野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



フェリーさんふらわの旅の記事の途中ですが、奈良県立美術館で4月から開催されている藤城清治影絵展に有給休暇を取って行ってきました。

平日なので空いているのではと思い、近鉄難波発10時15分の急行に乗り、奈良県立美術館の前まで来たら10時50分頃。

ところが、美術館前にはテントが張られ、大勢の入場者が待っているではありませんか。

急いで窓口に並び、パンフレットに付いていたクーポン券を渡して1000円(定価は1200円)の入場券を購入します。チケット売り場前から写した入場待ちの行列。

入場整理の係員に聞いてみると、会期が終わり(6月24日まで)に近くなったので、最近は平日でもお客が多く、この時間はいつも入場制限をしているとか。結局、このテントの下で15分ほど待つことになりました。

結局入場できたのが11時10分。ゆっくりと見るのなら、平日でも9時の開場時間に並ぶのが良さそうです。さて、249点もある藤城さんの作品が展示されていて、鏡や水の反射効果を狙った演出が良かったと思います。内部は撮影禁止なので入り口の看板だけ写しておきました。

看板、パンフレット、チケットなどに使われている下の写真左側の作品は、意外と小さなものでしたが、迫力ある巨大な作品も多く、すべて藤城さんが剃刀の刃を使って紙を切り抜いたものです。大作では、作品の完成まで、何と5万枚の剃刀を使ったこともあると書かれていました。剃刀を1日に100枚使うとして5万枚なら500日、作品を完成させるまでの作業がどれほど大変かが判ります。

かなり混雑していた美術館を12時半頃に出て、奈良県庁前の公園で休んでいると、修学旅行の女子高校生が公園にいた男の子の倒立を見て、一緒にやりましょうと、逆立ちを始めました。

逆立ちする前に、持参した体操ズボンをスカートの下に穿く準備をしてから、しっかりと3点倒立を決めています。女子高生の姿勢の方が決まっています。

梅雨の晴れ間の平日にあった、奈良公園でのほほえましい出来事でした。



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ちょっと前の話になりますが、「フェリーさんふらわあ」に乗って夜の明石海峡大橋を見る機会がありました。19時55分、大阪南港を出港した直後のフェリーから。

21時少し前に明石海峡が見えてきました。揺れる船から陸の夜景をぶれないように撮るのは、かつて至難の業でした。

 ちょうど21時、明石海峡大橋のイルミネーションが虹色に変わります。中央は神戸市垂水区の明かりでしょう。

船の左側からは、淡路島の海岸線に点在する明かりが見えています。淡路側主塔上の光は、神戸空港に着陸する飛行機でしょう。こちら側は暗いので、この写真は少しぶれて写っていますね。

「フェリーさんふらわあ」が時速約40kmのスピードで橋を通過した直後、垂水区側主塔を狙ってみました。

フェリーは、瞬く間に橋から遠ざかってゆきます。神戸市側が明るいので、ついレンズはそちらを向いてしまいます。

明石海峡大橋のイルミネーションがまるで「フェリーさんふらわ」のイルミネーションのように見えています。

橋の下をくぐった船は、ゆっくりと右に舵をとり、橋全体が姿を現してきます。

このポイントまで来ると、船の後ろに明石海峡大橋がすべて見渡せるようになり、このあと急速に遠ざかってゆくのです。

「フェリーさんふらわあ」は、夜中の瀬戸内海を西に向かって航行を続け、明日はいよいよ別府に入港です。

つづく

 



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この日の大阪港のシーサイドコスモは、どんとりとした天気で、東の空には雲がかかっているようです。

この状態なら、先日紹介した下の写真ような朝日を見ることはどうやら難しそうです。

諦めかけていたら、正面のビルの上の雲の切れ間から、太陽が半分顔を覗かせました。

同じ場所から前に撮影した写真と比べると、太陽が少し左に移動していることが判ります。

暫くすると、雲の切れ間から丸い太陽が現れました。

これだけ高度が高くなっても「押し照る」状態にはなっていません。

ワイドでも見てみましょう。太陽の出る方位は、あと1週間くらいで1年で最も北寄りの位置(真北から60°)となります。この状態は夏至の頃に数日間続きます。

これが同じ場所から見た13日前の日の出写真です。太陽の位置が左に移動しています。

昇った太陽は、上空にある雲にまた少し隠れてしまいました。

これから梅雨の季節となるので、地平線近くから昇る朝日を見るのは難しくなると思います。

 



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ホテルモントレ グラスミア大阪の23階にある朝食レストランから見える景色は、素晴らしいの一言です。東側

東側、上本町付近の拡大

スイスホテル大阪と南海難波駅付近

ドリンクコーナーからは、北側の景色が見えています。

西側は、京セラドーム大阪から弁天町駅方向の景色が見えます。

窓際まで寄って北側をもう一度見てみましょう。

こんなところにもAPAホテルがありました。

中之島から梅田の高層ビル群です。

日航ホテルのある心斎橋から北浜方向の景色です。

 



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ホテルモントレ グラスミア大阪の朝食は、23階にある大宴会場(ウインダミアホール)です。シャンデリアと高い天井が豪華ですね。

朝食に海老のチリソースとは珍しい。

右の中華ちまき、つい3個も頂きました。

お粥に味噌汁

朝食バイキングの定番料理

サラダも朝食の定番アイテム

フルーツは6種類

パンコーナー。焼き立てのクロワッサンの味は優れ物でした。

大宴会場コーナーにあるドリンクコーナーです。

ホテルモントレ グラスミア大阪の朝食バイキング(大人2300円)は、なかなか良かったと思います。



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このホテルの客室フロア各階には、部外者が侵入できないようエレベータホールに宿泊ルームキーを当てると開く扉が設置してあります。これほどのセキュリティサービスをしているホテルは少ないのではないでしょうか。

客室ルームキーは、スロットにカードを挿入する古い方式ではなく、ドアノブの上のセンサーにカードを近づけるだけです。

今回宿泊したのは、スタンダードツイン、広さは23㎡。ベッドは、幅120センチ、長さ203センチと十分なサイズでした。

ベッドの正面には、32インチの液晶テレビとちょっとした仕事ができるデスクがあります。

テレビ台の下には電気ポットとカップ類が収納されています。左に少し写っているのは加湿機能付空気清浄機です。

デスクの右下に冷蔵庫。半分だけドリンク類が入っていました。

かなり狭いバストイレユニットですが、浴槽だけは十分な広さと深さがありました。従って中国の五つ星ホテルの浴槽よりもこちらのほうが遥かに快適でした。

トイレは勿論ウオッシュレット付き。タンクの上の棚が意外と便利でした。

ホテル客室は、すべて24階から上にあるので窓からの景色はなかなかのものです。

つづく



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寺田寅彦の歌「すきなもの いちごコーヒー 花美人 ふところ手して 宇宙見物」から、今回は映画で見た美人を紹介しましょう。

先日、ジョージ・クルーニー(51歳)主演の映画「ファミリー・ツリー」を見ていて、初来有望な美人女優を発見したのです。

ジョージ・クルーニーの作品は、「スーパー・チューズデー ~正義を売った日~」を見たばかりですが、その作品には特筆する美女は登場していませんでした。

映画「ファミリー・ツリー」に出ていた美人とは、長女アレクサンドラ(17歳)役のシェイリーン・ウッドリー(20歳、下の写真右)

この作品「ファミリー・ツリー」は、2012年1月の第69回ゴールデングローブ賞で映画作品賞(ドラマ部門)を受賞、ジョージ・クルーニーも同賞主演男優賞を受賞しています。

また、翌月の第84回アカデミー賞で脚色賞を受賞、米国では高く評価されている映画です。

シェイリーン・ウッドリー(左端)も、この作品でナショナル・ボード・オブ・レビューなど8つの映画賞から助演女優賞を受賞していますので、これからの成長が楽しみです。

映画のストーリーは、ハワイの広大な土地を先祖から受け継いでいる中年の弁護士マット・キングが、事故で植物状態となった妻の不倫を長女から告げられることからスタートします。

弁護士マット・キングは、娘達と、長女のボーイフレンドを連れ、カウアイ島でバカンスを過ごしている妻の不倫相手と対決するのです。

主役のジョージ・クルーニーが素晴らしいのは当然ですが、ストーリーが進行するにつれてシェイリーン・ウッドリー(左)扮する長女が次第に成長してゆく・・・彼女の自然な演技が見ものです。

サウンドトラックには、最初から最後までハワイ音楽が使われていて、ハワイにいるような気分にさせてくれます。



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下の写真の「なみはや大橋」は、港区福崎(左)と大正区鶴町(右)を結ぶ橋です。小説家の宮本輝さん(1947年〜)の作品に、この鶴町を舞台とした「こうもり」という短編があります。

脳科学者の茂木健一郎さんは「宮本輝さんが昭和の間に発表した作品達には、えもいわれぬ戦後の影の香りが立ち込めていて、それだのに作家の文章がさらりと美しいから、追憶の中にいるような気分になります。」(クオリア日記、2009年8月29日)と書いています。 生駒山の稜線から半分だけ出てきた朝日です。

「こうもり」は、主人公の「私」が偶然友人の「ランドウ」に会い、ランドウから鶴町3丁目にある彼女の家に一緒に行こうと誘われるところから始まります。生駒山から離れた朝日は、一旦ビルの後ろに隠れてしまいます。

二人は、大阪駅から市バスで大運橋まで行き、そこから歩いて鶴町3丁目の彼女の家を訪ねています。ビルによる日食状態が終わったところ。

大阪駅から大運橋までの交通機関を調べて見ると、55系統(鶴町4丁目行)という市バスが今も運行していました。これもビルの間の朝日ですね。

茂木健一郎さんは「知らない時代の知らない街が舞台なのに、ああこういう事があったのだと自然に入って来てしまう」と書いています。太陽を拡大してみました。

また、「とにかくこの方(宮本輝)の筆は偉そうではないのです、人や街や時間を見る視点が透き通って雪のような情緒です」。 ワイドでも見てみましょう。

「この、偉そうにならないというのが、気をつければ簡単なようで、出来ない人にはなかなか出来ないのです」と、絶賛しています。なみはや大橋に一部隠れた太陽面を車が通過してゆきます。

金星の太陽面通過は105年後ですが、大阪では天気の良い日に早起きすれば、車の太陽面通過現象を容易に見ることができます。

金星よりも車のほうが見かけのサイズが大きいので、こっちの方が迫力がありますね。

 



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寺田寅彦の歌「すきなもの いちご コーヒー 花美人 ふところ手して 宇宙見物にちなんで昨日撮影した金星の日面通過の写真をまとめて紹介しましょう。7時31分頃

金星の太陽面通過は、セットで8年離れた日に起きることが知られていて、今回は2004年にあった太陽面通過とセットだったのです。第二接触の直後 7時36分

金星が最初に太陽面と接する時を第一接触、金星が完全に太陽面に入って内接した瞬間を第二接触、金星が太陽面から出る直前に内接する瞬間を第三接触、金星が太陽面から離れる瞬間を第四接触と呼んでいます。9時49分

前回(2004年)の太陽面通過の際の日本では、途中経過のまま日没を迎えたので、第三接触以降の現象を観測できるのは1874年(明治7年)以来、つまり138年ぶりのこととなります。 10時

その第三接触の際には、金星と太陽の縁との間に黒いしずくのような影がつながる、ブラック・ドロップ効果(黒滴効果) が見られることが知られています。10時30分

この現象は、地球の大気によるものとされ、ちょうど海面から出る(海面に沈む)太陽が海とつながってダルマのように見えるダルマ太陽現象と同じと考えられています。11時30分

この現象があることで、金星の日面通過の正確な時間の測定を困難にし、18世紀に、地球と太陽までの距離を正確に測定しようとする試みを困難にしています。 12時51分

ダルマ太陽は、天気が良ければ毎日見ることができますが、金星のブラック・ドロップ効果を次に観測できるのは105年も先になるのです。13時21分

また大口径の望遠鏡を使えば、金星のブラック・ドロップ効果を最小限にすることができるようです。13時37分

次の金星の日面通過は、2117年12月11日だそうですが、これを再び見る人がいるのでしょうか。

 



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今日は金星の太陽面通過の日、有給休暇を取ってスタンバイしていたのですが、第一接触のある7時過ぎの大阪の空は、残念ながら曇りでした。

国立天文台のHPの地図によれば、今回の天体ショー、金星の太陽面通過を見るのに日本が絶好の位置にあるようです。アラスカでは日付変更線の関係で6月5日となります。

雲の切れ間から、第二接触が終わったばかりの金星を何とか見ることができました。金星の見かけの大きさは、太陽の1/30だそうですが、意外と大きいですね。

国立天文台のHPによれば、金星の一部が太陽面にあるとき、金星背後からの太陽光が金星大気で屈折し金星のふちが光って見える「オレオール現象」が現れることがあるそうです。

少し雲が切れた7時36分頃の金星は、第2接触が終わって完全に太陽の表面に移動しています。このあと雲のために一旦撮影を中断しました。

9時半頃から晴れてきたので、撮影を再開。太陽の黒点と比べると、金星の黒さが際立っていますね。

12時10分頃の金星。黒点の位置からみると金星は太陽の右上に向かっているようです。

第三接触直後、「オレオール現象」が現れることを期待したのですが、その直前に薄い雲がかかってしまいました。しかし良く見ると、金星が太陽面から出るときに、金星像がダルマのように変形する「ブラック・ドロップ現象」が見えているようです。

次の金星の太陽面通過は何と105年後。今回それを見ることができた幸運に一人で乾杯しておきました。

つづく

 

 



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寺田寅彦(1878~1935年)の歌のパロディ「好きなもの 朝日コーヒー 花美人 押し照る浪速 写真撮影」にちなんだ「なにわの朝日」と、寺田寅彦のオリジナリティについて紹介しましょう。 この日の大阪港は快晴、JR難波駅近くの高層ビルの間から朝日が顔を出しました。

寺田の3年後輩の物理学者、石原純は、寅彦を「音楽を愛好してバイオリンやセロを弾じ、油絵や写真を楽しみ、俳諧の深い味を会得し、そうして好きな科学的思索に耽りながら、一方では自由に文章を綴って静かに心を語っておられたことは、かなり恵まれた生活であったと思われる」と書いています。 拡大すると、ビルの間からの朝日という状況が良く判ると思います。

寺田寅彦のスタイルに大きな影響を与えたのはイギリス貴族のノーベル賞物理学者レイリー卿で、レイリー卿の研究は、彼の屋敷の広大な敷地中にあった私的実験室の中で、彼個人の研究資金で成し遂げられたのです。 下の写真は、1週間前の日の出の位置なので、太陽が左(北)に移動しているのが判ります。

レイリー卿は、組織に縛られることなく、好奇心の赴くまま自由にテーマを選び、趣味の世界での遊びの中からノーベル賞(1904年)受賞対象となった新元素アルゴンの発見をしています。 太陽はルネッサなんばタワービル(高さ138m)の背後から昇ってきます。

夏目漱石門下の文人物理学者と呼ばれる寅彦が生涯に著した学術論文は、267編(英文209、日文58)科学者として精力的であったことが伺われます。 ルネッサなんばタワービルによる部分日食となっています。

一方、科学解説などを含めた随筆や俳句はこれをはるかに上回り、東大の主任教授だった長岡半太郎が彼の随筆の執筆や俳句に苦言を呈したという伝説があるくらいでした。  朝日は、生駒山の稜線を超えたようです。

そのきっかけは、東大講師だった1907年、高校時代の恩師、夏目漱石から勧められて朝日新聞に連載し始めた科学ニュースに関するコラムでした。 ワイド画面でも見てみましょう。

寺田寅彦は狭い分野で大きな業績を挙げた人というよりも、科学から文学に亘る大きな世界で、先駆者として、啓蒙家として活躍して、現在までさまざまな方面に影響を与えた人として評価すべきと、東大の後輩で元文部大臣の有馬朗人が書いています。 押し照る朝日となりました。

「天災は忘れた頃にやってくる」は、寺田寅彦の言葉として良く知られていますが、東日本大震災を経験した今、寺田の言葉をかみしめる必要があります。 ずっと南にあるあべのハルカスです。

大阪で早起きした人は、高層ビルの後ろから昇る朝日を見ることができます。

参考文献:寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学 小山慶太著

 



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長居植物園の花と寺田寅彦(1878~1935年)の生涯についての紹介の2回目です。 キキョウ科のイソトマ

寺田寅彦は、当時ヨーロッパで発見されたX線に興味を持ち、1913年に「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)をイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に発表しています。 ジャーマンアイリス

その前年、ミュンヘン大学のラウエは、硫化亜鉛の結晶にX線を当てると結晶の背後に置いた写真乾板に斑点状の干渉模様が現れることを発見し、X線が波長の短い電磁波であるという論文を発表していました(ラウエは1914年にノーベル賞受賞) スモークツリー

この論文を読んだ寺田は、医療用の強力なX線管を調達し、写真乾板ではなく蛍光スクリーンにラウエ斑点を表示させることに成功、X線を使った結晶構造の回析(寺田は結晶格子中の網平面による反射と呼ぶ)が可能となることを発表したのです。 ポピー

丁度同じ時期に同じ研究をしていたイギリスのブラッグの論文発表に先を越されていますが、日本での寺田の研究はオリジナリティに富んだもので、1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞しています。 ポピーの中心

寺田は、ブラッグに先を越されたことをわざわざ論文に書いていますが、寺田とブラッグの研究は殆ど同時期であったので、それを書かなければブラッグと共同のノーベル賞(1915年)受賞があったのかも知れません。 サラサウツギ

この発表の後、寺田はX線の研究から離れますが、X線を研究テーマとした目の付けどころは素晴らしかったので惜しまれるところです。 アジサイ

実は、X線を対象とした研究では、このあと1917年、1924年、1927年と続けて3人もノーベル賞受賞者が出ているのです。 ガクアジサイ

寺田は、つねづね外国人の真似をせず、日本独自の物理学をやると言って、尺八の音響学的研究、線香花火の物理学、藤の実が飛び散るメカニズム、椿の花の落下運動、金平糖の角などを研究対象としているので、X線は日本的では無いと考えたのかも知れません。 バラ 

参考文献:寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学 小山慶太著



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寺田寅彦(1878~1935年)の歌「好きなもの いちごコーヒー 美人 ふところ手して宇宙見物」にちなみ、今回も長居植物園の花と一緒に寺田寅彦を紹介しましょう。ハイビスカス

1896年、熊本の第五高等学校に入学した寺田寅彦(18歳)は、同じ年に英語教師として赴任してきた夏目漱石を生涯の師としています。タイサンボクの花

実は、漱石も寺田には一目置いていて、小説「吾輩は猫である」に出てくる理学士水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八は、寺田がモデルとされています。ザクロの花

漱石は、「吾輩は猫である」で、寒月は東大理科大学を首席で卒業(恩賜の時計を貰った)と書いていますが、寺田は首席卒業者ではありませんでした。僅かに残っていたシャクヤク

しかしちゃんと東大を卒業していて、実家が裕福だったせいか、そのまま大学院に進んで、1904年に東大講師(26歳)となっています。花の付け根にヒゲがあるジャーマンアイリス

当時の東大首席卒業生は、文部省から国費留学させて貰えることになっていましたが、寺田は自費留学について父親に金の工面を頼んでいるのです。ヒゲの無いハナショウブ

しかし、東大理科大学を首席で卒業した同級生の鈴木庸生が留学の権利を放棄したために東大工科大学を寺田と同年(1903年)首席で卒業した大河内正敏よりもかなり遅れた1909年にベルリンに留学しています。キササゲの花

留学から帰ってきた寺田は、東大講師から助教授、教授と進みますが、その研究対象は日本的なものが多く、例えば理学博士号を取得した論文は「尺八の音響学的研究」という風変わりなものでした。ヘメロカリス

寺田は、つねづねヨーロッパの真似をせず、日本独自の物理学をやると広言、その通りの研究を続けたようです。ガクアジサイ

参考文献:寺田寅彦の生涯 小林 惟司著



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寺田寅彦(1878~1935年)の歌「好きなもの いちごコーヒー 美人 ふところ手して宇宙見物」にちなんで長居植物園のちょっと変わったバラと共に寅彦の父親、寺田利正の生涯を紹介しましょう。

寺田寅彦の父親の寺田利正(1837~1913年)は、土佐勤皇党結成のきっかけとなったと言われる井口村刃傷事件(1861年、土佐藩の上士と郷士の争い)の際、実弟の宇賀喜久馬(19歳、郷士)の切腹を介錯した人物です。利正は生涯この事件を口にしなかったといいます。

利正は、土佐藩郷士、宇賀家の次男に生まれますが、1854年に土佐藩足軽、寺田家に養子(18歳)に入り7年後に土佐藩普請方となって頭角を現しています。

1868年の戊辰戦争には、土佐藩の小荷駄(輸送)隊の勘定方(32歳)として参戦、明治維新後は陸軍の輸送及び会計関係の幹部となり、1877年の西南の役では官軍司令部の軍団会計部次長(41歳、少佐相当官、会計部長は田中光顕)でした。

利正は、西南の役の翌年に東京に転勤となり、そこで長男寅彦が生まれますが、1879年に名古屋鎮台会計部長(会計二等副監督、少佐相当)さらに1881年に熊本鎮台会計部長(会計一等副監督、中佐相当)と転勤が続いています。

寅彦は、父親が熊本に転勤している4年間、父親の郷里の土佐で暮らしていますが、利正が1885年(49歳)に東京の陸軍士官学校の会計部長として転勤したため、寅彦も再び上京しています。

翌1886年、利正の退役で寅彦も土佐に戻りますが、寺田家は陸軍中佐相当官だった利正の退職金や恩給で物価の安い土佐でかなり裕福な生活をしていたようです。

1896年、利正は、自分がかつて勤務していた熊本にある第五高等学校が息子の進学校として最適と考え、寅彦(19歳)を入学させています。

第五高等学校の校長は、3年前まで嘉納治五郎(1891年8月~1893年1月)という大物が勤め、優秀な教授陣と地元に近い薩摩、長州、土佐、肥前の将来有望な青年達が集まっていたのです。

さらに、寅彦が入学した年に、松山中学から夏目漱石(1896年〜1900年在任)が英語教師として移ってきて、寅彦の人生を決定づけることになるのですが、そのきっかけを作ったのは、寅彦の父親だったのです。

参考文献:寺田寅彦の生涯 小林 惟司著



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寺田寅彦の歌のパロディ、「好きなもの 朝日 コーヒー 花美人 押し照る浪速 写真撮影」の中から、私の好きな大阪港の朝日を紹介しましょう。日の出前のなみはや(浪速)大橋

押し照るとは、なにわ(浪速又は難波)の枕詞です。5時少し前、「なみはや大橋」の向こうの生駒山から太陽が顔をのぞかせました。

奈良の枕詞、「あをに(青丹)よし」は良く知られていますが、大阪の「押し照る」の知名度は低いようです。大阪港で働く船も動き始めています。

押し照るとは、広く西向きに開けた大阪で、太陽が強烈に輝いているという意味です。この写真を見ると、大阪港から見える日の出は、地平線すれすれから始まることが判ります。

朝、大阪港に立つと、大阪の枕詞となっているその太陽が昇るのを見ることができます。太陽は、船の真後ろ、生駒山の稜線ギリギリまで昇ってきました。

しばらくすると、押し照る太陽となみはや大橋が重なって、「押し照る浪速大橋」となります。

ズームアップして見ましょう。この写真を良く見ると、太陽の右端に「押し照る浪速大橋」をゆっくり右に向かって歩いている人影が写っています。

ますます押し照る状態になってきた太陽の前をトラックが通過していきます。

ここまで昇ると、太陽が強烈すぎてこれ以上撮影を続けるのが困難となってきました。

早起きした人だけが見ることのできる 「押し照るなにわの浪速大橋」でした。



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