未熟なカメラマン さてものひとりごと

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兵庫県立フラワーセンターを訪ねて 4月14日

2013-04-25 22:22:08 | 公園

お茶席  向こうに芝生広場

ネットで、今まで行ったことのないミツバツツジの名所を探してみると、兵庫県立フラワーセンターの「つつじの小道」がみつかりました。場所は、兵庫県加西市です。この加西市、名前は耳にしたことはありますが、兵庫県のどこにあるのかまったく知りませんでした。ホームページのアクセス案内でフラワーセンターの場所を確認すると、山陽自動車道加古川北ICから北へ9キロの位置とありました。これなら自宅からゆっくりでも2時間半で行ける距離です。
ということで、ICを降りナビを頼りに進むと、細い道から突然フラワーセンター前の大きな道に出ました。なんと、フラワーセンターに入園待ちの車で長蛇の列ができていました。この行列の後ろに並ぶのも大変だなと思い、思い切って、頭を何度も下げ、進むそぶりをすると、すぐに一台の車が道を空けてくれました。ほんとに感謝です。駐車場は当然満車で、20・30分ほど待ってやっと駐車することができました。

入園口を入ると、まず目に入るのが、花壇とプランターに植えられた色とりどりのチューリップです。特にプランターの数は相当なものでした。頭上に張られたロープには、風に揺られて鯉のぼりが泳ぎ、向こうには温室らしき建物群、左には芝生広場があり、その向こうには大きな池、そして風車も見えます。想像以上に活気のある、広い公園でした。正面の中央花壇は、波打つ芝生の中に花壇がカットするように設けられ、とても新鮮に感じられました。

そして次に気になったのが、芝生広場の隅に設営されたお茶席でした。お茶をたしなむものとして、ここは敬意を表する意味でも一服いただかなくてはと思いました。立礼席(りゅうれいせき=イスに座ってお点前をします)で、お点前は加西市茶道協会の皆さん。各流派が協力してお点前をしているとのことでした。席は、長机にパイプいすという簡単なものでしたが、気軽にいただけるという利点もあります。洋風の公園に、お茶席は、ちょっとアンマッチのような気もしますが、和服姿の女性たちは美しく目を引きます。ちょうどプードルを連れたお客さんもいて、「キャンキャン」と鳴く犬のリードを長机の端にくくり付けいただく、という他では見られない光景でした。この収益金は、加西市の社会福祉協議会に寄託されるそうです。

それからもうひとつ気になったのがオランダ衣装を着た子どもたちです。よく見ると子どもたちだけではなく大人も着ているではありませんか。最初、オランダからやってきたモデルさんかと思いましたが、よく見ると日本人の親子でした。フラワーセンターでは、曜日を限って無料で衣装を貸し出しているようです。非常によくできているオランダ衣装ですが、こちらの職員さんの手作りだそうです。どこか好感が持てますね。
とても広いフラワーセンターですが、私の行ったことがある他の公園と広さを比較してみました。
兵庫県立フラワーセンター 46ha
国営備北丘陵公園 広島県 229.5ha
とっとり花回廊  鳥取県 50ha
あわじ花さじき  兵庫県 15ha
湧永満之記念庭園 広島県 14.85ha

国営備北丘陵公園は別格として、花の公園としては日本最大級と云われる「とっとり花回廊」とほぼ同じ広さです。ただフラワーセンターには中心部に大きな池があるのが特徴です。(つづく)



オランダ衣装でご満悦の親子
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椿のジュウタン 岡山県矢掛町圀勝寺 4月13日

2013-04-22 21:37:42 | 神社・仏閣

ビロードのような光沢のある深紅のジュウタン

4月13日 今年も矢掛町の圀勝寺(こくしょうじ)にツバキを見に行ってきました。気温の高い日が続いたせいか、今年はどこも桜を初め、春の花々の開花が1週間以上早かったようですね。この圀勝寺のツバキ、昨年行ったのが4月21日で見ごろでした。それなら、今年は少し早めにと、13日に行こうと思っていたら、前々日の朝刊に圀勝寺のツバキが見ごろと、しっかり紹介されてしまいました。しまったと思いました。なぜなら、記事を読んだ大勢のカメラマンが来ると、なかなかいいアングルで写真が撮れないからです。
それから、お寺の駐車場に至る周辺の道約100mがとても狭いので、対向車があったら随分苦労することになります。あまり人がいないことを期待して自宅を7時に出発。約25分で到着しました。幸いにも付近の道で対向車には一度も会いませんでした。

お寺に到着すると、地区の方がテントの下で準備に忙しそうでした。椿まつりの期間中、こちらでは無料で飲物などが振る舞われます。駐車場には、観光客のものと思われる車は2台だけで、しかも1台は帰るところでした。ということで、撮影には願ってもない好条件でした。こちらのツバキですが、樹齢300年とも350年とも云われています。お寺のいわれによりますと、同寺には奈良時代の遣唐使、吉備真備の祖母を祀る社があり、ツバキは1699年(元禄12年)に祖母の遺骨が入った骨蔵器が寺近くで出土したころに植えられたとされているそうです。

そうすると、時代は江戸時代の初期、5代将軍綱吉のころになります。赤穂浪士の討ち入りが元禄15年ですから、その3年前ですね。さて、この圀勝寺のツバキ、樹高は8メートルにもなり矢掛町の天然記念物に指定されています。それで何が有名かといいますと、八重の大きめの深紅の花が、そのままの状態で地面に落ちて、それらが花の層を造り、一面ビロードのジュウタンのようになるのです。撮影をしていると、数分間隔で、ツバキの花が「ポトン」と静寂の中に落ちて行きます。先にいたカメラマン、この落ちているところを撮影しようと、連射で挑んでいますが、なかなかうまくタイミングが合わないようです。落ちるのを見てシャッターを押したのでは間に合いませんし、予測して撮影するのも不可能に近いでしょう。

撮影は、午後から逆光になるので、午前中がいいでしょう。ここ数年、毎年撮影にきていますが、ウグイスが鳴く静寂の地、午前中は特に青空が広がりとても清々しい気分になります。次に向かったのが、井原市野上町の花桃の里です。個人宅を中心にあちこちに花桃(源平枝垂れ桃)が咲いています。こちらは、時間的に逆光となりました。そしてそのあと、相原公園でグループ会社の人たちと、お花見(桜はとっくに終わっていましたが)でした。今日は、特に充実した週末の一日となりました。



井原市野上町・花桃の里
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プチャーチンのこと、ご存知ですか? 

2013-04-16 22:06:10 | 歴史

早くもシャクナゲが咲いていました。(4月14日) 兵庫県立フラワーセンター 本文とは関係ありません。

高校の時、日本史を勉強された方はご存じだと思うのですが、幕末に日米和親条約を締結したペリーに遅れることわずか9カ月、日露和親条約を締結したロシアのプチャーチンのことです。
一昨年の春、箱根・修善寺を訪ねましたが、そのとき楽しみにしていたのが、戸田港からの富士でした。残念ながら、雨模様の天気で断念せざるを得ませんでしたが、この戸田の読みが「ヘダ」とは知りませんでした。実は、この戸田とプチャーチンとの間に深い関係があることを知ったのは最近のことです。
また、昨年の5月、淡路島の高田屋嘉兵衛記念館を偶然にも訪れたのがきっかけで、ロシアへの漂流民となった江戸時代の日本人のことに興味を持ち、数回にかけてブログに書かせてもらいました。実はこのプチャーチンも漂流民との間に深い関係があったようなのです。

江戸時代、多くの漂流民が千島列島、オホーツク、カムチャッカなどロシア領に流れ着きました。鎖国の中、外洋に出ることのできる大きな船の建造が許されなかったため、運悪く、シケや台風に出会うと、その荒波にのまれ、舵を壊され、船を安定させるためマストも切断せざるを得なくなります。こうなると、壊れた船は洋上の漂流物でしかありません。

たまたま、コメなど、食料などの物資を運んでいる船の船乗りたちは、この物資で命を繋ぐことができたのですが、島に辿り着くまでに実に数か月や半年も要したのです。しかし、そこは想像もできないような極寒の地。多くは海路と陸路でヤクーツクから、イルクーツクまで移動を余儀なくされます。ビタミンの不足から壊血病に冒され、命を落とすものを多かったようです。そのような漂流民で特に有名なのが、大黒屋光太夫です。キリル・ラクスマンという支援者を得て、帝都ペテルブルグまで出向き、時の女帝・エカテリーナ2世に謁見を許され、実に10年の歳月をかけて帰国を果たしました。中には、現地にとどまり、日本語学校の教師になって、彼の地に骨をうずめるものもいました。また石巻の若宮丸の乗組員のように偶然、世界一周を体験して帰国した者もいます。でも、帰国できたのは、ほんの一握りの人たちでした。

ロシアは、アメリカに先行して、ラクスマンやレザノフを派遣し国交を迫っていましたが、幕府がのらりくらり先延ばしするなどして失敗。それから約50年後、1853年6月、アメリカのペリーが浦賀に来航します。そしてプチャーチンが、同年7月、日本の国法に従い長崎に来航します。1854年1月にペリーが再来航し、強圧的な態度で迫り横浜で日米和親条約を締結させます。
ペリーが江戸に向かったと知るや、プチャーチンも急ぎ下田に向かいます。ところが、その交渉の最中、伊豆下田は、大地震と津波に襲われほとんど壊滅状態。プチャーチンの乗ったディアナ号も大きな損害を被り修理を余儀なくされます。そんな中、プチャーチンは、日本人の遭難者を救助し、船の医師たちを治療のため町に送っています。そして修理のため戸田港に向かう途中、嵐に襲われ、船はとうとう沈没してしまいます。なんとか船の荷物を岸へ運び込むことができましたが、それを助けたのが日本人の村人たちでした。そして西伊豆・戸田港で、ロシア人の指導のもと日本人の舟大工が協力してなんとか小型の帆船を建造しました。船名は、戸田号(ヘダ号)、こうしてプチャーチンは条約を締結して本国に無事帰ることができたのです。プチャーチンは、その後何度か日本を訪れたそうですが、その際、ロシアにいた日本人の漂流民を大勢、帰国させたそうです。

このことにより、外国人としては、初めて明治天皇から勲一等旭日章を授与されています。以後、プチャーチンの末裔が戸田村を訪れ、現在も交流が続いているそうです。



立礼台によるお点前 4月14日 兵庫県立フラワーセンターにて
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桜の名所・井原堤百年(岡山県井原市)

2013-04-10 22:40:32 | 観光名所

見事な桜のトンネル

今年も井原堤の桜はとても見事でした。初めて堤の端から端まで走破しました。距離は云われているように2キロはあるでしょう。この区間がほとんど桜のトンネルとなっているので、毎年見ていても、都度その素晴らしさに感動します。 
観光客はもとより通勤・通学路として、健康のための散策路として、はたまた愛犬の散歩コースとして、有難い存在です。しかし、これだけ見事なのに、どうして見物客が少ないのだろうと逆に不思議に感じてしまいます。
今年は、最初に出かけたのが、3月31日の日曜日でした。まだ8分咲きほどでしたが見ごたえ十分でした。その後、会社の帰りの3日と5日の夕方、そして6日は、低気圧から桜吹雪を期待してまたも出かけ、例年になく楽しませてもらいました。

私が小学生のころ、井原堤は岡山県を代表する春の観光地でした。現在のように大型の商業施設や遊園地もなく近隣では唯一といってもいいくらいの春の行楽地でした。小学校から遠足を兼ねて写生大会が催され、私も参加しその当時のことを今でもよく覚えています。日曜日ともなると河原には大勢の花見客が腰を降ろしてお弁当を広げ、堤では、露店が建ち並び、通行も困難なほどの賑わいでした。残念ながら、今は昔の話です。

ところで、小田川の堤を繋ぐ桜橋に、井原・桜堤百年の幟がたくさん立っていました。この井原堤の歴史ですが、郷土出版社「井原・笠岡の100年」の昭和14年ごろの、お花見の様子を紹介する写真に添えられた紹介文によりますと、井原桜堤の歴史は、大正3年(1914年=第一次世界大戦勃発の年)に井原町長原田吉平が郷社(ごうしゃ=市内にある神社)の桜を株分けして、ソメイヨシノの苗木150本を植えたことに始まるそうです。4月初旬の花盛りには、県内外から観光客があふれ、屋台も並び商店街でも大売出しをするなど、たいそうな賑わいで、当時から井原は桜の名所として有名だったようです。

ということで、来年が100年目ということになるのでしょうか。ソメイヨシノは、もともと1本の木から接ぎ木(クローン)で栽培されてきました。寿命は、放置していれば60年だそうですが、きっちり管理すれば、100年以上は十分育つそうです。青森県弘前公園のソメイヨシノのように、徹底した管理をした結果、花付も寿命も延びて樹齢120年を超えるものもあります。また、岡山県で最も開花が遅い新庄村の「がいせん桜」は、明治38年(1905年)の村議会で、戦勝を記念して137本の桜が植えられおり、今年が108年目となります。株元はアスファルトで周囲を固められるという過酷な条件下でも、延命治療により枝ぶりはよくないもののしっかり房状の花を咲かせているようです。井原堤の桜も、管理がよければ十数年は大丈夫かもしれません。

しかし、何よりの心配が、桜が持つ「忌地(いやち)現象」です。同じ土地では次代の桜が育たないのだそうです。ということで、現在、桜の名所となっているところが危機を迎えている、ということは、このことによるものです。しかし井原堤の桜は、地元の方に聞くと、それでも老木を新しい若木に植えかえるなど、並木を維持管理してきたそうです。ですので、環境によれば忌地現象はそれほどでもないということなのでしょうか。また、「護岸なので災害上の観点からも、本当は木を植えてはいけない」という問題もあったようです。

しかし、一番の問題は車の乗り入れではないでしょうか。川の反対側には民家が建ち並び、斜面の横に車庫を設け、堤から直接乗り入れるようになっている家も多く、生活道でもあるわけです。それでも、多くの観光客に来てもらうためには、替えの駐車場を準備するなど、対応を考えていただいて、桜の見ごろの1週間だけは、完全に歩行者天国にしてもらいたい、と思うのは私だけでしょうか。それから、桜の季節には、新聞、TVなどで県内外にも大々的に宣伝して集客を図ってもらうことも必要なのではないでしょうか。それだけ十分に素晴らしい価値があるに違いないのですから。



川面に映る堤の桜
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帰りに奥出雲湯村温泉を訪ねました。

2013-04-04 20:56:35 | 温泉

川に面した空き地に優雅な枝垂れ桜がありました。

3月30日、斐伊川堤防桜並木を見て、帰路の途中、国道314号線で「出雲湯村温泉」という看板が目に留まりました。ちらりと目をやると斐伊川にかかる橋と桜、それらしい雰囲気の建物も見え、とても風情があるように感じられました。ここにはなにかいい被写体があるかもしれないと、少しだけ寄り道をすることにしました。
湯村温泉というと、有馬温泉と並んで兵庫県を代表する夢千代日記の湯村温泉を連想しますが、他の県でも同名の温泉があるようです。橋を渡り、ぐるりと回り込む感じで案内板の通り坂道を下ると、ひなびた温泉らしい雰囲気の通りに出ました。しかし道が何とも細くて、対向車が来たらどうしようかと、心配になるほどです。おまけに前方正面は行き止まりのようでした。今さら引き返せないと、覚悟して進むと一番奥に数台が駐車可能なスペースが確保してありました。

車を停めることができ、ほっとして散策開始です。まず湯元と書かれた共同湯がありました。中を覗きこむと、入り口の手前に足湯と木製のイスとテーブルが置かれたわずかな休憩スペースが見えました。道路の反対側には懐かしい赤いポスト、その隣で水道の蛇口からポリタンクを幾つも並べて水汲みをする人がいます。特別な効能でもあるのでしょうか。そしてその向こうに石垣が立派などっしりとした建物がありました。これは温泉旅館のようでした。さらに進むと、古民家を再生したような粋なレストランもありました。案内板には、「本日予約以外のお客様は受付しておりません」というようなことが書いてありました。もう少し先に進むと、おもちゃのジョウロを持った小さな3歳ぐらいの男の子がよたよたと坂を下りてきました。つい「あぶないよ!」と声を掛けてもまったく動じない様子。そのあとから、柴犬を3匹同時に散歩させている若い母親らしい姿。すれ違う時に「こんにちは」と声が掛かりました。

資料によると、この奥出雲湯村温泉には川を挟んで2軒の温泉宿(内1軒は国民宿舎)があるようです。その歴史は古く、1200年前だとか。このひなびた隠れ家的な雰囲気に魅かれ訪れる愛好者も多いようです。20年以上前には、秘湯ともいわれたそうですが、道路がよくなって気軽に来ることが可能になったため、今はそういう表現はありません。それから川には、露天風呂もありました、試しに手を挿し入れると40度弱くらいのぬるめのお湯で、川底から泡がぷくぷくと噴出していました。ただ、脱衣所がなさそうなので、入るには、ちょっと勇気と工夫が必要のようです。

こうして、奥出雲湯村温泉をあとにしましたが、お昼は、斐伊川堤防桜並木の露店で買った焼きそばだけだったので、どこかでおいしい出雲そばを食べてみたいと思っていました。実は来るときに目をつけていたお店があったのです。それは、JR八川駅前の「八川そば」というお店です。駐車場に車がいっぱい停まっていたので、有名店だろうと思ったわけです。時間も時間ですから、店は空いていました。20分ほど待たされましたが、注文したのは、山菜がそれぞれ入った割り子蕎麦。つゆをかけていただきます。お値段は少々高めでしたが、ボリュームもあって期待以上の味でした。後日、蕎麦通の会社の上司に、自慢げにこのことを話すと、「そこには、10回以上行ったことがあるよ」と返り討ちにあいました。片道3時間は、その気にならなければなかなか足が向きませんが、尾道松江自動車の全線開通が待たれるところです。   



湯村温泉のメインストリート 人影はほとんどありません。
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