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話の横道の横道・福建にて

2012-07-16 11:45:15 | Weblog

木材加工場の電話。従業員の私用を防ぐためか、電話番号を押す部分がしっかりと鍵で閉じられている。社長が鍵を持っているらしい。(2002年撮影)
【100円ショップと茶葉】
 ちなみに2000年代前半、福建省は日本の百円ショップの生産基地でもありました。木材を加工して木箱などを作る10人程度の小さな工場や竹細工の加工場などが山奥に点在しています。

(2000年代後半からは家具などの高級品も作るようになりました。当初は福建の木材を使って加工していましたが、品質の面からも徐々に木材の多くは北アメリカからの輸入ものが増え、いまでは9割以上を占めるようになりました。)


 また、木材をチップにして、それをビニール袋にぎゅうぎゅうに入れて、ぼちぼちとところどころに穴を開けて菌糸を埋め込み、遮光された小屋で作る椎茸や、文革以来のお茶栽培もさかんに行われていました。(日本に多く輸出されるものです。)

 行った頃は8月前半だったのですが、ジャスミンティーに使うジャスミンの花や、ウーロン茶などに使う茶葉の収穫シーズンに当たっていて、すばらしい香りが朝靄の畑に漂っていました。

 茶葉は丁寧に蒸されて、手もみされ、まずは緑茶の茶葉に加工されます。これまた山奥の茶畑の片隅にある加工場にいくと、加工途中のお茶が機械からはき出されて、コンクリートの床面にじかにはき出されていました。びっくりしたのは、その隣に大きな蝿がびっしりといて、音がぶんぶん聞こえる巨大なぼっとんトイレが併設されていたこと。

(写真は茶葉工場の最終工程。ここはきれい。)

 ここは、かつて文革時期(1969年からおよそ10年間)に北京や上海から10代後半の学生たちが送り込まれた知識人収容所でした。若い彼らだけで合宿生活を強制され、この辺りの茶畑を慣れない肉体労働の中で切り開いたのです、と地元の方から聞きました。

 このトイレは、その学生たちが使用していたものなのだそうです。
〔文革時代(1969年から10年間)、中国共産党中央は都会の学生を遠方の農村で労働させる「下放」政策を推進しました。都会の食料事情が極度に悪化したことと、政府への反抗などの余計な考えを持たせないための強制労働です。映画「紅いコーリャン」などを監督し、北京オリンピック開会式・閉会式の総合演出も行ったチャン・イーモウも、下放でずいぶん苦労したそうです。〕

 中国茶を入れる場合、作法としてまず、急須に熱湯を注いだら、一杯目はさっと捨てて茶葉を洗うのですが、この作業は必須なのだ、と、深く納得できました。

 日本だと、一杯目の濃い味を大切に飲みますよね。その習慣の違いから、日本人が中国茶を入れる場合は往々にして一杯目から大事に飲む傾向がありますが、これはとても危険な行為だったのです。

 福建に着いてからの楽しみに茶館でのティータイムがありました。
 ちょっとした大きな街にある、ちゃんとした茶館でいただくウーロン茶は日本で飲むのとは別物。芳醇な香りに酔い(本当にお酒を飲んだようによっぱらってしまうのだ)、甘い味に感動していました。

 ですが、あの茶葉の製造工程を見て以来、しばらくは口に含むのを、ためらうように。
 とはいえ、中国ではお茶なしでは、どうにも喉が渇いて生きてはいかれないので、やがて時間とともに、熱湯にさえくぐらせればオーケー、などと徐々にハードルは低くなっていきました・・。
                    
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