goo blog サービス終了のお知らせ 

未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

上田重安(宗箇)と塙団右衛門直之 島根県・櫻井家住宅を訪ねて

2019-12-10 22:05:08 | 歴史

駐車場から山道を歩く。振り返ってみたところ


可部屋集成館の正門


裏山の美しい紅葉

先月の初め、美しい日本庭園で有名な足立美術館に向かう途中、紅葉スポットで知られる可部屋集成館櫻井家住宅を訪ねました。
奥出雲町の国道432号線から少し山道を入ったところに、駐車場がありました。
事前の情報で、この駐車場脇にあるのが、評判の蕎麦店「清聴庵」でしたが、時間的にまだ営業前のようでした。
駐車場から傾斜道を数分歩くと、小高いところに可部屋集成館があります。
入館料は、櫻井家住宅と合わせ、1000円でしたが、JAFカードの提示で900円でした。

まず、櫻井家住宅を先に見学することにしました。国の重要文化財に指定されているこの住宅、ご当主が実際に住んでおられるので、座敷にあがることはできませんでしたが、玄関先の土間からは、座敷が何部屋も続きその立派さがわかります。
この住宅の奥にあるのが、松平不昧公が命名したという日本庭園「岩浪」です。
圧巻なのは、山の上の方から、幾筋にも分かれて流れ落ちる滝です。
滝は、庭園の池の水となり、そこには悠々と泳ぐコイがいて、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。



重要文化財・櫻井家住宅 現存する建物のもっとも古いものは享保20年(1735)の記録があり、母屋も元文3年(1738)に建てられた


大名茶人として名高い松江藩主・松平治郷(不昧)が初めて櫻井家を訪れると聞き、6代当主の苗清(なえきよ)が1803年、滝を中心とする庭園と屋敷に「上の間」を造った


日本庭園


櫻井家住宅は、このような山の谷あいにある


治郷公は、滝を「岩浪(がんろう)」と命名。 滝は高さ約15メートル。1キロ上流の内谷川から水を引き、岩の上から落としている。
この滝が、お成りの際、もてなしの心で造られた人工の滝と知る人は少ない。


池の澄んだ水


ゆったりとコイが泳ぐ


深い谷


秋には美しい紅葉を見ることができる


水車小屋


生成されるそば粉。粒子が相当に細かいので、つなぎがなくても十分打てるとのこと

紅葉は、事前の情報で色づき始めと聞いていたので、それほど期待はしていなかったのですが、住宅の裏山の木々の紅葉は見事でした。
そして、住宅の南側は、深い谷となっており、川を挟んでのカエデは、まだ緑でしたが、紅葉するとそれは見事だろうと推察できます。
これらのカエデは、五代の室が京都から輿入れの際に持ってきて植えたものと伝わっているようです。
こうして、立派な住宅と庭園を楽しんだ後、「可部屋集成館」で櫻井家の貴重な資料を拝見することにしました。
学芸員の方から、簡単に説明をしていただきましたが、その中で、当家は戦国の武将・塙団右衛門の末裔家です、との説明がありました。
このとき「塙団右衛門」と聞いて、どこか記憶の片隅にあったのが「宗箇が倒した相手」ということでした。
そのことを尋ねると「はい!その通りです」と興味ある話を聞くことができました。
部屋の入り口には、NHK大河ドラマ「真田丸」で登場する塙団右衛門の写真が掲示されていました。
また、その役を演じた俳優の小手伸也さんが、わざわざこちらにあいさつに来られたということです。

そこで、上田重安(宗箇)と塙団右衛門のことについて少し調べてみました。


上田重安(宗箇)とは?

数々の戦いで一番槍の功を立てた歴戦の武将、茶道を千利休ついで古田織部に学び、上田宗箇流の流祖となって、茶人、造園家として業績を残した。

・永禄6年(1563)現在の愛知県名古屋市南区星崎の出身
・代々、丹羽長秀の家臣
・本能寺の変が起こると、光秀の娘婿の津田信澄の首を挙げる
・長秀の死去後、秀吉の直臣となり1万石の大名となる
・関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦、領地を没収され剃髪、以後宗箇と名乗る
・蜂須賀家政に請われその客将となり、徳島城表御殿庭園を作庭
・浅野家に請われて家臣となり、1万石を与えられる。
和歌山城西ノ丸庭園、粉河寺庭園を作庭
・大阪の陣(冬の陣)では、浅野長晟に従って従軍
・大阪夏の陣、樫井合戦では、敵方の大将の一人である塙団右衛門の首級を挙げる
・浅野氏が和歌山藩から広島藩に移封されると、現在の大竹市小方に1万2000石を与えられる
・以後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家別邸縮景園、名古屋城二の丸庭園を作庭
・慶安3年(1650)88歳で没した
・茶道は、上田宗箇流として連綿とつづき、現在は16代・上田宗冏家元


塙団右衛門直之とは?

・出自は不明
・豊臣秀吉の家臣・加藤嘉明に召し抱えられ、度々武功をあげる
・1000石の知行をもらい鉄砲大将に出世、名を塙団右衛門直之と改名
・関ヶ原の戦いで、命令を無視したため嘉明の勘気を受けるが、憤慨し出奔
・小早川秀秋に召し抱えられ、1000石の知行で鉄砲大将となるが、主家が断絶して浪人となる
・その後、松平忠吉に仕えたがまたしても主家が断絶、その後福島正則に仕えたが加藤嘉明の抗議で罷免
・妙心寺大龍和尚のもとに寄宿して仏門に入り「鉄牛」を称する
・大阪冬の陣が始まると還俗し、豊臣方に参加
・浪人衆の一人として大将・大野治房の組に預けられ、志願して夜襲をかける
そのとき「野討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札を士卒にばらまかせる
・大阪夏の陣で武将の一人に任じられ、大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦
・樫井の戦いで、浅野家家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田宗箇の家人)らと交戦
一説には、田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に打ち取られた、また異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも、また上田宗箇本人と遭遇し、槍一本に突かれたとの説もある。
・直之の墓所は、大阪府泉佐野市南中樫井にある


実際のところどうだったのか?

上田宗嗣著「茶道上田宗箇流」には、次のように記述されている

大阪夏の陣の緒戦、浅野長晟は軍を泉州樫井まで進め、二万の大阪勢を待ち受けた。
このとき宗箇は浅野左衛門佐の隊に加わり、塙団右衛門に傷を負わせ、大阪方の猛攻をくい止める大功を挙げた。世に言う泉州樫井の戦いである。
戦の最中、急迫する敵を待ち受けながら、宗箇は平然として小刀を持って竹やぶの竹を切り、茶杓二本を作った。茶杓の銘を「敵がくれ」という。


津本陽「風流武辺」では、次のように描かれている

樫井の集落の道筋は城兵で混み合い、塙団右衛門は思うように馬を進められない。
宗箇は槍をふるって躍り出ると、団右衛門の家来山県三郎右衛門と付き合い、組内となり宗箇が下になった。
宗箇の家来二人が三郎右衛門を槍で突き、打ち取った。
団右衛門は脇腹に矢傷を受けたが、すさまじい勢いで槍をふるい、敵を寄せ付けない。
そのとき紺具足に黒母衣をつけた小柄な宗箇が、声をふりしぼり名乗りをあげた。
団右衛門は宗箇と突き合う。宗箇は槍を捨て斬りかかった。
団右衛門は宗箇の冑を槍で殴りつける。
宗箇はひるまず太股へ斬りつけ、組み付き、死力をふりしぼり、組み付いた腕を離さなかった。
剛力の団右衛門は宗箇を脇に抱え。締め付けて樫井村の出口まで引きずっていこうとした。
宗箇の家来たちはあとを追い、ひとりの小姓が団右衛門の冑の錣を両手でつかみ、後ろに引き倒す。
落馬したところへ顔を狙い十度ほど刀を突きこむ。
塙団右衛門はその場で絶命した。(一部省略)


櫻井家のその後

・大阪夏の陣で、始祖塙団右衛門討死のあと、嫡男直胤は母方の姓「櫻井」を名乗る
・広島の福島正則に仕えたが、同家改易の時、広島の郊外「可部郷」に住み、鉄山業を営む
・正保元年(1644)三代直重は、出雲領上阿井の地に移り、屋号を「可部屋」と称し“菊一印”の銘鉄を創り出す
・“菊一”は、最も良い鉄砲地鉄として認められ、松江藩より「御鉄砲地鉄鍛方」を命ぜられる
・松江藩に認められ、やがて五代利吉は、「鉄師頭取」の要職を拝命し、広く地域内の鉄山業を仕切る
・現当主は、13代櫻井三郎右衛門氏
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした その3 加賀尾秀忍

2017-08-23 21:45:51 | 歴史
(前回のつづき)
それでは、釈放に尽力した人たちを個別に見ていきましょう。
どのような人たちが、どのような立場で訴えたのでしょうか。
ここで取り上げるのが、モンテンルパの父と言われた真言宗僧侶・加賀尾秀忍師です。
(以下、加賀尾 敬称略)


加賀尾秀忍が住職を務めた井原市東江原町の宝蔵院本堂

(その前に、時代の背景)
第二次世界大戦中に、海外で戦没した日本人は240万人。そのうちフィリピンでは約52万人が戦死、一方的に戦場にされたフィリピンでは111万の人が亡くなっています。特に戦争末期のマニラ戦は、米軍との激戦下、市民10万人以上が犠牲になったといわれています。
日本占領時代の三年を経て、また集団拷問や集団処刑、略奪、強姦を経験したフィリピン人にとって、日本人は憎悪の対象でしかありませんでした。

その後、アメリカから独立したフィリピン政府は戦犯裁判を自ら実施することになりましたが、「復讐や報復ではなく、国際法の諸原則に準拠した公正な裁判」を追及しています。
報復感情を抑え、国家の威信と国民の能力を内外に示すべく、法の下での正義の実現を図ろうとしたのです。


フィリピンによる対日戦犯裁判は1947年8月1日に始まり、最後の判決が出る1949年12月28日まで続けられました。2年半の間に73の裁判が開かれ151名の被告が裁かれました。
しかし、裁判には確たる証拠もなく冤罪が疑われる事例もたくさんあったのです。
このような状況下、日本にいる戦犯の家族は、世間からきびしい目で見られていました。

(教誨師:加賀尾秀忍)
加賀尾秀忍は、1901年(明治34年)岡山県真庭郡落合町に生まれました。昭和3年、真言宗京都大学(種智院大学)を卒業と同時に東江原村(現・井原市東江原町)宝蔵院の住職となります。
昭和24年の秋、フィリピン軍の要請でマッカーサーの命令により日本政府の指示によって戦争裁判のための教誨師として派遣されました。モンテンルパのニュービリビッド刑務所(以下、モンテンルパ刑務所)には、死刑囚74名、有期囚、無期囚69名が収容されていました。


ちなみに教誨とは、刑務所、拘置所などの刑事施設に収容されている者の、宗教的要求を満たし、心情を安定させ、規範意識を覚醒させるために、民間の篤志家(とくしか)である宗教家が施設内で行う宗教活動のことです。
昭和25年1月、戦争裁判の残務処理も終了し、加賀尾は6ヶ月の期限が切れて公の滞在をする必要がなくなりましたが、自分を頼りにする戦犯たちを見捨てて帰国することができず、自ら留まることを決意したのです。
刑務所長ブニエ氏のはからいで、刑務所の房の一つを観音堂として、そこに住まわせてもらい、囚人の残飯で生きることになりました。(ブニエ所長が身元引受人を引き受ける)


昭和26年1月、突然戦犯死刑囚14名の処刑が行われました。加賀尾は、当時心臓病を病んでいましたが、自分の体が刑場で倒れようと14名の魂につき従えて引導を渡すためとして、キリスト教教誨師ネルソン氏とともに全員の処刑に立ち会いました。
このあと、多くの戦犯が宗教に望みを託し、キリスト教の洗練を受けたようです。
加賀尾は、マッカーサー元帥、ローマ法王庁にも助命嘆願書を送り、また日本の毎日新聞にも投稿、政財界トップにも救出活動の展開を要請していました。明らかに従来の教誨師の職務を超えたものでした。何とか助けたいと思案していたとき、皆で歌えるような歌で日本の人々に訴えようと発案しました。そして死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を、元将校の伊藤正康に作曲を頼みました。


加賀尾は出来上がった歌を歌手の渡辺はま子に送ります。渡辺はま子とは、ピオ・デュラン元駐日大使を通じて知り合い、手紙のやりとりをしていました。
昭和27年7月、歌は「ああモンテンルパの夜は更けて」という題名となり、20万枚を超える大ヒットとなりました。これにより日本国民の多くが、モンテンルパの実情を知るところとなったのです。


モンテンルパに是非、慰問に行きたいと願っていた渡辺はま子でしたが、約半年かかってついにその願いが実現します。昭和27年12月24日、加賀尾の案内のもと、モンテンルパ刑務所での独房の奥のステージで、「荒城の月」や「浜辺の歌」などを歌い、そして「モンテンルパの夜は更けて」を歌うと、合唱となり、一同は感激と感謝の涙になりました。終わりに全員で国歌を斉唱し、その後の加賀尾の声涙共に下る諭しの言葉と名セリフは一層の涙をそそり、渡辺はま子はテープレコーダーの上に泣き伏してしまったそうです。

渡辺はま子は、最初は振袖姿、イブニング、支那服と着替えて、耳と同時に目の方も楽しませてくれたそうです。
このモンテンルパ慰問録音テープは、昭和28年1月10日にラジオで放送され、大反響を呼び、本格的な戦犯救出の原動力となったのです。

昭和28年5月16日、渡辺はま子から加賀尾にアルバム式オルゴールが届きます。歌に感動した元軍人の吉田義人から送られた2冊のうちの1冊でした。
ちょうどタイミングよく、加賀尾はその翌日、キリノ大統領との会見をゆるされたところでした。キリノ大統領は、その手記に次のように述べています。加賀尾氏は釈放について嘆願するだろうと思っていたら、なにも言わず、オルゴールをお土産として手渡したのでした。「これは何の曲ですか?」と訪ねると、加賀尾は「モンテンルパの囚人が作った曲です。」とだけ答え、これにはいたく心を動かされたと。
キリノ大統領は昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と3人の子供を失っていたことを加賀尾に告げたのでした。


時を同じくして、フィリピン政府外務省に日本から、500万もの嘆願書が届きました。こうした状況に大統領は、ついにフィリピン独立記念日に恩赦を発表します。有期・無期受刑者は釈放、死刑囚は無期刑に減刑し、日本の巣鴨刑務所に移送する旨、発表しました。
二度とフィリピンに戻らないことが条件に、全員が祖国の土を踏むことになりました。短い人で9年、長い人では15年ぶりの帰国でした。加賀尾は、フィリピン政府の特別許可により、処刑され、土葬されていた17名の遺体を自ら発掘し荼毘に付して持ち帰ったのでした。

7月15日、加賀尾を含めた111名が日本政府の用意した白山丸に乗り込み、7月22日、午前8時半に、2万5千人の大群衆が出迎える中、横浜の桟橋に到着したのでした。
大統領は、任期の最終日、日本の巣鴨刑務所にいる無期となった元死刑囚に対しても釈放という恩赦を発表しています。これによりモンテンルパに収容されていた日本人戦犯は全員が完全に釈放となったのでした。

彼らが横浜港に到着した翌日、政府は加賀尾に感謝状と記念品を贈呈しました。彼の並外れた努力と献身を政府も無視できなかったのです。昭和52年(1977)5月14日76歳で生涯の幕を閉じるまで、彼は「13階段(絞首台)と平和」と題して講演を続けました。それは平和を祈る全国行脚の旅でした。


加賀尾秀忍書 「長楽無極」いいことがずっと続きますように 筆者所蔵 僧忍は法名

参考文献:私の戦後60年 戦犯死刑囚/中国特派員(中俣富三郎)2005年11月
参考文献:永井均著「フィリピンBC級戦犯裁判」
参考文献:「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(34)大場一石
参考文献:いなほ随想 モンテンルパ死刑囚との交流
参考文献:東京人権啓発企業連絡会 ひろげよう人権
参考文献:NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした!  その2

2017-08-07 21:24:38 | 歴史

加納美術館で神館長よりお話を聞く

前回のつづき
「モンテンルパ」、現在の日本では、もうほとんどの人が、その存在を知らないか、忘れつつあるのではないかと思います。もう60年以上経っているので、それはそれで仕方がないことかもしれませんが、そこには、日本人戦犯釈放に尽力した多くの日本人やフィリッピン関係者がいたことを忘れてはいけないと思うのです。

昨年、天皇皇后両陛下が国賓でフィリピンをご訪問された際、キリノ大統領のお孫さんに会われ、お礼を述べられました。いかに当時のそのことが、日本国民にとってありがたく大切なことだったのかがよくわかります。

昭和21年、第二次世界大戦が終わって6年も経つのに、未だ150人のBC級戦犯がフィリピン・モンテンルパの刑務所に収容されていました。この釈放にはどのような人たちが関わり、そして実現させたのでしょうか。
まずは、その経緯を時系列的にたどってみましょう。(敬称略とさせていただきます)


(1947)S22.8.1  
フィリピンによる対日戦犯裁判始まる(~S24.12.28)
(1948)S23.04.18 
キリノ大統領、フィリッピン第6代大統領に就任
(1949)S24.11.4 
真言宗僧侶・加賀尾秀忍、教誨師として6ヶ月の任期でモンテンルパに派遣される(48歳)
この頃より、加納莞蕾、各方面に嘆願書を送り始める。

(1950)S25.04 
加賀尾秀忍 戦犯の要望を受け入れ任期過ぎるが、囚人と同じ房に住み込み、無給で留まる。
     
植木信良 留守家族を励ますため、機関紙を発行しつづける

(1951)S26.01.19 
キリノ大統領の命により、14人の絞首刑が実行される
  同年 2月 
大統領、戦争死刑囚の事案を個別に審査し、減刑の余地を検討する意向を表明 
   
(1952)S27.01.25 
渡辺はま子、元駐日大使ピオ・デュランより多くの戦犯が収容され、14人が処刑された事実を知る

ピオ・デュランを介して、渡辺はま子は加賀尾との文通を始める。
渡辺はま子、加賀尾にぜひ、一度慰問に行きたいと伝える

(1952)S27.3.27 
朝日新聞に「死刑戦犯に集まる手紙」が掲載され反響をよぶ

(1952)S27.4  
加賀尾秀忍 歌に望みを託し、戦犯に作詞と作曲を頼む (作詞を代田銀太郎、作曲を伊藤正康)
(1952)S27.6  
加賀尾秀忍 できた歌を、渡辺はま子に送る

朝日新聞記者、辻豊は、日比賠償予備会談の取材目的でモンテンルパを訪ねるが、実情を知り、新聞、ラジオを通じ「残された人々を救え」と国民に訴える

(1952)S27.7 
渡辺はま子 歌をレコードに吹き込み、ビクターから発売される
歌は、NHK番組「陽気な喫茶店」で紹介され、20万枚という大ヒットとなる

植木信良、渡辺はま子のモンテンルパでの慰問コンサート実現に奔走する


(1952)S27.12.24 
渡辺はま子、モンテンルパ訪問が実現。戦犯の前で歌う
   
(1953)S28.1.10
モンテンルパ慰問録音テープはラジオで放送され、大反響をよび、本格的な戦犯救出運動の原動力となる。
元軍人オルゴール会社を経営していた吉田義人、歌に感動しアルバム式オルゴール2冊を渡辺はま子に送る


渡辺はま子、1冊を加賀尾秀忍に送る(S28.5加賀尾に届く)

加賀尾はローマ法王に手紙を書き、戦犯者の助命を嘆願、法王の心を動かす
マニラにいた法王大使を通して大統領に法王の意向を伝えていた。


(1953)S28.05.16 
加賀尾秀忍、キリノ大統領と会見し、記念としてオルゴール付写真帳を渡す。キリノ大統領、心を動かされる

(1953)S28.06.27 
加賀尾秀忍 再び大統領を訪問

日本人、500万人分の助命嘆願書がフィリッピン外務省に届く
キリノ大統領から「日本人有期囚、無期囚全員釈放。死刑囚を無期に減刑して日本巣鴨に送還する」と発表。


(1953)S28.07.04 
フィリッピン独立記念日 正式にキリノ大統領、恩赦を発表 
(死刑囚56人は無期に減刑し日本内地への送還、有期戦犯49人は特赦釈放)
日本政府、衆参両議院それぞれの本会議でフィリッピン政府の措置に対して感謝決議を行う

(1953)S28.07.15 
戦犯全員が、17名の遺骨とともに白山丸でマニラを離れ日本へ出発
        
(1953)S28.7.22 
白山丸、横浜の大桟橋に着岸 28,000人(一説には、25,000人)が出迎える
(1953)S28.7   
日比谷公会堂でキリノ大統領に感謝する「国民感謝大会」が開催される。
加賀尾、政府から感謝状と記念品を送られる


(1953)S28.12.30 
巣鴨拘置所に入所した無期死刑囚も釈放となり晴れて自由の身となる。
(1955)S30   
静養のため、キリノ大統領来日、加納 莞蕾、東京で面会する。
         
(1956)S31.02.29 
キリノ大統領、心臓発作で死去 満65歳


(1656)S31.7 
日本・フィリッピン国交正常化なる

(1966)S41.7.22 
モンテンルパの会の招きで、元ブニエ刑務所長夫妻が来日

(1977)S52.5.14 
加賀尾秀忍、死去 満77歳
(1977)S52.8.15]
加納莞蕾、死去 満73歳    
(2016)H28.1.26~30 
天皇皇后両陛下、フィリッピンを国賓として訪問。キリノ大統領のお孫さん2人に礼を述べられる

(2016)S28.6.18 
日比谷公園公会堂前に、キリノ大統領の顕彰碑が建立(キリノ氏の孫やロペス駐日大使などが出席)


モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした! その3 につづく
参考文献:私の戦後60年 戦犯死刑囚/中国特派員(中俣富三郎)2005年11月
参考文献:永井均著「フィリピンBC級戦犯裁判」
参考文献:「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(34)大場一石
参考文献:いなほ随想 モンテンルパ死刑囚との交流




加納美術館日本庭園の鯉
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンテンルパ 人々の熱意が大統領の心を動かした!  その1

2017-08-03 21:28:44 | 歴史

井原市東江原町 寶蔵院境内にある加賀尾秀忍胸像

我家の和室に「長楽無極 僧忍書」と書かれた額が、数十年前から掛かっています。亡き父が誰かに書いてもらったものだと聞いていました。堂々とした書体とバランスが素晴らしく、私は気に入っていました。

そして昨年、島根県安来市の加納美術館を美術館友の会の鑑賞旅行で訪ねた際、2階の加納莞蕾(かのうかんらい)の展示室で、莞蕾はモンテンルパの戦犯者に対し、釈放に向けて300通以上の嘆願書をフィリピン大統領や、ローマ法王らに送り、釈放の一助になったと、理事長婦人で名誉館長の莞蕾の娘、佳世子さんより熱心な説明がありました。
帰り際、見送りにバスまで乗って来られ「皆さんは、加賀尾秀忍師の井原市からお出でになり、モンテンルパのことはよくご存知だと思いますが、莞蕾も同じように尽力したことを覚えておいて欲しい」というようなお願いともとれるお話がありました。
]
また地元の美術館の、平野富山作品の彫像のキャプションに、作品として井原市東江原町にある法蔵院の加賀尾秀忍像がある、と書かれていたことも気になっていました。
その後、我が家のあの書が、加賀尾秀忍のものだと気づいたのはつい最近のことです。
秀忍の法名が、僧忍で同一人物だったのです。よく見ると書の落款も宝蔵印となっていました。
これも何かの縁、加賀尾秀忍のこと、人々の記憶から忘れられつつあるモンテンルパのことを史実に基づきもう少し客観的に調べてみようと思いました。

モンテンルパは、フィリッピンの東洋一といわれた刑務所があった場所です。戦後、戦犯として150人以上の日本人が収容されていました。問題なのは、戦犯として捉えられたその理由でした。まったく身に覚えないことで捕らえられた人々が実に大勢いたのです。これらの人々を救い出そうと、人々が一丸となって尽力し、ついに釈放へと導いたのです。
これにはどのような人たちが関わっていて、どのような経緯で釈放となったのか、時系列に解き明かしてみたいと思います。 (つづく)


門柱の後ろ側に張り付けてある、秀忍の漢詩(陶板)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古戦場・賤ヶ岳からの素晴らしい眺望 滋賀県長浜市 平成27年8月1日(土)

2015-08-10 23:11:12 | 歴史

西武グループ・近江鉄道が運営する賤ヶ岳リフト

ミホミュージアムを出発して、本日の宿・長浜ロイヤルホテルに向かっていました。まもなく長浜ICというところで、予定の時間より1時間も早く着くことがわかっていました。せっかくなのでこの空いた時間を利用し、どこか近くに適当な観光地はないだろうかと、思案していました。

すると、古戦場の賤ヶ岳に近いことがわかりました。アクセスを確認すると木之本ICから10分とありました。リフトがあり眺望も素晴らしいということなので、本日最後の訪問地にすることにしました。午後4時前にリフト乗り場の駐車場に車を入れることができました。

乗り場までは少し山道を歩かなければなりません。シルバー世代の係りの方がスタンバイしていましたが、何とリフトは停まっていました。
「お客さんがいないときは停めています。」と係りの人。
ということは、今、他にお客は誰もいないのかと心細くなりました。料金は往復800円でした。所要時間は約6分とのことです。ここ上りの最終が午後4時半で、上の下りの最終が午後5時とのことでした。
「まだ、時間は十分にあるので、急がなくていいですよ」
「上からの最終便には、念のため係りの者が声をおかけします」
とのことでした。



頂上にある武将の像

リフトは、なかなかの急勾配です。下には遊歩道があり、何度かリフトと交差する形で走っていました。
すると上から、数組の観光客が降りてきました。これを見て少し安心しました。リフト頂上駅に降り立つと、頂上まで約300m.とあります。ちょっときついものがありましたが、ここは登るしかありません。眼下に奥琵琶湖の素晴らしい眺望が徐々に開けてきます。頂上には2組の観光客がいました。

何といっても美しいのが、眼下に広がる余呉湖。合戦ではその水が血で染まったといいますが、穏やかな湖面を見ていると、とても想像もできません。平和な時代に生まれた今をただ感謝するのみです。
そして、位置を左にとると、眼下に琵琶湖が広がっています。夕刻に近いということもあって湖面は霞み、モノトーンの世界、どこか幻想的なものを感じました。



美しい余呉湖 合戦の舞台です。

賤ヶ岳の戦いは、織田信長の後継争いとして、1583年(天正11年)羽柴秀吉と柴田勝家が戦った合戦です。柴田軍の前田利家が動かず羽柴軍が勝利し、敗れた柴田勝家は北国北ノ庄で、お市との方とともに自害しています。戦わずして府中城にもどった前田利家ですが、実は、秀吉とも内通していたのかもしれません。北ノ庄に退く際、府中城に入った柴田勝家は、利家を責めるどころか、謝意を述べています。その器量の大きさに感服せざるをえません。

こうして賤ヶ岳をあとにしホテルに向かいました。本日の歩数、17,000歩、夫婦岩、伊勢神宮内宮、おはらい町、信楽、ミホミュージアム、賤ヶ岳とよく歩いたものです。明日はいよいよ、待ちに待った伊吹山、お花畑を楽しみに今夜は早く就眠することにしましょう。



霞む奥琵琶湖 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする