雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

カワクボ3

2008-04-04 15:32:11 | Weblog
写真は明永村から行ける氷河。氷河の側面やさらに上方までも緑が覆っている姿は低緯度地帯ならではの特殊な作り方がされた氷であることがうかがえる。

【シャオリンのしょいこ】
 翌日、再び明永村へ。漢語で発音する「ミンヨン」は、チベット語では火鉢を意味する。周辺地域に比べ、ここは標高2300メートルと低いため、奄美大島と同緯度ともなると、夏場は意外なほど気温が上がる。

 その日は晴天で、やっと念願の山頂を拝むことができた。そして6月だというのに、気温は20度を越えた。同行したチベット人の漢語通訳者は「暑い暑い」と真っ黒な長袖長ズボンの姿で玉のような汗をたらし、昼過ぎにはすっかり、バテて、へたり込んでしまった。でもけっして薄着になろうとする意識はない。なるほど現地の人にとっては「火鉢」なのだ。

 その村長宅で意外な話を聞いた。「シャオリン」という日本人青年がこの家に寝泊まりし、10年かけて登山隊の遺体を収容して帰ったというのだ。遺体が氷河からはき出されるたびに、彼はしょいこを担いで上がり、チベット圏から離れた雲南省の大理まで運んで荼毘にふしていたのだという。

 「最初は中国語もしゃべれなかったが、最後には我々の話すチベット語もしゃべっていたな。」と村長。奥さんは「あまり食べない男の人でした」と、やはり懐かしそうに語る。「シャオリン」さんはこの村の人々の日本人感を着実に和らげていたようだ。

 その村では「シャオリン」という人名以外の確実な情報は得られなかったが、その後の調べで、その登山隊が京大山岳部のチームで、1991年のアタック時に雪崩に巻き込まれ、日中あわせて17人が死亡し、当時の新聞でも大々的に報じられていたことがわかった。そして偶然にも日本での私の農業仲間のおいっこが、その犠牲者の一人であった。

 不思議な縁を感じ、「シャオリン」こと小林尚礼さんにお会いした。
てっきり、京大山岳部のOBらが若手をくどいて「就職は俺らにまかせろ」とでもいって、無理矢理、現地に送り込んだのかと予想していた。しかし実際には、小林さん自身が、遭難のあった翌年、氷河から遺体があらわれたという現地からの連絡を受けたのを機に会社つとめをやめ、誰に言われるでもなく単身、村に住み着いたことを知った。

 聖なる山をけがされ、飲み水の水源を文字通りけがされた村人が日本人に対する嫌悪の情を増していくなか、村長は彼の希望を受け入れ、家に泊め、見返りを一切求めることなく、登山隊の遺体収容の手助けをし続けたのだという。

 彼は現在、山岳カメラマンとして活躍し、村との往復を続けている。つい最近では今までの返礼として村長の娘の日本留学の手助けをした、と2008年3月22日の「毎日新聞」で、紹介されていた。

 また、話はかわるが梅里雪山は1902年からイギリスをはじめアメリカ、日本と相次いで大規模登山隊がアタックしているが、いまだ登頂が果たされていない処女峰である。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カワクボ2 | トップ | めざせ 東洋のハリウッド! »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事