未熟なカメラマン さてものひとりごと

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ロシアの子ども達、800人を助けた船長の物語その2

2013-12-12 22:05:39 | 歴史

茅原基治著 手記「露西亜小児団輸送記」表紙

米国赤十字社からの要請により、勝田汽船㈱所有の貨物船・陽明丸がその任にあたることになりました。社長は愛媛県松山市出身の勝田銀次郎でした。とにかく人情に厚い人で、数萬円という多額の改造費を寄付しています。貨物船は、子どもたちが航海できるように客船仕様に改造されました。すなわち中甲板全部を客室にし、上層甲板下に病室、浴場等を設け、また客室の喚起を行うため、要所に八個の電気通風機を備え付けるなどちょっとした汽船には見られない程の立派な設備を施したのでした。

米国赤十字社は当初、インド洋からスエズ運河を経由してフランスへ送り届ける予定でした。しかし、時折しも夏の盛りで、子どもたちの保健上、インド洋の航海を避けたいという医官の注意と、米本国赤十字社員の要望から、東回りすなわち太平洋を横断し、サンフランシスコ港(桑港)に入り南航してパナマ運河を通過し、再び北上してニューヨーク(紐育)に寄港し、それから一路、大西洋を東航するルートに決定したのでした。

陽明丸は、煙突に赤十字、舷側に「AMERIKAN RED CROSS」と大書し、メインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾には大日章旗を翻していました。神戸を出帆し、門司を経由して、1920年7月9日、ウラジオストックに到着。そして、給養品、食料品等を積み込み、7月13日の午後、一行960名が乗り込んで出発、室蘭に向かいました。

(内訳は次の通りです。)
ロシア男児 428名
ロシア女児 351名
ロシア婦人 87名
ドイツ兵士 77名(東部戦線でロシア軍に捕らえられていて脱出し、赤十字社収容)
米国赤十字社幹部 16名(隊長はアレン中佐)
米国Y.M.C.A派遣員1名
小児は10歳前後が最も多く、平均は12・3歳でした。
そして60余名の乗組員を合わせて、1000名以上の大所帯となりました。

7月15日室蘭の港に入港。肉類、野菜等を積み込み、上陸を願う一行のため、当局へ手続きしたところ、米人以外は拒否されました。しかし米国赤十字が保護監督している一行ということで、粘り強く交渉した結果、船長がその責任を持つということで了解を得たのでした。一行は小学校に案内され、地元の児童と交歓し楽しく過ごしています。

航行中は、万が一のための短艇操練、英語や数学などの授業も行われました。そして7月末日、サンフランシスコ(桑港)に到着。桟橋を埋め尽くすほどの歓迎を受けたのでした。燃料や食料を積み込む間、各種の歓迎会に参加し、市中見物などをして8月5日に帰船しています。その後、船は南下し、8月16日に太平洋の東端パナマ港に到着しています。その後、北上してニューヨーク(紐育)に到着し、ここで2週間停泊しました。この間、船長は義援金を募り、領事館を訪ね交渉事に奔走したようです。ところが、このニューヨーク滞在中、小児団から次のような突然な要求が出たのでした。

「フランスは、ロシアと交戦状態なので、我々をフランスに送ることは中止して、ペトログラードへ12時間以内で帰着できるバルチック海の一港へ送って欲しい、できなければ、このまま米国に置いてもらいたい」というものでした。米国赤十字社は当初断固として拒否しましたが、最終的には要求をのみ、陽明丸はフィンランドに向かうことになりました。こうして9月14日、陽明丸はニューヨーク(紐育)を出帆しました。ウラジオストックを出てちょうど2カ月を経過していました。

そして9月27日フランスの西北にあるブレスト港に到着後、翌日、キール運河に向けて出帆しました。バルチック海からフィンランド港一帯は、おびただしい数の機雷が放置されている海域でした。水先案内人を頼りに無事通過し10月10日にヘルシングフォース港に到着。在泊3日の後、ついに最終目的地のコイビスト港に上陸しました。ここでドイツ兵を残し、全員が下船しました。3ヶ月もの間、同じ暑さ寒さを味わい、寝食をともにした子どもたちと、乗組員たちは「さようなら、さようなら」と繰り返し、最後の別れをしました。

その後、コペンハーゲンでドイツ兵を降ろした後、臨時施設の一切を取り外して元の貨物船に復帰し、メインマストには、勝田汽船の社旗が翻ったのでした。
思えば90日あまりの航海中、大きな災害に会うこともなく、船内でも大きなもめごともなく、無事に送り届けられたということは、「一行の幹部、陽明丸乗組員及び関係者一同の熱意と、赤十字旗に垂れ給うた神仏のご加護によるもの」と手記を締めくくっています。

その後、陽明丸は、宮城県金華山沖で、濃霧のため暗礁に乗り上げて沈没したとのことです。
次に、人々の記憶から忘れられていた、陽明丸と茅原基治船長が、どうして再び取り上げられることになったのか、その経緯を見てみたいと思います。(つづく)


ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その1
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その3
ロシアの子どもたち、800人を助けた船長の物語 その4
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