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インドネシアでブーム?の雲南② ニアスにて

2014-08-23 12:14:59 | Weblog

ニアス島南部のトゥルクダラム(TELUK DALAM )にあるネガリ第一中学校にて。津波の防災知識が語られた謡で踊る中学一年生。地元の民族衣装をアレンジした服を着た太鼓隊の前に立つ犬は、校長室だろうが、どこだろうが、顔パスで移動できる。おおらかな中学校のようだ。(2014年夏撮影)


【日本発 津波の防災教育】
さて、ニアス島は和歌山県くらいの大きさです。熱帯雨林に覆われ、いまだ外部の人間が一人で歩くと戻れないほど深い森も存在しています。かつては首狩りの風習もありましたが、私が行ったときには博物館に痕跡があるのみで、今ではごく普通の暮らしです。
 第2次世界大戦末期に日本軍が築いた弾薬庫跡が、スマトラ島側の海に向けて、崩れることなくコンサートでも開けそうなほど美しい構造物として残っていました。

じつは、この島は2004年12月のスマトラ島沖地震による津波と2005年3月のニアス地震で甚大な被害を受けました。

津波は今までも200年に一度くらいのペースで島を襲っていたのですが、昔のよくない事柄を語るのは不吉との風習が根強かったために、現代には津波という現象はまったく伝えられていませんでした。そこへ大地震。直後に大きく波が引き魚が手づかみでとれ放題だと大勢が浜に出て、そのまま津波にのまれてしまったのでした。

このために世界中から支援の手が入りました。

日本も国レベル、民間レベルでさまざまな支援を行い、2009年3月からはJICAによって主要道路に地震にも強いという6つの橋がかけられました。このコンクリート橋の橋脚には日本とインドネシアの国旗が描かれています。

今回行った目的の一つは日本からいまも様々な支援の手が伸びているなかで、日本の高藤洋子さんの活動を知ることでした。

彼女は現地の人々が津波と地震から立ち直り、日常を取り戻した現在、津波の被害を今後、出さないために地元に伝わる謡のリズムに「津波がきたら、高い山にまず避難するんだよ」という津波から身を守るための内容の歌詞を地元の言葉でつけて、広める、という活動を行っているのです。

その手始めに地元の小学校や中学校で教え広める活動からスタートしました。こうすれば子どもを通じて親も知ることができます。さらに次の200年後に向けて教訓が伝わればという、じつに壮大で息の長い活動を目指しているのです。

まず島の南にある中学校に行きました。建物は午前は小学校、午後は中学校として使われていました。インドネシアは日本と違って子どもの数は学校が不足するほど多いのです。(インドネシアの人口は中国、インド、アメリカ合衆国に次いで第4位。現在2億3700万人を超えている。)

その日は高藤さんが学校にくる、というので中学校は大賑わい。いかにも中学校の体育の先生のような男性教諭が拡声器を使って子ども達を並ばせます。子ども達は大人に従うふりをして、キャーキャーいいながら外国のお客さんをのぞきにきたり、飲み物を飲んでブラブラしたりと、なんとものんびり。私の中学時代よりも、よっぽどのびのびとして幸せそうです。

高藤さん考案の津波の防災踊りのために子ども達は地元の民族衣装を着け、少年、少女が太鼓を叩きながら、ちょっとやらされ感のある雰囲気で謡い、踊っていました。(小学生は、もう、真剣。健全な中学生なのだ!)。単純な踊りだというので、途中から私も加わったのですが、私のあまりにセンスのない動きに子ども達は、笑い転げていました。「これはバツゲーム?」と思うほど、私には苛酷な時間ではありましたが、その後、なんとなく慕われたのは、体を張ったおかげ、と思うことにして自分をなぐさめておりました。
    (つづく)
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