未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

青い悪魔

2009-09-30 22:17:07 | 植物

9月27日撮影

 先月、隣町の広島県福山市内の神辺町から千田町へ抜ける途中の丙里池で、ホテイアオイの群生を見つけました。この池、昨年まではホテイアオイは殆んど目に付きませんでしたが、どうでしょう、いつのまに池全体に繁茂し水面がまったく見えない状態です。さすがのサギもボーとしてお手上げ状態のようでした。これでは魚も獲れません。

 そして先日、再び通ったとき、ご覧の画像にように一斉に紫系の淡いブルーの花を咲かせていました。まさに壮観。見事というほかはありません。
 そして、今日、偶然にもNHKBSの人気番組「街道てくてく旅」山陽道を見ていたら、旅人の原田早穂さんがこの池の傍を通りかかり、そのあまりの美しさに感動してスケッチをしていました。(9月30日放送)池のそばを山陽道が通っていたとは知りませんでした。
 ところでこのホテイアオイ、別名「ウオーターヒヤシンス」とも言い、なんとも涼しげで華麗な名前がついていますが、もっと他の名前があるのをご存知でしょうか!何と「青い悪魔」とも呼ばれているんです。
 寒さに弱く、冬はほとんど枯れますが、一部の株がわずかに生き延びれば、翌年には再び大繁殖します。繁殖力が強く、肥料分の多い水域では、あっという間に水面を覆い尽くし、水の流れを滞らせ、水上輸送の妨げとなり、また漁業にも影響を与えるなど日本のみならず世界中で問題となっていて、「青い悪魔」と呼ばれ恐れられています。冬季に枯れると茶色に変色し、腐敗して環境に悪影響を与えます。
 
 井原市内で有名な夫婦池のホテイアオイ、昨年はとてもきれいに咲いていましたが、冬に枯れて、そのまま放置され今年はその面影もありません。ほんとに手のかかる植物ですね。

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遊女たちの悲しい物語があった

2009-09-27 00:18:40 | 歴史



 先日、広島県は大崎下島の御手洗(みたらい)を訪ねました。ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。今までは三原か竹原からフェリーを利用するしかなかったのですが、橋が架って車で直接行くことができるようになりました。そのせいか、当日は多くの観光客で賑わっていました。
 ところで写真の年配の方、名前を宮本さんとおっしゃるのですが、ミニおちょろ舟の実演販売をされています。ところでこのおちょろ舟というのは何でしょう!少し調べてみることにしました。

 おちょろ舟とは、風待ち・潮待ちのために停泊している船の乗組員を相手にする女たちを乗せた小舟だそうです。名前の由来は船の間をちょろちょろ行く舟から、とか、お女郎舟がなまってできたともいわれています。

 近世中期以降の瀬戸内海は、北国の物資を大坂へと輸送する際の、物流の大動脈にあたっていました(西回り航路)。造船・航海技術の進展によって大型化した輸送用の帆船(北前船)は、日数をかけて海岸沿いを航行する「地乗り」ではなく、瀬戸内海の中央を倍近い速さで走り抜ける「沖乗り」の航路を次第に取るようになりました。このような時代の流れのなかで御手洗(大崎下島)や木江など、沖乗り航路にとって便利な地点に新たに港湾が整備されたのです。

 御手洗には、1600年の中ごろ人家が建ち始め、1700年代に入ると、若胡屋などが次々と茶屋として公認になりました。(若胡屋だけで多い時は100人も遊女がいたそうです)四国、九州の大名の参勤交代、北前船の寄港などで湊がますます繁盛しました。この頃から格式と教養を身につけた遊女「おいらん」が必要になり、おいらんとおちょろ舟の娼妓へ分化したようです。すなわち、おちょろ舟に乗るのは器量のない女たち。でもおちょろ舟の娼妓はよくつくしたそうです。顔なじみになると煮炊き、洗濯から次の寄港までに必要なものを用意してやったとか。

 しかしながら、明治中期以降の機械船普及に伴い、停泊地とされなくなったこれらの港は次第に衰退への道を歩みますが、このおちょろ舟も1958年の売春防止法施行とともに消滅したそうです。早く家に帰れという島の巡査に「だんなさん、そんなこと言われても、私には帰るところがないんです。」「家が貧乏で仕方なしにこういうところに売られてきたんですけん、家へ帰ってもどうしようもないんです。めしはくえんのです。」
 当時の日本の貧しさ、政治の貧困、親の哀しみを背負って、身を捨てて懸命に生きた遊女たちの物語がありました。

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国営備北丘陵公園のコスモス

2009-09-23 17:35:03 | 公園


 日曜日の午後から、広島県庄原市の国営備北丘陵公園のコスモスを見に行ってきました。一週間前の新聞に、見頃との記事があり、少し早いのではと思いながらも、出かけてみることにしました。庄原までの所要時間は、国道182号線を北上し、東城から中国道にのるルートで、約1時間半ぐらいです。
 こちらの公園のコスモスは、80品種、150万本。日本最大級のコスモスコレクションだそうです。しかし残念ながら全体の見頃はもう少し先のようでした。ただ、鮮やかな黄色やオレンジのキバナコスモスはちょうど満開のようでした。それにしても、きれいに種類ごとに区分された敷地の中に整然と咲くコスモスは、花の色、形のバラエティ、背の高さはいろいろで、見ていて飽きませんね。
 時刻が午後4時に近かったのでかなり西日がきつく、撮影には苦労しましたが、高原の秋の風を感じながらそよぐコスモスをみていると
ほんとに癒されます。
 
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屋根の上のワンちゃん

2009-09-16 23:45:03 | 観光名所


 先日、倉敷の美観地区近くで、屋根の上に整然と並ぶ置物のワンちゃんを目にしました。確かこれはビクター犬というのでしたっけ!白いものばかりかと思っていたら、少し茶色のものもあるようでした。確かにこれは、目につくし、よい宣伝にもなるでしょう!
 でも美観地区の中でなくてよかった、と思うのは私だけでしょうか!それにしても、1頭(1台?)どのくらいの重量があるのかわかりませんが、これだけ上に乗ると相当なものでしょうね。よくみると、針金のようなもので一応固定してあるようでした。そりゃそうでしょう!こういうのが、頭の上に落ちてきたら、まさに凶器そのものですよね。
 このお店は、倉敷山陽堂というアンティークショップのようでした。倉敷では結構有名だとか。興味あるかたは、こちらをどうぞ!

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自働電話って???

2009-09-12 11:51:41 | 観光名所


 先日、うだつのあがる町並みで有名な、徳島県は脇町を訪ねたときのことです。脇町郷土資料館(脇町観光協会)前にご覧のような電話ボックスがありました。この町が栄えた時代にあったものかと思いましたが、どうやら再現されたもののようです。中の電話機は普通のグリーン色のものでした。公衆電話を設置する際、この町並みにふさわしいレトロな外観にした、ということでしょうね。でも携帯電話が普及した今日では、利用者もほんどいないでしょう。でも私が特に興味をもったのが、そのボックスに書かれた「自働電話」という文字でした。
自動ならわかるけど、自働とはどういうこと?書き間違えではとも思いましたが、それもないだろうということで例によって少し調べてみることにしました。
 公衆電話が日本に初めて登場したのが1900年のことで場所は新橋駅と上野駅でした。それまでは電話そするのにわざわざ電話所というところに行って頼まなくてはいけなかったのが、人手を介さずにかけられることとなりました。同じ年、現在の銀座1丁目交番付近に、最初の公衆電話ボックスが登場しました。このとき使われた電話機は、アメリカで使われていた名称の「オートマチック・テレホン」を直訳して「自働電話」と名付けられました。自分で働くといっても、実際には受話器をとって交換手と話します。交換手の指示で、お金を入れます。10銭か5銭のどちらかです。投入口が違っていて、入れると10銭は「鳴鐘」、5銭はゴングのような「チン」という音がしたそうです。その音を聞いて交換手が投入額を判断し、通話先につなぐ、というものでした。大正14年に自動交換方式の採用により、これと紛らわしいため公衆電話と改称されたようです。

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