さんは、映画収録3年後に乳がんが見つかりました。以後、表面には出しませんでしたが、女優業も兼ねながら癌との闘病生活が始まりました。そして、こちらも53歳の若さで亡くなっています。


(安子さんは、ほんとに黒い雨を浴びたのか)
小説「黒い雨」では、回想する形で、矢須子は黒い雨を浴びたことになっていますが、重松日記では、一切そのことについては書かれていません。となれば、証言者の話を聞いた中で、あるいは何かをヒントに井伏が創作で書き上げたということでしょうか。このことについて、相馬正一氏も「井伏の思い違いか作り話である」と述べています。小説なので、それは一向にかまわないのですが、この小説の題名であり、とても重要なテーマなので気になりました。

(物語の舞台となった小畠を行く)


小畠の町並み


「黒い雨」のモデル 重松静馬氏生家


井伏鱒二揮毫による記念碑


井伏鱒二「黒い雨」の文学碑


つつじが丘公園から見る小畠の町


「黒い雨」の終章となる乱塔池

最後に、小畠の町を散策して帰ることにしました。実はナビをセットし向かう時、かなりの田舎と思っていたら商店や民家が連なる想像以上の町筋でした。どうしても八塔寺の田園風景がイメージにあり余計にそう感じたのでしょう。物語の舞台となっているスポットを重松さんから教えていただきました。最初に訪ねたのが重松家です(外観のみ)、映画と違って、町並みを見下ろす高台にありました。もともと麦藁葺きでしたが現在はトタンで覆われています。終戦時すでに築200年以上(重松日記)とのことでしたから、最低でも250年以上経っていると思われます。堂々たる構えです。
次に向かったのが、つつじが丘公園です。重松さんから聞いて、おおよその見当はつけていましたが、少し道に迷いました。急な坂を上りきると公園らしきエリアがあり、文学碑と書かれた石碑がありました。文面は次のとおりです。


「戦争はいやだ 勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」

重松日記には、その日の日めくりカレンダーから「最も正しき戦争よりも、最も不正な平和を選ぶ」と、ローマの政治家、キケロの言葉が印刷してあった、とあります。この言葉が引用されたのでしょう。
つつじが丘公園の眺望はなかなかのものでした。眼下に小畠の石州瓦の町並みが見えます。
そして最後に向かったのが小説にある鯉を養殖したという池・乱塔池です。
こうして、本日の日程を終え、最後に重松さんにもう一度お礼の挨拶をして小畠をあとにしました。
気になっていたことは解決しましたが、たまたまこの時代に生まれ、悲惨な体験を余儀なくされた広島の人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになりました。


ふれあい平和サロン歴史と文学の館・志麻利 広島県神石郡神石高原町小畠1733
 TEL(0847)85-2808 開館日:毎週月・木・日 開館時間:御前10時~午後3時
冬期閉館(12・1・2月) 重松日記はこちらで求めることができます。
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