日本軍の弾薬庫跡近くの広場で遊ぶ子ども達。どこに行っても、子どもたちが群れて生き生きとして、かっこいい
写真下は、ドーム状に作られた日本軍の弾薬庫跡。写真上はその前に拡がる海。この先にはスマトラ島がある。
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【日本より涼しい】
唐突ですが、この夏、インドネシア北部にあるスマトラ島の、すぐ西にあるニアス島に行ってきました。旅行ガイドブック『地球の歩き方 インドネシア』ではたった1ページで書かれた小島の特集ページに世界的なサーフィンスポットとして紹介されているだけの島です。
まずシンガポールを経由してスマトラ島の商業都市・メダンへ。そこからプロペラ機に乗り換えるのですが、地図でみるとスマトラ島にへばりついたホクロのように、とても近い島のようです。それなのに飛行機で1時間もかかるとはどういうことなのか?
調べるとスマトラ島は日本の国土の1.25倍ある巨大な島だと分かりました。そこを事実上横断するのですから時間がかかるのです。
壁に貼られた四角い世界地図ではスマトラ島は日本の本州ぐらいの大きさにしか見えません。でも地球は丸いので、メルカトル図法の平面的な地図では緯度が高いほど、面積が大きく見えてしまう。つまり、日本は赤道直下のインドネシアより膨張して描かれているのです。この地図のマジック、中学校で習ったはずなのに実感で分かっていませんでした。
ニアス島はスマトラ島から125㎞沖合。ちょうど東京-沼津(静岡)ぐらいの距離です。
そして、赤道に近いにもかかわらず、シンガポールもメダンもニアス島も日本よりも湿度が低く、気温も30度いけば高温で、夜はクーラーがいらないほどの快適さ。低緯度の方が暑いに違いないと、日本で暑さに耐えるときのモチベーションにしていた私はショックをうけたのでした。
インドネシアでも日本の暑さは大きなニュースになっていたらしく地元の方に「日本は暑さで人が死ぬって本当ですか?」と聞かれ、暑さで死ぬ今の日本はやはりただごとではない、と、今更ながら愕然としたのでした。
【築かれた日本への絆】
さて島の面積は和歌山県くらいの大きさ。熱帯雨林に覆われ、いまだ外部の人間が一人で歩くと戻れないほど深い森が存在しています。かつては首狩りの風習もありましたが、今はなく、人々はごく普通に洋服で暮らしています。
また第2次世界大戦末期に日本軍が築いた弾薬庫跡が、スマトラ島側の海に向けて、崩れることなくコンサートでも開けそうなほど美しい構造物として残っていました。
2004年12月のスマトラ島沖地震による津波と2005年3月のニアス地震で甚大な被害を受け、世界中から支援の手が入りました。
日本からもさまざまな支援を行い、2009年3月からはJICAによって主要道路に地震にも強いという6つの橋がかけられました。日本の支援は、往々にして地元の人にほとんど知られず、ために感謝されることもなく終わりますが、このニアスでは、このコンクリートの橋の橋脚に日本とインドネシアの国旗が描かれ、日本が支援したことが誰の目にもはっきりと分かるようになっていました。
また、日本の様々な人達がいまも継続してニアス島に有形、無形の支援と信頼関係を丁寧に築いているため、小学校や中学校に行くと「アリ・ガトー」という日本語が聞かれたり、モジモジした後で弾けるような笑顔でうれしそうに抱きついてきたり、写真のツーショットをとりたがる人が多いこと。こんなことははじめての経験でした。
「将来は日本に留学したい」と目をキラキラさせて語る少年や、「JAPAN」Tシャツを着ている人も見ました。メダンでも、料理屋で見かけた青年のTシャツが「I ハートマーク JAPAN」だったことも。行動に打算がなく、素直に日本が好きなことが伝わってくるのです。(そうはいってもお年寄りのなかには、戦時中の日本軍のイメージが残り、日本にマイナスイメージを持つ人も当然います。)
ただ、世界の支援で立派な道路や橋ができたために、津波や地震でせっかく生き延びた人達がいま、交通事故でなくなっていくのが、残念です、と、いまもニアスで支援活動を行う日本の女性・高藤さんは語ってくれました。ガソリンスタンドができて、車やバイク保持者が増加するなど、生活も地震後、大きく変化したとのことです。
ともあれ、この日本への信頼は大切にしたいと感じました。
(つづく)
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