寺田寅彦(1878~1935年)の歌のパロディ「好きなもの 朝日コーヒー 花美人 押し照る浪速 写真撮影」にちなんだ「なにわの朝日」と、寺田寅彦のオリジナリティについて紹介しましょう。 この日の大阪港は快晴、JR難波駅近くの高層ビルの間から朝日が顔を出しました。
寺田の3年後輩の物理学者、石原純は、寅彦を「音楽を愛好してバイオリンやセロを弾じ、油絵や写真を楽しみ、俳諧の深い味を会得し、そうして好きな科学的思索に耽りながら、一方では自由に文章を綴って静かに心を語っておられたことは、かなり恵まれた生活であったと思われる」と書いています。 拡大すると、ビルの間からの朝日という状況が良く判ると思います。
寺田寅彦のスタイルに大きな影響を与えたのはイギリス貴族のノーベル賞物理学者レイリー卿で、レイリー卿の研究は、彼の屋敷の広大な敷地中にあった私的実験室の中で、彼個人の研究資金で成し遂げられたのです。 下の写真は、1週間前の日の出の位置なので、太陽が左(北)に移動しているのが判ります。
レイリー卿は、組織に縛られることなく、好奇心の赴くまま自由にテーマを選び、趣味の世界での遊びの中からノーベル賞(1904年)受賞対象となった新元素アルゴンの発見をしています。 太陽はルネッサなんばタワービル(高さ138m)の背後から昇ってきます。
夏目漱石門下の文人物理学者と呼ばれる寅彦が生涯に著した学術論文は、267編(英文209、日文58)科学者として精力的であったことが伺われます。 ルネッサなんばタワービルによる部分日食となっています。
一方、科学解説などを含めた随筆や俳句はこれをはるかに上回り、東大の主任教授だった長岡半太郎が彼の随筆の執筆や俳句に苦言を呈したという伝説があるくらいでした。 朝日は、生駒山の稜線を超えたようです。
そのきっかけは、東大講師だった1907年、高校時代の恩師、夏目漱石から勧められて朝日新聞に連載し始めた科学ニュースに関するコラムでした。 ワイド画面でも見てみましょう。
寺田寅彦は狭い分野で大きな業績を挙げた人というよりも、科学から文学に亘る大きな世界で、先駆者として、啓蒙家として活躍して、現在までさまざまな方面に影響を与えた人として評価すべきと、東大の後輩で元文部大臣の有馬朗人が書いています。 押し照る朝日となりました。
「天災は忘れた頃にやってくる」は、寺田寅彦の言葉として良く知られていますが、東日本大震災を経験した今、寺田の言葉をかみしめる必要があります。 ずっと南にあるあべのハルカスです。
大阪で早起きした人は、高層ビルの後ろから昇る朝日を見ることができます。
参考文献:寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学 小山慶太著