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閑話休題・新刊「死体は誰のものか」-比較文化史の視点から

2019-06-15 12:12:17 | Weblog
今回はおすすめしたい本。

 私の通った高校に学区内にある牧場の宿舎で一晩語り明かす、ティーチインという行事がありました。一部屋8人くらいで議論するのですが、そこにふらりと主催者である生徒会副会長が入ってきました。彼は静かな部屋を見つけては議論の火を焚きつける役割なのです。

ささやいたお題は
「人の死体があったら大事件だよね。でも、ここにハエの死体があったら、どう思う?」

真夜中。外はあいにくのこぬか雨で、星もなし、月もなし。どこまでもまっくらな牧場が続くだけ。怖くなって静まりかえった後、彼のもくろみ通り議論が白熱したことを思い出します。

死体の話はデリケートです。日常に語ることは、まずありません。語るとしたら非日常。でも、いずれは誰にでも訪れる瞬間でもあります。ましてや今は日本はじまって以来の高齢化社会。その頻度は増していくでしょう。ここらで少し、この問題を考えてみたい方にはぴったりの本です。

【日本の死体観を相対化】
日本では路上の死体はすぐブル-シートで覆い、人の目に触れないようにして現場検証をします。死体は生々しく、隠すもの。ところがこれが世界の常識というわけでもないのです。

中国やフィリピンでは事故防止用ポスターには、事故車とともに死者も当たり前のように写っていました。キリスト教の教会ではご存じのようにキリストのはりつけの痛々しい身体が一番中央に飾られています。

チベットでは死体を鳥に食べさせる鳥葬や魚に食べさせる水葬が行われています。彼らは、死体を古着と同じように考えていて、古着が他の人に活用されるように、死体が鳥や魚の役に立って、生まれ変わりを信じているのです。つまり輪廻転生。

チベット人は死者となったものを語ることは忌むべき事とされ、チベットでは過ぎ去った歴史はあまり記録されないのですが、これは死体の考え方の違いかしら、など、私自身いろいろと納得したり、発見したりすることがありました。

中国で古来よりたびたび発生する、死体を武器に民衆が権力に立ち向かう「図頼」。中国の映画や本にたびたび理解しがたい、しかもその後急展開するような場面がでてきて分からなかったのですが、このことなんだと得心できました。

死体を深く考察することで、考え方の基本に立ちかえることができる一冊です。


上田 信著
『死体は誰のものか』-比較文化史の視点から ちくま新書 800円+税
好評発売中
●週刊朝日、週刊現代、週刊東洋経済の書評でも取り上げられました!
https://bookmeter.com/books/13668485も。
https://www.amazon.co.jp/dp/toc/4480072241/ref=dp_toc?_encoding=UTF8&n=465392
https://ddnavi.com/review/544192/a/
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