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雲南の回族・サイードシャムスッディーン8

2013-06-09 10:44:23 | Weblog
写真は大理付近の畑の中のため池(2004年1月撮影。)乾期のど真ん中でも高原には湖沼が多い。雨期には付近が水浸しになることも。そのため、雨期には崖の道が泥沼状態になったり、数百キロはあろうかという大岩がごとりと道をふさぐこともしばしば。運が悪ければ、岩が当たってしまったり、乗り込んだバスが崖下に落ちる事故がしばしば起こる。私も道の大岩のために一日、足止めを食ったり、道が流れてしまったので、目的地に行けなかったり、あの岩が当たっていたら危ないところだ、と肝を冷やしながら通りすぎたりしていた。ただし、ここ数年はひどい干ばつが続いているので、道がふさぐほどの大雨が降ったかと思うと、カラカラで用水路も干上がる、という深刻な事態が続いている。

【すぐれた行政手腕】
 このような武力にも勝るサイジャチですが、彼の本職は、将軍と呼ばれるような軍事専従者ではなく行政官でした。

 雲南では
①税を軽くし、
②行政単位の軍県を設置、
③屯田を実践し、
④松華坝ダムを造ったり河道を整備するなどの水利を行い、
④雲南の農業に内地の先進技術を伝え、
⑤成都から昆明への早馬を伝える駅路(高速通信網および高速道路)を整備し、
⑥橋をかけるといった交通網の整備を行い、
⑦日月蝕や季節を観測できる観測所を雲南に設け、薬局を設立し、病院を造る、といった天文、暦法、医学を雲南に伝え、
⑧孔子廟、イスラム教寺院を建立し、
⑨漢族に伝わる婚礼葬礼の制度を教えました。

 屯田や灌漑の設備などは、戦乱が長く続いた中原でもモンゴル帝国は行っていましたが、今まで進んだ技術が施されてこなかったところに技術を施し、その後も長く使われ続けたという点では、雲南に大きな変化をもたらしたといえます。

特に水利に関する土木関係は現在にも役に立つ礎となりました。日本でいうと、たとえば江戸時代に暴れ川だった利根川の流れを変えて銚子に流し込む水路を造った大土木工事のようなものでしょうか。

ダムから滇池への水道(みずみち)はそれほど都市を成立させる上で重要だったといえます。また、昆明での治水の遺跡としては、元代の松花坝のダムが、昆明では最古にして、今、唯一存在する古代水利設備だそうです。じつは文献には後漢の時代に益州郡太守の文斉が灌漑した、との記述があるのですが、その遺跡は現在のところ発見されてません。

 また成都-大渡河-建昌路-昆明へといたる駅伝、つまり早馬の整備が1278年(至元15年)に整ったとはいうもののなかなかの悪路で、雨期にあたる夏場には通行できなかったそうです。

 この駅伝の道については600年あまり後に、日本人が上海に立てた学校・東亜同文書院の学生らが卒業旅行に昆明からたどっています。それほどの悪路になるとは知らなかったのでしょう。日本から香港経由でベトナムへ。そこからホーチミンから滇越鉄道で昆明に入り、昆明からゆるゆると馬と徒歩で四川へと旅立つころにはどっぷり雨期に。道が川となり、本人たちは泥まみれ、ヒルには食われ、お供に雇っていた地元の人々はお金を持って逃げ出すという悲惨な卒業旅行をしたことが彼らの記録に残されています。         (つづく)
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