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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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プチャーチンのこと、ご存知ですか? 

2013-04-16 22:06:10 | 歴史

早くもシャクナゲが咲いていました。(4月14日) 兵庫県立フラワーセンター 本文とは関係ありません。

高校の時、日本史を勉強された方はご存じだと思うのですが、幕末に日米和親条約を締結したペリーに遅れることわずか9カ月、日露和親条約を締結したロシアのプチャーチンのことです。
一昨年の春、箱根・修善寺を訪ねましたが、そのとき楽しみにしていたのが、戸田港からの富士でした。残念ながら、雨模様の天気で断念せざるを得ませんでしたが、この戸田の読みが「ヘダ」とは知りませんでした。実は、この戸田とプチャーチンとの間に深い関係があることを知ったのは最近のことです。
また、昨年の5月、淡路島の高田屋嘉兵衛記念館を偶然にも訪れたのがきっかけで、ロシアへの漂流民となった江戸時代の日本人のことに興味を持ち、数回にかけてブログに書かせてもらいました。実はこのプチャーチンも漂流民との間に深い関係があったようなのです。

江戸時代、多くの漂流民が千島列島、オホーツク、カムチャッカなどロシア領に流れ着きました。鎖国の中、外洋に出ることのできる大きな船の建造が許されなかったため、運悪く、シケや台風に出会うと、その荒波にのまれ、舵を壊され、船を安定させるためマストも切断せざるを得なくなります。こうなると、壊れた船は洋上の漂流物でしかありません。

たまたま、コメなど、食料などの物資を運んでいる船の船乗りたちは、この物資で命を繋ぐことができたのですが、島に辿り着くまでに実に数か月や半年も要したのです。しかし、そこは想像もできないような極寒の地。多くは海路と陸路でヤクーツクから、イルクーツクまで移動を余儀なくされます。ビタミンの不足から壊血病に冒され、命を落とすものを多かったようです。そのような漂流民で特に有名なのが、大黒屋光太夫です。キリル・ラクスマンという支援者を得て、帝都ペテルブルグまで出向き、時の女帝・エカテリーナ2世に謁見を許され、実に10年の歳月をかけて帰国を果たしました。中には、現地にとどまり、日本語学校の教師になって、彼の地に骨をうずめるものもいました。また石巻の若宮丸の乗組員のように偶然、世界一周を体験して帰国した者もいます。でも、帰国できたのは、ほんの一握りの人たちでした。

ロシアは、アメリカに先行して、ラクスマンやレザノフを派遣し国交を迫っていましたが、幕府がのらりくらり先延ばしするなどして失敗。それから約50年後、1853年6月、アメリカのペリーが浦賀に来航します。そしてプチャーチンが、同年7月、日本の国法に従い長崎に来航します。1854年1月にペリーが再来航し、強圧的な態度で迫り横浜で日米和親条約を締結させます。
ペリーが江戸に向かったと知るや、プチャーチンも急ぎ下田に向かいます。ところが、その交渉の最中、伊豆下田は、大地震と津波に襲われほとんど壊滅状態。プチャーチンの乗ったディアナ号も大きな損害を被り修理を余儀なくされます。そんな中、プチャーチンは、日本人の遭難者を救助し、船の医師たちを治療のため町に送っています。そして修理のため戸田港に向かう途中、嵐に襲われ、船はとうとう沈没してしまいます。なんとか船の荷物を岸へ運び込むことができましたが、それを助けたのが日本人の村人たちでした。そして西伊豆・戸田港で、ロシア人の指導のもと日本人の舟大工が協力してなんとか小型の帆船を建造しました。船名は、戸田号(ヘダ号)、こうしてプチャーチンは条約を締結して本国に無事帰ることができたのです。プチャーチンは、その後何度か日本を訪れたそうですが、その際、ロシアにいた日本人の漂流民を大勢、帰国させたそうです。

このことにより、外国人としては、初めて明治天皇から勲一等旭日章を授与されています。以後、プチャーチンの末裔が戸田村を訪れ、現在も交流が続いているそうです。



立礼台によるお点前 4月14日 兵庫県立フラワーセンターにて
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歴史ロマン 江戸時代、日本人として初めて世界一周を体験した男たち(最終話)

2012-11-29 21:41:19 | 歴史

小堀遠州作庭/頼久寺枯山水庭園(岡山県高梁市) 遠州はこの地で20年間を過ごしました。 本文とは関係ありません。

(前回のつづき)
カムチャッカを出航して約1ヵ月、ついにナジェジダ号は長崎に到着します。事前に日本側には情報は伝わっていたようで、すぐに日本の検使が来船します。レザノフは、国書を提示し、来航の目的を告げ、信牌(*1)を渡します。以後2回、日本側検使が来船しますが、信牌を持参している以上、入港を拒むことはできません。「確認のため、江戸に手紙を書くのでしばらく待って欲しい」と伝え、仮の住まいと、修理のために梅ヶ崎に上陸することを認めました。

 このとき、長崎奉行の指示により、役人が集められ「ロシア人並びに漂流民とは口を聞かないように」と厳重に申し付けられたのでした
 この時代、長崎から江戸へ伺い書が送られ、その返事が帰るまで実に1ヵ月を要しました。これではなかなか交渉が前に進みません。そんな中、12月儀平が病気のため、日本人医師の手当てを受けています。また、太十郎が、先に日本に帰国した大黒屋光太夫が獄舎に入れられているといううその情報を聞き、先行きを不安視して自殺を図ります。これに驚いたレザノフは、漂流民の一刻も早い受け取りを願いでたのでした。そして太十郎の自殺未遂を報告する手紙が長崎奉行名で江戸に送られています。
 そんな中、レザノフに江戸に行けないことが正式に知らされます。そして江戸から特使として遠山景晋(あのテレビでお馴染みの遠山の金さんの父)が長崎に赴任します。こうして日露会談が三度にわたり行われました。

結果、漂流民4名は日本側に引き渡されることになりました。しかし幕府は漂流民の引き渡しに応じた以外は、皇帝アレクサンドル1世からの親書も献上品も受け取らず、レザノフに対して通商の申出を拒絶し、信牌まで取り上げてしまいます。レザノフは、漂流民と最後の別れをし、失意のうちに日本を去っていきました。仮にロシアとの通商に前向きであった老中松平定信が失脚していなければ、展開は大きく変わっていたかもしれません。

 漂流民たちは江戸に送られ、大槻玄沢の尋問を受けています。玄沢はこの話をもとに「環海異聞」の編纂にとりかかっています。光太夫らがロシアだけの見聞だったのに対して、津太夫たちは、ロシア以外の世界のさまざまな事物を見聞しており、その価値は相当なものであると思いますが、玄沢は、光太夫たちと比較し、ロシア語も知らない無学の民と評価しています。はたしてそうなのでしょうか。おそらく、ロシア正教に改宗しロシア人となった仲間のことや自分たちの今後のことを考えて多くを語らなかったのだと思います。

 しかし、光太夫たちは江戸で生活を送っていますが、津太夫たちは国許に帰ることを許されました。船出をしてから実に13年。受動的ではありましたが、日本人初の世界一周という偉業を成し遂げています。光太夫、高田屋嘉兵衛など偉大な人物の陰に隠れ、彼らの名前が広く世間に伝わることはありませんでした。

太十郎は故郷室浜に着いてまもなく36歳で病死、儀平も45歳で亡くなっています。津太夫は長生きして70歳で、佐平は67歳で亡くなりました。
レザノフは、半年も軟禁状態で留め置かれるなど、日本側の非礼な態度や交渉が進まなかったことから、「日本に対しては武力をもって開国を迫る手段はない」と上奏しましたが、のちに撤回しています。(この部分については諸説あります)しかし部下のフヴォストフが単独で、松前藩の番所や択捉港など各地を襲撃しています。いずれにしてもこのことが、レザノフに対する評価を著しく落とす要因となりました。
イルクーツク日本語学校も、2回の使節派遣が何も成果も見なかったことから、1816年に閉鎖されてしまいました。これを境に、日本とロシアは急速に疎遠となり、高田屋嘉兵衛のあのゴローニン事件へとつながっていくのでした。
レザノフは、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害して1807年に43歳の若さで亡くなっています。彼がもう少し長命であったなら、日露の歴史ももう少し変わっていたかもしれません。

(日露のその後)
 それから50年後、1854年にロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。当時ロシアは、イギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。
*1 信牌(しんぱい、長崎への入港許可証のようなもの。第1回遣日使節ラクスマンが松前で受け取っていた)
*  参考文献 石巻若宮丸漂流民の会の資料、ウイキペディア

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歴史ロマン 江戸時代、日本人として初めて世界一周を体験した男たち

2012-11-26 23:34:07 | 歴史

淡路島 高田屋嘉兵衛公園で見た友好のプレート


夏に淡路島の高田屋嘉兵衛公園を訪ねたのをきっかけに、漂流民となってロシアへ渡った男たちのことを調べています。大黒屋光太夫に続き、今シリーズでは、津太夫たち若宮丸漂流民のことを書いています。前回は、皇帝アレクサンドル1世の決定によってレザノフを遣日使節とし、クルーゼンシュテインを隊長として、1803年8月、津太夫、儀平、太十郎、左平の4名の乗せたナジェジダ号とネヴァ号の2隻がクロンシュタットを出帆するまでを書いています。こうして、津太夫たちは、自分たちの意思とは関係なく長い船旅に出ることになりました。

一行を乗せた船は、ペテルブルグからバルト海に進みコペンハーゲンに到着。ここで多くの荷物を積み込み、ついに船は外海に出ます。イギリス海域を通過しロンドンで一時停泊。津太夫たちは、イギリスに来た最初の日本人とされています。その後、船はリスボン沖を通過し、大西洋を南下。カナリア諸島のサンタクルスで、水や新鮮な食糧を補給のため7日間停泊。その後、船は大西洋のど真ん中に進みますが、海岸線を見ながらの航海術しか知らなかった津太夫たちはさぞかし驚いたことでしょう。
この長い航海の間に、善六は使節レザノフに日本語を教えていました。こうして二人は、日露辞典を作り上げます。

(ちょっと余談ですが)
しかし、これが最初の日露辞典ではありません。これよりも実に70年ほど前に、日露辞典を作った若者がいたのです。彼の名前は、ゴンザ(権左、権蔵とも)。1728年、徳川吉宗の時代に、薩摩藩主の命により、薩摩のある港から17人の乗組員を乗せた船が大阪の薩摩藩邸に向けて出帆しました。しかし、その船は嵐に遭い6ヶ月も洋上を漂流してロシア領カムチャッカ半島にたどり着きました。ここでコサック隊の襲撃を受け15人が殺されてしまいます。生き残ったのは、11歳のゴンザとその伯父のソウザだけでした。
2人は、シベリアからペテルブルグに連行され、女帝アンナに謁見されます。女帝は、上手にロシア語を話すゴンザに驚き、日本語学校を建て、その教師に任命します。ソウザが43歳で亡くなったあと、ゴンザは日露辞典(正しくは薩露辞典かも)の編集に挑み19歳で完成させます。その語彙は12,000語とも16,000語ともあったということですから驚きです。しかし、21歳のとき記録的厳寒の中、その生涯を閉じました。鹿児島にはゴンザファンクラブという彼を顕彰する会があり、ゴンザ通りと名付けられた通りもあるそうです。しかし、彼がどの港から出航したのかなど詳細は未だわかっていません。

 (話は津太夫に戻ります)
  
 遣日大使のレザノフと船長のクルーゼンシュテインは航海の間、とにかく仲が悪かったようです。船は大西洋を南下し、赤道を超えます。そしてアメリカ大陸に接近し、ブラジルのサンタエカテリーナに40日あまり停泊します。ここでも津太夫たちは、日本人として最初の南アメリカ大陸を見望した人となりました。
そして船は再び大西洋に出て南下し、マゼラン海峡に差し掛かると、今度は寒くなって震え上がることになります。一か月掛かって何とかマゼラン海峡を通過すると、今度は広い太平洋に出ます。そしてマルケサス島に停泊。彼らはまたしてもポリネシアを見た最初の日本人となります。
船は北上して赤道を越えてハワイに寄り、ここからカムチャッカのペトロパブロフスクに向かいます。ナジェジダ号と行動を共にしてきたネヴァ号は、北太平洋の植民地に向かいここで別れました。そして、カムチャッカに向かう洋上で、10年前に若宮丸が漂流した場所を通過し、4人は日本人として最初の世界一周を成し遂げたのでした。

ロシアやヨーロッパ各地の博物学者、天文学者、画家が乗り込み、二隻は航海の間、詳細な地図と記録、動植物の標本を作っていますが、後にクルーゼンシュテインは、航海日記を書き、1810年、サンクトペテルブルグで出版、特に太平洋の地図などを含む図録は1827年に出版され、これによりロシア科学アカデミーの会員に迎え入れられています。
長崎で見た日本人、風景、動植物の絵は実に緻密に描写されており、驚くばかりです。
(検索サイトで、「クルーゼンシュテイン 世界周航図」をご覧ください)

そして、7月15日に船はカムチャッカに到着します。クロンシュタットを出航してから、停泊期間も入れて実に11か月を超える歳月を要しました。この地で2ヵ月滞在したあと、ナジェジダ号は、長崎に向かって出航しましたが、善六は漂流民の送還、通商交渉に支障きたす恐れがあるとしてここで別れることになりました。カムチャッカを出航して約1か月後、ナジェジダ号はついに長崎に到着します。しかし漂流民が日本側に手渡されるには相当の日数を要したのでした。(つづく)

過去の記事は、ブログ内「江戸時代」で検索してください。


11月25日 新見美術館から見た新見市街 本文とは関係ありません。
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江戸時代世界一周を体験した男たちの物語

2012-09-19 21:16:20 | 歴史

雨上がりの広島三次ワイナリー 本文とは関係ありません

7月に淡路島・高田屋嘉平衛記念館を訪ねたのをきっかけに、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことを調べています。前回は、石巻若宮丸の漂流民・津太夫たちがイルクーツクに辿り着き、皇帝にペテルブルグに呼びだれるまでのことを書いています。

一行は、7台の馬車に分乗して昼夜を問わず首都ペテルブルグに向けて走り続けました。途中で体調を悪くしたり、病気にかかる者もいて何人かが脱落しました。それでもやっとモスクワに辿り着きます。そしてペテルブルグへ。イルクーツクからペテルブルグまで、実に7000キロ、49日間を要しました。悪路の道を一日平均140キロ以上走るのですから、それは過酷な移動でした。
彼らは到着してすぐ、商務大臣ルミャンチェフの屋敷に引き取られました。そしてそれから、皇帝に謁見するまでの15日間、彼らは国賓の扱いを受けています。光太夫のときもそうでしたが、イルクーツクとは比較にならないほど華やかな街、見るものすべてがめずらしく、ここでの滞在は彼らにとって、夢のような日々だったに違いありません。またほんとうに久しぶりに海の匂いも嗅いだことでしょう。そして謁見のとき、皇帝アレクサンドル1世(若干26歳)が10人にそれぞれ帰国の意思を確認すると、津太夫、左平、儀平、太十郎の4人が帰国の意思を表明し、6人が残留を願い出ました。4人に対しては、その後も帰国するまで国賓並みの接待が続きました。

そして帰国の船が決まり、出航のとき、彼らは、残留組の仲間たちと10年間滞在したロシアに最後の別れをします。
この帰国の船は、アレクサンドル1世とレザノフの支援下でロシア最初の世界一周艦隊の指揮官となった、クルーゼンシュテルンが指揮する旗艦ナゼージダ号とネヴァ号の二隻です。もともと漂流民返還に伴う通商交渉と、この世界一周の話は、まったく個別のことでしたが、結局、二つの話が相乗りする形となりました。距離的には、光太夫がとった、イルクーツクまで引き換えし、オホーツクから千島、根室に至るコースが最短だと思いますが、期せずして津田夫たちは、自らの意思とは全く関係なく、世界一周する船に同乗することになったのです。
ここで登場するのが、歴史の教科書にも登場するあの有名なレザノフです。彼はどのような人物だったのでしょうか?

1764年にサンクトペテルブルグに生まれ、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊、その後退役して地方裁判所の判事となりました。その後、サンクトペテルブルグ裁判所に勤務し、のちに海軍省次官秘書などを勤め、1791年に官房長となっています。このとき若干27歳、とても有能な人物だったということがわかります。このころまでに毛皮商人のシェリホフと知り合い、この事業に興味をもって、その後会社の指導者になっています。そして合同アメリカ会社の経営者となり、同社は国策会社露米会社に発展しています。アラスカからカムチャッカに延びるアリューシャン列島、及びカムチャッカから千島列島の統治を許可されています。レザノフは、露米会社の食料打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考え、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけていました。
先のアダムラクスマンが持ち帰った信牌を手に、正式に2回目の遣日使節として皇帝より任命され、隊長としてこの船に乗り込んでいます。

それから、この船には、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家たちも乗り込んでいました。彼らの資料や、絵は当時の日本をはじめ世界の多くを知る研究材料として、科学アカデミーに残されています。そして、レザノフの通訳として漂流民・善吉も乗り込みました。
(つづく)

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江戸時代:世界一周を体験した男たちの物語 =第2章=

2012-09-05 23:29:07 | 歴史

重伝建に指定されている吹屋の古い町並み 休憩所の田舎そばは絶品 本文とは関係ありません。

歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語 その2

津太夫たちが向かうイルクーツクとはどのような町なのでしょうか。バイカル湖西66キロに位置し、現在では首都モスクワからシベリア鉄道で繋がっており、極東地域とウラル・中央アジアを繋ぐシベリア東部の工商および交通の要衝となっています。ロシア正教会の大主教座が置かれ、劇場、オペラ座などの文化施設も充実しています。これらの公共建築にはシベリアに抑留された日本人によって建てられたものも多いといわれています。古くから毛皮の集積地で、18世紀の初めからロシアの中国及びモンゴルとの通商上の通過都市として重要視され、1803年からシベリア総督府が置かれています。
日本との関係も深く、最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛が1701年に滞在したのを皮切りに、多くの漂流者がこの地に永住し、17世紀の中ごろから約100年にわたってロシアで最初の日本語学校が設けられ、日本から漂流しロシアに帰化した者たちが教鞭をとっていました。

さて、話は津太夫たちに戻りますが、イルクーツクまでの移動、15名、全員一緒に行動できれば一番よかったのですが、費用面のこともあり、毛皮などの荷物を運ぶ隊に便乗するしかありませんでした。15人は、3班に分かれて移動することになりました。第1班は、儀平、善六、辰蔵という若い3人が選ばれました。先遣隊という意味合いもあったのでしょう。第2班が出発したのは、1班が出発して約1年後、続いて2か月後に津太夫たち3班が出発します。そして1796年1月、1班が、同年11月に2班が、最後に翌年の12月に3班が無事到着しています。

ロシアへの漂流から日本人として初めて帰還した光太夫たちが、イルクーツクに辿り着いた頃から、7.8年あとのことでした。すでに、女帝エカテリーナ2世は、遣日使節を伴い日本に送り届けることを決めていましたが、突如亡くなってしまいます。あとを継いだパーベル皇帝は、日露間の通商を重要視していませんでした。結果、津太夫たちは実に6年間もイルクーツクに足止めされることになりました。イルクーツクでは、光太夫たちの漂流民で、帰化した新蔵や庄蔵(改宗せず)がおり、暖かく迎え入れてくれました。それから快く住居を提供してくれたロシア人商人の存在も忘れてはいけません。新蔵は、善六たちに帰化を勧め、善六・辰蔵の二人がこの地に骨をうずめることを決断しています。
いずれにしても、漂流民たちに帰国したいという強い思いはあっても、主体となるのはロシア商人たちでした。ここが帰国嘆願書を三度も提出し、帰国へ向けて積極的に働きかけた光太夫と比較されるところです。

パーベル皇帝が暗殺され、女帝エカテリーナ2世の孫のアレクサンドル皇帝が即位すると状況は一変しました。すぐにペテルブルグに来るようにとの指令が飛びます。こうして津太夫たちは、馬車に乗って首都ペテルブルグへ向かうことになります。(つづく)

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