私は初老男である。
やはり、人間には「波」があるようだ。
今の私には「落語の波」がきている。
気が付くとまた、落語ディーパを見ている。
特別編としての「死神」
演じるは柳家わさび。
一之輔が、この「死神」を演じるには彼がピッタリと言っていたが・・・・。
ちょっと何を言っているのかわからない。
落語は「面白おかしい」ものである。
それは間違いはない。
しかし、逆に「良くわからない噺」も少なくない。
「死神」も笑えるタイプの噺とは思えない。
故に「むずかしい噺」とも言える。
実は今「死神」は、私が初めて買った落語カセットである。
演じたのは三遊亭圓生。
高校生くらいの時だった。
落語の醍醐味でもあるのだが・・・・。
その噺を最初に聞いたのが「いつ・どこの・だれが演じたモノであるか」が非常に大事になる。
なぜなら、それを基準として同じ噺を聴くことになるからだ。
高校生の時に聞いた圓生の「死神」は、それほど「おもしろい」とは思わなかった。
しかし、おもしろいとあまり思わないのに「ひきつける力」は半端なかった。
そうした意味において、柳家わさびには酷だったかもしれない。
当たり前であるが、古典落語の世界は江戸時代から明治あたりが舞台になる。
当然、時が経てば経つほどその当時のことは「想像」になる。
演じる方も聴く方も。
その想像による解釈に、私のような初老男はついつい違和感を感じる時がある。
それが「落語」であるって思えればいいのだけれど。
その違和感さえ、力尽くで抑え込んでくれるような落語を聞かせてもらえないと・・・・許せないなぁ。
話が飛んでしまって申し訳ないが「寄席芸人伝」(古谷満敏著)という古いマンガがある。
その中に「八人芸」という芸があったことが書かれている。
マンガの中で「つまらない芸」と称されているのだが、私は見たことがない。
柳家わさびの「死神」は、その見たことのない「八人芸」に見えた。
そんな八人芸もどきをやらなくても、噺のおもしろさを伝えることはできるはずだ。
それができるようにならねば真打の名が泣くというモノだ。
彼はまだ若い。昨年真打になったばかりだ。
本人が言っていたように、この噺は「笑い」を求めるものでは無く「人間の生き死に」を際立たせることが噺の主であろう。
彼の今の若さで演じた「死神」は、やはりまだまだ「完成された」とは思えない。
20年後の彼の「死神」を楽しみにしよう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、落語家がいかに成長していくかを目の当たりにしますように。
May
「死神」のハイライトは、ラストであろう。最後の「倒れ方」にある。それまでの流れの中がどうであるかも当然大切なのだが・・・・。彼の倒れ方は、やはりちょっと勢いがありすぎるんじゃないかなぁ。