goo blog サービス終了のお知らせ 

最新の治療法など、地元の医療情報を提供する「メディカルはこだて」の編集長雑記。

函館で医療・介護雑誌を発刊している超零細出版社「メディカルはこだて」編集長の孤軍奮闘よれよれ・ときどき山便り。

最後のひと

2025年04月03日 07時00分26秒 | 読書
忙中閑あり。
ちょうど1年前に読んだ「最後のひと」を再読した。
老年の性愛を題材にしたベストセラー「疼くひと」の著者・松井久子さんが、実感を込めて綴る希望の物語が「最後のひと」だ。


最後のひと 松井久子著

「疼くひと」の主人公は唐沢燿子という70歳の女性で、バツイチ独身の脚本家。ストーリーは。そんな彼女が年下男性と恋に落ち、性の抑圧から解放されていく。
この作品を発表した時には賛否両論、大きな反響があった。
「そんな年になってまでみっともない」と松井さんのもとを去っていく友人もいたが、「よくぞ描いてくれた」と賞賛する人も多かったそうだ。
松井さんは「老年の性愛を扱った作品に大きな反響が寄せられるということ自体、性や愛の対象から高齢者が外されていることの証左とも思える」と言う。
「最後のひと」は75歳になった唐沢燿子が86歳の仙崎理一郎を好きになった。
理一郎は市民講座で出会った哲学講師。メールを送ったことから、思わぬ扉が開いた。
映画監督・映画プロデューサーの松井さんは76歳の時、89歳の子安宣邦さんと結婚した。
松井さんは子安さんが定期的に開いている思想史の市民講座に通うようになって知り合い、交際に発展した。松井さんの実経験をベースにしている小説は、正直で生々しい記述もあるがとても読みやすい。
「75歳になって、86歳のひとを好きになって、何が悪いの?」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青い壺

2025年03月17日 07時57分14秒 | 読書
半世紀も前に書かれた有吉佐和子さんの小説「青い壺」が、累計70万部を超えるベストセラーになっている。書店から姿を消していたが、2011年に復刊されてから10年以上を経て、増刷を続けている。
話題のきっかけとなったのは小説家・原田ひ香さんの「こんな小説を書くのが私の夢です」という文庫帯のコメントだった。その後、NHK「おはよう日本」で特集が放送されると、全国の書店で完売が続出するなど、大きな話題となった。
無名の陶芸家が生み出した美しい青磁の壺をめぐる13の連作短編集である。シングルマザーの苦悩、すれ違う夫婦、人間の奥深くに巣食うドロドロした心理を小気味よく、鮮やかに描き出す絶品の13話がどれも魅力的だ。


青い壺 有吉佐和子著

原田さんは文庫の帯で次のように語っている。「有吉佐和子作品との出会いは、中学生の頃。『悪女について』を読み、あまりの面白さに虜になりました。次に見つけたのが『青い壺』です。悪女の代わりに青い壺が人に近づき、人生に変化をもたらします。陶芸家、定年後の夫婦、道ならぬ恋を匂わせる男女、相続争いする人々・・・さまざまな人の間を壺はめぐ理、さらには遠いスペインまで行きます。各話ごとに工夫が凝らされ、すべての人物の心理と生活に説得力がある。こんな小説を書くのが私の夢です」
第一話は、陶芸家の省造が、その日に窯出しをした一つが思いもかけず出色のできばえに仕上がった。省造は30年青磁を焼いてきたが、これほど美しい色が出せたのは初めてだと感じ入り、惚れ惚れとする。
その青い壺は省造の不在中に妻が勝手にデパートの美術担当者に売り渡してしまった。 第二話は定年後、家でぼんやりする夫の寅三を持てあました妻は、世話になった副社長へのお礼にデパートで青い壺を買い、寅三に持たせた。寅三は壺を渡し、副社長室を出ると、半年前まで勤務していた庶務課の部屋にすっと入って行った。寅三の後任は恰度入れ違いにエレベーターで専務の部屋に行ったところだった。その空席に寅三は腰をおろし、伝票の束をひき寄せると、右手で印を取り、伝票をゆっくりめくりながら判を押し始めた。十二時きっかりに寅三は立ち上がり、地下の食堂まで降り、入口で盆を持って並んだ。食後は屋上で習慣だった柔軟体操を始めた。寅三は屋上の金網に向かって、ゆるやかに両手を前に上げ、やがて頭上に伸ばし、弧を描いて両脇に下した。いつまでも、いつまでも同じ運動を続けていた。くたびれた男の悲哀やもの悲しさ、寂しさが美しい青い壺とは対照的だ。
最終の第十三話。省造は青い壺と劇的な再会を果たした。高名な美術評論家である園田を訪ねた省造は、園田がバルセロナの骨董屋で手に入れた青磁の壺を見せられる。園田は言う。「うむ。名品だよ。南栄浙江省の竜泉窯だね。十二世紀でも初頭の作品だろう。南栄官窯は貫入が多いのが特徴だが、竜泉窯には入(にゅう)がない」。省造は声も出なかった。あの壺だ、これは。どうして、あの壺がスペインまで行っていたのだろう。見れば見るほど、自分が焼いた壺に間違いがなかった。「せ、先生。この壺は、ぼ、僕が焼いたものです」。しかし、園田は省造の作品とは認めず追い返した。省造は青い壺が十余年間、割れもせず、怪我もせずに巡りあえたことを喜ぶべきだと心を落ち着かせた。この省造の心境が青い壺をさらに美しくする。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

透析を止めた日

2025年02月24日 14時18分14秒 | 読書
医療ノンフィクションとしては異例のベストセラーになっている「透析を止めた日」(講談社)の読後感は重たくも爽快だった。多くの人が高く評価している渾身の力作だ。
腎臓は体内の水分やミネラルのバランスを保ち、体内で発生する老廃物を尿中に捨て、骨を健康に保つホルモンや、貧血を改善するホルモンを産生している重要な臓器である。この臓器の機能が低下し(腎不全)、進行すると尿毒症と言われる状態になり、命の危険が及ぶこともある。これに対する根本的な治療は腎移植だが、移植以外の治療手段として一般的に行われているのが血液透析と腹膜透析の透析療法となる。 
「透析を止めた日」の著者でノンフィクション作家の堀川惠子さんの夫は、元NHKプロデューサーの林新(あらた)氏。かつては堀川さんの仕事上のライバルでもあった。林さんは多発性嚢胞腎(のうほうじん)を発症し、38歳から12年間、激務の間に血液透析を受け続けてきたが、母親からの腎移植で9年間透析を免れる。しかし59歳のとき再び血液透析に戻り、病状が悪化。命をつなぐための透析が、林さんの身体を芯から痛みつけた。


「透析を止めた日」 堀川惠子著

亡くなる17日前。透析を終えた林さんは主治医の回診を待ち構えていた。「先生、もう、透析はいいです。そろそろ楽になりたい」。そして、亡くなる前の7日間の痛みと苦しみは壮絶だった、「私は仕事柄、死の現場がいかに厳しいものかは理解しているつもりだ。だが、もう数日で死ぬと分かっている患者を、とことん苦しませたうえでしか対処できないと言うのなら、緩和ケアは何のためにあるのだろう。林はベッドの上で身動きもできず、ただ唸りながら痛みに耐えている。これはひとつの人生の幕を下ろすために、本当に必要な痛みなのか。私はこのときほど、安楽死の実現を心から望んだことはない」
「夜になると足先の痛みがどんどん増していた。足の指先が黒ずんで壊疽が進み、肉が腐るような強烈な臭いが室内に漂い始めた。『人生で、こんなに痛いことはなかったほど痛いよ』。林は声にならぬ声で訴えた。林は人生最大の苦痛に悶絶し、私は人生最大の心の痛みに慟哭した、この晩は、文字通り生き地獄だった」
日本透析医学会によると、2022年末の透析患者数は全国で34万7474人(北海道は1万6267人)。透析患者には手厚い医療制度が用意され、福祉制度の面でも優遇されている。透析の医療費の総額は年間1兆6000億円という巨大な医療ビジネス市場が形成されているが、そのビジネス市場から外れる「透析を止める」という選択肢の先には、まともな出口が用意されていないと堀川さんは指摘する。
「体調が悪化し、座位を保てなくなって通院ができなくなると、患者は頼みの綱だった透析クリニックから切り離される。透析の中止によって引き起こされる症状は尿毒症をはじめ多岐にわたるが、その苦痛は溺れるような苦しみとも言われ、筆舌に尽くしがたい。突然死でない限り、透析患者の死は酷い苦しみを伴う。当然、緩和ケアの必要性が問われるところだ」。しかし、日本の緩和ケアの対象は保険診療上、がん、後天性免疫不全症候群(エイズ)、末期心不全に限定されている。 「死が目前に差し迫る透析患者であっても、ホスピスに入ることはできない。患者も、家族も緩和ケアの現場から見放されている。W HO(世界保健機関)は、病の種類を問わず、終末期のあらゆる患者に緩和ケアを受ける権利を解いているが、日本ではそうなっていない。世界的に見ても、異例の状態が続いている」
本書は堀川さんが透析患者の、ことに終末期に生じる問題について、患者の家族の立場から思索を深め、国の医療政策に小さな一石を投じようとするものだ。本書の前半は堀川さんが林さんのそばでリアルタイムで綴った記録と病院のカルテとを付き合わせながら詳細を書き記した。これから透析をする可能性がある人、すでに透析を受けている人、腎臓移植をした人、透析を終える時期が見えてきた人、その家族や関係者には大いに参考になるはずだ。後半では終末期の透析患者をめぐる諸問題について、学会に足を運び、優れた医療を実践している医師を訪ね歩きながら、今後のあるべき透析医療のかたちを展望する。
文章力に脱帽した。堀川さんは、広島テレビの記者やデスクを経てフリーとしてドキュメンタリー制作やノンフィクション執筆に取り組んできた。死刑制度をテーマにした作品、「死刑の基準『永山裁判』が遺したもの」で講談社ノンフィクション賞、「裁かれた命 死刑囚から届いた手紙」で新潮ドキュメント賞。また引き取り手のない原爆犠牲者の遺骨約7万柱がまつられた広島の平和記念公園の原爆供養塔に光を当てた「原爆供養塔忘れられた遺骨の70年」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなどノンフィクション三賞すべてを異なる作品で受賞している。
今年2月17日、衆議院第二議員会館では上川陽子元外務大臣らが呼びかけ人となり、「腎疾患を軸に医療の未来を拓く会」の第1回会合が開かれた。透析患者の終末期における最期の意思決定や治療を中止した後の痛みのケアのあり方などに関して、意見交換が初めて行われたが、会合では堀川さんが自身の経験を語った。堀川さんが世に送り出した1冊が終末期の透析患者が安心して命を閉じられる第一歩となってほしい。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

がん征服

2024年12月30日 18時00分34秒 | 読書
あらゆるがんの中でもっとも難しいがんとされる「膠芽腫」(こうがしゅ)は、脳腫瘍の一種で、神経細胞を支えるグリア細胞から発生する悪性の脳腫瘍だ。平均余命は15カ月。MRI(磁気共鳴断層撮影)で膠芽腫を疑う画像は白い環が特徴的なリングエンハンスである。中央の黒い部分は腫瘍によってすでに壊死し、それを取り囲むように腫瘍と思われる部分が写っている。「がん征服」(下山進著)は、この最凶のがんとされる膠芽腫の治療法がテーマで、手術や抗がん剤、放射線といった標準療法のその先にある治療法を取り上げた。その治療法とは原子炉・加速器を使うBNCT(ホウ素中性子捕捉療法)。楽天の三木谷浩史氏がバックアップする「光免疫療法」。それと東大医科学研究所の藤堂具紀氏が開発した遺伝子改変ウイルスのG47Δが承認を得て、メディアが「世界最高のがん治療」と礼賛する「ウイルス療法」だ。


「がん征服」 下山進著

本書はこの三つの療法の開発史が絡みあうように進んでいく。探索研究、実用化にむけてのスポンサー探し、承認のための治験、規制当局との承認プロセスなど、比較をしながら読み進めていくと、意外な事実が待ち受けていた。それは三つの療法で膠芽腫に対し現在、承認されているのは「ウイルス療法」だけであり、その承認が公正に行われているのだろうかという疑問だ。
「ウイルス療法」は19例のフェーズ2で承認をされた治療法だが、下山さんは日本のテレビ番組や雑誌で「画期的な治療法がついに承認された」ともてはやされているのが、まったくわからなかったという。その素朴な疑問から始まった調査で、2014年の薬事法の改正にいきつき、有効性の証明でも確認でもなく、「推定」で市場にだしてしまうという「再生医療等製品」のトラックができたことを知ったことになる。
「がん」に関するかぎり、ほとんどすべての報道が、専門家の言い分をそのまま報じるというものであり、単行本や新書も研究者自身によるものが多いと下山さんは指摘する。「しかも、そうした報道や本では、治療法の開発に密接にかかわっている政治や経済について
は書いていない。ここに自分がこのテーマをやる意味があるとわかったのは、調査をして半ばをすぎたころのことだった」。261ページの内容は読みごたえがあった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

養老先生、がんになる

2024年12月30日 17時55分05秒 | 読書
「養老先生、がんになる」は、養老孟司さんと中川恵一さんの共著。心筋梗塞から奇跡の生還を遂げた養老先生が、がんになった。養老先生は東大医学部卒の解剖学者。『バカの壁』が大ヒットし、450万部超えのベストセラーとなった。中川先生は東大医学部卒後、同大学医学部放射線医学教室入局。現在は東京大学大学院医学系研究科特任教授。
本書は、教え子で自らもがんを体験した中川先生が、養老先生のがんについてくわしく解説。もうすぐ87歳になる養老先生が、がんと闘いながら自らの老いと向き合ったシリーズ最新刊だ。また、担当医である岩崎美香医師のコメントや、娘の養老暁花さんも登場する。


「養老先生、がんになる」 養老孟司・中川恵一著

養老先生の体の異変に最初に気付いたのは娘の暁花さんだった。鍼灸師の暁花さんは実家に帰ったときは、よく両親に施術をしていたが、養老先生は2023年のはじめ頃から、右肩が痛いと訴えていた。養老先生は「五十肩だろう」と言っていたが、暁花さんが整形外科的な徒手検査を行ってみたところ、どれも該当しなかった。暁花さんのマッサージで少しはよくなったが、2023年の秋頃から痛みが肩だけではなく背中全体に広がってきた。
「このような場合、疑われるのは内臓疾患です。痛む部位から考えると、肺が怪しいと思いました。実際に背中を見ると、肩甲骨の間が少し黒ずんでいます。普通の人ならわからないくらいの黒ずみですが、私にははっきりとわかりました。しかも黒ずんだエリアの前後がポコンと陥凹(かんおう)していて、その真ん中が黒く固まっています。触っても何かあるのがわかるので、肺に異変があると考えざるをえないのです」
かたくなに「めんどうくさい」「そんなのは嫌だ」と、検査を嫌がり、どうしても受診してくれない養老先生だったが、暁花さんは本人の了承を得ずに中川先生に直接、電話して、事情を話した。養老先生はしぶしぶ東大病院の呼吸器内科を受診することになった。「検査の結果、背中の痛みは、がんが背中側の肋骨に浸潤していたことによるものでした。それがなければ痛みが出なかったわけで、がんがもっと進行していた可能性もありました。痛みで気付けたのは、不幸中の幸いだったと思います」
2024年5月16日、養老先生の病名はタバコが主な原因である「小細胞肺がん」と診断された。中川先生は「ヘビースモーカーとして知られる養老先生のことですから、当然そのリスクは予想できましたが、4年前の入院時に撮った肺のCT画像には肺がんは認められなかった」という。養老先生は3カ月に1回、東大病院で定期検診を受けていた。「そのときに肺のCT画像を撮っていれば、もっと早く見つかった可能性もありますが、予防的な治療や検査はしない性格なので、それをすすめても、やらなかったはずです」
小細胞肺がんの標準治療は抗がん剤と放射線。「養老先生は、体に負担のかかる治療に対してもやりたがらない性格なので、果たして、抗がん剤治療を受け入れてくれるかどうかも疑問でしたが、今回はつらい検査も抗がん剤もすんなり受け入れてくれたのです」。その理由や1回目の抗がん剤治療を終えて、退院するまでの紆余曲折については本書を読んでください。
がんの治療は時間がかかる。本書は4月末に肺がんが発見されてから、抗がん剤の途中までの約3カ月間について、養老先生と中川先生の二人でどんなことがあったのかをまとめたものだ。中川先生は「興味深いのは、養老先生の病院嫌いに少し変化が現れたことと、文句ばかり言っていた東大病院の評価が変わってきたこと。養老先生の医療に対する考え方の変化も本書の読みどころの一つとなっている」と紹介する。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無人島のふたり  120日以上生きなくちゃ日記

2024年12月27日 12時07分12秒 | 読書
2001年、若い女性の生きづらさを描いた「プラナリア」で直木賞を受賞した山本文緒さん(1962年生まれ)。「恋愛中毒」や「自転しながら公転する」などの作品は読者から高い支持を得てきた。
2021年4月、山本さんは突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージ4bだった。がんは切除不能で、放射線治療はできず、抗がん剤も進行を遅らせるだけ。「そんなことを急に言われても、というのが正直な気持ちでした。煙草とお酒は13年前にやめて一度も飲んでいないし、食生活だってそう無茶をしたものだとは思いません」。告知を受けた日、山本さんと夫は本当にどうしたらいいのかふたりで途方に暮れた。

 
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」 山本文緒著

抗がん剤をやるなら一日でも早いほうがいいだろうということになり、告知から2日後には第1回目の抗がん剤に勇んで挑んだが、はけちょんけちょんにやられました。もう二度と体に抗がん剤を入れないと決意を固めただけの辛い一週間でした」。山本さんは医師やカウンセラー、そして夫と話し合い、進行を遅らせる抗がん剤をやめて、緩和ケアに進むことを決めた。
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」は、58歳で急逝した山本さんの最後のメッセージだ。まるで夫とふたりで無人島に流されてしまったかのようなコロナ禍での闘病の日々を、日記として書き残した。がんの痛みや発熱の苦しみ、これまでの人生、夫への感謝と心配、「書きたい」という尽きせぬ思いが滲み出ている。本書は5月24日から亡くなる9日前の10月4日までの日記だ。
山本さんは2006年12月軽井沢のマンションを仕事場として購入。2020年4月には軽井沢で夫と初めての同居生活を開始した。 5月26日は地元で緩和ケアをやっているクリニックの初診日だ。「クリニックを訪ねてみると、そこはまったく病院らしさがない、別荘のような建物だった。壁は白くて、大きな窓の外は新緑がきれいで、裏の林に置いた椅子でスタッフが打ち合わせをしているのが見えた。私と夫は庭に面した部屋に通されて、女性スタッフと向き合った」
「私の長い話をクリニックの先生は遮らずに聞いて下さった。家族以外とこんなに病気のことをフラットに話せたのは初めてだった。よかった。本当によかった。私、うまく死ねそうです」
8月2日、「今、私は痛み止めを飲み、吐き気止めを飲み、ステロイドを飲み、たまに抗生剤を点滴されたり、大きい病院で検査を受け、訪問診療の医師に泣き言を言ったり、冗談を言ったり、夫に生活の世話をほとんどしてもらったり、ぐちを聞いてもらったり、涙を受け止めてもらったりして、病から逃げている。逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない」
9月3日、クリニックの先生から「病気はここのところ急激に進んでいる様子だ。そろそろ週単位で時間を見て、会いたい人に会っておいたり、やり残したことをした方がいいかもしれない。そう言われて、お腹が楽になったと喜んでいた私と夫は固まった」
「ふたりで暮らしていた無人島だが、あと数週間で夫は本島に帰り、私は無人島に残る時がもうすぐ来るらしい」
「無人島のふたり」は異色の闘病記で、それは読者が不愉快になったり、苦しい気持ちにならないように気遣っているからだ。ユーモアを失わず、「つらい話をここまで読んで下さり、ありがとうございました」と書くことは誰でもできることではないだろう。角田光代さんは、闘病記はたいていの場合、読み手が寄り添うが、「無人島のふたり」ではそれが反転すると言う。
「書き手が読み手に寄り添うのだ、がんばれと言う。生きろと言う。笑ってと言う。だいじょうぶだと言う」
最後の日記は10月4日になった。「・・・今日はここまでとさせてください。明日また書けましたら、明日」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書いてはいけない 日本経済墜落の真相

2024年08月17日 12時59分58秒 | 読書
昨年末にステージ4の膵臓がん闘病を公表した経済アナリストの森永卓郎さん(その後は原発不明がんと診断)。昨年11月には医師から「来春のサクラが咲くのを見ることはできないと思いますよ」と言われたが、今も週2回、ラジオの生放送や執筆の仕事で埼玉県所沢市の自宅から電車で都心まで通っている。

 「書いてはいけない日本経済墜落の真相」 森永卓郎著

森永さんは昨年6月発刊の「ザイム真理教」(三五館シンシャ)で国の会計について税収の範囲内で支出するという財政均衡主義の問題点を指摘した。財務省が布教を続けてきた財政均衡主義という教義は、国民やマスメディアや政治家に至るまで深く浸透し、国民全体が洗脳されてしまったのだ。この洗脳するザイム真理教(財務省)こそが、日本を貧困化させた元凶だと批判する。ラジオのインタビューで「2020年度は、コロナで大変な事態が起きましたよね。80兆円も赤字を出したわけです。でも、国債が暴落しましたか、ハイパーインフレがきましたかというと、何も起こらなかったんです。私の感覚で言うと、1年間に100兆円くらいずつ永久に赤字を出し続けても、恐らく大丈夫」とコメントしたが、これに賛成でする人は少なくないはずだ。
「ザイム真理教」はベストセラーになったが、もっと売れているのが、今年3月に発刊した「書いてはいけない」(三五館シンシャ)で、「売れに売れている」という表現がピッタリする。ちなみに「ザイム真理教」の原稿を大手出版社に持ち込んだが、軒並み出版を断られた、ザイム真理教の正体がこれまで明らかにされなかった背景には、ザイム真理教に強力なサポーターと強力な親衛隊がついていたことが大きいと森永さんは言う。サポーターは大手マスメディアと富裕層、そして親衛隊は国税庁だ。
「書いてはいけない」は、病と闘いながら遺書となる覚悟で書き上げた。3つのタブーに斬り込んだという内容に4月にはアマゾン総合ランキング1位に躍り出た。これだけ本が売れても、大手新聞や東京キー局は完全無視を続けている。森永さんは「ジャニーズのときもそうでしたが、やはり日本の報道は、外圧がないと変わらないのではないかと思うのです。ただ、海外メディアに動きが出てきたので、いまはそこに期待しています」と語っている。3つのタブーとは「ジャニーズ事務所」「ザイム真理教」「 日航123便はなぜ墜落したのか 」
 日航123便の墜落は違和感だらけだった。2017年日本航空の元客室乗務員だった青山透子さんが「日航123便 墜落の新事実」(河出書房新社)を出版。根拠不明の陰謀説とは一線を画す驚くべき内容だった。証拠となる文献、そして実名での証言を集めて厳密な論証を展開した。日航123便の墜落事件をきっかけに、日本経済を取り巻く「潮目」が大きく変わった。森永さんは3つのタブーに挑み、その背景に存在する真相を描き出した。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南海トラフ地震の真実

2024年07月09日 21時46分51秒 | 読書
文学や演劇、出版などの文化活動で業績を上げた個人や団体に贈られる第71回菊池寛賞の贈呈式が昨年12月1日、東京都内で行われた。受賞者の一人が東京新聞の小沢慧一記者。「30年以内に70~80%という南海トラフ地震の発生確率が、水増しされた数字であり、予算獲得などのために科学が歪められている実態を、非公開の議事録や古文書の調査など丹念な取材によって明らかにした」と評価された。

 「南海トラフ地震の真実」小沢慧一著

静岡県の駿河湾から九州沖にかけてマグニチュード8〜9級の巨大地震が30年以内に「70~80%」という確率で発生するとされている南海トラフ地震。この数字を出すにあたり、政府や地震学者が別の地域では使われていない特別な計算式を使い、全国の地震と同じ基準で算出すると20%程度だった確率を「水増し」したことを、ほとんどの人は知らないはずだ。なぜならそうした事実は小沢さんが取材するまで、政府や地震学者によって「隠す」かのように扱われていたからだ。
小沢さんは南海トラフ地震の確率問題について、新聞記事として世に出すべきかどうか迷った。記事を出すと、「なんだ、南海トラフ地震は来ないんだ」「備えをして損をした」と考える読者が出てしまうかもしれないと思ったからだ。もう一つは、南海トラフが「えこひいき」されることは小沢さんの故郷である東海地方にとっても悪いことではなく、恩恵を受けているなら、水を差す必要もないのではないかとも思ったからだ。だが2018年9月、北海道胆振東部地震が発生し、被災現場で一人の被災者に出会ったことをきっかけに、考えが変わった。
地震発生当時、小沢さんが現場に駆けつけると、一人の男子高校生が倒壊した家の横でうずくまっていた。尋ねると、1歳年下の高校生の妹の救出を見守っているのだという。照明と重機を使って捜索は続いたが、地震発生から17時間後、無言の妹が担架に乗せられて運び出された。「北海道には地震が来ない」。男子高校生はそう思い込んでいたという。「だって、テレビや新聞では、いつも次に来るのは南海トラフだって」。そう言い、あふれ出る涙を止めることはできなかった。
小沢さんは「命のためは絶対善の正論だ。そのためなら、備えはいくらしてもしすぎることはないだろう。そのため、防災の政策に異論は挟みにくい。しかしそこで思考停止をしてはいけない。地震大国日本はそもそも、どこでも地震が起きる可能性が高いのだ。現在の地震学の実力では将来の地震発生を見通せない」と言う。「防災行政と表裏一体となって進むことで莫大な予算を得てきた地震学者が、行政側に言われるがまま科学的事実を伏せ、行政側の主張の根拠になる確率を算出した。南海トラフ地震の確率の決定のされ方は、まさにご都合主義の科学だったと言えよう。それならば記者として、実態を世に伝える必要があると考えた」
昨年8月に発行された「南海トラフ地震の真実」(東京新聞)は、中日新聞で2019年に掲載し、2020年に日本科学技術ジャーナリスト会議の「科学ジャーナリスト賞」を受賞した「南海トラフ80%の内幕」と、2022年に掲載した「南海トラフ揺らぐ80%」の二つの連載企画記事を基に大幅に加筆し、その後の取材成果を交え、改めて検証と分析を行なったもの。南海トラフ地震の確率の数字を決めたのは科学ではなかった。数字の出し方が「えこひいき」されている真実を浮き彫りにした渾身の調査報道だ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナワクチン その不都合な真実

2024年07月09日 13時31分23秒 | 読書
「コロナワクチン その不都合な真実」の著者、アレクサンドラ・アンリオン・コード氏は英仏両国籍をもつ研究者だ。25年間にわたって、人類の遺伝子、特にRNAについて研究してきた。新型コロナワクチンに使われていることで注目されるようになったRNAだが、著者はこのRNAが環境によってどのように変化し、子どもの病気にどう影響するのかということを研究テーマとしてきた。

 「コロナワクチン その不都合な真実」 アレクサンドラ・アンリオン・コード著

パリ・ディドロ大学で遺伝学の博士号を取得し、ハーバード大学医科大学院で神経内科医として働いたのち、2019年までフランス国立衛生医学研究所の主任研究員として多くの研究チームを率いてきた。主な研究分野はRNAおよび遺伝性疾患。ミトコンドリアマイクロRNAに関する研究の第一人者として国際的に認められている。RNA研究の権威として、新型コロナワクチンの本当の安全性、有効性を指摘した本書はフランス国内で瞬く間に16万部を超えるベストセラーとなり、世界各国で続々と翻訳・出版されている。
かつてないほどの短期間で開発され、通常の臨床試験が終わる前に製品化されたのが新型コロナワクチンだ。ワクチン接種による副作用などの詳細がいまだに不明で、ファイザー社がもつ臨床試験データの公表はわずか3ヵ月間だけ。その結果によると、ファイザー社は1日あたり約14人もの死者を記録している。正確には、2020年12月1日から2021年2月28日の間に、死者1223人と、好ましくない副作用15万8893件が記録されている。そして、そのすべての公開は75年と4カ月後となっている。
mRNAを様々な病気の治療のために人体に活用しようという研究は、これまで20年以上を費やしていながら、まだ臨床試験では成功していなかった分野だ。ワクチンも医薬品も何一つ製品化されていない。その技術が今回はじめて製品化され、多くの人々に接種されることとなった。はたて、そこにリスクはないのだろうか。
筋肉に注入されたRNAはすぐに体内から消えるのだろうか。私たちの遺伝子のみならず子孫の遺伝子までが、このワクチンによって改変されてしまう可能性が高いのだ。著者は各国政府や保健機関が喧伝してきた様々な「嘘」を暴き、驚愕の真実を解き明かす。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした

2024年05月06日 06時57分13秒 | 読書
「妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした」(風鳴舎)の著者、小林孝延さんは1967年福井県出身の編集者。月刊誌ESSE、天然生活ほか料理と暮らしをテーマにした雑誌の編集長などを務め、プロデュースした料理や暮らし関連の書籍は「料理レシピ本大賞」で入賞・部門賞などを多数獲得している。

 「妻が余命宣告されたとき、 僕は保護犬を飼うことにした」(小林孝延著、日経メディカル)

小林さんの妻、薫さんは小林さんと結婚してすぐに乳がんを発症した。乳房とリンパ節を切除し、長期間のホルモン療法でがんを抑えていた。2015年11月、薫さんの様子が明らかにおかしくなった。
ずっと変な咳もとまらない。検査の結果、腫瘍マーカーの数値は高く、モニターには肺と肝臓に転移した白い大きな影があった。「2010年に乳がんが再発、肝臓や気管前リンパ節、肺などに遠隔転移して以降もホルモン療法で5年間封じ込めていたが、その乳がんがついに牙を剥いたのだった」
抗がん剤パクリタキセルと併用してアメリカの新薬を投与する治験に参加できることになった。
「新しくて効果絶大な薬に違いないから、絶対よくなるに決まっている。そう思うと僕たちは明るい気持ちになった」。しかし実際に投薬を開始すると抗がん剤の副作用は想像を遥かに超えるものだった。
薫さんは症状が悪化した頃から、精神のバランスが不安定になっていく。抗うつ剤を使用しながら、現実から逃避するように飲酒量が増えていった。小林さんはお酒の飲み過ぎを強く注意するが、どんどん言い方がきつくなり自分を止められなくなる。大学生の息子と高校生の娘はビクビクしながら過ごすようになり、家はいつのまにか殺伐とした空間に変わり果ててしまった。
「終わりの見えない日々。いったい、いつまで続くのか。でもこの苦しみが終わるということは、同時に薫が死を迎えることを意味する。ときどき、僕自身、自分がなにを望んでいるのかわからなくなってしまうことがたびたびあった」。パクリタキセルと治験薬の併用投与から3カ月が経過。検査で骨の病変に変化がみられるようになり、同時に腫瘍マーカも上昇していた。
現在の薬は終了し、抗がん剤が変更される。「抗がん剤が効かなくなったことにショックを受けたものの、まだ選択肢はある。希望を捨てる必要はない。そう言いながら帰路についたが、その晩、薫はひどく泣いていた」。薫さんが席を外したときに小林さんが主治医から聞いたのは「目標は半年」。つまり余命6カ月という通告だった。
家族の心はバラバラになっていた。そんな時、知人から「犬を家族に迎えてみたら? 犬を飼うと毎日が絶対楽しくなるはず」と言われた。
小林さんは保護犬を選択することを考えた。保護施設で人が訪ねて来ても全然出てこない子犬がいた。いつも隠れているから、里親を希望する人たちにも気付いてもらえない。誰にも気付いてもらえないうちにどんどん大きくなるので、家族に迎え入れてくれる人は現れない。
大きくなった犬は「売れ残る」傾向にあるのだ。小林さんはこの犬を飼うことにした。名前は小林家に福がやってくるように「福」と名付けられた。家族4人はいつまでもみんなで飽きることなく「福」の様子を眺めた。2016年の年末。夜が静かにふけていった。
ぎくしゃくしていた家族関係の中でなんとか踏ん張ろうとして息が詰まりそうになっていた小林さんの生活にもゆっくりと変化が訪れた。
小林さんは滑りが悪くなっていた家族の間を仕切っていた扉が滑らかに大きく開き、お互いへの思いやりが風のように心地よく吹き抜けるのを感じた。「福」の心も柔らかく溶けていった。
気がつけば薫さんにも家族にも笑顔が戻っていた。余命半年はすでに過ぎていて、あれはきっと何かの間違いだったのではと思われた。3カ月使用してきた抗がん剤ゼローダは効果があると考えていたが、検査結果を見た主治医からは「次に使う抗がん剤はどれにするか」と提案された。
小林さんはいろいろな思いで気持ちが揺れた。迷いを払拭すべく予約が取れない名医として有名なK医師を訪ねてセカンドオピニオンを受けることにした。待ち合わせに指定されたのは東京駅構内のコーヒーショップ。K医師は出張の待ち時間を割いてくれた。黙って資料に目を通したK医師を固唾を飲んで見守る。一体どんな状態なのか。
「ゼローダはぜんぜん効いてないですね。奥様に残された時間はあまり長くないと思います。次に選ぶ抗がん剤もおそらくそれほど効果は期待できないでしょう。まして新しい療法を試すとかそういう段階ではすでにないです」。予想以上に厳しい言葉で、小林さんには静かな森の中にいるような不思議な感覚が襲ってきた。「奥様はなにがお好きですか。趣味とか、なにか大好きなことはありませんか」。予想外の質問にはっと我にかえった小林さんは考えれば考えるほどわからない。なんだろう。なにが好きだったのだろう。その後の話はほとんど覚えていなかった。
どうしていいかわからないまま、小林さんは以前読んだ「抗がん剤のやめどき」という本をさりげなくリビングに置いた。それから夫婦はこれからの楽しみについて、これまで以上に話し合うようになった。残された時間を丁寧に味わっていこうと改めて心に誓った。
リビングが薫さんの居場所になり、1日のほとんどの時間をそこで過ごすようになると、いつしか「福」は薫さんにぴたりとつくようになった。「ときどき確かめるように手を伸ばして、枕元で丸くなっている福に触れると薫は安心するようだった。
触れている薫の表情はとてもやわらかくなる。人に触れられるのが好きではない福だけど、薫がなでることは全面的に受け入れているようだった。
その様子はまるで福が自ら果たすべき役割を理解しているように思えた」



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする