最新の治療法など、地元の医療情報を提供する「メディカルはこだて」の編集長雑記。

函館で地域限定の医療・介護雑誌を発刊している超零細出版社「メディカルはこだて」編集長の孤軍奮闘よれよれ・ときどき山便り。

「AKIHIKOの会」について

2015年01月30日 14時52分24秒 | メディカルはこだて
最新号で特集した「函館ゆかりの国際報道写真家。岡村昭彦の戦場からホスピスへ」については発刊以来、知人や読者などから次々と感想が寄せられている。
岡村昭彦が多くの人の記憶にあることを再認識されられた。

フォトジャーナリスト岡村昭彦が投げかけた問いや課題に沿い、講演会、ゼミ、写真展を 開催、岡村昭彦研究誌「シャッター以前」を発行している「AKIHIKOの会」がある。
ホームページのアドレスは、http://sanshi.kazekusa.jp
1993年岡村昭彦が残していった人脈に連なる人々によって開かれた没後8年目の「岡村昭彦の会」の集いのあと、世話人が今後の活動について話し合い、通称を「AKIHIKOの会」として発足した。
活動は、(1)「AKIHIKOの会」を毎年3月24日の命日前後に行う。(2)岡村昭彦研究『シャッター以前』の刊行継続。(3)「AKIHIKOゼミ」の開催。(4)会報の発行等の活動。
以来、「AKIHIKOの会」は毎年開催、例年70人前後が参加。メインゲストとしては、岡村昭彦の業績に即して武谷三男、むのたけじ、浅井久仁臣、木村利人、栗本藤基、横山瑞生、山崎章郎、内藤いづみ、石川文洋、芹沢俊介、本橋成一、廣田尚久、二ノ坂保喜、長倉洋海、佐藤健、鈴木博信など、広い分野から講演を行っている。
同会は、会長なし、会則なし、会費なし。世話人が会報(現在20号)と岡村昭彦研究誌『シャッター以前』(現在5号)を不定期に発行し、また随時写真展、AKIHIKOゼミなどを開いている。会員は約300名。
世話人は池上正治、岡村春彦、暮尾淳、白石忠男、高草木光一、玉木明、戸田徹男、戸田昌子、中川道夫、比留間洋一、細野容子、松澤和正、横山巌、吉田敏浩、米沢慧(50音順、2014.12.6現在)。

「AKIHIKOの会」活動の経緯について、同会では岡村昭彦研究『シャッター以前』5号(2010年2月発行)の「刊行にあたって」から紹介している。内容は下記の通り。

1990年2月24日、岡村昭彦の没後5周年の命日に『シャッター以前』創刊号を出した。東京での大きな追悼写真展と対をなす形での発行だった。
2号は没後10周年の1995年(阪神大震災の春)。戦後50年の節目のなかでアキヒコ発見・アキヒコ検証といった試みがなされた。3号はホスピスの理念を21世紀に送り届けるべく『定本・ホスピスへの遠い道』の刊行直前の1999年。第4号は没後20周年(2005年)。ここでもベトナム戦争終結30周年、さらに戦後60周年とも重なる視野にあって、金嬉老裁判、ベトナム戦争、さらに21世紀の医療・看護の3つの特集となった。
そして没後25周年にあたる5号の『シャッター以前』は「20世紀のアキヒコ」から「21世紀のアキヒコ」へ一歩踏みこんだ視点に立つ編集になった。
その背景の1つは岡村の蔵書約1万6000冊が静岡県立大学附属図書館内で「岡村文庫」として開架オープン、あわせて大学内で岡村文書研究会が発足始動したこと。もうひとつは第33回日本死の臨床研究会年次大会(2009年)のメイン・シンポジウムに「日本のホスピス運動黎明期と岡村昭彦」が採りあげられたこと。
つまり、岡村昭彦は歴史研究の対象になっただけではなく、21世紀を歩む足元を照らす存在としてなお健在であるということである。今回は「岡村文庫を読み解く」「岡村昭彦2010」をはじめ、力作ぞろいの増ページ特集で応えられている。

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函館ゆかりの国際報道写真家。岡村昭彦の戦場からホスピスへ

2015年01月28日 21時39分09秒 | メディカルはこだて
最新号(第53号)の特集は、函館ゆかりの国際報道写真家、岡村昭彦が日本のホスピス運動黎明期に果たした大きな足跡に関すること。さらに昨年7月に春秋社から発刊された「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」の監訳者である元岐阜大学医学部看護学科教授の細野容子さん(京都市在住)に、岡村昭彦との出会いや19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくったエイケンヘッドの知られざる生涯とその功績について話を聞いた。

記事は8ページ(約1万2千字)になった。その一部を紹介する。

◎岡村昭彦の写真展。東京都写真美術館で開催
 世界でも数少ない写真と映像の専門美術館として恵比寿ガーデンプレイスに開館した東京都写真美術館。多彩な企画展を中心に積極的に内外の写真作品の紹介や映像文化にも力を入れている。この美術館へ足を運んだのは、まだ暑い日差しが残る昨年9月の中旬。3階展示室で開催中の「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」展には、平日の昼下がりにも関わらず次々に人が訪れている。特に目立ったのは若い人や外国人の姿だった。
 写真展のことを教えてくれたのは十字街にある栄文堂書店(函館市末広町)の佐藤純子さん。岡村の長女である佐藤さんからは写真展のリーフレットと発刊したばかりの「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」(ジューナル・S・ブレイク著、浅田仁子訳、細野容子監訳)、そして監訳者で元岐阜大学医学部看護学科教授の細野容子さん(京都市在住)の連絡先を渡される。ベトナム戦争の著名な写真家だった岡村昭彦(1928~85)は日本のホスピス運動にも深く関わっていた。


恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館。


◎第2のロバート・キャパ
 ベトナム戦争を取材した日本の報道写真家には、ピュリツァー賞を受賞した沢田教一や酒井淑夫らがいるが、その先駆けともいえるのが岡村昭彦だった。岡村は1963年南ベトナムの首都サイゴンに入り、64年6月21日号の「ライフ」に9ページにわたり掲載されたベトナム戦争の写真により注目される。ライフ誌は岡村を「第2のロバート・キャパ」と称賛した。
 展示作品は5万点におよぶフィルムから、未発表のものを含めて182点が選ばれた。岡村は報道写真にカラーを用いた先駆者とも言われているが、展示もそのほとんどがカラー写真で、モノクロ写真が標準だった時代では画期的なことだ。展示作品の最初は 年当時の南ベトナムの戦火の街角や戦場の写真が多い。待ち伏せにあって殺された政府軍兵士の遺体や米軍のポンチョに包まれた政府軍兵士の遺体。ベトコン被疑者であるとして捕えられた若い農民を仰向けに倒して顔に布をかぶせ、その上から水を注ぐ拷問を行っているが、すぐそばにはその水を飲むアヒルがいる。ヘルメットに花を飾っている政府軍兵士は腰に手をあてておどけているようだが、赤い花からは血の色を連想させる。岡村にとって戦場は日常の延長線上にあった。


「シャッター以前 Vol.5」(岡村昭彦の会2010年発行)の表紙
35歳の岡村昭彦。年表によれば、1964年2月ソウルへ行き、ミサイル基地で少年射殺事件を取材とある。
漢江(ハンガン)が凍っていることから、このときと思われる。撮影者不明。


◎当別のトラピスト修道院で客室係として働き、栄文堂書店の娘と結婚
 岡村は1929年海軍兵学校出身の大日本帝国海軍将校・岡村於菟彦の長男として生まれた。45年東京医学専門学校(現・東京医科大学)に進学するが、47年同校を中退する。中退の理由は学費値上げを企図した学校当局に反対して、学長である伯父の緒方知三郎の前で演説をしたことによる。52年暮れからは函館郊外の当別トラピスト修道院に客室係として働き、キリスト教についての本などを読みあさる。54年25歳のときに函館市内の十字街電停近くの書店「栄文堂」で働き、娘の齋藤和子さんとの間に長女・純子さんが誕生する。その後、離婚した岡村は母の住む浜名湖畔の舞阪町と函館を往来したりしながら、出版流通についての仕事やラジオドラマを書いていた。
 岡村は当別に住む前は医師法違反などで51年12月釧路刑務所に送検留置されていた。その岡村を保釈するために奔走し、釧路刑務所で岡村と面会した後に52年1月自ら命を経ったのが加清純子、渡辺淳一の「阿寒に果つ」の主人公のモデルとなった天才少女画家である。

◎ホスピスへの基点。「人権運動としてのホスピス」と題された序論
 岡村は1963年「ライフ」の表紙を飾ったDNA二重螺旋モデルに関心を示し、後にバイオエシックスやホスピスへとその活動を延ばしていった。晩年はホスピスの源流をアイルランドのメアリー・エイケンヘッドに求め、アイルランドからの発信を続ける。岡村はアメリカからバイオエシックスを導入する先駆けとなった。
 遺作となった「ホスピスへの遠い道」は、「人権運動としてのホスピス」と題された序論から始まる。そして「アイルランドから見える世界の広がり」「われわれはいま、どんな時代に生きているのか」「人間の健康な部分と病院という虚構について」「市民ホスピス」「マザー・エイケンヘッドの娘たち」と続く。ホスピスは単なる医療機関でも、あるいはその補助機関でもない。岡村は社会的弱者である死にゆく者と一緒に住むホスピスは、治療ではなくケアが中心であり、だからこそ医者ではなく看護師が中心にならなければならないと主張した。

◎「ホスピスへの遠い道」を輪読。二ノ坂保喜院長が始めた勉強会
 「ホスピスへの遠い道」に衝撃を受けた一人が福岡市で在宅医としてホスピスに取り組んでいる、にのさかクリニック院長の二ノ坂保喜氏だ。二ノ坂院長は「シャッター以前Vol3」(岡村昭彦の会発行、1993年)で次のように述べている。「人権運動としてのホスピスで始まるこの本は、文字どおり私に衝撃を与えました。ホスピスとは甘いものではなく、人々の苦しい戦いの中から生まれ出たものだということを知ったのです。それはバイオエシックスの考え方から生まれたものでした。あるいは、ホスピスを初めとするいろんなケアに関わる活動が、バイオエシックスを生み出したといってもいいと思います」。


定本 ホスピスへの遠い道 現代ホスピスのバックグラウンドを知るために
岡村昭彦・著 春秋社発行 3200円(税別)


◎看護師対象の「名古屋ゼミ」で細野容子さんは岡村昭彦と出会う
 岡村が開いた自主ゼミのひとつが「名古屋ゼミ」(1982年4月~1983年3月)だった。この名古屋ゼミで「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」監訳者の細野容子さんは岡村と出会った。きっかけは細野さんへの医学書出版社編集長からの「岡村が現役看護師を探しているから会ってよ」という1本の電話だった。細野さんは前年末に翻訳された「ホスピスー末期ガンの宣告ー」を急いで読み、夕方に教会で岡村に会った。
 「笑顔の優しい大男が近づき名前を名乗り、小さな私に大きな課題を投げかけたのです」。次に会ったときには舞阪の自宅へ招かれ、短大の最終ゼミを見学するために浜松へ同伴した。「それ以後、企画や運営準備などを2カ月でしなければならないと認識したときには、もう後へ引くことができなくなっていました。岡村は知・情・意を超え、五官を通し、肌に染み入るように塾生へ知識や思いを伝え、生活の仕方までも届けてくれました。看護師に一般教養を伝えることを中心にした岡村の生活は厳しくも豊かさが垣間見えるものでした」。

◎岡村が「名古屋ゼミ」で問いかけたこととは
 名古屋ゼミの会場には座標軸を異にする3枚の世界地図が貼られ、机の上には多くの書籍や資料が並べられた。塾生は現役看護師で、大阪や奈良からも出席し、岡村を中心にして座り、オブザーバーは教室方式で正面に向う。一堂に会するのは1年12回。午前9時から午後5時まで昼食時間を除いて岡村のワンマンショーだ。
 「名古屋ゼミの間、岡村の活動は母親の会などの従来の活動はもちろんのこと、看護教育月刊誌に『ホスピスのバックグランドを知るために』『ホスピスへの遠い道』の執筆、さらには海外へ出向き資料を集め、直接に伝達する努力を怠りませんでした。フィールドが必要となれば安曇病院でボランティアをして泊り込みましたが、それには患者も仲間として加わり、多職種や主婦からの知恵も医療へ取り入れています。また岡村の口コミでオブザーバーや報道者が常に参加していました」。

◎アイルランドで世界初のホスピスをつくったエイケンヘッドの生涯
 昨年7月に春秋社から発刊された「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」は、19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくったマザー・エイケンヘッドの知られざる生涯とその功績をたどるもので、ナイチンゲールやソンダース、マザー・テレサたちに影響を与えた修道会創始者エイケンヘッドについて書かれた日本で唯一の書籍だ。
 愛の姉妹会の創設者メアリー・エイケンヘッドは、1787年アイルランドのコークに生まれる。英国国教会派の洗礼を受けるが、1802年15歳のときにカトリックに改宗。15歳の少女が葛藤の末にプロテスタントという支配的立場の一員としての特権を放棄する決意をし、19紀初期のアイルランドでは軽蔑の対象だった貧民の宗教を選択した。彼女には長年抱いていた夢があった。それは貧しい人びと、特に貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開くことだった。1834年ダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院。英語圏で修道女がスタッフとして働いた最初の病院で、1病棟にシスターを2人、医師を1人配するなど、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院となった。この種はしっかりと根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長を続けている。


ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド
ジューナル・S・ブレイク著、浅田仁子訳、細野容子監訳


◎エイケンヘッドの足跡をたどる細野さんの旅
 「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」の監訳者である細野さんはエイケンヘッドの足跡をたどり、その精神が現在にどう引き継がれているのかを確かめるため、2013年9月アイルランドへ向かった。岡村はアイルランドの地で100年以上も前からホスピス運動が起こっていることを検証するためにアイルランドからイギリスやオーストラリア、フランスへも行動範囲を広げ、それらの記録を「ホスピスへの遠い道」という長大なルポルタージュにまとめる構想をもっていた。
 「未完に終わったその仕事や講義録などを読むことで、彼の死後も私なりにエイケンヘッドの輪郭を求めてきましたが、その多様な活動と『ホスピス』との接点がはっきりとイメージできないところが残りました。エイケンヘッドの死後155年が経過した現在のアイルランドに、彼女の精神はどう受け継がれ、それはホスピスとどう繋がっているのか。本書に登場する現地を実際に訪ねて、土地の空気や人にふれた 日間の旅でした」と細野さんは話す。

◎実質的にイギリスの植民地。エイケンヘッドの時代背景
 16世紀のアイルランドはイングランドのヘンリー八世がアイルランド王の称号を得て支配を強化することで実質的にイギリスの植民地となった。1559年の名誉革命によってカトリックに対抗する英国国教会が成立すると同時に苛烈なカトリック弾圧がアイルランドでも開始される。カトリック教徒の議会や公職からの追放を命じ、土地も没収する「カトリック刑罰法」が制定されたことにより、アイルランド人の多くを占めるカトリック教徒は、貧しい小作農として生きることを余儀なくされた。1801年にはアイルランド議会は廃止され、完全にイギリスに併合される。

◎エイケンヘッドと「四人の母」
 「看護を近代的な職業として確立したとされるナイチンゲールと、エイケンヘッドの年の差は34歳。二人の直接的な接点は今のところ私には確認できていませんが、『愛の姉妹会』へナイチンゲールが2通の手紙を出していることは明らかです。ナイチンゲールが看護の訓練を積もうとしていた頃は、アイルランドのシスターの看護が先行しており、視察、研修を望んだものと思われます。近代ホスピス運動の原動力となったシシリー・ソンダースも『愛の姉妹会』のシスターから学び、マザー・テレサもインドへ赴く前に、看護の訓練をアイルランドで行いました。日本の看護教育でこの看護の原点・精神を伝えることができるならば・・」と細野さんは教えてくれる。二人がそれぞれ生きた場所は、エイケンヘッドは植民地アイルランド、ナイチンゲールは支配国のイギリスと対照的なものだった。

◎負の遺産を引き受けることにより未来を切り開け
 細野さんは看護の第一段階は受容であり、その対象となる人間を丸ごと受け入れることだが、日本人はそのことに慣れていないようだと指摘する。「だからこそ『ホスピスケア』を、『痛い』と訴える人にピンポイントで接し、『痛み』が緩和すれば治療・ケアしたと勘違いするシステムに変えてしまったのではないでしょうか」。

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「メディカルはこだて」の最新号が発刊

2015年01月24日 19時37分46秒 | メディカルはこだて
「メディカルはこだて」の冬号(第53号)が22日に発刊しました。



現在、函館市内および近郊の書店で販売中です。

【特集】
函館ゆかりの国際報道写真家 岡村昭彦の戦場からホスピスへ
ホスピスの源流を18世紀アイルランドに求めて 日本のホスピス運動黎明期に果たした大きな足跡
貧しい人々に生涯をささげた「ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド」の監訳者
元岐阜大学医学部看護学科教授の細野容子さん(京都市在住)に聞く

函館初の産業廃棄物「中間処理施設」「管理型最終処分場」が稼動。ゴミの「地産地消」を目指した「環境保全」の取り組み
岸 寛樹(株式会社西武建設運輸代表)

【トピックス・リポート】産科医療功労者に選ばれた函館中央病院。長年にわたり、地域の産科医療に貢献
橋本友幸(函館中央病院病院長)

【トピックス・リポート】開設から50周年を迎えた西堀病院。良質で温かみのある医療の実践を追求
小芝章剛(西堀病院理事長)

【トピックス・リポート】C型肝炎は選択肢が増えて全員が治る時代へ
山本義也(市立函館病院消化器内科主任医長)

【トピックス・リポート】開院以来、患者一人ひとりに合った丁寧な診療が評判リット
滝 健児(たき整形外科クリニック院長)

【トピックス・リポート】道南勤医協の5カ年計画がスタート。函館稜北病院の大幅なリニューアルが柱
宝福 尚(稜北クリニック事務長)
吉田清司(函館稜北病院事務次長)

【インタビュー】耳鼻咽喉科では道南初の手術ナビゲーションシステムを導入
赤澤 茂(函館中央病院耳鼻咽喉科科長)

情報の一元化を目標に診療の効率化を目指す。電子カルテの文書をIDーLinkの「ノート機能」に反映
後藤 琢(ごとう内科胃腸科院長)

高橋病院は医療・介護・生活支援統合ソフトを共同開発。地域で関わるすべての施設、職種がどの段階でも活用できる
高橋 肇(高橋病院理事長)

女性と子供のための癒しと治療の融合施術
畑瀬理惠子(なちゅら鍼灸院)

医療機器の点検を識別する「点検バン」
雲母公貴(函館五稜郭病院臨床工学科係長)

ホスピス便り 「家に帰る退院の日のピースサイン」」
田邑昌子(函館おしま病院ホスピス病棟看護師長)

患者の心得帳 「医療ではないこと」
細川直子

「ドクター・クローズアップ」 乳がんに求められるのは整容性を伴う手術
米澤仁志(函館五稜郭病院外科主任医長)

「ドクター・クローズアップ」 麻酔科では手術時麻酔だけでなく痛みの治療も提供
大村直久(函館おおむら整形外科病院副院長)

痛みとしびれに画期的な治療の「遠絡療法」とは
久米 守(久米整形外科院長)

貝原益軒の『養生訓』から(その5)
久保田達也(久保田内科胃腸科医院副院長)

「セラピア便り」  扇の要、函館から
平田 聡(特定非営利活動法人理事長)

お薦めの一冊 「医者いらずになる1分間健康法」
日隠 修 (栄好堂美原店スタッフ)

The 矯正インタビュー Before&After ⑩
古田樹己(ふるた矯正歯科院長)

診断・治療に能力を発揮するマイクロスコープ(歯科用顕微鏡)
川瀬 敬(川瀬デンタルクリニック院長)

インプラントの寿命は20年?
村田真介(吉田歯科口腔外科院長)

東洋医学の治療院から~臨床の実際 ⑪
益井 基(益井東洋治療院院長)

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ウスタビガの繭

2015年01月17日 06時47分18秒 | 新聞コラム
北海道新聞みなみ風の「立待岬」。
1月16日掲載のタイトルは「ウスタビガの繭」。



 真っ白な冬の森は緑の季節とは違った独特の香りがする。
 雪面には動物の足跡が残っている。キタキツネは直線的で、エゾユキウサギは後足と前足がY字のような形で並んでいる。こうした雪の上の動物が歩いた足跡や食事の跡、糞などの痕跡から、その動物の行動を読みとることをアニマル・トラッキングと呼んでいるが、見えない動物の姿を想像するのは冬の楽しみだ。
 森を進むと薄緑色の厚みのある葉っぱのような、釣鐘に似たものが細い枝にぶらさがっている。ウスタビガという蛾の繭だ。白い森の中では目立つ存在だが、葉が落ちるまでの森では見つけるのは相当に困難なはずだ。ウスタビガは漢字では薄手火蛾や薄足袋蛾と書く。手火(たひ)とは「たいまつ」のことだが、提灯も意味するようで、確かによく似ている。
 繭の上から下へ淡くグラデーションになっている薄緑色は見飽きることのない美しさだ。底には小さな穴が空いている。繭の中に水が溜まらないような水抜きの役目があるはずだ。
 安部公房の小説「赤い繭」では、帰る家のない「おれ」が大きな空っぽの繭になる。繭の中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っている。最後、その繭は彼の息子の玩具箱に移された。私は薄緑色の繭の中でしばらく休んでいたかった。目を閉じると緑色の壁が浮かんでくる。高い枝から雪が落ちてきた。
                                                   (メディカルはこだて発行・編集人)


ウスタビガの繭(1月上旬撮影)

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