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雲南でさかんだった屯牛4

2016-01-10 14:05:56 | Weblog
シャングリラよりさらに北方の徳欽の農村の牛。貧しい農村で若者はすべて外地に出稼ぎに出ているため、老人と小さい子供だけの村となっていた。牛は大型だがひどくやせているのが目に付く。
牛の栄養および世話の手が足りないのだろうか?

白黒ブチだがホルスタインではない。やや背骨にコブがあり、角は外側に湾曲している。様々な系譜を引いた牛のように思われる。

【牛と人の大移動】
孫茂に屯牛を買う命令がだされた数日後、以下の命令も下されました。

「景川侯曹震及び四川都指揮使司に精兵2万5000人を選び、軍器農具を支給し、雲南とさらに奥の品甸の地に屯田して征討を待つことを詔する」
(詔景川侯曹震及四川都指揮使司選精兵二萬五千人給軍器農具即雲南品甸之地屯種以俟征討
【明の太祖実録・巻184より】洪武20年(1387年)8月)

つまり雲南攻略で同地に居残った精兵にプラスして、牛、さらに武具と農具を持たせた精兵が加わることになりました。

さらにその数日後に雲南には単身赴任している軍士の家族にも一定の金額を支給した上で雲南に兵士の護送つきで送りこむ詔勅が出されました。
(詔在京軍士戍守雲南者其家屬俱遣詣戍所戶賜白金十兩鈔十錠令所過軍衛相繼護送 
【明の太祖実録・巻184より】洪武20年(1387年)8月乙亥)

今までにも何度か取り上げましたが雲南はいったん、明軍が制圧した後も他民族の反乱が相次ぎ、兵士らは引くに引けない状況でした。
 また屯田にはさらなる労働力が欠かせず、安定的に土地に人を張り付かせることで防衛の役割も果たさせる必要がありました。屯田は家族単位こそが重要なのです。

ところで雲南に移住する家族に支給される銀10両はどれほどの価値があったのでしょう。

目安ですが洪武28年以前に南京および沿海地区でおもに納められた税金で換算すると、銀1両は米2石、1石が明代は約70キロ強なので2石だと約140キロ強、つまり銀10両は米1400キロ相当分となります。(※1)

当然ながら一般家庭にとっては滅多に手に入らぬ大金です。お金欲しさに雲南に向かった家は、この時期、多かったことでしょう。

さて翌月9月乙巳には湖広からも精鋭4万5000人が雲南へ向かう命令が出されました。人が動けば、当然のごとく、牛も動かされます。

「今、家畜牛2万頭をかの屯田の地に行かせ、諸軍に分領させ、雑多な労役を免れた民に送って牛を従わせる」
(今又令市牛二萬往彼屯種、請令諸軍分領、以往、庶免勞民送發、從之【明の太祖高皇帝実録・巻185より】)

詔勅の通りに牛が集まったのかどうかはわかりませんが、ともかく、急ぎ労働用の牛を数万頭単位で雲南に送る光景が目に浮かびます。まるでかつてドキュメンタリー番組で見たアフリカのヌーの群れの大移動のようです。

参考文献
※1
郁維明撰『明代周忱對江南地區經濟社會的改革』臺灣商務印書館, 1990、56頁
【明太祖実録・巻255】洪武30年9月癸未より)

*本年もよろしくお願いします。雲南の牛が重層的な理由が長くなっております。
お忙しい方は、最後の段落をお読みください。まとめの段落にだいたいなります。
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