2001年、若い女性の生きづらさを描いた「プラナリア」で直木賞を受賞した山本文緒さん(1962年生まれ)。「恋愛中毒」や「自転しながら公転する」などの作品は読者から高い支持を得てきた。
2021年4月、山本さんは突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージ4bだった。がんは切除不能で、放射線治療はできず、抗がん剤も進行を遅らせるだけ。「そんなことを急に言われても、というのが正直な気持ちでした。煙草とお酒は13年前にやめて一度も飲んでいないし、食生活だってそう無茶をしたものだとは思いません」。告知を受けた日、山本さんと夫は本当にどうしたらいいのかふたりで途方に暮れた。
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」 山本文緒著
抗がん剤をやるなら一日でも早いほうがいいだろうということになり、告知から2日後には第1回目の抗がん剤に勇んで挑んだが、はけちょんけちょんにやられました。もう二度と体に抗がん剤を入れないと決意を固めただけの辛い一週間でした」。山本さんは医師やカウンセラー、そして夫と話し合い、進行を遅らせる抗がん剤をやめて、緩和ケアに進むことを決めた。
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」は、58歳で急逝した山本さんの最後のメッセージだ。まるで夫とふたりで無人島に流されてしまったかのようなコロナ禍での闘病の日々を、日記として書き残した。がんの痛みや発熱の苦しみ、これまでの人生、夫への感謝と心配、「書きたい」という尽きせぬ思いが滲み出ている。本書は5月24日から亡くなる9日前の10月4日までの日記だ。
山本さんは2006年12月軽井沢のマンションを仕事場として購入。2020年4月には軽井沢で夫と初めての同居生活を開始した。 5月26日は地元で緩和ケアをやっているクリニックの初診日だ。「クリニックを訪ねてみると、そこはまったく病院らしさがない、別荘のような建物だった。壁は白くて、大きな窓の外は新緑がきれいで、裏の林に置いた椅子でスタッフが打ち合わせをしているのが見えた。私と夫は庭に面した部屋に通されて、女性スタッフと向き合った」
「私の長い話をクリニックの先生は遮らずに聞いて下さった。家族以外とこんなに病気のことをフラットに話せたのは初めてだった。よかった。本当によかった。私、うまく死ねそうです」
8月2日、「今、私は痛み止めを飲み、吐き気止めを飲み、ステロイドを飲み、たまに抗生剤を点滴されたり、大きい病院で検査を受け、訪問診療の医師に泣き言を言ったり、冗談を言ったり、夫に生活の世話をほとんどしてもらったり、ぐちを聞いてもらったり、涙を受け止めてもらったりして、病から逃げている。逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない」
9月3日、クリニックの先生から「病気はここのところ急激に進んでいる様子だ。そろそろ週単位で時間を見て、会いたい人に会っておいたり、やり残したことをした方がいいかもしれない。そう言われて、お腹が楽になったと喜んでいた私と夫は固まった」
「ふたりで暮らしていた無人島だが、あと数週間で夫は本島に帰り、私は無人島に残る時がもうすぐ来るらしい」
「無人島のふたり」は異色の闘病記で、それは読者が不愉快になったり、苦しい気持ちにならないように気遣っているからだ。ユーモアを失わず、「つらい話をここまで読んで下さり、ありがとうございました」と書くことは誰でもできることではないだろう。角田光代さんは、闘病記はたいていの場合、読み手が寄り添うが、「無人島のふたり」ではそれが反転すると言う。
「書き手が読み手に寄り添うのだ、がんばれと言う。生きろと言う。笑ってと言う。だいじょうぶだと言う」
最後の日記は10月4日になった。「・・・今日はここまでとさせてください。明日また書けましたら、明日」