未熟なカメラマン さてものひとりごと

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歴史ロマン 江戸時代、日本人として初めて世界一周を体験した男たち(最終話)

2012-11-29 21:41:19 | 歴史

小堀遠州作庭/頼久寺枯山水庭園(岡山県高梁市) 遠州はこの地で20年間を過ごしました。 本文とは関係ありません。

(前回のつづき)
カムチャッカを出航して約1ヵ月、ついにナジェジダ号は長崎に到着します。事前に日本側には情報は伝わっていたようで、すぐに日本の検使が来船します。レザノフは、国書を提示し、来航の目的を告げ、信牌(*1)を渡します。以後2回、日本側検使が来船しますが、信牌を持参している以上、入港を拒むことはできません。「確認のため、江戸に手紙を書くのでしばらく待って欲しい」と伝え、仮の住まいと、修理のために梅ヶ崎に上陸することを認めました。

 このとき、長崎奉行の指示により、役人が集められ「ロシア人並びに漂流民とは口を聞かないように」と厳重に申し付けられたのでした
 この時代、長崎から江戸へ伺い書が送られ、その返事が帰るまで実に1ヵ月を要しました。これではなかなか交渉が前に進みません。そんな中、12月儀平が病気のため、日本人医師の手当てを受けています。また、太十郎が、先に日本に帰国した大黒屋光太夫が獄舎に入れられているといううその情報を聞き、先行きを不安視して自殺を図ります。これに驚いたレザノフは、漂流民の一刻も早い受け取りを願いでたのでした。そして太十郎の自殺未遂を報告する手紙が長崎奉行名で江戸に送られています。
 そんな中、レザノフに江戸に行けないことが正式に知らされます。そして江戸から特使として遠山景晋(あのテレビでお馴染みの遠山の金さんの父)が長崎に赴任します。こうして日露会談が三度にわたり行われました。

結果、漂流民4名は日本側に引き渡されることになりました。しかし幕府は漂流民の引き渡しに応じた以外は、皇帝アレクサンドル1世からの親書も献上品も受け取らず、レザノフに対して通商の申出を拒絶し、信牌まで取り上げてしまいます。レザノフは、漂流民と最後の別れをし、失意のうちに日本を去っていきました。仮にロシアとの通商に前向きであった老中松平定信が失脚していなければ、展開は大きく変わっていたかもしれません。

 漂流民たちは江戸に送られ、大槻玄沢の尋問を受けています。玄沢はこの話をもとに「環海異聞」の編纂にとりかかっています。光太夫らがロシアだけの見聞だったのに対して、津太夫たちは、ロシア以外の世界のさまざまな事物を見聞しており、その価値は相当なものであると思いますが、玄沢は、光太夫たちと比較し、ロシア語も知らない無学の民と評価しています。はたしてそうなのでしょうか。おそらく、ロシア正教に改宗しロシア人となった仲間のことや自分たちの今後のことを考えて多くを語らなかったのだと思います。

 しかし、光太夫たちは江戸で生活を送っていますが、津太夫たちは国許に帰ることを許されました。船出をしてから実に13年。受動的ではありましたが、日本人初の世界一周という偉業を成し遂げています。光太夫、高田屋嘉兵衛など偉大な人物の陰に隠れ、彼らの名前が広く世間に伝わることはありませんでした。

太十郎は故郷室浜に着いてまもなく36歳で病死、儀平も45歳で亡くなっています。津太夫は長生きして70歳で、佐平は67歳で亡くなりました。
レザノフは、半年も軟禁状態で留め置かれるなど、日本側の非礼な態度や交渉が進まなかったことから、「日本に対しては武力をもって開国を迫る手段はない」と上奏しましたが、のちに撤回しています。(この部分については諸説あります)しかし部下のフヴォストフが単独で、松前藩の番所や択捉港など各地を襲撃しています。いずれにしてもこのことが、レザノフに対する評価を著しく落とす要因となりました。
イルクーツク日本語学校も、2回の使節派遣が何も成果も見なかったことから、1816年に閉鎖されてしまいました。これを境に、日本とロシアは急速に疎遠となり、高田屋嘉兵衛のあのゴローニン事件へとつながっていくのでした。
レザノフは、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害して1807年に43歳の若さで亡くなっています。彼がもう少し長命であったなら、日露の歴史ももう少し変わっていたかもしれません。

(日露のその後)
 それから50年後、1854年にロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。当時ロシアは、イギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。
*1 信牌(しんぱい、長崎への入港許可証のようなもの。第1回遣日使節ラクスマンが松前で受け取っていた)
*  参考文献 石巻若宮丸漂流民の会の資料、ウイキペディア

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歴史ロマン 江戸時代、日本人として初めて世界一周を体験した男たち

2012-11-26 23:34:07 | 歴史

淡路島 高田屋嘉兵衛公園で見た友好のプレート


夏に淡路島の高田屋嘉兵衛公園を訪ねたのをきっかけに、漂流民となってロシアへ渡った男たちのことを調べています。大黒屋光太夫に続き、今シリーズでは、津太夫たち若宮丸漂流民のことを書いています。前回は、皇帝アレクサンドル1世の決定によってレザノフを遣日使節とし、クルーゼンシュテインを隊長として、1803年8月、津太夫、儀平、太十郎、左平の4名の乗せたナジェジダ号とネヴァ号の2隻がクロンシュタットを出帆するまでを書いています。こうして、津太夫たちは、自分たちの意思とは関係なく長い船旅に出ることになりました。

一行を乗せた船は、ペテルブルグからバルト海に進みコペンハーゲンに到着。ここで多くの荷物を積み込み、ついに船は外海に出ます。イギリス海域を通過しロンドンで一時停泊。津太夫たちは、イギリスに来た最初の日本人とされています。その後、船はリスボン沖を通過し、大西洋を南下。カナリア諸島のサンタクルスで、水や新鮮な食糧を補給のため7日間停泊。その後、船は大西洋のど真ん中に進みますが、海岸線を見ながらの航海術しか知らなかった津太夫たちはさぞかし驚いたことでしょう。
この長い航海の間に、善六は使節レザノフに日本語を教えていました。こうして二人は、日露辞典を作り上げます。

(ちょっと余談ですが)
しかし、これが最初の日露辞典ではありません。これよりも実に70年ほど前に、日露辞典を作った若者がいたのです。彼の名前は、ゴンザ(権左、権蔵とも)。1728年、徳川吉宗の時代に、薩摩藩主の命により、薩摩のある港から17人の乗組員を乗せた船が大阪の薩摩藩邸に向けて出帆しました。しかし、その船は嵐に遭い6ヶ月も洋上を漂流してロシア領カムチャッカ半島にたどり着きました。ここでコサック隊の襲撃を受け15人が殺されてしまいます。生き残ったのは、11歳のゴンザとその伯父のソウザだけでした。
2人は、シベリアからペテルブルグに連行され、女帝アンナに謁見されます。女帝は、上手にロシア語を話すゴンザに驚き、日本語学校を建て、その教師に任命します。ソウザが43歳で亡くなったあと、ゴンザは日露辞典(正しくは薩露辞典かも)の編集に挑み19歳で完成させます。その語彙は12,000語とも16,000語ともあったということですから驚きです。しかし、21歳のとき記録的厳寒の中、その生涯を閉じました。鹿児島にはゴンザファンクラブという彼を顕彰する会があり、ゴンザ通りと名付けられた通りもあるそうです。しかし、彼がどの港から出航したのかなど詳細は未だわかっていません。

 (話は津太夫に戻ります)
  
 遣日大使のレザノフと船長のクルーゼンシュテインは航海の間、とにかく仲が悪かったようです。船は大西洋を南下し、赤道を超えます。そしてアメリカ大陸に接近し、ブラジルのサンタエカテリーナに40日あまり停泊します。ここでも津太夫たちは、日本人として最初の南アメリカ大陸を見望した人となりました。
そして船は再び大西洋に出て南下し、マゼラン海峡に差し掛かると、今度は寒くなって震え上がることになります。一か月掛かって何とかマゼラン海峡を通過すると、今度は広い太平洋に出ます。そしてマルケサス島に停泊。彼らはまたしてもポリネシアを見た最初の日本人となります。
船は北上して赤道を越えてハワイに寄り、ここからカムチャッカのペトロパブロフスクに向かいます。ナジェジダ号と行動を共にしてきたネヴァ号は、北太平洋の植民地に向かいここで別れました。そして、カムチャッカに向かう洋上で、10年前に若宮丸が漂流した場所を通過し、4人は日本人として最初の世界一周を成し遂げたのでした。

ロシアやヨーロッパ各地の博物学者、天文学者、画家が乗り込み、二隻は航海の間、詳細な地図と記録、動植物の標本を作っていますが、後にクルーゼンシュテインは、航海日記を書き、1810年、サンクトペテルブルグで出版、特に太平洋の地図などを含む図録は1827年に出版され、これによりロシア科学アカデミーの会員に迎え入れられています。
長崎で見た日本人、風景、動植物の絵は実に緻密に描写されており、驚くばかりです。
(検索サイトで、「クルーゼンシュテイン 世界周航図」をご覧ください)

そして、7月15日に船はカムチャッカに到着します。クロンシュタットを出航してから、停泊期間も入れて実に11か月を超える歳月を要しました。この地で2ヵ月滞在したあと、ナジェジダ号は、長崎に向かって出航しましたが、善六は漂流民の送還、通商交渉に支障きたす恐れがあるとしてここで別れることになりました。カムチャッカを出航して約1か月後、ナジェジダ号はついに長崎に到着します。しかし漂流民が日本側に手渡されるには相当の日数を要したのでした。(つづく)

過去の記事は、ブログ内「江戸時代」で検索してください。


11月25日 新見美術館から見た新見市街 本文とは関係ありません。
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広島県 紅葉の名所を訪ねて 三景園と佛通寺

2012-11-23 08:42:12 | 紅葉

三景園の紅葉  広島県三原市 広島空港となり

11月18日(日)広島県の紅葉の名所、三原市の三景園と佛通寺を訪ねました。自宅を10時に出発、笠岡ICから高速に乗り本郷ICで降りて、三景園には11時半過ぎに到着しました。三景園は、広島空港の開港を記念してつくられた約6ヘクタールの広さをもつ公園で、広島県の渓谷、瀬戸内海の風景をモチーフに庭園化されたものです。自然を生かした、山、里、海の三つのゾーンから成っています。大きな特徴は、約7000tにも及ぶ広島県内産の自然石と、空港工事で出た石を使用していることでしょうか。時季を間違えなければ、紅葉の素晴らしさをかならず堪能できる名所だと思います。当日は「もみじまつり」が開催されており、多くの観光客でにぎわっていました。駐車場は、空港と兼用の広いもので、まず満車で困ることはありません。もみじまつりの開催中は、駐車場に近いところに臨時の入園口(西門)が設けられます。入園料は、この期間のみ300円(通常は250円)でした。

入園口を入ると、すぐ目に入るのが里の池のとなりにあるテントで囲まれた茶席です。高台にあるので眼下の眺望も素晴らしく、すぐにでも撮影を開始したいところですが、せっかくなので、抹茶をいただいて高まる気分を落ち着けます。お茶会でもあったのでしょうか、着物姿の女性も多く、なにやかにやと絵になる光景でした。当日、ただ一つ残念だったのは曇天だったことです。
紅葉の撮影で陽が射すのと射さないのとでは、雲泥の差ですから。

さて、最初に向かったのが、高低差14メートルの「三段の滝」です。滝につづく渓谷には、いろんな種類のカエデ類が植栽されており、紅や黄色、オレンジ、薄緑と様々な色に紅葉した様は、感動的でさえありました。流れの中にある濡れた石に貼りついているもみじの葉もとてもいい感じです。そこには、ちょうど幼稚園の園児が遠足に来ていてとても賑やかでした。そして滝見台から見る「三段の滝」と紅葉したモミジの取り合わせも、まさに絵になる景色です。高台から管理棟のある池(大海)に目をやると、結婚写真の前撮りでしょうか、白い無垢の花嫁衣装の若い女性の後姿が、きわだって見え、とても印象的でした。
このあと、山のゾーンにあがり、長い石段を下るとちょうどそこも紅葉のみどころでした。潮見亭前の回廊で鯉に餌をやる様子を見ていると、もうそろそろいい時間になっていました。今日の三景園、見頃はやや過ぎた感がありましたが、相変わらず素晴らしい紅葉でした。

次に向かったのが、広島県屈指の紅葉の名所として知られる佛通寺です。このお寺は臨済宗佛通寺派の本山です。空港の駐車場からナビで検索すると18キロでした。
佛通寺へのナビの案内は、いった国道2号線に出て、再度北へあがるというものでした。相変わらず途中、車をかわせないような細い箇所がいくつかありましたが、以前に比べると格段によくなりました。佛通寺近くになると、左回りの一方通行となっていました。よくわかりませんが、前の車に付いていくしかありません。細い道は、くるくるとカーブし、しばらくしてやっと駐車場付近に着きました。駐車場は第3駐車場まであったようですが、その手前の臨時駐車場からタイミングよく出てくる車があり、警備の人に確認すると入ってもよいとの返事、ほんとにラッキーでした。このまま下ってあと三つの駐車場が満車だったら、再度もう一回りしなければいけないところでした。(臨時駐車場から無料の送迎バスも出ていましたがすごい人でした)

駐車場から川沿いを歩いていくと、道路(参道)沿いにこんもりと杉木立と競うように林立するカエデの姿が見えてきます。どちらかというと黄色が中心のようですが、一番の特徴は、どれも見上げるように樹高が高いことです。由緒あるお寺ですから、相当な樹齢なのでしょう。参道と川の間に広いスペースがあり、その隅にある茶店の前には、いくつも赤い毛氈を敷いた縁台が出ていて、多くの人が食事やお茶を飲みながら秋の紅葉を楽しんでいました。
折角なので、お寺を参拝して帰ることにしました。趣のある木製の太鼓橋を渡るとお寺の本堂です。こちらは300円の有料となっていました。境内の端に、羅漢像がありました。一体ごとに表情が違って、なかなかよくできていますが、みた限りではそう古いものではないようです。モミジの葉が石像にかかりとても風情がありました。境内にも何本かカエデがありましたが、一番のスポットは、本堂から見た山側の開山堂一帯の遠景の紅葉でしょうか。面白かったのが本堂横の休憩所、「もみじcafe」と書かれた看板の下で受付をするお坊さん。いらっしゃいませ!というような営業用のスマイルはなく、事務的にお金の計算をしているところが、違和感があっておもしろく感じました。この佛通寺も、見頃は少し過ぎているようでした。
駐車場から、渋滞の流れに車をゆだね、抜けるまでのじっと我慢の30分でした。三景園と佛通寺、対照的な二つの名所ですが、それぞれに特徴があり満足の一日となりました。



佛通寺参道の紅葉 古くから紅葉の名所で知られています。
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大山古道 ブナの森を歩く

2012-11-14 20:12:58 | 自然

桝水原の天空リフト、中国地方最長のリフトです。標高900mまで一気に登ります。

11月10日(土)井原地区社会保険委員会主催の健康ウオークに今年も参加しました。
今回は、大山の「ブナの森ウオーク」というコースを歩きます。個人的に大山のブナ林は、毎年春と秋に大山環状道路・鍵掛峠あたりを、2・3度訪れていますが、こちらでのウオーキングは初めてでした。
今回も、市内22企業から35名が参加、定員を超える申し込みがあったそうです。平均年齢はざっと見て、55歳前後といったところでしょうか。女性が約7割でした。

最初の目的地桝水原に到着する頃、何と小さな雨がぽつぽつと降ってきました。天気予報では、午前中晴れ、午後曇りとなっていたので、雨具はまったく用意していませんでした。そういえば、事前の案内に、雨天決行とありました。これは、困ったな、と思いながら、帽子をかぶりあとは運を天に任せての出発です。ここで概ね三班に分かれ、各班それぞれにボランティアガイドの方1名が付きました。桝水原の裾野から出ている中国地方最長といわれる天空リフトに乗ると、背後にだんだんと日本海が見えてきます。終点の標高900mの展望台から見る眺望は素晴らしいものでした。こちら側は曇天ではっきりしない天気なのに、海の向こう側には幾分陽が射し、中海、宍道湖、果ては、隠岐の島までもうっすら望むことができました。

大山古道は、5つの道で構成され、今回の「ブナの森ウオーク」とされているのは、桝水原から大山寺まで続く、横手道の一部です。平成8年に「歴史の道百選」に選ばれているそうです。ミズナラやブナの森を歩くというのは初めての体験ですが、新緑の頃と違って、まさに黄金色の世界、スタートした直後は、石ころが目立つ歩きにくい道でしたが、しばらくするとそれも無くなり、落葉を踏みしめながら歩く道はとても清々しい感じがします。私たちのガイドさんは、「私の名前は芸名で‘食道’です。食道はどこにありますか?はい!正解です。井上です!」という感じで、すべてクイズ形式での案内でした。すこしじれったい気もしますが、こちらも一応考えるので逆によく覚えられのかもしれません。アップダウンの少ない歩きやすいコース、新緑の頃もいいでしょうね。考えてみれば社会保険委員会主催の健康ウオーク、いつも紅葉の見ごろを過ぎた11月の終わりが多かったのですが、今年は幾分早くて、紅葉に間に合いました。

道のところどこに、正確には一町ごとに地蔵様が置かれていました。一体ごとに番号が入っています。それぞれお顔が違うので興味深いです。大山寺までに自動車道と合流するところが何か所かありました。大きな石の鳥居をくぐると、間もなく大山寺です。参道の石段の急なこと。折角なので、家内安全をお願いして、日本一長いと言われる自然石でできた参道を下ります。しばらくすると眼下に、米子の市街や美穂湾などが見えてきます。

旅程表では、大山寺圓流院拝観とあったのですが、ガイドさんとの打ち合わせがうまくいかなかったのでしょうか、ま、細かいことはよしとしましょう。大山自然歴史館で、後続の班を待ち、「こもれび館大山の森」で昼食です。なかなか見晴らしのよいレストランでした。私はウオーキングは大好きですが、登山にはまったくの素人です。しかし大山への登山者と見られる人々を何人も見かけ、一度大山にも登ってみたいというそんな気もしました。
このあと、「大山まきばみるくの里」で買い物をしたあと、帰路につきました。ここちよい肉体疲労、心も体もリフレッシュできた感じの一日でした。来年がまた楽しみです。



ブナの森ウオーク 黄金色の古道を歩くのは最高に気持ちいい

詳細な画像は日帰り旅日記のこちらでどうぞ
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大山の紅葉 撮影日記=平成24年10月27日(土)

2012-11-04 00:53:03 | 風景

岡山県と鳥取県の県境に位置する鬼女台。ススキの名所です。

次の週の週末が予定で埋まっていたので、少し早いと思いながら、大山の紅葉を見に行ってきました。天気予報では翌日の日曜日が雨との予報。この日が午前中晴れ、午後から曇りとなっていました。早く行けば何とかいい写真が撮れるかも、と思ったわけです。
自宅を9時に出発、美星から高梁に抜けて、賀陽から岡山自動車道に乗ります。中国道から米子道に抜け、蒜山ICには11時頃に到着しました。このまま大山環状道路に向かいたいところですが、どうしても蒜山大根を買いたいと思っていたため、まず道の駅に寄ることにしました。新鮮な食材は早く売り切れてしまうため、買うのは午前中に限ります。
それにしても、なんと買い物客の多いこと。広い駐車場はほぼ満車でした。お目当ては皆さん、蒜山大根でしょう。買い物かごには、数本の大根が入っていました。お値段は、小さいものが100円、大きいものが120円でした。いろんな野菜がありましたが、何と、マツタケも少ないながら出ていました。聞くところによると今年は不作とか。そのせいでしょう、小さいものが2本入って9,000円でした。これでは手が出ません。

買いたいものを買ってとりあえずほっとしたところで、蒜山大山スカイラインを通って大山環状道路に向かいます。最初の訪問地は鬼女台(きめんだい)です。道路脇の展望台からは、蒜山、大山の素晴らしい眺望が望めます。そして頂上方面には、ススキがびっしり。岡山県の秋の風物詩となっており、よくローカル放送で紹介されていますね。
そして次に寄ったのが、大山・鏡ヶ成です。広い草原の中にある針葉樹、奥大山休暇村の白い建物がどこか異国情緒を感じさせてくれます。そして周囲の景色にとてもマッチして見えます。こちらにも山の斜面にススキがびっしり、そして遠く鳥ヶ山を望む風景は素晴らしいものですが、私の目的は駐車場横のマツムシソウの群落です。淡いブルーがやさしげで何とも言えません。この時間、残念ながら風が強くて撮影には、なかなか苦労しました。それでも風をもろともせず、花に停まるミツバチなど虫たちには感心します。
鏡ヶ成を過ぎると、いよいよ大山環状道路です。少し進むと、奥大山スキー場あたりで渋滞にかかりました。何と、テントで屋台がいくつも出され催し物が開かれていました。何でこの季節にと、私的には随分迷惑な話です。そして何か所か工事のため規制がかかっていました。ブナ林の紅葉の見ごろは、残念ながらもう少し先のようでした。ところどころ、小さな駐車スペースがあり停めますが、車が次々とやってくるので撮影も落ち着きません。

そして、一番のビュースポット、鍵掛峠に到着です。駐車場に入る少し手前から混み合っていました。取りあえず中に入れて待つことにしました。それでも回転率はなかなかいいようです。たいして待つことなく停めることができました。荒々しい大山南壁とすそ野に広がるブナ林は、とても美しいものです。何とか青空もところどころに見えていたので、撮影としてはまあまあでしょう。10分ほど滞在し、本日の予定は終わったわけですが、できれば撮影したい場所がもう一か所ありました。ちゃんと調べておけばよかったのですが、江府町の田園風景、特に茅葺小屋と大山の取り合わせは、よく知られているところです。ということで、桝水原まで行って、小休止し帰りに農道を探しながら帰ることにしました。ミルクの里で軽い食事でも思いましたが、なかなか混み合っていたので、帰りに蒜山で食事をして帰ることにしました。農道は、環状道路と違って民家があり雰囲気も良かったのですが、なかなかお目当ての茅葺小屋を探すことができません。やはり、事前の準備は必要ということですね。

しかし、このころから正真正銘の曇り空、撮影意欲は一気になえてきます。ということで、蒜山の白樺レストランで、ご当地グルメ、ひるぜん焼きそばを食べて、帰途に着きました。時刻はちょうどお昼の3時頃。何とか明るいうちに帰れそうです。



大山、一番のビュースポット鍵掛峠
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